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✝️ キリスト教


No.7888908
合計:
#159

私たちは、主イエスを、被告席に立たせて、問い詰めるのではなくて、自分が被告席に立って、主イエスのお言葉によって裁かれ、主イエスのお言葉を通して、自分を改めて見つめなくてはならないのです。そのことを、深く覚えたいと思います。
今朝の御言葉の中で、主イエスは、なぜ私の言葉を、受け入れないのか。なぜ私のことを信じないのか、と繰り返して言っておられます。
私のことを受け入れなさい。私のことを信じなさいと、心を込めて、言っておられるのです。
主イエスは、ご自分は、神様のもとから、遣わされて来た者なのだ。永遠なる存在なのだ、と言われています。そういうお方が、私のところに来てくださったのです。
これは本当に素晴らしいことです。
もし、私たちに、「私の主よ、私の神よ」、と呼ぶお方が、おられなかったなら、私たちは本当に孤独です。でも、そういう私たちのところに、神様が来てくださったのです。
あなたを、永遠の命に生かすために、私は来たのだ、と仰ってくださっているのです。
これは、素晴らしいことです。
ですから、この時、ユダヤ人たちが、「私の言葉を受け入れなさい。私のことを信じなさい」、と語られる主イエスに、「はい、分かりました。あなたのことを信じます」、と応えたなら、素晴らしいことが、起こった筈なのです。
ですから、主イエスは、ユダヤ人たちが、何と言おうと、どういう反応を示そうと、「私は神だ」、ということを隠さないのです。そのために、石を投げつけられて、殺されそうになりました。
でも、殺されようが、何をされようが、「私は神だ。あなたを、永遠の命に生かすために、来た神なのだ」、と言い続けられたのです。
悪霊に取りつかれている、と言われようと、サマリア人だと、言われようと、何と言われようと、ご自分を隠すことを、なさらなかったのです。
噛み合わない対話を、一生懸命に、丁寧に続けて、「わたしを信じなさい」、と語り続けておられるのです。私たちの信じている神様とは、こういうお方なのです。
私たちは、そのお方の御言葉によって自分を知り、救われて、命を頂いて生きていくことができるのです。そこに私たちの幸いがあるのです。そこに私たちの希望があるのです。


[ 匿名さん ]
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