日本プロレス時代は沖識名、ユセフ・トルコに次ぐナンバー3か
[匿名さん]
元々柔道家で終戦後GHQでの柔道指導により英会話が達者に
後の外国人レスラー世話役の礎
[匿名さん]
NWA認定になるためには失神芸と10カウントをゆっくり入れるのがお決まりのルールーという事を
覚えていればなれた
[匿名さん]
試合がグラウンド状態になると、手を突き出し、自ら大きな身振りで、「ワッチャ、ギブアップ? (Watch out give-up? )」と選手に聞いた。膠着状態の中、観ているファンを飽きさせない意味合いもあった。
[匿名さん]
ゴング前なのに、チェックさせない外人レスラーに「ワン、タオ、」のカウントしてたの笑った
[匿名さん]
1974年6月14日の午後、視察と親睦のため、アメリカ・セントルイスの大会場、キール・オーディトリアムに着いた樋口は、当時の世界最高のプロレス組織である、NWAの関係者に問われた。
「レフェリングの用意は、持って来ただろうな? ユーにはメインのNWA世界ヘビー級選手権を裁いてもらう。NWA会長からのライセンスも既に届いている」
それは、日本人としては初めてとなる、「NWA公認レフェリー」となった証しでもあった。急いでレフェリング衣装をホテルまで取りに戻り、メインの王者ジャック・ブリスコvsドリー・ファンクJr.の3本勝負を裁いた(1vs1から時間切れ引き分け)。キール・オーディトリアムは約1万人を収容出来る大箱で、超満員の中でのレフェリングを、樋口自身、「一世一代の晴れ舞台」と振り返っている。
[匿名さん]
ジョーさんはワンツースリーでなく
ワンタンメンとカウントするの知らんのけ?
[匿名さん]
樋口は、もとはプロレスラーだった。柔道2段の腕前を活かし
1954年、柔道6段の猛者、山口利夫が率いたプロレス団体、全日本プロレス協会(※後の全日本プロレスとは無関係)でデビュー。
同団体崩壊後、4団体参加の「ウェイト別日本選手権」のライトヘビー級部門で4位となると、その実力を買われ
1956年、力道山率いる日本プロレスに移籍する。
[匿名さん]
樋口の実家は洋食材の問屋であり、しかも場所は横浜市の本牧だった。
幼い頃からコーヒーをたしなみ、物心ついた時には、好きな音楽としてジャズを聴いていた。
洋食調理の腕に覚えがあるのはもちろん、周囲には外国人が多数住んでおり、英語もお手のものだった。
噂を聞きつけた力道山は、周囲の推挙もあり、樋口が選手兼外国人レスラーの世話係になることを応諾。
それどころか、樋口がつくった巨大なステーキや大量のポテトサラダを見て、こう口にしたという。
「俺にも作ってくれ」
[匿名さん]
この人は確かNWA公式レフェリーじゃなかっけ?
絶妙なカウントレスラーにやられる姿どれをとっても一級品
[匿名さん]
実のところ、1959年には選手としての限界を感じ、樋口は引退を決意。日本プロレスを退団している。水商売を始めるという樋口に、力道山はこう声をかけた。
「気が変わったら、いつでも戻って来いよ」
実際、商売は3年持たず、樋口が復職を打診すると、力道山は快諾し、外国人の世話係に任命。堪能な英語を活かし、外国人勢の信頼も得て2年後の1965年には、レフェリーも兼務することになった。ジョー樋口の、完全なる裏方人生が始まったのである。
[匿名さん]
そういえばなんでジョーなんだろう?
カン樋口ならわかるが
[匿名さん]
1960年代の日本は、外国人勢にとってまだまだ遠い国だった。彼らは旅館の部屋に土足で入り込み、湯船の中で石鹸を泡立て、和式トイレを汚した。そうしたトラブルに一つ一つ対処し、2度としないよう諭した。団体行動に慣れていない外国人には、列車での移動の際いマナーを守らせるため、時には喧嘩腰で言い聞かせた。樋口は9人兄弟の長男。和を乱す選手には厳しさを忘れなかった。
だが、それより大変だったのは、ホームシックにかかる外国人が多いことだった。生気のなさは、リング上の盛り上がりに水を差す。そのレスラーの故郷ゆかりの食事を調べて作ってやり、特産品や音楽を探してやったりもした。
いつしか、外国人勢は、海の向こうで、こう教え合うようになった。
「日本に行ったら、先ず、ジョーという人間を頼れ。そうすれば大丈夫だから」
[匿名さん]
リング上で400回失神したと言われるジョー樋口さんですが、400回のうち何回かは意識はハッキリしてるのに、ワザと失神したふりをしていた可能性はないでしょうか?
[匿名さん]
細かったからレスラーだった雰囲気はなかったな
だから失神芸がハマったとでもいうか
ポパイみたいだった新日のミスター高橋とは対照的
[匿名さん]