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中国の随の次の統一国家である7世紀が最盛期の唐(西暦618~907年)の初代皇帝である李淵(リエン・高祖)の時代を通し、唐の歴代皇帝李氏は拓跋部(タクバツブ)の出身。
朝鮮半島の国である弓月国から移住した弓月君が建国したとされる辰韓(秦韓・シンカン・紀元前2世紀~西暦56年・元首不詳)と新羅(紀元前57~西暦935年)の最期の国王である敬順王(ケイジュンオウ)と「日の丸」の原型は渡る。
弓月君と徐福の辰韓(秦韓)の流れで、九州北部(現在の福岡と大分)に建国した秦王国(ハタオウコク)と島津の流れである皇別源氏氏族と惟宗氏(コレムネウジ)と薩摩島津氏(薩摩島津家)と各地の島津氏と島津家と甲斐武田家と代々、「日の丸」が保管された。
源平合戦で使用された両軍の戦烽旗(イクサノホウキ)は、源氏が現在も日本国の国旗となっている「日の丸」の原型、平家の戦烽旗が赤の背景色に金の丸の「日の丸」だった。
その後、江戸時代の後半に、徳川御三家の水戸家の徳川斉昭(水戸斉昭)が、「日の丸」を日本の国旗として定めた。
西暦1853年(嘉永6年)11月に、江戸幕府に対し時の薩摩鹿児島藩主である島津斉彬が、大船蒸気船の建造申請後、翌年の1854年7月11日に、幕府が日本総船印(ニホンソウフナジルシ)として日本の国旗に指定、白い帆に朱色の「日の丸」を薩摩鹿児島藩主第11代の島津斉彬が藩所有の貿易船で、日本として初めて使用した。
大日本帝国明治政府も、この日本総船印を国旗とする旨を継承した。