◾️サッカー部出身のサッカー選手
高木琢也 1967 1985 長崎県 FW 大阪商業大学 フジタ(元日本代表) 現役引退。SC相模原 監督
古島清人 1968 1986 熊本県 GK フジタ 現役引退
赤澤昌美 1968 1986 熊本県 DF 順天堂大学 鹿島アントラーズ 現役引退
其田秀太 1968 1986 長崎県 MF 全日空 現役引退
小島光顕 1968 1986 長崎県 MF 東京農業大学 サンフレッチェ広島 現役引退
立石敬之 1969 1987 福岡県 MF 創価大学 東京ガスサッカー部 現役引退。
中尾幸太郎 1969 1987 長崎県 MF 大阪商業大学 ヴィッセル神戸 現役引退。MIOびわこ滋賀 強化部長
二宮浩 1969 1987 熊本県 FW 中央大学 浦和レッズ 現役引退。FC東京 U-15むさし監督
村田一弘 1969 1987 長崎県 DF 中央大学 セレッソ大阪 現役引退
吉田裕幸 1969 1987 長崎県 MF 国士舘大学 ジュビロ磐田 現役引退。ベガルタ仙台ジュニアユース コーチ
永井秀樹 1970 1988 大分県 MF 国士舘大学 ヴェルディ川崎 現役引退。東京ヴェルディ監督(元日本代表)
山木勝博 1970 1988 熊本県 DF 駒澤大学 鹿島アントラーズ 現役引退
原田武男 1971 1989 佐賀県 MF 早稲田大学 横浜フリューゲルス 現役引退。V・ファーレン長崎 コーチ
中口雅史 1972 1990 徳島県 MF 大阪商業大学 ガンバ大阪 現役引退。ヴァンラーレ八戸 監督
路木健 1972 1990 長崎県 MF マツダSC 現役引退
[匿名さん]
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森直樹 1972 1990 長崎県 DF 名古屋グランパスエイト 現役引退
内田利広 1972 1990 長崎県 MF 明治大学 名古屋グランパスエイト 現役引退
長峯宏範 1973 1991 宮崎県 DF 関西大学 京都パープルサンガ 現役引退
塚本秀樹 1973 1991 長崎県 GK 明治大学 アビスパ福岡 現役引退
路木龍次 1973 1991 長崎県 MF サンフレッチェ広島(元日本代表) 現役引退
上村崇士 1973 1991 大阪府 DF 横浜フリューゲルス 現役引退
永井篤志 1974 1992 鹿児島県 MF 駒澤大学 アビスパ福岡 現役引退
三浦淳宏 1974 1992 大分県 MF 青山学院大学 横浜フリューゲルス(元日本代表) 現役引退。ヴィッセル神戸 監督
中島豪 1975 1993 長崎県 DF 早稲田大学 浦和レッズ 現役引退
船越優蔵 1977 1995 兵庫県 FW ガンバ大阪 現役引退
宮崎健治 1977 1995 長崎県 MF 関西学院大学 京都パープルサンガ 現役引退
河口真一 1977 1995 長崎県 DF 明治大学 アビスパ福岡 現役引退
百武義成 1977 1995 長崎県 DF セレッソ大阪 現役引退
高木成太 1977 1995 長崎県 MF ヴェルディ川崎 現役引退
松本磨 1977 1995 佐賀県 DF 東京ガスFC 現役引退
都築龍太 1978 1996 奈良県 GK ガンバ大阪(元日本代表) 現役引退
中川雄二 1978 1996 山口県 GK 明治大学 カターレ富山 現役引退。松本山雅FC GKコーチ
[匿名さん]
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立花由貴 1979 1997 熊本県 DF 明治大学 横河武蔵野FC 現役引退。横河武蔵野FC コーチ
元田(櫻井)庄吾 1979 1997 奈良県 GK 関西学院大学 SC鳥取 現役引退
南光太 1979 1997 大分県 MF 水戸ホーリーホック 現役引退。宮崎日本大学高等学校サッカー部 監督
白尾秀人 1980 1998 鹿児島県 FW 国士舘大学 ヴァンフォーレ甲府 現役引退。上田西高等学校サッカー部 監督
木藤健太 1981 1999 長崎県 DF 近畿大学 モンテディオ山形 現役引退。国見高等学校サッカー部 監督
小森田友明 1981 1999 熊本県 MF アビスパ福岡 三菱重工長崎SC
大久保嘉人 1982 2000 福岡県 FW セレッソ大阪 現役引退
松橋章太 1982 2000 長崎県 FW 大分トリニータ(元日本代表) 現役引退
田上渉 1982 2000 福岡県 MF 大阪商業大学 V・ファーレン長崎 三菱重工長崎SC
川田和宏 1982 2000 福岡県 MF 福岡大学 大分トリニータ 現役引退
小田幸司 1982 2000 長崎県 MF 関東学院大学 V・ファーレン長崎 現役引退。国見高校 コーチ
佐藤陽介 1982 2000 東京都 FW 青山学院大学 V・ファーレン長崎 現役引退
徳重健太 1983 2001 鹿児島県 GK 浦和レッズ 愛媛FC
徳永悠平 1983 2001 長崎県 DF 早稲田大学 FC東京 現役引退(元日本代表)
片山奨典 1983 2001 奈良県 MF 国士舘大学 名古屋グランパス 現役引退
蒲原達也 1983 2001 佐賀県 MF 国士舘大学 サガン鳥栖 現役引退
[匿名さん]
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近藤健一 1983 2001 長崎県 GK FC東京 現役引退
巻佑樹 1984 2002 熊本県 FW 駒澤大学 名古屋グランパス 現役引退。FCティアモ枚方 ゼネラルマネージャー
松橋優 1984 2002 長崎県 FW 早稲田大学 大分トリニータ 現役引退
渡邉大剛 1984 2002 長崎県 MF 京都パープルサンガ 現役引退
柴崎晃誠 1984 2002 長崎県 MF 国士舘大学 東京ヴェルディ サンフレッチェ広島(元日本代表)
園田拓也 1984 2002 宮崎県 DF 中央大学 モンテディオ山形 現役引退
原一生 1984 2002 福岡県 MF 関東学院大学 HOYO AC ELAN 大分 現役引退
綱田大志 1984 2002 長崎県 MF 鹿屋体育大学 カマタマーレ讃岐
平山相太 1985 2003 福岡県 FW 筑波大学 ヘラクレス・アルメロ 現役引退(元日本代表)
中島崇文 1985 2003 長崎県 MF 関東学院大学 HOYO AC ELAN大分 現役引退
中村北斗 1985 2003 長崎県 MF アビスパ福岡 現役引退
兵藤慎剛 1985 2003 長崎県 MF 早稲田大学 横浜F・マリノス 現役引退
関憲太郎 1985 2003 群馬県 GK 明治大学 ベガルタ仙台 レノファ山口
渡邉千真 1986 2004 長崎県 FW 早稲田大学 横浜F・マリノス 横浜FC(元日本代表)
城後寿 1986 2004 福岡県 MF アビスパ福岡 アビスパ福岡
藤田優人 1986 2004 大分県 DF 明治大学 東京ヴェルディ 現役引退
比嘉隼人 1986 2004 沖縄県 DF 中央大学 ソニー仙台FC
[匿名さん]
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田中政勝 1987 2005 熊本県 DF 明治大学 V・ファーレン長崎 マンリー・ユナイテッドFC
渡邉三城 1987 2005 長崎県 DF 法政大学 Y.S.C.C横浜 現役引退
有永一生 1988 2006 長崎県 DF 関東学院大学 AC長野パルセイロ
白谷建人 1989 2007 京都府 FW セレッソ大阪 現役引退
山村和也 1989 2007 長崎県 DF 流通経済大学 鹿島アントラーズ 川崎フロンターレ(元日本代表)
日向翼 1990 2008 兵庫県 DF 東京国際大学 MIOびわこ滋賀 バンディオンセ加古川
井福晃紀 1991 2009 熊本県 FW 福岡大学 テゲバジャーロ宮崎 ジェイリースFC
武内大 1992 2010 大分県 DF 福岡大学 V・ファーレン長崎
柴田隆太朗 1992 2010 長崎県 MF 拓殖大学 松本山雅FC 現役引退
大町将梧 1992 2010 長崎県 FW 浜松大学 ツエーゲン金沢 Honda FC
高橋諒 1993 2011 群馬県 DF 明治大学 名古屋グランパス 湘南ベルマーレ
塚田翔悟 1993 2011 鹿児島県 DF 九州共立大学 鹿児島ユナイテッドFC 現役引退
下川陽太 1995 2013 大阪府 DF 大阪商業大学 松本山雅FC 松本山雅FC
菅田真啓 1997 2015 奈良県 DF 福岡大学 ロアッソ熊本
中島大嘉 2002 2020 大阪府 FW 北海道コンサドーレ札幌
各国の全国リーグ(日本の場合、JSL、J1、J2、J3、JFL)に所属した選手。「所属」列に、最初に所属した全国リーグのチームを記載
[匿名さん]
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名前 生年度 卒年度 経歴
岩本文昭 1968 1986 V・ファーレン長崎 常務取締役
[匿名さん]
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小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - 2022年1月7日)は、日本の元高校教員、サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。一般社団法人長崎県サッカー協会会長、長崎総合科学大学特任教授。
◾️名前
カタカナ
コミネ タダトシ
ラテン文字
KOMINE Tadatoshi
◆基本情報◆
◾️国籍
日本
◾️生年月日
1945年6月24日
◾️出身地
日本・長崎県南高来郡
没年月日
2022年1月7日(76歳没)
日本・長崎県
◾️身長
172cm
◾️ユース(年・チーム)
1961-1963
長崎県立島原商業高校
1964-1967
大阪商業大学
◾️監督歴(年・チーム)
1968-1984
長崎県立島原商業高校
1984-2000
長崎県立国見高校
1993
日本 U-17
◆来歴・人物◆
長崎県南高来郡堂崎村(後の有家町、現在の南島原市)出身。父親は生前に太平洋戦争で戦死したため母子家庭(7人兄弟)で育ち、一家は農業で生計を立てていた。中学(堂崎中学)時代はバレーボール部に所属。長崎県立島原商業高校入学後よりサッカー部に所属し、3年時には主将を務め、九州選抜チームにも選出された。
高校卒業後は家庭事情から就職する予定であったが大阪商業大学からのスカウトもあり同大学に進学してサッカー部に所属。関西学生サッカーリーグ3部だったチームを大学3年時に1部へ引き上げる原動力となった。
[匿名さん]
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サッカー部を持つ企業へ大卒後の就職が内定していたが、母校の長崎県立島原商業高校時代のコーチから誘いを受けて教員を目指し、長崎県の教員採用試験に合格して地方公務員となった。
1968年より長崎県立島原商業高校へ赴任し、商業科教諭およびサッカー部監督に就任。部員13人からサッカーの指導をスタートさせ、当時の九州サッカーは全国大会で1回戦さえ突破するのが難しい時代であったが、1977年インターハイで長崎県勢として初優勝した。
1984年、長崎県立国見高校に社会科教諭として赴任し、サッカー部を全国高校サッカー選手権で戦後最多タイの6度の優勝に導く。公立校である国見高校でチームを強化する策として、自らマイクロバスを運転し選手たちと共に全国の強豪校のもとに出向いて試合を組んでもらい強化する策を実行した。1980年代はまだ高速道路網が未発達でもあり、当初は学校側から「長距離移動中に事故が起きたらどうするのか」と反対されていたが、全国制覇と言う結果を出すことで周囲の理解を得ていった。
1996年には、JFA 公認S級コーチ(S級ライセンス)も取得。90年代以後もサッカー部員は丸坊主にする事を義務付けていた。
長崎県の公立高校教員には、離島の学校に一度は赴任しなくてはならない規定があるが、教育委員会が小嶺の県外流出を恐れ、特例として離島に赴任させず、その後も教頭(1997-1999年度)・校長(2000-2005年度)を歴任した。なお、校長就任に伴って全国高等学校体育連盟の規定により監督を退いたが、監督はサッカー経験・指導歴のない教諭が就任したため、「総監督」として実質的な指揮をとった。2006年3月に国見高を定年退職(総監督職は、2007年1月9日まで継続)。
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定年退職後は一般社団法人長崎県サッカー協会の会長(2004年6月10日就任)、長崎県教育委員会参与、特定非営利活動法人「V・ファーレン長崎スポーツコミュニティ」理事長(2006年5月27日付で副理事長から昇格)なども務めている(後の参院選立候補に伴い、一部役職は辞任した)。
◆参議院選挙立候補以降◆
2007年1月10日、防衛大臣(当時)の久間章生の推薦により、夏の第21回参議院議員通常選挙の長崎県選挙区より自民党公認で立候補を表明(7月10日に公明党も推薦)。それに先立ち、1月9日付で国見高の総監督 、長崎県教育委員会参与の役職を辞任した。4月、後任の監督(「総監督」のポストは廃止)として、島原商業時代の教え子で元熊本国府高監督の瀧上知巳(2006年度にJFA 公認S級コーチ取得)が就任。
知名度の高さから有利と予想された一方、年金記録問題や久間による「原爆投下はしょうがない」発言報道騒動などが起こった。久間は自身が応援に入ることで発言が蒸し返されることを懸念し、長崎県に入らなかったという。
同年7月の参議院選挙では331,147票を獲得したものの、352,953票を獲得した民主党公認の大久保潔重に敗れた。なお、選挙中のキャッチフレーズは「生涯チャレンジ」であった。
2007年11月、長崎総合科学大学総合情報学部総合情報学科教授に就任。2008年より同大学および長崎総合科学大学附属高等学校のサッカー部総監督に就任。2011年1月から同附属高校サッカー部の指導も開始する。2015年9月から同大学サッカー部総監督および同附属高校サッカー部監督に就任した。
[匿名さん]
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2017年3月、前月より続いているV・ファーレン長崎の経営問題の収拾を図る目的で、同チームのアカデミー部門を担当する「一般社団法人V.V.NAGASAKIスポーツクラブ」の代表理事に就任した。
2022年1月7日4時24分、肝不全のため、入院先の長崎県内の病院で死去。76歳没。亡くなる数年前から肝臓などの内臓を患い闘病を続けており、2021年12月18日に行われたプリンスリーグ九州参入戦の対鵬翔高校戦ではベンチに座ったものの、コーチの肩を借りなければ移動もできない状態だった。これが公式戦を指揮した最後の試合となり、その10日後に開幕した第100回全国高校サッカー選手権では初戦から体調不良でベンチ入りできず、大会期間中の死去となった。大会の準決勝と決勝では、試合開始前に小嶺の功績を讃えて黙祷が行われた。日本国政府は死没日付をもって従五位に叙し、瑞宝小綬章を追贈した。
◆島原商業時代◆
1974年度 全国高校サッカー選手権初出場、以後1983年度まで10大会連続出場(最高成績は勝矢寿延がいた1979年度のベスト8)
1984年度 全国優勝(両校優勝)-小嶺が2年生まで指導した選手達による結果
1977年 インターハイ 優勝(メンバーに山田耕介 (前橋育英高校監督) や小林伸二ら)
[匿名さん]
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◆国見高時代◆
◾️インターハイ
1986年 優勝(1回目)
1987年 準優勝
1992年 3位
1993年 優勝(2回目)
1997年 3位
2000年 優勝(3回目)
2002年 準優勝
2003年 優勝(4回目)
2004年 優勝(5回目・連覇)
全日本ユース選手権
1989年 準優勝(※プレ大会)
1990年 3位
1991年 準優勝
1996年 3位
2001年 優勝(1回目)
2002年 優勝(2回目・連覇)
全国高校サッカー選手権
1986年 準優勝(初出場での快挙)
1987年 優勝(1回目)
1989年 3位
1990年 優勝(2回目)
1991年 3位
1992年 優勝(3回目)
1993年 準優勝
2000年 優勝(4回目)
2001年 優勝(5回目・連覇)
2002年 準優勝
2003年 優勝(6回目)
2004年 3位
※左の数字は年度を表している(高校選手権は1月上旬を中心に行われる)。高校選手権では、1974年から2006年まで小嶺の指導したチームが県代表として全国大会へ参加し続けた。唯一の例外は、1985年に国見を破って出場した平戸高校である(同校のGKは前川和也)。
◆その他◆
1988年 長崎県民栄誉賞を受賞(第1号)
1993年 U-17世界選手権(日本開催) ベスト8進出(U-17日本代表監督として)
2000年 朝日スポーツ賞
2002年 天皇杯で第2種チームとして初の3回戦進出
◆著書◆
『国見発 サッカーで「人」を育てる』日本放送出版協会〈生活人新書〉、2004年8月10日。ISBN 978-4140881156。
[匿名さん]
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株式会社日立製作所(ひたちせいさくしょ、英: Hitachi, Ltd.)は、日本の電機メーカーであり、世界有数の総合電機メーカー。日立グループの中核企業であり、春光グループの春光会、芙蓉グループの芙蓉懇談会、旧三和銀行の取引先企業で構成されるみどり会の会員企業でもある。日経平均株価およびTOPIX Core30、JPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。通称は日立やHITACHI、日製(にっせい)など。
◾️種類
株式会社
◾️機関設計
指名委員会等設置会社[1]
◾️市場情報
東証プライム 6501
1949年5月16日上場
名証プレミア 6501
OTC Pink HTHIY
◾️略称
日立
HITACHI
日製にっせい
◾️本社所在地
日本
〒100-8280
東京都千代田区丸の内一丁目6番6号
日本生命丸の内ビル
◾️設立
1920年2月1日
(創業:1910年)
◾️業種
電気機器
◾️法人番号
7010001008844
◾️事業内容
IT
通信機器
鉄道車両
家電製品
(主な製造品目を参照)
◾️代表者
東原敏昭(代表執行役兼取締役会長)
小島啓二(代表執行役執行役社長兼CEO兼取締役)
青木優和(代表執行役執行役副社長)
河村芳彦(代表執行役執行役副社長兼CFO)
德永俊昭(代表執行役執行役副社長)
中畑英信(代表執行役執行役専務)
長谷川雅彦(代表執行役執行役専務兼CMO)
◾️資本金
4617億3100万円
(2022年3月末現在)
◾️発行済株式総数
9億6823万4877株
(2022年3月末現在)
◾️売上高
連結:10兆2646億2百万円
(2022年3月期)
[匿名さん]
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◾️営業利益
連結:7382億36百万円
(2022年3月期)
◾️経常利益
連結:8393億33百万円
(2022年3月期)
◾️純利益
連結:5834億70百万円
(2022年3月期)
◾️純資産
連結:5兆3552億77百万円
(2022年3月31日現在)
◾️総資産
連結:13兆8875億2百万円
(2022年3月31日現在)
◾️従業員数
連結:368,247人
単独:29,485人
(2022年3月31日現在)
◾️決算期
3月31日
◾️会計監査人
EY新日本有限責任監査法人
◾️主要株主
日本マスタートラスト信託銀行
◾️関係する人物
小平浪平(創業者)
IT、エネルギー、インダストリー、モビリティ、ライフ、オートモティブシステム、その他の8の部門から構成されている。連結子会社770社を傘下に置き、日立グループの中核企業でもある。売上高10兆2646億円、営業利益7382億円、総従業員数35万864人は、総合電機の中で最大であり、日本の全業種中でもトヨタ自動車に次ぐ規模の従業員数を誇る巨大企業である。
前身は、現在の茨城県日立市にあった銅と硫化鉄鉱を産出する久原鉱業所日立鉱山である。日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成された。また、日立鉱山で使用する機械の修理製造部門が、1910年に国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させて、日立製作所が設立された。やがて日本最大規模の総合電機メーカー、そして世界有数の大手電機メーカーとして発展することとなる。
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全世界に製造・販売拠点を広げる多国籍企業でもあり、売上の59%は日本国外からもたらされる(2021年現在)。米国誌『フォーブス』が毎年発表する世界企業ベスト2000では、コングロマリット(複合企業体)に分類されていたが、近年はコングロマリットディスカウントに対応するため、事業の選択と集中を徹底して子会社を削減する傾向にあり、2019年にはエレクトロニクスに分類された。
近年日立グループは上場子会社の整理・売却を進めており、2020年4月には日立グループの「御三家」の一角だった日立化成を昭和電工に売却し、日立ハイテクを同年5月に完全子会社化として取り込んだ。また2022年8月には日立建機を伊藤忠商事と国内の投資ファンドの日本産業パートナーズ(JIP)に売却。同年10月に日立金属が米投資ファンドベインキャピタルへ売却され、11月には日立物流の米投資ファンドKKRによるTOB(株式公開買い付け)が成立した。これによってかつて22社あった上場子会社のうち、日立グループから半数以上の12社が離脱、残る10社が完全子会社化・合併、あるいは持分法適用関連会社としてグループに残留することになる。
グループ全体のコーポレート・ステートメントは「Inspire the Next」(インスパイアー・ザ・ネクスト)。
◾️経営
「技術の日立」にふさわしく、創業者・小平浪平以降、歴代の社長は全て技術畑出身である。
意思決定の迅速化、経営の透明性向上を目的として、日立製作所は2004年より委員会設置会社に移行した。日立グループの上場企業も順次移行している。
[匿名さん]
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2009年4月、業績悪化の責任をとり、取締役会長の庄山悦彦と代表執行役執行役社長の古川一夫が退任し、元副社長で日立マクセル(現・マクセル)、日立プラントテクノロジーの取締役会長、元日立ソフトウェアエンジニアリング代表執行役の川村隆が代表執行役執行役会長兼執行役社長に就任。同時に、グループ会社に転出していた元副社長3名も副社長に復帰し、経営改革が進められた。
2009年ごろまでは、優良上場子会社が多く連結決算における少数持分利益が多額であった。そのため連結営業利益は数千億円の黒字でも最終利益は100億円程度の黒字もしくは赤字となることが多かったが、 経営改革の結果、2018年3月期には3823億円の最終利益となっており、安定的に利益を出せる体質へ変化を遂げた。
◾️日立用語
社内文章には、宛名は姓を丸括弧で囲む、課長以上は役職を表す記号を付ける、本部長以上はカタカナ2文字で略する、拝承、拝復、拝受といった略語など「日立用語」と呼ばれる独特の表記法が使われていたが、2022年ごろから使われなくなったという。
◾️茨城県における日立
グループにはかつて、商社の日製産業もあった(現在の日立ハイテク)。また、「日研にっけん」は日立製作所の社内で使用する「日立研究所」の略称である。日立市内にあった旧日立工場(現在の三菱重工業日立工場)は東京ドーム約13個分の広さがあり、日立工場内で駅伝大会が開催されていた。
[匿名さん]
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◾️出資該当会社
SOMPOホールディングス(旧損害保険ジャパン)
日立造船
ニッスイ
ニチレイ
リケン
東京モノレール
りんかい日産建設
クラリオン(19年1月末にフォルシアへ売却)
日産証券
みずほフィナンシャルグループ(旧日本興業銀行・旧第一勧業銀行・旧富士銀行のいずれも主力取引銀行であり関係が深かった)
芙蓉グループ
第一勧銀グループ(第一原子力グループ・勧銀十五社会のいずれにも参加)
興銀グループ
三菱UFJフィナンシャル・グループ(旧三和銀行は主力取引銀行、旧東京銀行(主に海外部門)・旧三菱銀行・旧東海銀行は準主力取引銀行としていずれとも関係が深かった)
みどり会
常陽銀行(地方銀行であるが、上記都市銀行に並ぶ主力取引銀行である)
新明和工業
日油(旧日本油脂)
セントラル硝子
堀場製作所
ハンビットユビキタスエンターテインメント(韓国ハンビットソフト社との合同出資)
◾️歴代社長
代 氏名 在任期間 出身校
社長空席 1920年 - 1929年
初代 小平浪平 1929年 - 1947年 東京帝国大学工学部
二代 倉田主税 1947年 - 1961年 仙台高等工業学校
三代 駒井健一郎 1961年 - 1971年 東京帝国大学工学部
四代 吉山博吉 1971年 - 1981年 東京帝国大学工学部
五代 三田勝茂 1981年 - 1991年 東京大学第二工学部
六代 金井務 1991年 - 1999年 東京大学工学部
七代 庄山悦彦 1999年 - 2006年 東京工業大学理工学部
八代 古川一夫 2006年 - 2009年 東京大学大学院
九代 川村隆 2009年 - 2010年 東京大学工学部
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十代 中西宏明 2010年 - 2014年 東京大学工学部
十一代 東原敏昭 2014年 - 2021年 徳島大学工学部
十二代 小島啓二 2021年 - 現職 京都大学大学院理学研究科
◾️ 沿革
1906年10月:東京電燈(現在の東京電力ホールディングス)の小平浪平が久原鉱業所(日産グループの前身、日本鉱業などを経て現在のENEOSホールディングス)日立鉱山に工作課長として入社。これは前年に日立鉱山を設立していた久原房之助の招請によるものである。
1908年12月:茨城県多賀郡日立村大雄院に鉱山機械の修理工場を建設。同工場が日立創業の地とされる。
1910年
7月16日:創業。
国産第1号の5馬力誘導電動機を3台製作。
徒弟養成所(現在:日立工業専修学校)創立。
1911年:日立鉱山から独立し、久原鉱業所日立製作所とする。
1912年:日本初の鉄筋コンクリート造の水力発電所・石岡発電所竣工。
1918年
久原鉱業所佃島製作所を合併、日立製作所亀戸工場とする。
本社を東京へ移転(久原鉱業所日立製作所を日立製作所日立工場とする)。
1919年
11月14日 - 大物工場全焼。経営危機に瀕する。
1920年
株式会社日立製作所として完全独立。
久原の経営する日本汽船から笠戸造船所を買収、電気機関車製造に着手。
1924年:大型電気機関車ED15完成。翌1925年、鉄道省に納入。
1926年:扇風機30台を米国へ輸出。
1927年
エレベーター製造に着手。
電気冷蔵庫の開発に成功。
1931年:昭和肥料(現在:昭和電工)の依頼により、アンモニア製造用10000A水電解槽を製作。
1932年:エレベーター第1号機を東京電気(現在:東芝)に納入。
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1937年:国産工業(現在:日立金属の前身企業)と合併。
1939年:日立研究所が日立工場から独立。
1947年:小平浪平が公職追放指定され社長を辞任。後任に倉田主税が就任。
1951年:小平浪平が公職追放指定解除を受け相談役に就任。同年10月死去。
1954年:国産第1号の大型ストリップミル完成。
1956年:日立金属、日立電線分立。
1958年:6石トランジスタ超小型ポータブルラジオを開発。
1959年
トランジスタ電子計算機「HITAC 301」を開発。
国鉄と共に開発の座席予約システムMARSの初号モデルMARS1が完成。
1961年:全自動洗濯機を開発。
1963年:日立化成工業(現在:日立化成)分立。
1964年:東京モノレール羽田線向け車輌を製造。
1969年:日立建設機械製造(現在:日立建機)分立。
1970年:世界初の列車運行管理システム(PTC)「新幹線運行管理システム(COMTRAC)」の開発に成功。
1977年:新型転換炉原型炉「ふげん」竣工。
1979年:大型汎用コンピュータ「HITAC M-200H」を開発。
1983年:御茶の水駅前に地上20階地下3階建ての本社ビル竣工。新丸ノ内ビルヂング内から本社を移転。
1984年:256kビットDRAMの量産開始。
1989年:DDIセルラーグループ(現在:KDDI au)にTACS方式の携帯電話HP-401を供給。
1990年:大型汎用コンピュータ「HITAC M-880プロセッサグループ」を開発。
1991年:創業81年を機にロゴマークを一新。
[匿名さん]
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1995年
日立家電を吸収合併。
デジタル衛星放送用の暗号アルゴリズム「MULTI2」を開発。
IDO(日本移動通信)(現在:KDDI au)にPDC方式の携帯電話D317を供給。
1996年:次世代型列車運行管理システムATOSをJR東日本と共同で開発。
1997年:DVD-RAM(記憶容量4.7ギガバイト)の基本技術開発に成功。
1999年
事業グループを再編し、カンパニー制を導入。
NECとの合弁会社「NEC日立メモリ」(現在:マイクロンメモリジャパン)を設立。
2000年:LG電子との合弁会社、日立LGデータストレージを設立。
2002年
産業機器グループを分離、日立産機システム創業。
家電グループを分離、日立ホーム&ライフソリューション(現在:日立グローバルライフソリューションズ)創業。
0.3mm角の非接触ICチップ「μチップ」を開発。
2003年
1月1日:IBMのハードディスク事業部門を買収し、日立グローバルストレージテクノロジーズを設立。
4月1日:三菱電機との合弁会社「ルネサステクノロジ」を設立。
2004年
4月1日:カシオ計算機との合弁会社「カシオ日立モバイルコミュニケーションズ」を設立。
6月:監督と執行の分離を徹底する委員会等設置会社に移行。
10月1日:オムロンとの合弁会社日立オムロンターミナルソリューションズと日本電気との合弁会社アラクサラネットワークスを設立。
2005年
愛知万博に出展。
2006年
本社を日本生命丸の内ビル内に移転。
KDDI auにワンセグ対応としては2番目の携帯電話W41Hを供給。
[匿名さん]
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2007年
小型モータを扱っている連結子会社の日本サーボの株式を日本電産(現・ニデック)への売却を発表。
8月:世界初のフルハイビジョンBlu-ray Discビデオカメラ「BDカムWooo」と8cmのBD-R、REメディアを発売。
10月:個人向けパソコンからの撤退を発表。
2008年
環境goo大賞2008において、企業部門で「環境goo大賞」を受賞。
2009年:日立オートモティブシステムズを分立。
9月:2009年度の「ダウジョーンズ・サステナビリティ・インデックス(Dow Jones Sustainability Index)」の構成銘柄317社の1社に選定される。
2010年
4月14日:「英国High Speed 1路線向け高速鉄道車両(Class395車両)の開発」で第39回日本産業技術大賞「内閣総理大臣賞」を受賞。
5月6日:特定非営利活動法人 日本マザーズ協会が主催する「第3回ベストマザー賞」にて、企業部門賞を受賞。
6月22日:三菱重工との海外向け鉄道システム事業における協業で基本合意したと発表。
10月5日:ミッドレンジディスクアレイ「AMS2500」がグリーンIT推進協議会の「グリーンITアワード2010」のグリーンIT推進協議会 会長賞を受賞。
[匿名さん]
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2011年
3月7日:HDD事業をウェスタン・デジタルに売却することを発表。
8月4日:三菱重工業と三菱電機と水力発電事業を統合し、10月1日付で新たに日立三菱水力株式会社が誕生することを発表。
9月8日:米子会社を通じて外部記憶装置(ストレージ)事業会社の米ブルーアークを買収したと発表。
10月5日:米子会社日立データシステムズ社を通じて南アフリカ共和国のIT機器販売・サービス会社ショウデンデータシステムズ社を買収したと発表。
10月17日:中国国家発展改革委員会の指導のもと重慶市と資源循環・低炭素経済分野における協力について合意。
2012年
1月23日:1956年より続けてきたテレビの自社生産を本年9月30日限りで終了する旨を公式発表(日立ブランドのテレビ販売・開発は10月1日以降も継続されるものの、製造は海外メーカーへ委託)。
11月29日:三菱重工業と、火力発電とその関連事業を統合することを発表。その後2014年2月1日に三菱日立パワーシステムズ株式会社(現在:三菱パワー株式会社)が設立された。
2013年
4月1日:完全子会社の日立プラントテクノロジーを吸収合併。
2015年
2月11日:日立の子会社である米Hitachi Data Systemsが、ビッグデータ利活用を事業とする米Pentaho社を買収。
2月24日:イタリアのフィンメッカニカの鉄道事業である「アンサルドブレーダ」、「アンサルドSTS」の買収を基本合意したと発表。買収額は約2,500億円。
9月15日:日本の企業としては2社目の企業名型gTLD「.hitachi」の運用を開始。
[匿名さん]
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2016年
4月1日:日立メディコ(現在:日立ヘルスケア・マニュファクチャリング)及び日立アロカメディカルの両社の製造部門以外を会社分割により継承。
5月10日:日立、米国日立データシステムズ社、米国日立コンサルティング社などの出資のもと、IoTプラットフォームLumada開発チームとなるHitachi Insight Groupが活動開始。
5月10日:IoTプラットフォームLumadaのサービス提供を開始。
5月19日:日立物流の保有株式の一部をSGホールディングスに譲渡し、連結から除外。
10月3日:金融サービスを構成する日立キャピタルの保有株式の一部を三菱UFJフィナンシャル・グループなどに譲渡し、連結から除外。
2017年
3月29日:日立工機の保有全株式(間接保有含む)をコールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)傘下のHKホールディングスに譲渡。
9月19日:Hitachi Data Systems、Pentaho、Hitachi Insight Groupを統合し、産業IoTの新会社Hitachi Vantaraを設立。
12月1日:茨城県北部で乗合バス事業などを手掛けている日立電鉄交通サービスの保有全株式をみちのりホールディングスへ譲渡し、連結から除外。
[匿名さん]
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2018年
4月3日:情報関連機器を生産する子会社、日立情報通信マニュファクチャリングの株式の97%をユー・エム・シー・エレクトロニクスに譲渡することを発表。7月2日、UMC・Hエレクトロニクス株式会社となる。
8月1日:2年、3年以内に10万人の社員にテレワークを実施する予定。
9月25日:Woooブランドのテレビの国内販売を終了させることを発表。10月に販売停止。
12月18日:日立化成の全株式をTOB(株式公開買い付け)で昭和電工に、併せて画像診断機器事業を富士フイルムホールディングスに売却すると発表。
2019年
4月1日:4月1日付で欧州の以下の鉄道部門各子会社を商号変更。
日立レール・ヨーロッパ(Hitachi Rail Europe Ltd.)→日立レール・リミテッド(Hitachi Rail Ltd.)
日立レールイタリア(Hitachi Rail Italy S.p.A.)→日立レールS.p.A(Hitachi Rail S.p.A.)
アンサルドSTS(Ansaldo STS S.p.A.)→日立レールSTS(Hitachi Rail STS S.p.A.)
2020年
4月21日:昭和電工が、日立化成へのTOB(株公開買い付け)が成立したと発表。日立化成は4月28日付で日立製作所の子会社でなくなり、昭和電工の傘下に。
12月16日:日立グローバルライフソリューションズの海外事業の株式60%をトルコのアルチェリクに譲渡することで合意。2021年春に日立グローバルライフソリューションズとアルチェリクの合弁会社設立する予定。
[匿名さん]
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2021年
3月31日:GlobalLogicを85億ドル(約9180億円)で買収すると発表した。
8月4日:フランスのタレス・グループから鉄道信号部門(en:Thales Rail Signalling Solutions)を16.6億ユーロ(約2150億円)で買収すると発表。
2022年
1月14日:日立建機の株式26%を伊藤忠商事、日本産業パートナーズに売却すると発表。
4月28日:日立物流の株式40%のうち30%を売却すると発表。
9月:Bリーグチームである「サンロッカーズ渋谷」運営会社の全株式並びに経営権をセガサミーホールディングスに売却予定。
8月23日:日立建機の約51%を保有する株式26%分について、伊藤忠商事と日本産業パートナーズが共同出資するHCJIホールディングスに売却した。これにより日立製作所の連結子会社から外れて持分法適用関連会社となる。
9月30日:連結子会社である日立エナジーについて、ABBの保有株である19.9%を取得し、完全子会社化することを発表。
10月18日:日立レールのアメリカ・メリーランド工場を着工。ワシントンメトロ用の車両を製造する予定。
2024年
4月1日 - 日立製作所のヘルスケア事業本部を会社分割により、日立ハイテクに承継予定。
[匿名さん]
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◾️スポーツ事業
・柏レイソル(Jリーグ)
1940年に創部された。日立製作所本社サッカー部が前身で現在も日立が大株主。ホームスタジアムの日立柏サッカー場は日立の敷地内にあるクラブ所有のスタジアムである。
・日立製作所本社サッカー部(新)
現・レイソルとは別に本社のサッカー部が東京都社会人サッカーリーグに参加している。社業に専念してレイソルには入団しなかった選手や、日立本社に所属するサッカー愛好家による同好会。
・日立製作所茨城サッカー部
・日立製作所笠戸サッカー部
・日立Astemoリヴァーレ(Vリーグ女子)
・日立Astemo佐和事業所のバレーボール部(旧「日立佐和リヴァーレ」)で、かつての本社バレーボール部(日立ベルフィーユ)とは別の組織。
・日立製作所硬式野球部(社会人野球)
・日立製作所ラグビー部(トップイーストリーグDiv.2)
・日立ハイテク クーガーズ(Wリーグ)
・日立ハイテクノロジーズの女子バスケットボール部。
・日立サンディーバ(JDリーグ)
前身はソフトウェア事業部の「日立ソフトウェア女子ソフトボール部」。ソフトボール日本代表選手のほかに斎藤春香監督も輩出している。
・日立情報通信エンジニアリングバドミントン部(バドミントンS/Jリーグ)
[匿名さん]
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◾️かつて存在したチーム
日立グループでは、事業再編の一環としてスポーツ事業についても大幅に整理を行った。そのため、バレーボールを中心に廃部が相次いだ。
・日立国分トルメンタ(バレーボール・Vリーグ男子):廃部
・日立ベルフィーユ(バレーボール・Vリーグ女子):廃部
・茂原アルカス(バレーボール・Vリーグ女子):廃部
・日立高崎→日立&ルネサス高崎(ソフトボール日本リーグ):撤退
ルネサス テクノロジとの合同運営を経てルネサスの単独チームに移行。2015年にビックカメラに移管され「ビックカメラ高崎ビークイーン」として現存。
分社化する以前は「日立ソフトウェア」と並んで、同一法人の下に女子ソフトボールの有力チームが2チーム並存していた状態であった。
・日立戸塚レパード(バスケットボール・Wリーグ):廃部
・日立甲府(バスケットボール・Wリーグ):撤退、クラブチーム化
1999年に日立本体がチーム運営から撤退し「甲府クィーンビーズ」に改称。
ルネサス テクノロジの支援時期を経て、2009年以降は一般社団法人の運営するクラブチーム「山梨クィーンビーズ」として現存。
・日立ハリケーンズ(アメリカンフットボール・Xリーグ):撤退、クラブチーム化
2003年にルネサス テクノロジに運営移管・「ルネサスハリケーンズ」に改称後、2004年にクラブチーム化。
現在はルネサスとサンディスクがメインスポンサーとなり「ハリケーンズ」として現存。
[匿名さん]
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・日立栃木サッカー部(サッカー・JFL):撤退、クラブチーム化
日立アプライアンスの実業団チーム。2006年にクラブチーム化して「栃木ウーヴァFC」(栃木U) に改称。2016年まで日立アプライアンスが同クラブのスポンサーになっていた。
2017年に関東リーグ降格。2018年に日本理化工業所がクラブ運営に参画、同年末に「栃木シティフットボールクラブ」に改称して現存。
・サンロッカーズ渋谷(Bリーグ):売却
2000年に本社バスケットボール部(日立本社ライジングサン)と関西支社バスケットボール部(日立大阪ヘリオス)の統合で設立。2015年に運営母体を分社化。2022年9月にチーム運営会社の全株式並びに経営権をセガサミーホールディングスに売却されたが、現存。
◾️冠スポンサー
日立3ツアーズ選手権(ゴルフ、日本の男子レギュラー、男子シニア、女子の3大ツアーチーム対抗戦)
1988年 - 1997年はゴルフ日本シリーズの特別協賛を務めており、大会名も「ゴルフ日本シリーズ日立カップ」であった。
◾️文化事業
日立評論
ひたち (雑誌)
HITACHI NOW
どっきりドクター
和鋼博物館
鉄人28号(モノクロ:実写版):第1話は日立製作所日立工場でロケが行われた。
HANDSHAKING
バブルへGO!! タイムマシンはドラム式
阪急電車 片道15分の奇跡
◾️その他
大阪国際女子マラソン:2012年大会の中継では後半の各社スポンサーとして提供。この時は大阪関連として珍しく最新版の鉄道関連技術(自動改札システム)のCMが流れていた。
全国高校サッカー選手権大会:1977年度 - 1989年度まで協賛。
[匿名さん]
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船橋市立船橋高等学校(ふなばししりつ ふなばしこうとうがっこう)は、千葉県船橋市市場四丁目にある市立高等学校。
◾️サッカー部
監督に布啓一郎が就任してから力を付け、Jリーガーも多数輩出している。天皇杯全日本サッカー選手権大会に出場した2003年度のチームは、当時のJリーグ王者横浜F・マリノス相手に2対2で延長戦まで戦い抜きPK戦まで健闘したことで知られる。世界・主要全国タイトルは、全国高校最多の計21回である。
世界招待大会
オッテンカップ世界ユース選手権大会: 優勝1回(2000年)
サニックス杯国際ユースサッカー大会: 優勝2回(2003年、2017年)
全国大会
全国高等学校サッカー選手権大会: 優勝5回(1994年度、1996年度、1999年度、2002年度、2011年度)
高校総体: 優勝9回(1987年、1988年、1998年、2001年、2007年、2008年、2010年、2013年、2016年)
高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会: 優勝1回(2003年)
天皇杯全日本サッカー選手権大会: 3回戦進出(2003年)
全国招待大会
FBS杯高校チャンピオン大会: 優勝3回(1998年、1999年、2004年)
地域リーグ
高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ関東: 優勝2回(2003年、2007年)
[匿名さん]
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◾️著名な出身者: サッカー
名前 出身 生 卒 Pos 進学先 所属 現所属または主な経歴
安達亮 兵庫県西宮市 1969 1987 専修大学 横浜フリューゲルス 現役引退。カターレ富山監督
境秋範 千葉県 1970 1988 GK 専修大学 川崎フロンターレ 現役引退
小川誠一 千葉県千葉市 1970 1988 DF 名古屋グランパス 現役引退
井尻明 福島県双葉郡富岡町 1970 1988 DF 駒澤大学 京都サンガ 現役引退
野口幸司 千葉県 1970 1988 MF ベルマーレ平塚(日本代表) 現役引退
庄司孝 千葉県 1971 1989 MF 柏レイソル デッツォーラ島根
永田崇 千葉県 1972 1990 FW 明治大学 京都サンガ 現役引退
小原一典 千葉県船橋市 1972 1990 カンボジア技術委員長
高田昌明 千葉県習志野市 1973 1991 MF 横浜フリューゲルス(バルセロナ五輪代表) 現役引退
和田潤 千葉県 1973 1991 FW 専修大学 FC東京 現役引退
鬼木達 千葉県船橋市 1974 1992 MF 鹿島アントラーズ 現役引退。川崎フロンターレ監督
渡辺敦夫(英語版) 東京都 1974 1992 DF 日本大学 浦和レッズ 現役引退
水野淳(英語版) 千葉県 1974 1992 MF ジェフ市原 現役引退
秋葉忠宏 千葉県千葉市若葉区 1975 1993 MF ジェフ市原(アトランタ五輪代表) 現役引退。水戸ホーリーホック監督
鈴木和裕 東京都 1976 1994 DF ジェフ市原 現役引退
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茶野隆行 千葉県市川市 1976 1994 DF ジェフ市原(日本代表) 現役引退
森崎嘉之 千葉県 1976 1994 FW ジェフ市原 現役引退
鈴木正人 千葉県 1977 1995 GK 専修大学 湘南ベルマーレ 現役引退
城定信次 東京都羽村市 1977 1995 DF 浦和レッズ 現役引退
松森亮 千葉県 1977 1995 DF ジュビロ磐田 現役引退
砂川誠 千葉県習志野市 1977 1995 MF 柏レイソル 現役引退
式田高義 千葉県 1977 1995 MF ジェフ市原 現役引退
佐藤陽彦 東京都 1978 1996 DF 京都サンガ 現役引退
髙木理己 千葉県 1978 1996 帝京大学 FC今治コーチ
吉川京輔 千葉県 1978 1996 DF 筑波大学 コンサドーレ札幌 現役引退
中村直志 千葉県船橋市 1978 1996 MF 日本大学 名古屋グランパス(日本代表) 現役引退
北嶋秀朗 千葉県習志野市 1978 1996 FW 柏レイソル(日本代表) 現役引退。大宮アルディージャコーチ
遠藤大志 千葉県 1979 1997 GK FC東京 現役引退
山根伸泉 千葉県千葉市 1979 1997 MF 国士舘大学 浦和レッズ VONDS市原SECOND
軽部雅也 千葉県 1979 1997 DK 明治大学 アルビレックス新潟 現役引退
松田正俊 千葉県千葉市 1980 1998 FW FC東京 現役引退
西紀寛 大阪府高槻市 1980 1998 FW ジュビロ磐田(日本代表) 現役引退
黒河貴矢 愛媛県周桑郡丹原町 1981 1999 GK 清水エスパルス(アテネ五輪代表) 現役引退
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羽田憲司 千葉県市川市 1981 1999 DF 鹿島アントラーズ 現役引退。松本山雅FCコーチ
原竜太 東京都目黒区 1981 1999 FW 名古屋グランパス 現役引退
植草裕樹 千葉県市川市 1982 2000 GK 川崎フロンターレ 現役引退
中澤聡太 東京都三鷹市 1982 2000 DF 柏レイソル 現役引退
永井俊太 東京都 1982 2000 MF 柏レイソル 現役引退
本橋卓巳 東京都西東京市 1982 2000 MF 横浜F・マリノス 現役引退
松ヶ枝泰介 香川県 1982 2000 MF 明治大学 ジェフ千葉 現役引退
秋田政輝 千葉県八千代市 1982 2000 MF 筑波大学 水戸ホーリーホック 市川サッカークラブ
阿部翔平 神奈川県 1983 2001 DF 筑波大学 名古屋グランパス(日本代表) SHIBUYA CITY FC
堀切良輔 千葉県 1983 2001 MF 東洋大学 Honda FC 現役引退
西望実 大阪府高槻市 1983 2001 MF 立命館大学 Honda FC 現役引退
大久保裕樹 千葉県市原市 1984 2002 DF サンフレッチェ広島 現役引退
青木良太 大阪府高槻市 1984 2002 DF ガンバ大阪 現役引退
小宮山尊信 千葉県船橋市 1984 2002 DF 順天堂大学 横浜F・マリノス(日本代表) 現役引退
小川佳純 東京都 1984 2002 MF 明治大学 名古屋グランパス(日本代表) 現役引退
高安亮介 千葉県千葉市 1984 2002 MF 国際武道大学 栃木SC 現役引退
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原一樹 千葉県松戸市 1984 2002 FW 駒澤大学 清水エスパルス 現役引退
佐藤優也 千葉県市川市 1985 2003 GK ヴァンフォーレ甲府 ロアッソ熊本
増嶋竜也 千葉県千葉市 1985 2003 DF FC東京 現役引退
石井秀典 千葉県 1985 2003 DF 明治大学 モンテディオ山形 徳島ヴォルティス
鈴木修人 千葉県船橋市 1985 2003 MF 早稲田大学 鹿島アントラーズ(北京五輪代表) 現役引退
カレン・ロバート 茨城県土浦市 1985 2003 FW ジュビロ磐田(北京五輪代表) 現役引退
高橋昌大 茨城県古河市 1985 2003 FW 中京大学 水戸ホーリーホック 現役引退
中林洋次 神奈川県横浜市 1986 2004 GK サガン鳥栖 横浜F・マリノス
渡辺広大 千葉県 1986 2004 DF ベガルタ仙台 ザスパクサツ群馬
村山智彦 千葉県市原市 1987 2005 GK 静岡産業大学 SAGAWA SHIGA FC 松本山雅FC
笠原昂史 埼玉県 1988 2006 GK 明治大学 水戸ホーリーホック V・ファーレン長崎
小山泰志 山梨県 1988 2006 DF FC東京 現役引退
佐藤大基 千葉県 1988 2006 MF ザスパ草津 現役引退
鹿野崇史 千葉県 1988 2006 MF 明治大学 東京武蔵野シティFC 現役引退
上福元直人 千葉県 1989 2007 GK 順天堂大学 大分トリニータ 京都サンガ
橋本真人 千葉県市川市 1989 2007 DF 浦和レッズ 福井ユナイテッドFC
山田拓巳 東京都 1989 2007 MF モンテディオ山形 モンテディオ山形
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若狭友佑 千葉県松戸市 1989 2007 MF 青山学院大学 東京武蔵野シティFC 現役引退
加藤弘堅 千葉県 1989 2007 MF 京都サンガ 東京ヴェルディ
中村充孝 大阪府堺市 1990 2008 MF 京都サンガ いわてグルージャ盛岡
水野輝 千葉県 1991 2009 MF 明治大学 FC琉球 ボーウング・ケットFC
馬渡和彰 東京都 1991 2009 DF 東洋大学 ガイナーレ鳥取 浦和レッズ
今瀬淳也 千葉県市原市 1992 2010 DF 国士舘大学 水戸ホーリーホック カターレ富山
石原幸治 千葉県千葉市 1992 2010 MF 明治大学 東京武蔵野シティFC 東京武蔵野シティFC
和泉竜司 三重県四日市市 1993 2011 MF 明治大学 名古屋グランパス 名古屋グランパス
鈴木潤 愛知県名古屋市 1993 2011 DF 中京大学 FC岐阜 現役引退
小出悠太 千葉県 1994 2012 DF 明治大学 ヴァンフォーレ甲府 大分トリニータ
磐瀬剛 千葉県鎌ケ谷市 1995 2013 MF 京都サンガ ザスパクサツ群馬
石田雅俊 千葉県習志野市 1995 2013 FW 京都サンガ 安山グリナーズFC
柴戸海 神奈川県横浜市 1995 2013 MF 明治大学 浦和レッズ 浦和レッズ
志村滉 千葉県 1996 2014 GK ジュビロ磐田 大宮アルディージャ
椎橋慧也 千葉県 1997 2015 MF ベガルタ仙台 柏レイソル
永藤歩 千葉県 1997 2015 FW モンテディオ山形 現役引退
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井岡海都 千葉県 1998 2016 GK 仙台大学 ベガルタ仙台 ベガルタ仙台
真瀬拓海 千葉県 1998 2016 DF 阪南大学 ベガルタ仙台 ベガルタ仙台
杉岡大暉 東京都足立区 1998 2016 DF 湘南ベルマーレ (日本代表) 湘南ベルマーレ
原輝綺 埼玉県 1998 2016 DF アルビレックス新潟(日本代表) 清水エスパルス
高宇洋 神奈川県 1998 2016 MF ガンバ大阪 アルビレックス新潟
金子大毅 神奈川県 1998 2016 MF 神奈川大学 湘南ベルマーレ 京都サンガ
杉山弾斗 東京都 1999 2017 MF ジェフ千葉 ヴェノスクロノス都農
福元友哉 神奈川県 1999 2017 FW ファジアーノ岡山 FC大阪
藤田雄士 神奈川県 1999 2017 DF 神奈川大学 ブラウブリッツ秋田 ブラウブリッツ秋田
長谷川凌 東京都 1999 2017 GK 水戸ホーリーホック 高知ユナイテッドSC
田中悠也 千葉県 2000 2018 GK ギラヴァンツ北九州 ギラヴァンツ北九州
井上怜 千葉県 2001 2018 MF 東洋大学 水戸ホーリーホック 水戸ホーリーホック
鈴木唯人 神奈川県 2001 2019 MF 清水エスパルス RCストラスブール
賀澤陽友 神奈川県 2001 2019 FW 福島ユナイテッドFC 福井ユナイテッドFC
畑大雅 東京都 2002 2019 DF 湘南ベルマーレ 湘南ベルマーレ
石田侑資 徳島県 2002 2020 DF ガイナーレ鳥取 ガイナーレ鳥取
[匿名さん]
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全国高等学校サッカー選手権大会(ぜんこくこうとうがっこうサッカーせんしゅけんたいかい、英語: All Japan High School Soccer Tournament、全国高校サッカー選手権大会)は、高校男子サッカー部の頂点を決めるサッカーの大会。各都道府県代表48校(東京都は2校)による、トーナメント戦で行われる。通称「選手権」「冬の国立」「冬の高校サッカー」。
◾️開始年
1918年
◾️主催
日本サッカー協会
民間放送43社
◾️参加チーム数
48
◾️前回優勝
岡山学芸館高等学校(1回目)
◾️最多優勝
御影師範(11回)
第102回大会(2023年度)
全国高等学校体育連盟の区分では、全国高等学校選抜大会に含まれている。全国高等学校総合体育大会、高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ(かつては、国民体育大会だった)と並ぶ高校サッカー3大全国大会のひとつ。
[匿名さん]
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◾️歴史
【日本フットボール優勝大会の開始】
本大会の前身である日本フットボール優勝大会の第1回大会は大阪毎日新聞社の主催により、1918年1月(1917年度)に、大阪府豊能郡豊中村(現・豊中市)の豊中グラウンドを会場として開催された。
関東や関西、広島など日本の各地で1910年代初頭から個別に小規模の学生サッカーの試合が行われていた。そうしたなか1917年5月に東京で開催された第3回極東選手権競技大会(極東選手権競技大会サッカー競技)は、国内の各サッカーチームにとって大きな刺激となり、各地でサッカー大会が開かれるようになっていた。
また、1910年代から1920年代にかけて関西地方では、朝日新聞大阪本社と大阪毎日新聞社(現:毎日新聞社)を中心に主新聞拡販を目的とした多くのスポーツイベントを開催されており、本大会もそのひとつであった。
[匿名さん]
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◾️創設の経緯
この大会は、もともとラグビーの関係者が大阪毎日新聞社に、ラグビー競技の大会として持ち込んだ企画で、関東の私学を関西に招いて試合をしたいという狙いがあって大会名に「日本」という名を冠した。しかしラグビーは、関西には当時3チームしかなく、ラグビー単独では大会が成立しなかった。サッカーの場合は、関西には当時10以上のチームが存在したことから、サッカー(当時はアソシエーションフットボールと呼ばれていた。通称ア式)とラグビーとの共同開催として「日本フートボール優勝大會」が行われた。が「日本フートボール優勝大會」という名前を付けていたことが、後に一本化する際に優位に働いたとされる。つまりサッカーはラグビーの付属大会として始まり、ラグビー部門が前述の理由で付けた「日本フートボール優勝大會」という大袈裟な名前のおかげで生き残ったということになる。なお、サッカー部門と同時に始まったラグビー部門の方も全国高校ラグビー大会の前身となっている。この他、「日本フートボール優勝大會」と銘打っているように当初は「中等学校蹴球大会」という計画ではなかったため旧制中学校とは年長となる関西学院高等部が第1回から第6回大会まで、神戸高商が第3回大会に出場した。当時の関西にこれら旧制高等学校、旧制専門学校以上のカテゴリーの蹴球部がなかったから問題がなかったものと思われ『関西サッカーのあゆみ』30、31頁には「日本フートボール大會ですから。なんでも来いや」と記述されている。しかし実際は何でも参加させた訳ではなく、第1回から第8回大会までは関西以外からのチームの参加はなく、またラグビー部門のように(例えば関東から東京蹴球団や東京高等師範などを参加させたということもない。
[匿名さん]
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こうした他地域からの参入があれば、試合結果が変わるのは勿論、「高校サッカー選手権」の前身である「中学校蹴球大会」とは認められなかったかも知れない。後述するが、同時期に各地で「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が数多く開催されたが、どれも参加は師範学校と旧制中学校のみで、これ以上のカテゴリーのチームの参加はなく、またこれらの大会には他地域からの参加があった(#記録上の問題点)。大会は大阪朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会に対抗するべく、ラグビー競技の大会をメインとして始めたため、サッカー関係者には相談がなかった。『日本サッカーのあゆみ』には「蹴球関係者側の意見を尊重してもらう余地もなく、新聞社の方が先に立った」と書かれている。この毎日新聞が主催して大阪で始まった大会を現在の高校選手権の前身としている。
[匿名さん]
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◾️他地域の大会
同じ年に関東地区で「關東中等学校蹴球大會」(かんとうちゅうとうがっこうしゅうきゅうたいかい=東京蹴球団主催、朝日新聞社の後援)、名古屋では新愛知新聞社(現:中日新聞社)の主催で「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた。「關東中等学校蹴球大會」は東京蹴球団が東京朝日新聞と組んで開催したもので第1回大会は、中等學校優勝大会の外、東京高師、帝大、外人(外国人チーム)等の模範試合が行われ、大日本体育協会の当時の会長・嘉納治五郎が名誉会長を務め、久邇宮邦久王、久邇宮邦英王、山階宮藤麿王、山階宮萩麿王、山階宮芳麿王、竹田宮恒徳王6名の台臨、さらに内野台嶺大会委員長と親交のあった英国大使グリーン、副領事・ウィリアム・ヘーグの来場まであった。1936年に出版された『大日本體育協會史』下巻内の<大日本蹴球協會史>や、やはり日本体育協会が監修して1988年に出版した『保健体育スポーツ指導選書 最新スポーツ大事典』の中では、この「關東中等学校蹴球大會」が詳述され、毎日新聞主催の大会はほとんど書かれていない。この他「關東中等学校蹴球大會」を毎日新聞主催の大会と同様に高校選手権の前身と見なし、歴代優勝校年表を毎日新聞主催の大会と並列に記載した文献もある。このように古いサッカーの文献に「關東中等学校蹴球大會」を重きにおいて書かれたものがあるのは、大日本蹴球協會の中での勢力争いが関係していると考えられる。
[匿名さん]
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大日本蹴球協會はこの大会の3年後の1921年に設立されるが、設立にあたり中心的に動いたのが内野台嶺ら東京高等師範の関係者で「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団を設立したのも内野、後援した朝日新聞社側の担当者が東京府青山師範学校OBで東京蹴球団の選手でもあった山田午郎、「關東中等学校蹴球大會」の名誉会長を務めた嘉納治五郎は、大日本体育協会会長でもあり当時、東京高師の校長でもあった。大日本蹴球協会も初期の間は、師範学校系の幹部たちが力を持っていたため、彼らの多くが関与した「關東中等学校蹴球大會」の方をある時期までは支持していたためと見られる。毎日新聞主催の大会は、当初は大日本蹴球協会がタッチできなかったと言われるが第9回大会からの全国大会移行にあたっては野津謙ら、大日本蹴球協会の大学OBが関与したため彼ら大学OBが大日本蹴球協会内で力を増すに連れ「毎日新聞社主催大会」が支持を増やしていったのかも知れない[独自研究?]→#全国大会へ(第9回〜)。
[匿名さん]
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翌1919年には神戸高商主催(朝日新聞社後援)で、毎日新聞主催の大会とほぼ同じ出場チームによる「全国中等学校蹴球大会」が、1921年から名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会」が、1924年には岐阜蹴球団主催の「全国中等学校蹴球大会」、八高主催の「全国中等学校蹴球大会」、東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」が、1925年には関西学院高等部主催(大阪毎日新聞社後援)の「全国中等学校ア式蹴球大会」が、その他刈谷中学や広島高専主催でも「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が、その後全国各地で新聞社や蹴球団、大学、旧制高校、師範学校など、学校主催による「中等学校蹴球大会」がいくつも行われるようになり、競技会の乱立時代といわれた。1932年から1933年にかけては、全国各地で22も中等学校のサッカー大会があった。1933年に関西大学主催で行われた「関西中等学校蹴球大会」などは、他地域からの参加も含めて37校が集まる大きな大会で同年の毎日新聞主催大会の参加12校を大きく上回る規模であった。八高主催の「全国中等学校蹴球大会」第1回大会(1924年)には、関西や広島からも参加があったように「全国中等学校蹴球大会」と付けられた大会や、先の「關東中等学校蹴球大會」「東海蹴球大會」などは、所在地域の参加が主で全国規模の参加まではいかないが、どの大会にも他地域からの参加があった。ところが、毎日新聞社主催の大会は「日本フートボール優勝大會」と名乗っていても、第1回から1925年の第8回大会までの間、関西以外の学校は一校も参加がなかった。「全国中等学校蹴球大会」という名前の大会が多いのは、主導権争いが目的であったといわれる。
[匿名さん]
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1934年に大阪の毎日新聞社主催の大会に一本化されたが(#大会の一本化)、現在の高校選手権は、これら全てを源流とする見方も出てきている。
◾️カテゴリーの問題
多くの大会で師範学校が旧制中学校と同じ大会で争ったため、年齢のハンデを無視したものとして非難もあった。旧制中学校と師範学校とでは就学年齢が一致せず、体力差が大きく影響して中学校側がいつも優勝圏に近づけない不満を持っていたので、中学校の部と師範学校の部を区別してそれぞれ公平に戦わせるのが理想であった。戦前の学校制度は複雑で、さらに飛び級や、旧制中学入学に年齢制限がないようなことがあり分かりにくいが、基本的に師範学校は小学校を卒業後、高等小学校2年を経て、5年制の師範学校に行くので卒業時は19歳となるが、旧制中学校は小学校卒業後、5年間行くため卒業時17歳となり、年齢で3年重なり、最上級生のとき師範学校が2歳上となりハンデが生じる(日本の学校制度の変遷)。第1回大会から第7回大会まで七連覇した御影師範は、年齢が高かったこと、また師範学校は全寮制で、年中合宿をしているようなものでチームワークが良く、練習も充分にやれ、旧制中学のチームは適わなかったといわれる。当時は柔道や庭球などでも師範学校と旧制中学校は同じ大会で試合を行うことが多かった。これは各都道府県のスポーツ史等を見れば確認できる。中等野球(高校野球)でも戦前に福島師範や長野師範などが全国大会に出場したことがある。
[匿名さん]
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サッカーの「関東中等学校蹴球大会」は、この大会名で朝日新聞に広告も打った。大新聞に「中等学校大会」と広告も打って普通に師範学校が出場しているのだから、特に問題はなかったものと思われる。本来は師範学校と中学の部は分けて行うべきなのだが、しかしこの二分野を別立てすると大会そのものが成立しなかったと『東蹴六十年史草稿』22頁に書かれている。それが何故なのかはこの本に書かれていないが、この時代サッカーをやっている学校自体が少ないから、師範学校と中学を別々に分けるとチーム数が少なくなり、例えば各5チームずつの参加ではトーナメント大会として成立し難く盛り上がりに欠ける、あるいは、元々サッカー自体に人気がない上、中学の大会ならまだしも、師範学校の大会は地味で人気がなく、師範学校だけの大会では成り立たなかったため一緒にやらざるを得なかった、等といった理由が考えられる。毎日新聞社主催の「日本フートボール優勝大會」は、カテゴリーを問いていないので、この問題は本来関係がないが、その毎日新聞社主催大会を第9回大会から全国大会に移行させるおり、この二つを分けるという案を大日本蹴球協会が出したが、毎日新聞社側に断られたという。新聞社がスポーツの大会を支援するのは、新聞の拡販や、広告獲得などの目的があるためと見られ、新聞社の主催でない学校主催の大会では、この二つを分けて開催することがあった。
[匿名さん]
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東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」では1924年の第1回大会から、師範学校の部と中学の部は別々に行われた。八高主催の「全国中等学校蹴球大会」でも、1926年の第4回大会からこの二つを分けている。この他、旧制大学、旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校は、師範学校とは年齢が重なる場合もあるが、旧制中学とは年齢が上で重ならないため、これらに所属するチームが「中学校大会」に参加することはあっても、優勝を争うトーナメントのような公式試合で対戦することはない。中学校と対戦することがあるのは模範試合や練習試合である。前述したように毎日新聞主催の大会に関西学院高等部や神戸高商が出場したのは「中学校大会」ではないからで、このように「中学校大会」と銘打っていない年齢制限などを設けていない大会では対戦することがあった。広島一中や神戸一中などは、中学校でも強かったから、天皇杯の本戦や極東選手権の日本代表全国予選などに出場し、これら上のカテゴリーのチームとも対戦した。なお、旧制高等学校は1923年から「全国高等学校ア式蹴球大会」が、旧制大学、大学予科、旧制専門学校なども各地で大会やリーグ戦があった。
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◾️毎日新聞主催(第1回 - 第8回大会)
毎日新聞主催の「日本フートボール優勝大會」の第1回大会から第8回大会までは、関西の学校のみ参加の大会であった。当時は関西でもサッカーをやっている学校は多くはなかったから、初回は予選をする程のこともなく主催者側の推薦で出場チームを決めた。第8回大会では、出場の申し込みをした全チームが出場していることから、第1回〜第8回大会の間は、主催者側から推薦されれば、あるいは学校側から申し込めば、予選なしで全てのチームが参加できたとみられる。予選制となったのは参加チームを全国に拡大させた1926年の第9回全国中等学校蹴球選手権大会第9回大会からである。このため第1回大会から、大阪や兵庫からは複数の学校が参加し、第8回大会では、和歌山、奈良、滋賀、京都からは、各1チームに対して、大阪からは11チーム、兵庫からは7チームが参加した。当時は兵庫勢の力が抜けていたから、第1回〜第8回大会までの決勝のカードは、兵庫×大阪、兵庫×京都か、兵庫同士のいずれかになる。関西地区以外の参加に関しては『神戸一中サッカー部史』や、『広島一中国泰寺高百年史』等に、広島一中は、毎日新聞の大会は出場できず、神戸高商主催(朝日新聞後援)の「全国中等学校蹴球大会」に出場し、毎日新聞の大会を連覇中だった御影師範を二年連続で破って優勝した、と記述されていることから第1回大会から第8回大会までは、関西地区以外の学校は参加させない、実質的に関西ローカルの大会であった。これは参加チームを見ても分かるし、多くの文献に記述されている。第1回から第7回まで御影師範が連続優勝したとされるが、これは正確には日本一とはいえない。
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また当時の交通事情は非常に悪く、賀川浩は「当時の遠征試合はハンディキャップが物凄く大きいため、地元の大会で御影師範や神戸一中が勝ってもあまり威張れない」などと述べている。1921年に名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会」が、東京府青山師範学校、豊島師範、明倫中学、愛知一師、御影師範、姫路師範など、関東、東海、関西地区から10チームが参加して名古屋で行われたが、ここでも御影師範は関東の東京府青山師範学校に敗れている。この大会の決勝戦は東京府青山師範学校×明倫中学である。御影師範は毎日新聞主催の第1回大会から第7回大会までを七連覇するが、他の大会に出場すると負けることがあったことから、この毎日新聞の大会は、他の多くの大会と同程度のレベルであったと考えられる。大会の権威に関していえば、『高校サッカー60年史』の32頁に「東京ではそうでもなかったらしいが、大阪では大新聞の主催でないと大会に権威がなかった」、38頁に「私達御影師範では毎日新聞の大会を最高峰としていて、他の蹴球大会は前哨戦、準備大会位に考えていた」という記述や、『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』107頁に「大日本蹴球協会が設立される(1921年)まで、最も権威のあるフットボール大会は大毎の主催する全国蹴球大会で、その後も関西では蹴球大会の最高峰の一つであった」という記述が見られるから、関西の他の大会よりは権威があったのかも知れない。しかし、神戸一中の選手たちは「近畿のチームだけの毎日新聞の大会より、広島一中や広島高師附属中学の広島勢が来る神戸高商主催の大会で勝つ方が値打ちがある」と言っていたという賀川浩の証言もある。
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静岡県立藤枝東高校のサッカー部60年史には、「われわれ志太中学(藤枝東高校)の全国大会の初優勝は、1931年の東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」で、此処に全国津々浦々に志太中サッカーの名声を響かせた」と書かれている。この東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」というのも、1924年から1932年に9回開催された全国規模の中等学校サッカー大会で、東日本の学校がほとんどだが、近畿や東海地区の学校も参加した大きな大会であった。志太中学は毎日新聞主催の大会が全国大会になっても、戦前には毎日新聞主催の大会の予選には出場していないようで、つまり学校によっては、特に関西以外の学校にとっては、毎日新聞主催の大会を唯一の全国大会とは捉えておらず、乱立していた他の全国大会等を選んで出場していたものと見られる。毎日新聞社主催の大会が1925年度の第9回大会から全国大会となり"名実とともに全国大会として発展した"と書かれた文献もあるが、すぐに唯一の全国大会と認知された訳ではなく、徐々に認知されていって、"名実とともに全国大会""唯一の全国大会"として完全に認知されたのは、1934年に毎日新聞社主催の大会に一本化され、他の全ての大会が終了した第16回大会以降の話と考えられる。これらの事情を考えれば「全国高等学校サッカー選手権」が"真の全国大会"と文句なくいえるのは、1934年の第16回大会からでないかと思われる。『高校サッカー40年史、60年史』の「全国高等学校サッカー選手権大会」の記述は、関西の関係者の証言がほとんどで、他の地域の大会はほとんど触れられていない。[独自研究?]
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『高校サッカー60年史』32頁に「毎日新聞主催の大会は準備委員会がともかく強力で、大日本蹴球協会ができてからも、協会はタッチできなかった」、また「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団の団史には「東京ではサッカーの関係者が主体で、朝日新聞の方が善意の後援をしてくれたのだが、他の二つは新聞社の方が強力に推進された。これはこれらの地域のサッカー関係者が、まだ微力だったといった方がよいのかも知れない」と書かれており、サッカー関係者としては、この毎日新聞主催の大会は、当初は大阪の新聞社が勝手にやっているという考えであったのかも知れない。やはりこの毎日新聞の大会が後に高校選手権の前身ということになったから重みを増したことは間違いがない。前身ということにならなかったら、他の多くの大会と同様の位置づけであったと考えられる。[独自研究?]第8回大会は、旧制専門学校と中学の部を分けて実施した。専門学校の部の出場チームは早稲田高等学院、官立神戸高商、松山高等学校、関西大学、関西学院の5校で、決勝は早高2-1関学。何故分けて実施したのかは『高校サッカー60年史』にも記述がないが、翌年の「全国中等学校蹴球選手権大会」移行に伴い、カテゴリーが明らかに中学より上のチームを切り離すということかも知れない。各試合の結果他、詳細が『高校サッカー60年史』に書かれておらず、翌年の第9回大会以降の大会に旧制専門学校の部の結果は記載がない。『輝く埼玉サッカー75年の歩み』1082頁には「第8回大会"から"高専の部と中等学校の部に分け、会場も甲子園球場に移って開かれたのである」と書かれているため、その後も継続されたと見られるが詳細は不明。
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◾️全国大会へ(第9回〜)
1925年度の第9回大会から、全国をいくつかのブロックに分け、その予選優勝校で"本当の全国大会"に飛躍させようとの気運が高まり、全国での地区予選制となって、名称も「全國中等學校蹴球選手權大會」と改められ、ラグビー大会と分割、関西の学校以外の学校も参加する全国規模の大会に成長することになった。前述のように第8回大会までは大日本蹴球協会は運営にタッチできなかったようであるが、この第9回大会からの全国大会移行にあたっては、毎日新聞からの要請で田辺五兵衛や野津謙、鈴木重義ら、大日本蹴球協会の関係者が運営に関与した。ここで年齢制限の問題が出て、それまで年齢では2歳上となる師範学校が中学校と同じ大会で争っているという問題点について、別々に分けるという案も出されたが、この第9回大会から参加を予定していた朝鮮地区の選手が、戸籍を持たず、年齢確認が困難ということが分かったこともあり、引き続き一緒にやることになった。この後、1929年(第11回大会)、1935年(第17回大会)の二度に渡り、年齢制限が加えられたため、師範学校チームは弱体化したという。なお、毎日新聞が中等野球の全国大会を持とうと考えたのは、このサッカー大会がマイナーなまま、朝日新聞主催の夏の全国中等野球大会に対抗できなかったからという見方がある。
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◾️大会の一本化
1925年度の第9回大会から、毎日新聞社主催の大会は全国大会になったが、全国各地にあった大会も、これ以降も続けられていた。毎日新聞社主催の大会が形を整えてゆくにつれ、これらの地方大会をどうするかという問題が起ってきた。「全国大会」と銘打ったものも他にたくさんあったが、毎日新聞社主催の全国大会が規模内容が最も大きくなり、1934年に毎日新聞社主催の大会に一本化され、他の全ての大会は終了した。これらを指示したのは大日本蹴球協会で、この1934年から大日本蹴球協会が主催に加わった。一本化にあたっては、他の地域からは大きな抵抗があり、中でもやはり「關東蹴球大會」が最後まで問題となったが、サッカーの将来を考え終了を受け入れたという。毎日新聞社主催の大会に一本化されたのは、ラグビーの大会をするために付けた「日本」を大会名に付けていたこと、「關東蹴球大會」は朝日新聞の後援で主催でなかったことが、有利に働いたともいわれる。当時、大日本蹴球協会の大学OBが主導権を握るため、師範系OBを排除しようとしていたというから、野津謙ら大学OBが大日本蹴球協会内で力を増すに連れ、野津らが関与した「毎日新聞社主催大会」が支持を増やし、師範系OBが大きく関わっていた「關東蹴球大會」は、支持が減っていったのかも知れない。この他、一新聞社に遍することのないよう、また全国の中学校へサッカーを普及振興させようと文部省に主催を移すという案も検討されたことがあった。
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