以降、太平洋戦争による中止を挟み、戦後の学制改革で現在の名称となっても西宮球技場を主な会場にして関西での開催が続いた。1948年(昭和23年)4月新制高校が発足。同年6月に全国高等学校体育連盟(高体連)が創立され、本大会に主催団体として加わることになった。
◾️高校総体の開始と毎日新聞社の主催終了
1965年に全国高等学校総合体育大会(高校総体、インターハイ)が夏の大会として整備され、翌1966年にはサッカー競技が全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会として加えられ、秋の国民体育大会サッカー競技高校の部(国体)を合わせると、高校サッカーの全国大会は3つとなった。当時の文部省は文部省の通達により、学校教育活動としての高校スポーツの全国大会は国体を除いて年一回しか認めていなかったため、日本蹴球協会と全国高等学校体育連盟(高体連)は冬の高校選手権を夏の高校総体に組み入れようとした。この動きのなか、毎日新聞社は第1回大会から行っていた本大会の主催を終了し、結局は日本蹴球協会が単独で冬の高校選手権を開催することになった。1966年度大会は、毎日新聞社の主催終了による経済的な影響や文部次官通達との関係により、出場校が前年の32校から16校に変更され、夏の高校総体の上位2校と、秋の国体の上位4校、地域推薦の10校となった。各地域の予選も、文部次官通達との関連で公式には行わず、地域推薦とする建て前となった。16校での開催は、1970年度大会まで続いた。また、1966年度から大会の回数が大会名から外されるようになり、1980年度の第59回大会で復活した。
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◾️読売新聞社後援へ
1970年から国体が各都道府県選抜の参加となり、インターハイとは別に「選抜大会」として競技ごとに全国大会を開くことが認められた。これにより高体連としては選抜大会の扱いをするということで、第49回大会(1970年度)から主催に復帰した。
一方で当時読売新聞社を中心とした読売グループでは、将来的なプロ化も睨んだ本格的なサッカークラブである読売サッカークラブを1969年に発足させるなど、サッカーに対して力を入れつつあった。そうした動きの中で「クラブの長期的な存続には、将来的な選手の供給源の充実が不可欠である」として高校サッカーに対する支援を行うことになり、1970年8月には日本テレビの主催で全国の強豪校11チームを招待した「高校サッカー研修大会」を開催し、日本テレビと出場校の地元を中心とした系列局で裏送りを含めて放送した。読売新聞社・日本テレビではこの研修大会を継続して開催する意向だったが、夏場はインターハイや国民体育大会の予選など試合数が多く、日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、以下JFA)側では研修大会の継続は難しいと判断。そこで代替策として、JFAでは本大会の後援に読売新聞社が加わること、並びに日本テレビが大会の中継を行うことを提案。これを読売新聞社側が了承したことから、高体連の主催復帰と時を同じくして日本テレビが大会のテレビ中継を行うことになった。
[匿名さん]
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第49回大会(1970年度)は日本テレビで8試合を中継。決勝戦のみ以前から編成していたNHKとの2局同時中継という異例の形になった。第50回大会(1971年度)から日本テレビ系列の独占中継体制になったが、高体連はこれに反発し全国放送のNHKによる中継を廃するからには「最低でもNHKの8割のエリアをカバーできる放送体制を取る」よう要求した。当時の日本テレビのネットワーク体制ではとても無理な注文だったが、ここで電通が仲介に入り当時のTBS系列のローカル局と折衝を行い、日本テレビをキー局としつつTBS系列局および一部のフジテレビ系列局・独立局を含めたローカル局による全国38局の中継体制を築くことに成功。これにより第50回大会より正式に中継が日本テレビに移行した。『関西サッカーのあゆみ』では「高校野球は朝日と毎日がやっているが、それにはどうしても入れない読売と日本テレビが、何が何でも高校サッカーを取りたいと電通を絡ませて関西から奪った」と書かれている。
全国テレビ中継とスポンサーを得た本大会の運営は強化される方向に向かい、特例としてインターハイとは別の選手権として高校サッカーの最高峰の大会と位置づけられるようになった。
1971年度の第50回大会は、長居競技場が主会場となり、1回戦と2回戦では西宮球技場と神戸中央球技場が併用された。翌年からの第51回大会、第52回大会、第53回大会、第54回大会では、長居競技場とうつぼ球技場が会場となった。
[匿名さん]
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◾️決勝大会の首都圏への移転
第55回大会(1976年度)からは、決勝大会の会場を首都圏(東京都・千葉県・神奈川県・埼玉県)に移すこととなった。元々日本テレビやJFA関係者の間では決勝大会を首都圏で開催したいという要望が強かったことに加え、当時日本テレビで本大会の中継スタッフだった坂田信久が「(日本テレビに中継が移って)最初の2年で関西ではスタンドを満員にするのは厳しいとわかった」と語っているように、高校野球の影響でサッカーへの関心が薄い土地柄だったことや大会の採算面からも関西開催では大会の発展が厳しいという認識が関係者の間で広まり、最終的に高体連の47都道府県の委員長会議で多数決により会場の移転が決まった。しかし現在もなお、関西のサッカー関係者にはこの決定に不満を唱えるものが多数存在するという。当時も関西サッカー協会会長で日本蹴球協会副会長であった川本泰三らが激怒。このため坂田らは首都圏開催後の同大会を絶対に成功させるとして、大会のイメージアップに全力を注ぐ。場内に広告看板を設置してテレビに映すほか、後には試合時間内にはテレビCMを入れないようにしている。大会の応援を都道府県の県人会へ連絡した他、各出場校にも職員会議から父母会、生徒会にまで足を運んで頼み込んだという。
西が丘サッカー場など、当時未だ計測時計が会場掲示板に無い競技場が多く、このためテレビ局の大道具に人動で動かす大型時計制作してもらって、アルバイトにストップウォッチで試合時間を計測させて1分毎に手動で時計の針を動かしたという。
この他に中継に使用するテーマ曲を、この際に現在の曲に刷新。会場にも4台のカメラを設置して試合を追いかけて中継を行った。
[匿名さん]
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こうして、首都圏開催の初回となる第55回大会決勝戦・浦和南(埼玉)対静岡学園(静岡)の国立競技場は観客が超満員となる約6万人が来場した。
さらに第62回大会(1983年度)からは、原則として1都道府県1代表制で実施されるようになり、現在に至っている。
開会式・準決勝・決勝(年度により準決勝は他のスポーツ大会の都合で別会場)は旧国立競技場で大々的に行われており、高校サッカー選手たちは「目指せ!国立」を一つの合言葉にしていたが、2014年5月に旧国立競技場が閉鎖→2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催に伴う全面改築工事に入ったため同年-2020年の年末年始にかけての大会以後は、暫定的に開会式・開幕戦を駒沢オリンピック公園陸上競技場、準決勝・決勝は埼玉スタジアム2002をメイン会場として行っている。
第100回記念大会(2021年度)の開会式・開幕戦・準決勝・決勝は新装となった国立競技場で行われた。
◾️現在
近年はクラブユース勢の台頭とそれに伴う人材のシフトにより、ユース年代のサッカー大会としてのプレステージが高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会、その後継大会である高円宮杯U-18サッカーリーグに移行し、当大会のレベル低下を指摘されているが、今なお多くの高校サッカー部の選手にとっては最も価値あるサッカートーナメントの位置を占めている大会であり、社会的にも最も大きな注目を集めるサッカー大会の一つである。また、クラブユースの台頭に伴って、かつて優勝を寡占した名門校の地位が下がり、また近年のサッカーの普及に伴って各地域の底上げがなされた。
[匿名さん]
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この大会の優秀選手から選手を選抜し、1973年から毎年4-5月に行われるヨーロッパでのユーストーナメント大会(隔年で偶数年にスイス・ベッリンツォーナ。奇数年にドイツ・デュッセルドルフ)に日本高校選抜チームとして出場している。また、かつては「ニューイヤーユースサッカー」として、ヨーロッパのユース年代のチームを招待した交歓大会もあり、日本高校選抜もそれに出場した。第88回大会(2009年度)終了後は、海外遠征前に本大会協賛社の富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)が特別協賛している「FUJIFILM SUPER CUP(旧・FUJI XEROX SUPER CUP)」の前座試合として、U-18Jリーグ選抜(高校1,2年生)との親善試合が組まれる。
第91回大会(2013年)の決勝戦は当初1月14日に行われる予定だったが、降雪により中止。当初は、大学入試センター試験(当時、現:大学入学共通テスト)で3年生に影響が出る可能性があるために両校優勝の措置をとることも検討されていたが、決勝を戦う両チームの登録メンバーの中に、1月19日・20日実施のセンター試験受験申込者がいなかったため、試合を1月19日に順延することに決定した。悪天候による決勝戦の順延は史上初(中継は録画放送)。なお、1月14日に予定されていたテレビ中継についても、内容が大幅に変更された。
[匿名さん]
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◾️ 大会歌
大地に顔をくっつけて(シーガルス[注釈 12])(1973年度・第52回 - 1975年度・第54回)
作詞:金原徹朗、補作詞:阿久悠、作曲:森田公一、編曲:馬飼野康二
関西圏開催時代の末期に使用された。
ふり向くな君は美しい(ザ・バーズ)(1976年度・第55回 - )
作詞:阿久悠、作曲・編曲:三木たかし
戦いに敗れた者の健闘を讃える曲として知られており、現在は、テーマ曲(イメージソング)と併用して使われている(後述の「イメージソング」を参照)。
但し、これらの曲は試合会場内での式典曲としては用いられず、日本サッカー協会の公式アンセムである「日本サッカーの歌」などが用いられる。
◾️ 開催方式
1983年度(昭和58年度)の第62回大会以降、47都道府県から48代表(東京都のみ2校、それ以外の46道府県は1校)が出場する形態が定着している。出場校を決定する都道府県大会はおおむね9月から11月にかけて実施される。
三重県大会では、まず1次トーナメントを行い2次予選に進む8校を選出。2次予選では4校のグループに分けてのリーグ戦を行い、上位2校が準決勝に進むというシステムが採用されていた。
実力が他校よりも突出している、あるいはプリンスリーグに参加しているなど試合数が多くてスケジュール調整が難しい高校の場合、スーパーシードと呼ばれてかなりの段階までシードされることがある。例えば、第92回大会の青森県予選では青森山田は準決勝からのシードだった。
[匿名さん]
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第69回大会(1990年度)では、都道府県代表と別に、都道府県大会と並行して開催されていたAFCユース選手権に日本代表として出場した武南、習志野、清水市商、国見の4校を推薦出場(予選免除)としたため、全52校で争われた。
第79回大会(2000年度)では、前年度優勝の市立船橋が推薦出場で予選免除されたため、全49校で争われた(前年優勝の推薦出場枠は当年限り)。
全国大会は1回戦制のノックアウトトーナメントで行われる。全国大会の場合、退場処分又は累積警告2回で次の試合出場停止。
試合時間については次の通り行う。
準々決勝までは前後半40分ハーフの計80分で行い、前後半終了時に同点の場合は即PK戦で決着をつける。
準決勝は前後半45分ハーフの計90分で行い、前後半終了時に同点の場合は即PK戦で決着をつける。
決勝は前後半45分ハーフの計90分で行い、同点の場合は前後半10分ずつ計20分の延長戦を行う。延長戦終了後、同点の場合はPK戦で決着をつける。
第78回大会(1999年度)まで、決勝で延長戦でも決着が付かない場合、両校優勝としていた。
第81回大会(2002年度)まで、決勝も前後半40分ハーフの計80分で行われていた。
第86回大会(2007年度)まで、準決勝も準々決勝までと同様の試合形式で行われていた。
試合終了後、PK戦でない限りは勝利校の校歌斉唱(あらかじめテープ収録したもの)が行われる。PK戦に縺れた場合は勝利校であっても校歌斉唱は次の試合の進行の都合上省略される。校歌斉唱(またはPK戦)終了後、勝利校の監督・敢闘選手に対するヒーローインタビュー(原則として各試合のテレビ中継における勝利校のベンチレポーターの進行による。
[匿名さん]
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決勝は別途主催者が用意した代表アナウンサーが担当)を行う。決勝戦の校歌斉唱は試合開始前に行い(試合終了後は試合の勝敗の有無にかかわらず斉唱は行わない)、試合終了後ただちにヒーローインタビュー→表彰・閉会式を行う。
◾️使用会場
前述の通り首都圏(1都3県)の複数会場(おおむね9会場前後)が使用される。多くの会場が、施設改修や芝の張り替えなどの理由で、毎年のように会場が変更される(通常使用されない会場が使用される)のが特徴である。
◆第101回大会(2022年度)の会場
国立競技場(東京都新宿区、2021年度より使用)
駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場(東京都世田谷区、2010年度は改修工事中のため使用せず、2014年度 - 2020年度は国立の代替として開会式・開幕戦の会場となる)
味の素フィールド西が丘(東京都北区、1976年度の関東移転後に途切れることなく使用されたが、2012年度は使用せず)
NACK5スタジアム大宮(さいたま市大宮区、2002年度以後使用されなかったが2010-2011年度は駒場スタジアム、2014年度は埼玉スタジアム2002の例年開催分の代替会場として使用)
浦和駒場スタジアム(さいたま市浦和区 1992年度 - 1994年度と2010年度 - 2011年度は改修工事中のため使用せず)
柏の葉公園総合競技場(千葉県柏市、2009年度・2012年度は使用せず、2014年度・2016年度・2018年度・2021年度に使用)
ゼットエーオリプリスタジアム(千葉県市原市、2010年度・2014年度は使用せず、2015年度・2017年度・2019年度・2020年度に使用)
ニッパツ三ツ沢球技場(横浜市神奈川区、2009年度は使用せず)
[匿名さん]
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等々力陸上競技場(川崎市中原区、2012年度・2014年度は使用せず)
◆過去に使用されていた会場
関東へ移転後も、Jリーグ基準を満たすスタジアムが増加したことから、2000年代から使用されなくなった会場もある。また、通常は使われないが本会場の施設改修に伴い代替会場として使用されるケースもある。
◆関西開催時代
豊中グラウンド(1917年度 - 1921年度) (野球兼用)
宝塚球場(1922年度 - 1923年度) (野球兼用)
阪神甲子園球場(1924年度 - 1927年度) (野球兼用、当時は甲子園大運動場)
甲陽中学(1924年度)
南甲子園運動場(1928年度 - 1940年度) (甲子園球場の南側にあった総合競技場)
西宮球技場(1946年度 - 1962年度、1966年度 - 1971年度)
靱蹴球場(1963年度 - 1964年度、1972 - 1975年度)
金岡公園陸上競技場(1963年度 - 1964年度)
長居陸上競技場(1964年度 - 1970年度、1971年度 - 1975年度)
京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場(1965年度)
神戸市王子陸上競技場(1965年度)
神戸市立中央球技場(1971年度)
[匿名さん]
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◆関東移転後
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(東京都新宿区。開幕戦、準決勝、決勝戦のみ 2014年度 - 2020年度は建て替えのため使用せず)
大井ふ頭中央海浜公園陸上競技場(東京都品川区、1981年度・1983年度のみ使用)
江戸川区陸上競技場(東京都江戸川区、2010年度は駒沢・2012年度は西が丘の代替会場として使用)
フクダ電子アリーナ(千葉市中央区、2009年度以降使用、2011年度・2022年度は使用せず)
千葉県総合スポーツセンター陸上競技場(千葉市稲毛区、2003年度以降使用せず)
習志野市秋津サッカー場(千葉県習志野市、1999年度以後使用していないが、2003年度は千葉市非開催に伴う代替会場となる)
レモンガススタジアム平塚(神奈川県平塚市、等々力・三ツ沢球の代替会場として1992年度・1994年度・2001年度・2002年度・2009年度に使用)
三ツ沢公園陸上競技場(横浜市神奈川区、三ツ沢球・等々力の代替会場として1990年度 - 1993年度に使用)
相模原ギオンスタジアム(相模原市南区、等々力の代替として2012年度・2014年度使用)
埼玉スタジアム2002(さいたま市緑区、2001年度より使用、2014年度から2020年度まで国立の代替として準決勝・決勝の会場となる、2021年度以降使用せず)
川越運動公園陸上競技場(埼玉県川越市、2001年度以降使用せず)
熊谷スポーツ文化公園陸上競技場(埼玉県熊谷市、駒場の代替として2021年度使用)
◾️国立競技場での試合開催
国立競技場(新旧とも)でのプレーが許されるチームは、開幕戦を戦うチーム(1つは東京都代表のどちらか)とベスト4のチームの最大6チームのみであり、厳しく狭き門であると言える。
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開幕戦のなかった第77回(1998年度)以前はさらに厳しく、ベスト4の4チームだけであった。「目指せ国立」は、この大会のキャッチコピーともなっている。
1月に国立競技場で行われる全国大学ラグビー選手権大会決勝との日程重複のため、当大会の準決勝を国立競技場以外で開催した事例もある。その場合、当大会で国立競技場のピッチに立てるチームは最大4チーム(国立競技場での開幕戦実施以前については2チーム)に減少する。
これに該当するのは第62回大会(1983年度)・第67回大会(1988年度)・第87回大会(2008年度)。第62回・第67回の準決勝は駒沢陸上競技場、第87回の準決勝は埼玉スタジアム2002で開催された。第67回については、1989年1月7日に昭和天皇が崩御したため準決勝は1月9日に延期されたが、会場は変更せず駒沢陸上競技場で開催された。
なお国立競技場は、2019年の開催が決定したラグビーワールドカップ2019(工期延長に伴い使用断念)及び2020年の開催が決定した東京オリンピック・パラリンピックへ向けた全面建て替え工事の施工(2016年12月着工 - 2019年11月竣工)に伴い、2014年1月の第92回大会(2013年度)決勝をもって一旦会場から外れた。第93回大会(2014年度)から第99回大会(2020年度)については、開幕戦を駒沢陸上競技場で、準決勝・決勝を埼玉スタジアム2002で開催した。
[匿名さん]
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◾️ 協賛
テレビ中継のオープニング・エンディングでのスポンサー紹介では、各社のコーポレートメッセージ・キャッチコピーが付け加えられる形での紹介方法である(年度によっては付かないスポンサーもある)。なお、協賛字幕は地方大会決勝戦と、全国大会1回戦-準々決勝までは後述の映像をバックに通常の白文字、準決勝と決勝は薄い白地絨毯+各社カラー表示を行っている。
富士フイルムビジネスイノベーション(旧・富士ゼロックス、1970年度から参加)
明治(2011年度に明治製菓〔1989年度から参加。第87回大会までは「Meiji」名義、第88・89回大会は「meiji明治製菓」名義〕から継承して参加)
帝人(1991年度から参加)
トヨタ自動車(2010年度から参加)
日本コープ共済生活協同組合連合会(CO-OP共済、2021年度から参加)
◾️パートナー
第100回大会(2021年度)から加わったカテゴリーで、サプライヤー等として参加する。
ミカサ
ミカサのALMUNDOシリーズ・FT550B-BLYが第100回大会公式試合球として使用される。
イミオ
sfidaブランドがオフィシャルウェアサプライヤーとして参加する。
リクルート(SUUMO)
KDDI(au)
なお、第67回大会の準決勝の全てのスポンサーCMおよび決勝の一部のスポンサーCMについては、昭和天皇の服喪期間中のため、環境庁(当時)の啓発CMに差し替えられた。
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◾️過去の協賛社
三洋電機(~1974年度)
東京海上(~1975年度)
大正製薬(1975~1978年度)
ブリヂストン(1970~1985年度)
日立製作所(1977~1989年度)
日産自動車(1981~1990年度)
電気化学工業(DENKA)(1989~1991年度)
ローソン(1995年度)
ナイキ(1996~2004年度)
三井ホーム(1991~2009年度)
Coca-Cola(1979~1980年度、1992~2014年度)
プーマ(プーマジャパン)(2005~2019年度)
アットホーム(2016~2019年度)
◾️過去のPT扱い
アクサダイレクト(2015年度、2020年度)
au(2015年度)
興和(2020年度)
PlayStation(2020年度)
◾️協力
KLMオランダ航空(~1985年度)
◾️配信協力
ソフトバンク(2019年度)
◾️ 全国大会の組み合わせ抽選の手順(現在)
基本的に予備抽選を経て本抽選となる。抽選会は2003年(第82回大会実施分)から、東京都港区の日本テレビ本社日テレホールで行われている。2002年には六本木のディスコ「ヴェルファーレ」で、またそれ以前は東京都立日比谷高等学校で行われた。2020年(第99回)~2022年(第101回)は新型コロナウイルス感染症の影響を考慮してオンライン形式で実施された。
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◆予備抽選
事前に全国高体連サッカー専門部の代表による予備抽選を行い、その番号が小さい順に本抽選を行なう。
◆本抽選
トーナメント表の番号(1番から48番)に各校が振り分けられる。原則として、初戦で同じ地区、ないしはそれに準じる近隣地区の学校同士が対戦しないように、1回戦は「東西対抗戦」形式となっている(福井、岐阜、愛知までが東ブロック。京都、滋賀、三重から西ブロックに分けられている)。抽選の際、東ブロックは奇数の番号札、西ブロックは偶数の番号札を引。ただし、事前の制約があるチームから抽選する。
◆シード権
シード権は、前年度の成績でベスト4以上だった都道府県に割り当てられる。出場校が異なっていてもシード権は引き継がれる。前年度優勝の都道府県のチームは1番、準優勝の都道府県のチームは48番、3位の2校は24番と25番(この2つの番号は、前年度大会の準決勝で対戦した都道府県が、決勝まで対戦しないように分けられる)にまず入る。この4校は抽選する必要がない。この際に、西ブロックのチームが1番か25番に、あるいは東ブロックのチームが24番か48番に入った場合は、東ブロックの他のチームが偶数の番号札(2番か26番)、西ブロックの他のチームが奇数の番号札(23番か47番)を引くことになる。シード校は、全チーム2回戦が初戦になる。他には、シード校の初戦の対戦相手やそれ以外のチームでも8校(トーナメント番号11番から14番、35番から38番を引いたチーム)も2回戦からとなる。
[匿名さん]
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◆東京都A・B代表の抽選
東京都にはA,B2つの代表枠があるが、都予選のA,B各ブロックの代表がそのまま東京都A,東京都Bとして決まるのではない。東京都の代表校2校が予備抽選順に抽選を行ない、東京都A代表は開催地権、東京都B代表は開幕戦の権利が与えられる。
◆開催地権の抽選
開催地である東京都A、神奈川県、埼玉県、千葉県の4校。これらのチームは、開催地区が重ならないように準決勝まで対戦しないように分けられる。まず、トーナメント表のAからDの4つのゾーンの中からどこに入るか、ゾーン抽選をする(Aゾーンが1番から12番、Bゾーンが13番から24番、Cゾーンが25番から36番、Dゾーンが37番から48番)。その後に、決まったゾーンの中のどこに入るかを決める本抽選をする。ただし、半分は西ブロックに割り当てる番号なので、各ゾーンの東ブロックの5~6枚の抽選札から選択する[注釈 86]。4校の抽選が終了すると、東京都Bのチームの抽選をする。東京は2チームが出場するので、この2校が決勝まで対戦しないよう、既に決まっている東京都Aのチームと反対側の山から2回戦を除いた1回戦の抽選札から抽選を行い、その試合が開幕戦となる。
◆東海地区の抽選
東海地区は静岡県、岐阜県、愛知県、三重県の4校だが、三重県は西ブロック、他3県は東ブロックのため、初戦で対戦しないように分けられる。まず三重県のチームが抽選する。このとき、すでにシード校の中に東の東海地区のチームがある場合は、そのチームと初戦で対戦することになる番号札を事前に抜き取ってから抽選する。
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また三重県のチームが抽選した時点で初戦の対戦相手が決まらなかった場合は、そのチームと初戦で対戦することになる番号札を一時的に抜き取ってから、残り3県のチームが抽選をする。抜き取った番号札がある場合、この抽選が終わった後に戻される。
これですべての制約のある抽選が終わる。後は残りの高校が1校ずつくじを引いていき、すべての組み合わせが決定する。これらすべての抽選は制約のあるチーム、ないチームすべて範囲内で予備抽選の番号の小さい順に行なわれる。組み合わせ決定後に開幕戦のカードを決める抽選をして(開幕戦の項を参照)、さらに選手宣誓の抽選も行なう。選手宣誓は、開幕戦を戦う2チーム以外の46チームの中から選ばれる。
◆その他、備考
混同しやすい6番と9番の番号札に関しては、アラビア数字(算用数字)に下線が引かれている。
2020年~2022年のオンライン抽選会では、平仮名に番号がランダムに割り当てられてその内の一文字を各チームのキャプテンが選択するという方法で抽選が行われた。
もし、抽選会までに代表校が決まらなかった場合は、抽選日には都道府県代表の番号だけ決めておき、代表校が決まるとその番号に入る。これまでに代表校が決まらない事例としては、災害により地区予選の開催が遅れることや、地区予選開催時期に、U-18など年齢制限のある日本代表に招集される選手がいる、またはその可能性がある場合、そのチームの主力選手の欠場による戦力的な不利をなくすためなどがあった。なお、第69回大会で採られた措置(レギュレーションの項を参照)もあった。
[匿名さん]
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◆主催者の不手際
第80回大会(2001年度)で起きた。予備抽選の後、主催者が14番目の長野県代表の松商学園高校を富山県代表(この大会の富山県代表はシード校だったため、予備抽選はあまり意味がなかったための不注意と思われる)と記してしまい、14番目以降がすべて抽選順が1つずつ間違ったまま、あと2校というところまで気付かれなかった。このため、14番目以降の抽選がすべてやり直された。このため、対戦相手も大きく変わってしまった。なかでもシード校は、前回準優勝の滋賀県代表の草津東高校は群馬県代表の前橋育英高校、前回3位の青森県代表の青森山田高校は鹿児島実業高校との強豪との初戦に変わってしまい、共に初戦で敗退している。ちなみに間違えられた松商学園高校の初戦は、前回優勝校の長崎県代表の国見高校だった。
◾️ その他特記事項
草創期に7連覇した御影師範をはじめ、戦前まで参加していた師範学校は、現在の学制では大学に相当する。また、実際に関西大学や関西学院高等部、神戸高商などの現在の大学そのものも参加していた。
学校の改組(合併など)が行われ新設校扱いになると、前身校時代からの出場回数がリセットされる(第88回大会出場校では東京A代表東久留米総合、兵庫代表神戸科学技術[注釈 91]、大分代表中津工・中津東)。一方で北海道大谷室蘭は2012年に室蘭大谷から校名を変更後、2013年に登別大谷(第72回大会出場)を統合したが、旧室蘭大谷が存続校とされたため、2014年度の第93回大会では旧室蘭大谷の出場回数のみを引き継ぎ4年ぶり30回目の出場として扱われた。
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第93回東京B代表の三鷹(同大会で2回目の出場)は、1・2年生(相当)が後身である三鷹中等教育学校の生徒であったが、新旧両校の合同チームという形態は取らなかった。なお、高校野球は基本的に前身校時代からの出場回数を引き継ぎ、高校ラグビーは学校によって対応が異なる。
開会式では西武台千葉中学校・高等学校吹奏楽部が、入場行進前のパフォーマンスや入場行進・式典の演奏を担当している(担当開始時期不詳。第98回大会を最後に中断)。
開会式の入場行進は、通常、マラソンゲートからトラックに入りメインスタンド前を通って(その際、選手達は、メインスタンドの観客に向かって手を振ったり地元の名産品を掲げるなど、挨拶を兼ねたパフォーマンスを行うことが多い)バックスタンド前で一旦整列した後、一斉にメインスタンド前まで行進して式典に移行するが、雨天の場合はメインスタンド前を通って1コーナーゲートへ退場する(その後キャプテンがメインスタンドに集まり式典が行われる)。選手宣誓後は筒状の中にテープが入った機械式クラッカー(キャノン砲)が発射されるが、これは雨天でも実施される。
2011年(2010年度)より全日本バレーボール高等学校選手権大会(通称「春の高校バレー」)が高校サッカーとほぼ重複する日程で開催する事になり、競合を避ける観点からコカ・コーラボトラーズは前身大会・全国高等学校バレーボール選抜優勝大会時代から続けた協賛杯の「コカ・コーラ杯」の贈呈を中止(協賛杯は通販・ジャパネットたかた提供に変更)したが、引き続きコカ・コーラ、アクエリアスを公式飲料として提供するなど大会協賛は第65回(2013年)まで継続していた(現在、公式飲料は大塚製薬のポカリスエットに変更)。
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◾️参考文献
全国高等学校体育連盟サッカー部 編『高校サッカー60年史』講談社、1983年。ISBN 4062000598。NDLJP:12172806。
全国高等学校体育連盟サッカー部 編『高校サッカー90年史』講談社、2012年。ISBN 978-4-06-217780-1。
[匿名さん]
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🔳歴史
1947年:栃木蹴球団創設。※栃木県蹴球協会、初代会長の北山寛をはじめ協会理事らにより栃木県最初のクラブチームとして創設された。
1952年:栃木サッカー倶楽部に改称。
1953年:栃木教員サッカークラブに改称。
1980年:国民体育大会で教員の部が廃止。
1994年:アマチュアのままでクラブチーム化、栃木サッカークラブに改称。
1999年:関東サッカーリーグに昇格し、同年優勝。全国地域サッカーリーグ決勝大会で準優勝。
🔳2000年 - 2008年(JFL)
2000年:日本フットボールリーグ(JFL)へ昇格。
2003年:高橋高が監督に就任。
2005年3月13日:Jリーグ加盟を表明。
2006年
6月15日:運営会社となる株式会社栃木サッカークラブを設立。
7月:Jリーグ準加盟を申請。
8月15日:Jリーグの理事会で運営会社の経営体制(資金計画)等が不十分として継続審議。
10月8日、第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会3回戦でJ2東京ヴェルディに勝利。なお、この試合ではマスコミ各社に「教員集団ヴェルディ倒す」や「胸張れ教員軍団」などと報道された。
2007年
2月20日:ガイナーレ鳥取と共にJリーグ準加盟が承認。
6月19日:成績不振(前期第16節終了時点で7位)を理由に高橋高が監督を辞任。
7月:柱谷幸一が監督に就任。
12月:これまでのプロ・アマ混合のチームからオールプロのチームとするため、アマチュア契約選手のほとんどを放出。高安亮介を除く全員とプロ契約を結んだが、その他のアマチュア選手は全員退団した。
[匿名さん]
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2008年
新加入19名、残留8名、レンタル1名の計28名でスタート。
11月16日:アルテ高崎戦に勝利してJリーグ加盟条件となるJFL4位以内が確定。
12月1日:Jリーグ臨時理事会で、2009年度からのJリーグ加盟が承認。
シーズン終了後、柱谷が監督を退任。
[匿名さん]
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横浜フリューゲルス(よこはまフリューゲルス、Yokohama Flügels)は、かつて存在した日本のプロサッカークラブ。1993年から1998年まで日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟していた。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つであった。
【横浜フリューゲルス】
🔳原語表記
全日空佐藤工業サッカークラブ
🔳呼称
横浜フリューゲルス
🔳愛称
フリエ
🔳クラブカラー
白、 青
🔳創設年
1964年
🔳解散年
1998年
🔳所属リーグ
Jリーグ
🔳ホームタウン
神奈川県横浜市
1992年 - 1995年は「特別活動地域」として長崎県・熊本県・鹿児島県も指定
🔳ホームスタジアム
三ツ沢公園球技場
横浜国際総合競技場(1998年のみ併用)
🔳収容人数
15,046(三ツ沢球)、70,000(横浜国際)
🔳運営法人
全日空スポーツ株式会社
[匿名さん]
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🔳歴史・概要
前身は横浜市にあった中区スポーツ少年団(後にFCゴールを経て横浜サッカークラブと改称)。その後、全日本空輸(ANA)が援助を行い、横浜トライスターサッカークラブ、1984年にチームの運営会社「全日空スポーツ株式会社」を設立後は全日空横浜サッカークラブとなった。「トライスター」とは当時のANAの主力機、ロッキードL-1011の愛称であり、ユニフォームにも同様のロゴが使用されていた。
🔳Jリーグ加盟
1991年にJリーグに加盟。Jリーグ開幕時の加盟クラブのひとつ。 ホームタウンは当初東京都町田市とする計画で、町田青年会議所が中心の「町田にプロサッカークラブを誘致する会」が設立され誘致活動を行っていたが、ホームスタジアムとなる予定だった町田市立陸上競技場の整備問題などを解決できず断念。結局ホームタウンは神奈川県横浜市、ホームスタジアムは三ツ沢公園球技場(後に横浜国際総合競技場も追加)となった。
練習会場は当初、同市神奈川区にある全日空菅田総合グラウンドを使用していたが、1994年からは戸塚区保土ヶ谷大洋球場(大洋ホエールズの練習場)跡に建設されたフリューゲルス・東戸塚トレーニングセンターを使用した。チームの合併後はF・マリノスが練習場として使用したが、横浜みなとみらい21のマリノスタウンへの移転後は横浜FCが使用するようになった。
[匿名さん]
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「フリューゲル(Flügel)」はドイツ語で「翼」の意。なお、 /l/ は有声音なので、英語で発音するなら語尾の s は、本来的には /s/ ではなく /z/ となる。
スタート当初は全日空(ANA)のAと、Jリーグ参戦にあたり共同出資した佐藤工業のSを取って「(横浜)AS(エイ・エス)フリューゲルス」と名乗っていた時期もあった。ちなみに読売新聞とフジテレビ「プロ野球ニュース」では1992年と1993年はチーム名表記を「AS(フリューゲルス)」、スポーツ報知と日本テレビも「AS横浜フリューゲルス」と紹介していたが、1994年から「横浜F(横浜フリューゲルス)」に統一された。
1992年 - 1995年までは九州地方にJリーグのクラブがなかったこともあり、「特別活動地域」として長崎県、熊本県、鹿児島県の3県で活動していたが、アビスパ福岡がJリーグに加盟した1996年以降は解消した。
🔳1993年 - 1998年
・1993年
Jリーグ発足を前にエドゥー、フェルナンド・ダニエル・モネール、アウドロらを獲得。開幕戦は清水エスパルスに3-2で競り勝つスタートを切った。チームは1st、2ndステージとも7位に終わった。
2ndステージでの途中でJリーグの優勝が絶望となったため、加茂監督は天皇杯に目標を切り換えことることとし、思惑通り快進撃を続けることが出来た(1回戦:田辺製薬、2回戦:浦和レッズ、準々決勝:ヴェルディ川崎、準決勝:サンフレッチェ広島)。決勝では、1stステージの王者アントラーズに終了間際に2-2の同点とされ延長戦となるも、延長戦で4ゴールを決め6-2で勝利。Jリーグ開幕後初の天皇杯で優勝した。
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・1994年
開幕前のゼロックス・スーパーカップ(Jリーグの年間優勝チームと天皇杯優勝チームが対戦)で、ヴェルディ川崎と対戦。この試合では惜しくも1-2で敗れるも昨年から磨き上げてきたゾーンプレスが機能し、自信を深めて開幕を迎えることとなった。その勢いそのままに1stステージの第4節から第11節にかけ8連勝。一時は2位になるなど優勝も狙える状況だったが、終盤に山口、前園の怪我による戦線離脱が響き最終的に5位となった。さらに、攻撃の要として活躍していたアマリージャが1stステージ限りで退団・引退するとチームは低迷。2ndステージは8位に終わった。 この年限りで、エドゥー、フェルナンド・ダニエル・モネール、バウベル・ダ・シルバ・コスタらもチームを去っている。
・1995年
加茂が日本代表の監督に就任するため退任、ヘッドコーチであった木村文治が監督に就任した。現役ブラジル代表を含むブラジルトリオ(ジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイール)の加入が話題を呼んだが、1stステージでは14チーム中13位に終わる。木村は1stステージ第14節で監督を辞任、後任のアントニオ・カルロス・シルバもチームを上位に押し上げることが出来なかった。 大量失点しまうことが多く、両ステージを合わせた失点数がリーグワーストであった。 しかし、シルバの若手起用の下、楢﨑正剛、吉田孝行、波戸康広といったこの年入団した選手が台頭した。
[匿名さん]
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・1996年
「再建屋」と呼ばれ、南米では高い評価を得ているブラジル人のオタシリオが監督に就任。オタシリオは昨年までの4-4-2システムから3-5-2に変更。前年度チームに加入したブラジルトリオがチームにフィットし、三浦淳、前園、山口素などの活躍もあり、開幕8連勝(うち開幕6試合無失点記録を樹立)するなど、リーグ前半を首位で折り返した(もし前年度までの2ステージ制ならば1stステージ優勝であった)。しかし、Jリーグカップとアトランタ五輪終了後、約3か月振りに再開した後半戦では連敗スタートするなど、勝ち点を伸ばしきれず、優勝したアントラーズ、2位のグランパスと勝利数は21で並ぶものの、勝ち点で及ばず最終順位は3位となった。
・1997年
エバイール、前園が退団した一方、バウベルが1994年以来の再入団。1stステージでは最終節までアントラーズと優勝争いを繰り広げ、惜しくも優勝を逃した(勝ち点差2で2位)。 しかし、1stステージ限りでチームの躍進を支えたジーニョが退団すると、得点力が低下し、2ndステージは11位と低迷した。 この年限りで、オタシリオ監督が退任。
・1998年
カルロス・レシャックが監督に就任。パウロ・フットレ、イゴール・レディアコフらを獲得、3-4-3スタイルを取ったチームは開幕戦の横浜ダービーでマリノスを延長の末2-1で下すなど好スタートを切ったが、攻撃的スタイルの弊害から翌節から5連敗。その後7連勝するなど、1stステージは10勝7敗の成績を残した。しかし、2ndステージに入ると守備が破綻するなど低迷し、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。後任監督にはコーチだったゲルト・エンゲルスが昇格した。
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🔳チーム合併と天皇杯優勝
1998年10月29日、記者発表前にマスコミから出し抜かれる形でマリノスとフリューゲルスの合併が発覚。出資会社の一つであった佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明し、もう一つの出資会社のANAも単独でクラブを支える余力がなかったと報道されている。マリノスの親会社日産自動車との協議の結果、両クラブは合併の上、実質的には主導権を持つマリノスにフリューゲルスが吸収されることになった。そして、その日に開かれたJリーグの臨時理事会で、両クラブの合併が正式に承認された。
合併発表後で初の試合となった10月31日のセレッソ戦で試合後にサポーター各団体が合同でスタジアム前の広場に座り込み、合併撤回を求めてクラブフロントとの話し合いを要求した。全選手も街頭での活動に加わった合併反対署名運動等は全国で起こり、62万を超える署名が集まった。11月7日のホーム最終戦(三ツ沢)では試合後のセレモニーでエンゲルス監督がクラブの存続と救済を訴えるアピールを日本語で行い、フリューゲルスファンとしても知られていた川平慈英が存続支援を明言するなど、マスメディアでも連日社会問題として取り上げられた。
選手やサポーターは合併について全日空側とミーティングを行い、合併撤回を訴えたが、「決まったこと」として話し合いは平行線を辿る。そのような中で全日空側は「12月4日までは調印しない。調印するときは事前にサポーターや選手に伝える」と回答していたが、その約束は守られず12月2日、抜き打ちで両クラブの合併が調印された。
[匿名さん]
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そんな合併劇の中、第78回天皇杯が開幕し、フリューゲルスは調印式後の12月13日に初戦を迎えた。同大会においては出場機会に恵まれず翌年の所属先が決まっていなかった選手たちを出場させて他クラブへのアピールの場にしようとも考えられていたが、当時ベンチ入りの機会すら少なかった桜井孝司らの「強いフリューゲルスを見せよう」という一言でクラブがさらに一丸となった。準々決勝ジュビロ、準決勝アントラーズ、1999年1月1日決勝エスパルスを破って優勝した。
天皇杯優勝クラブに出場権が与えられるゼロックス杯とアジアカップウィナーズカップには、天皇杯準優勝のエスパルスが出場した。
🔳合併発表前後の試合結果
開催年 月日 時期 会場 勝敗 得点 相手 備考
1998 10月24日 Jリーグ
2ndステージ 第13節 鹿児島県立鴨池陸上競技場 ● 2 - 3 京都パープルサンガ 合併発表直前
準本拠と位置付けていた鹿児島での最終戦
10月31日 第14節 横浜国際総合競技場 ○ 7 - 0 セレッソ大阪 合併発表直後 球場最多得点記録
11月3日 第15節 広島ビッグアーチ ○ 2 - 1 サンフレッチェ広島F.C
11月7日 第16節 三ツ沢公園球技場 ○ 2 - 1 アビスパ福岡 本拠地最後の試合
11月14日 第17節 札幌厚別公園競技場 ○ 4 - 1 コンサドーレ札幌 リーグ戦最後の試合
12月13日 天皇杯 3回戦 東平尾公園博多の森球技場 ○ 4 - 2 大塚製薬サッカー部
12月20日 4回戦 鳥取市営サッカー場 ○ 3 - 0 ヴァンフォーレ甲府
12月23日 準々決勝 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 ○ 2 - 1 ジュビロ磐田
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12月27日 準決勝 長居陸上競技場 ○ 1 - 0 鹿島アントラーズ
1999 1月1日 決勝 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ○ 2 - 1 清水エスパルス クラブ最後の試合
🔳各クラブへの影響
1999年2月1日、マリノスと正式合併。マリノスはチーム名をフリューゲルス由来の「F」を加えた「F・マリノス」へと改称した。練習場はフリューゲルスの東戸塚トレーニングセンターを引き継いで「戸塚トレーニングセンター」とし、2007年のマリノスタウン完成まで使用した。
一方、フリューゲルス存続を願うサポーターの一部はそれが困難になった現実に対応すべく、代替案として新クラブ結成に動き、1999年1月、「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」を運営会社として横浜FCが設立され、日本フットボールリーグ(JFL)への参加が特例として認められた。横浜FCは1999年に設立されていた「フリューゲルス再建基金」からも2,500万円の融資を受けてチームを運営し、JFLで2年連続優勝した2000年のシーズン終了後には翌2001年からのJリーグ(J2)参加が認められた。以後、横浜FCはフリューゲルスとは異なる、新しいクラブとしての歴史を重ねて、クラブの歴代成績にもフリューゲルスの記録は加算されていない。
また、「フリューゲルス再建基金」は2009年8月29日に拠出者総会を行い、2,000万円分を横浜FCの観戦チケットとして返済を受け、残る3,800万円分は横浜市が進めていたニッパツ三ツ沢球技場の観客席の増設(約2,200席分)へ寄付する事になり、それに合わせて同球技場の一般客メインゲート脇の柱に再建基金についての銘板が設置された。
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「フリューゲルス」の名称を含む諸権利は現在も横浜マリノス株式会社が保有している。2004年2月、マスコットの「とび丸」をはじめとしたフリューゲルス関連グッズが日本サッカー協会ビル(JFAハウス)内の「日本サッカーミュージアム」に寄贈された。
2023年のJリーグ開幕戦では実況の下田恒幸がDAZNの実況において、「無念にも消えたFの想いも背負う横浜・Fマリノス」というフリューゲルスに関する言及があった。
🔳各スポンサーの対応
フリューゲルス(全日空スポーツ)最大の出資者で、合併を主導したANAは、合併後のF・マリノスも運営した「横浜マリノス株式会社」に30%資本参加したが、主要株主は引き続き、70%の株式を所有する大手自動車メーカーの日産自動車だった上、ANAは2002年2月には全株式を日産に売却した。2011年にはユニフォームでの社名掲示位置が背中から袖に変更、さらに2013年を以てユニフォームスポンサーから撤退した。国際線航空便のエコノミークラス割引運賃制度として使われていた「とび丸航空券」は1999年2月から「GET」に改変され、現在は「エコ割」となっている。
フリューゲルスの共同出資者であった佐藤工業は、2002年3月に会社更生法の適用を申請し、2009年9月にその手続きが完了した。フリューゲルス解散後もサッカーに対する同社の積極的な姿勢は残り、2011年1月21日には日本サッカー協会と協定書を交わし、同協会が進める「JFAこころのプロジェクト」に協賛企業としての支援を開始した。同社の本社がある富山県では2007年11月に設立されたカターレが2009年からJ2に参入し、佐藤工業は出資はしなかったものの、カターレの主催試合ではベンチ広告のスポンサーとなっている。
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🔳所属選手の動向
チームの合併発表時にフリューゲルスへ在籍していた23選手は、関係者の尽力や天皇杯の活躍もあって、翌年も大久保貴広(Honda FC、JFL)以外は全員Jリーグクラブ(J2を含む)との契約を果たした。フリューゲルスを吸収したF・マリノスには永井秀樹・佐藤一樹・三浦淳宏・波戸康広・吉田孝行など、天皇杯決勝での先発4人を含む5選手が加入。合併2年目の2000年には三浦らの活躍で第1ステージ優勝も果たした。波戸は2004年シーズン途中に移籍した後、2010年にF・マリノスへ復帰し、2011年限りで現役を退いた。F・マリノスにスライドした旧フリューゲルスユースの選手で、坂田大輔と田中隼磨はその後のF・マリノスで中心選手となり、共に日本代表まで選出された。
生え抜きの中心選手として現場・サポーター不在の合併を厳しく批判した山口素弘と、日本代表のGKをめぐってマリノスの川口能活と激しい競争をしていた楢﨑正剛はマリノスには加わらず、1998 FIFAワールドカップ日本代表にも選ばれていたこの2人はグランパスへ移った。楢﨑はスタメン表の前所属クラブ欄からフリューゲルスの名前が消えることを嫌い、その後2018年に引退するまで移籍することはなかった。
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同大会のブラジル代表では大会初ゴールを挙げるなどで準優勝となったセザール・サンパイオはブラジルに帰国してパルメイラス復帰、選手会長として山口と共に合併反対の急先鋒だった前田浩二はジュビロ磐田、原田武男はセレッソ大阪、天皇杯決勝は出場停止だった薩川了洋は柏レイソル、天皇杯決勝でゴールを挙げた久保山由清は決勝の相手だった清水エスパルス、ユース出身の井上雄幾は天皇杯優勝の実績で新監督に就任したエンゲルスとともにジェフユナイテッド市原へ移籍と、ベテラン・中堅の主力選手はF・マリノス以外へと分散した。また、フリューゲルスのフロントから京都パープルサンガの統括部長に招かれた木村文治はフリューゲルスの若手6選手を京都に入団させた。
合併発表後の新チーム移籍が比較的順調に進んだ事もあり、急ごしらえで発足した横浜FCには直接フリューゲルスから移籍した選手はいなかったが、1993年のJリーグ開幕時にフリューゲルスで活躍していた高田昌明や渡邉一平などが加入した。その後も佐藤一樹などの元フリューゲルス選手が入団する中で、2005年8月にはアルビレックス新潟に在籍していた山口が加入し、山口は2006年に主将として横浜FCをJ1昇格へ導いた(その後2007年限りで引退)。なお、山口はF・マリノス使用時には近づかなかった旧東戸塚(LEOC)トレーニングセンターを横浜FCが引き継いだ際にはフリューゲルス時代と同じ場所に自分のロッカーを置き、自らの引退試合でも「フリューゲルス」の名前を使おうとしたが、上記の通りに名称の権利を持つF・マリノス(横浜マリノス株式会社)からの許可が下りず、山口は引退試合の開催自体を取りやめた。なお、山口は2012年から2014年まで横浜FCの監督を務めた。
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なお、2024年1月9日に現役引退を発表した遠藤保仁を最後に、フリューゲルスのトップチーム在籍経験のある現役選手はいなくなった。
🔳リーグ全体への影響
1995年を頂点にした観客数の急減、Jリーグ各クラブの赤字額の増大に起因する「Jリーグの危機」は、1997年のJリーグ準会員・鳥栖フューチャーズの存続問題に続くこのマリノス・フリューゲルス合併で誰の目にも明白となった。日本代表の周囲はフランスW杯出場で盛り上がっていたが、Jリーグはヴェルディが読売新聞社撤退による大幅な経営縮小やベルマーレもフジタ撤退による経営危機が重なり、また前年のアジア通貨危機に端を発した不況の影響に苦しんでいた。
Jリーグチェアマンとして事態の収拾に当たった川淵三郎は、「自分に話が来た時は両チームの合併は決定事項で覆せなかった」という言い訳する一方、Jリーグの責任者として合併を認めた事はサポーター達や前田選手会長などから当然のごとく「サポーター無視」として多くの批判を浴び、後に「これが一番辛かった」と述懐した。この事態は親会社に依存した各クラブの経営体質に問題があると判断した川淵は経営監視体制の強化に乗り出し、各クラブの財務状況の公開を徐々に進めた。また、翌年から導入したJリーグ2部制では、より経営環境が厳しくなるJ2の各クラブに一層の地域密着を求めた。
なお、翌1999年よりJリーグが2部制に移行する関係で、1997年・1998年の成績を元に下位5クラブによるJ1参入決定戦(トーナメントによる入れ替え戦)が行われることになったが、フリューゲルスの消滅により入れ替え戦の参加が下位4クラブに減少し、トーナメントも一部変更となった。
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🔳特別活動地域
・特別活動地域の選定基準とその経緯
フリューゲルスが特別活動地域として使用したスタジアムの一つ・鹿児島県立鴨池陸上競技場
前述したように、フリューゲルスはJリーグ発足当初は九州地方をホームタウンとするJクラブがなかったこと、またANAがクラブのメインスポンサーとなっていることから、横浜市と沖縄県を含む九州各県のダブルホームタウンを実施する予定にし、ホームゲームの半数程度を九州で行う方針にしていた。これは「ANAが乗り入れている空港のある地域全てを本拠地にする」計画を持っていたことも絡んでいる。ところが、そうしてしまうと各県につき1試合ずつしか割り当てられず、興業的にも不利であることから一部フリューゲルスの主催ゲーム開催を拒絶した県もあったため、結局九州での準本拠地は長崎県、熊本県、鹿児島県の3県に絞った。
また、Jリーグではホームタウンを原則1チームにつき1市区町村となっている(現在は同一都道府県内の複数市区町村にまたぐ広域ホームタウンが認められている)とした関係もあり、正式なホームタウンは横浜市としながら、これら3県は「特別活動地域」というカテゴリーを設けてホームタウンとほぼ同じ権限を持ち、フリューゲルスの主催ゲーム(天皇杯は除く)を優先的に開催することができた。このため、Jリーグ発足最初の4年(1992-95)はフリューゲルス以外のチームがこの3県で主管試合をすることはなかった。
これに伴って、長崎、水前寺、鴨池の各競技場も照明設備の新設、スタンドの座席改築他のJリーグ開催基準を充足する工事が施された。
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Jリーグ発足時、同じ横浜にホームを置くマリノスと同日に主催試合を行う事が珍しく無かったが、Jリーグが同一会場での複数試合開催をピッチコンディションや観客の入れ替え等の点で認めていない為、マリノスが三ツ沢(球)、フリューゲルスが下記の九州3県か、東京・国立競技場などの他会場を使うケースがあった。
逆に福岡県ではフリューゲルスの主催試合は行われず、マリノスが1993年・1994年に各2試合ずつ東平尾公園博多の森陸上競技場で主催試合を行った。この他、同競技場ではヴェルディやレッズなども主催試合を開催し、ヴェルディは福岡ブルックス(現在のアビスパ)がJリーグ準会員となった1995年にも東平尾公園博多の森球技場で1試合を主催した。いずれの試合でもフリューゲルスはアウェーチームとして登場しなかった。
🔳特別活動地域のスタジアム
・長崎県立総合運動公園陸上競技場
・熊本市水前寺競技場
・鹿児島県立鴨池陸上競技場
🔳過酷な試合日程
上記の関係もあり、1カ月以上も三ツ沢(球)でのゲームが組まれず、事実上の長期ロードに出たことがあった。特に1993年の11月から12月にかけての試合に至っては三ツ沢(球)のフリューゲルス主催試合は1試合しか行われなかった。また7月から9月始めにかけても熊本と国立で1試合ずつ試合をしており、このステージのホームゲーム9試合で三ツ沢(球)で試合をしたのはわずか3分の1に当たる3試合だけだった。
[匿名さん]
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1994年、三ツ沢(球)の芝生の張替え工事を行った関係で第1ステージ(サントリーシリーズ)の後半・5月14日以後の主催試合も鹿児島、長崎、国立、富山と転戦し(熊本・水前寺は当時改修工事中だったため第1ステージは行わず)、ワールドカップを挟んで8月20日に行ったグランパスとの対戦でようやく3カ月ぶり(改修前最後の試合は5月7日のガンバ大阪戦)に三ツ沢(球)に帰ってきたという事例もある。
このため九州での試合では横浜Fのモチベーションやパフォーマンスは低くなってしまい、その結果、フリューゲルスの九州でのホームゲームの結果はリーグ戦・カップ戦合計で5勝22敗、しかも1994年7月23日のヤマザキナビスコカップ1回戦(対セレッソ、鹿児島)に1-0で勝利したのを最後に14連敗という成績であった。またスタジアム別では鹿児島で3勝7敗、長崎で2勝8敗、熊本は7戦全敗であった。
公式なホームタウンではないが、佐藤工業の創業の地が富山県にあるため、1994年から数年間は富山県総合運動公園陸上競技場でも毎年1試合程度の主催試合を開催していた。
🔳特別活動地域の縮小
1996年、アビスパがJリーグに参入したのに伴って横浜Fの特別活動地域のカテゴリーは消滅し、各クラブが平等に主催できるようになったが、サンガ等他クラブの主催試合も行われていた鹿児島県については、その後もフリューゲルスの主催ゲームを年1-2試合程度開催した。
[匿名さん]
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🔳 タイトル・表彰
・国内大会
天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回
1993年、1998年
・国際大会
アジアカップウィナーズカップ:1回
1995
アジアスーパーカップ:1回
1995
・個人別
Jリーグ
ベストイレブン
1996年 - 楢﨑正剛、前園真聖、山口素弘
1997年 - 山口素弘
1998年 - 楢﨑正剛
🔳 チームのマスコットキャラクター
✴︎とび丸
・当時、ホームゲーム等で試合を盛り上げていたフリューゲルスのマスコットキャラクター。
・ムササビがモチーフになっており、ゴーグルとマントを使って空を飛ぶ事が出来る。好物は霞。
・ANAの格安航空券「とび丸航空券」でも使用され、商標権はANAが所持していた。
・チーム消滅後、2004年2月に他のフリューゲルス関連グッズと共に「日本サッカーミュージアム」に寄贈された。
🔳 オフィシャルテーマソング
THE ALFEE 「Victory」(1993年4月28日リリース)
作詞・作曲:高見沢俊彦 編曲:THE ALFEE
🔳応援ソング
シャンティ・スナイダー 「Flying So High」1998年に発表された。
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🔳主な記録
・1試合最多入場者
55014人(1994年6月8日、vsヴェルディ)
・1試合最少入場者
3762人(1998年10月17日、vsヴィッセル)
・1試合最多得点
7-0(1998年10月31日、vsセレッソ)
・1試合最多失点
0-6(1995年8月12日、vsレッズ)
3-6(1995年10月18日、vsジェフ)
3-6(1998年8月8日、vsガンバ)
・ハットトリック
エバイール(1996年10月30日、vsアビスパ)
山口素弘(1997年8月16日、vsアントラーズ)
吉田孝行(1998年10月31日、vsセレッソ)
・ベストイレブン
楢﨑正剛(GK)1996年、1998年
前園真聖(MF)1996年
山口素弘(MF)1996年、1997年
🔳 チーム名変遷
1964年- 横浜中区スポーツ少年団(後に横浜サッカークラブに変更)
1979年- 横浜トライスターサッカークラブ
1984年- 全日空横浜サッカークラブ
1988年- 全日空サッカークラブ
1992年- 全日空佐藤工業サッカークラブ(呼称:横浜フリューゲルス)
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🔳 余談
・ペナルティのヒデが市立船橋高校・専修大学時代に、それぞれ獲得の申し入れを受けたことで知られる(厳密には、市船時代は前身の全日空横浜サッカー部が獲得を申し入れている)。
・高校時代の中田英寿をスカウトしたJリーグ10クラブの中の一つ。
・西紀寛は市立船橋高校時代の1998年、強化指定選手でサテライトの試合にも出場し、翌年からの入団も内定していたが、クラブが消滅したため、オファーのあったジュビロに入団した。
・フィクションの世界では「キャプテン翼」において、若島津健(後にグランパスに移籍)が高校卒業後に入団したクラブとなっており、加茂周、石末龍治、森敦彦が作中に登場している。
・フリューゲルス消滅時、日産栃木工場のアマチュアチームに「フリューゲルス」と名付ける案があった。
・全日空横浜SC・横浜フリューゲルスのOBによる事実上のセカンドチーム「東京フリエSC」(1993年結成)があった。1999年には佐川急便東京SC(1991年創部)とチームを統合して「佐川急便東京フリエ」を名乗った。のちに日本フットボールリーグに昇格(2001年)した、佐川急便東京サッカークラブの源流の一つである。
・チーム消滅後に名古屋グランパス時代に移籍した楢崎正剛は、「『前所属・横浜フリューゲルス』を消したくないので、できるならもう移籍したくない」という発言し、実際に2018年に引退するまで名古屋から移籍しなかった。また、2023年に遠藤保仁が引退し、フリューゲルス在籍経験のある選手が全員引退した事となった。
[匿名さん]
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佐川急便株式会社東京サッカークラブ(さがわきゅうびんかぶしきがいしゃとうきょうサッカークラブ)、通称佐川急便東京SC(さがわきゅうびんとうきょうSC)は、かつて日本の東京都江東区を本拠地として活動していた佐川急便東京支社による企業サッカークラブ。
【佐川急便東京SC】
🔳原語表記
佐川急便株式会社東京サッカークラブ
🔳クラブカラー
青
🔳創設年
1991年
🔳解散年
2006年
🔳ホームタウン
東京都
🔳ホームスタジアム
夢の島陸上競技場
🔳収容人数
5,000
🔳概要
このチームには2つのルーツがある。1つは1991年に創部された佐川急便東京支社のサッカー同好会。もう1つは1993年に全日空(横浜)サッカークラブや旧横浜フリューゲルスのOB選手らが結成した「東京フリエサッカークラブ」である。1999年に、当時東京都1部リーグで活動していた東京フリエを佐川急便サッカー部が合併してこの姿となった。ただし当時の佐川急便サッカー部は東京都4部リーグ所属であり、この時点でチームの実体はほぼ「東京フリエ」となった。そのため一時チーム名が「佐川急便東京フリエサッカークラブ」となっていた時期もあった。この経緯もあって全日空FCやフリューゲルスのOBを多数擁して戦っていた時期が長く、元Jリーガーやアマチュアの有力選手を抱え、JFL上位を争う強豪であった。
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佐川急便の社内運動会「佐川スポーツフェスティバル」の一環として行われる社内サッカー大会においては、同じJFL所属の佐川急便大阪SCと、ライバルとしてシーズンの合間となる5月上旬のゴールデンウィークに行われる事が多い決勝戦を戦うのが常であった。この対決の最終年であった2006年はPK戦の末、佐川東京が優勝している。
本拠地は江東区夢の島陸上競技場(5,000人収容)がメインだが、試合会場確保の難しい東京都内ということもあり、この他にホームゲームは西が丘サッカー場、駒沢陸上競技場、江戸川区陸上競技場、多摩市立陸上競技場、味の素スタジアム、アミノバイタルフィールドなど都内各地で開催されていた。
また、千葉県の鴨川市陸上競技場、神奈川県の大和市営大和スポーツセンター競技場、海老名運動公園陸上競技場、埼玉県の熊谷スポーツ文化公園陸上競技場など、東京から離れた会場をホームゲーム開催地とすることもあった。
練習は主に、江東区の新砂運動場で行われていた。
[匿名さん]
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🔳歴史
東京都社会人リーグでの活動を経て、2000年より関東サッカーリーグに昇格すると初年度で優勝、続いて同年度の全国社会人サッカー選手権大会でも優勝を果たす。そして全国地域リーグ決勝大会でも優勝し、2001年度よりJFLに昇格となった。JFL初年度は全国の佐川急便を代表するチームとしての位置づけから「佐川急便サッカークラブ」として参加したが、翌2002年に佐川急便大阪SCが昇格したために、チームを区別するため元の「佐川急便東京サッカークラブ」に戻した。
2001年は前期2位(天皇杯シード出場)、シーズン全体では4位につけた。12月9日に瑞穂陸上競技場で開催された天皇杯全日本サッカー選手権大会3回戦では、嘉悦秀明のハットトリックなどでJ1の名古屋グランパスエイトを4-0で撃破。当時史上最大のアップセットと呼ばれ話題を呼んだ。
2002年は、開幕こそつまづいたものの途中9連勝を飾るなど好調を維持し、Honda FC、大塚製薬と優勝を争い最終戦まで優勝の可能性を残したが2位に終わる。この年は山本正男が14得点でJFL得点王を獲得した。この年は天皇杯出場を逃している。
2003年のJFLではHonda FCや愛媛FCなどに2敗するなど上位陣に後れをとり、5位に終わった。東京都代表として出場した天皇杯では再び3回戦に駒を進めJ1のジュビロ磐田と対戦するも、0-2で敗れた。この年のオフには当時の監督が児童買春行為を働いたとして逮捕され、日本サッカー協会の指導者資格を無期限停止される(後に無期限資格停止処分は解除)というアクシデントがあった。
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2004年は大塚製薬、Honda FCなどに2敗、更に中位グループにも星を落とすなど調子が上がらず、7位と順位を下げた。しかし、この年Jリーグ加盟を目指していたザスパ草津、愛媛FCに対しては1勝1分けと相性が良かった。この年のJFL最終戦では対戦相手の試合出場辞退により不戦勝を経験している。東京都代表として出場した天皇杯では4回戦で前年に続きジュビロ磐田と対戦、先制を許したのち竹谷英之の2ゴールで一時逆転したものの、最終的には再逆転を許して敗退した。
2005年は前半戦に1点差での敗戦が続いて低迷、しかし天皇杯予選を迎える夏場から調子を上げ、Honda FCにアウェイで勝利するなど上位陣を連破、最終的には6位でシーズンを終えた。この年優勝・Jリーグ加盟を果たす愛媛FCに対しては2勝と強さをみせた。三たび東京都代表として出場した天皇杯では3回戦でJ2のコンサドーレ札幌と対戦、2-0と勝利した。続く4回戦ではJ1の川崎フロンターレと対戦、堀健人の先制ゴールで1-0とリードするも前半のうちに追いつかれ、終盤に大量失点を許して1-5と敗れた
2006年は開幕から連勝するものの、4月後半から5月にかけて調子を落とし連敗。しかし、Honda FCやYKK APなど上位陣との対戦を迎えた5月下旬以降は調子を取り戻した。この年、26得点でJFL得点王となる大久保哲哉を軸に、山本、堀、竹谷がそれぞれシーズン10得点以上を記録する攻撃力をみせ、リーグ最多得点・最少失点という強さで6月以降22戦無敗として優勝争いに加わるが、序盤の連敗が響いて優勝には届かず、再び2位でシーズンを終えた。天皇杯は、東京都予選となる東京都サッカートーナメント準決勝で駒澤大学サッカー部に敗れ、本戦出場は叶わなかった
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🔳タイトル
・リーグ戦
関東サッカーリーグ1部:1回
2000年
・カップ戦
全国社会人サッカー選手権大会:1回
2000年
・全国地域リーグ決勝大会:1回
2000年
🔳歴代監督
・其田秀太(2004年)
・田中信孝(2005-2006年)
🔳表彰
チーム
・関東サッカーリーグ
優勝(2000年)
・全国社会人サッカー選手権大会
優勝(2000年)
・全国地域サッカーリーグ決勝大会
優勝(2000年)
・日本フットボールリーグ
フェアプレー賞 (2002年、2003年、2005年)
🔳個人
日本フットボールリーグ
・得点王
2002年 - 山本正男(14得点)
2006年 - 大久保哲哉(26得点)
・ベストイレブン
2001年 - 熊谷雅彦
2002年 - 熊谷雅彦、山本正男
2006年 - 冨山卓也、山根伸泉、大久保哲哉
🔳関連項目
・日本フットボールリーグ
・SP京都FC
・佐川急便中国サッカー部
・DESEO東京(旧:佐川コンピューター・システムサッカー部、SGシステムサッカー部)
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2006年9月14日、佐川急便大阪SCとの合併、及び本拠地の滋賀県移転が発表された。2007年度からは佐川急便SCとして再出発をすることとなった。
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[選手権]帝京が15年ぶり35回目の全国へ!! 決勝で國學院久我山に劇的逆転勝利!!:東京A
11/16(土) 12:47 Yahoo!ニュース
第103回全国高校サッカー選手権・東京都Aブロック予選は16日に決勝を行った。
帝京高と國學院久我山高が激突した一戦は、前半18分に國學院久我山が先制。しかし、34分に帝京が追い付くと、後半39分にPKで勝ち越しゴールを記録し、そのまま逃げ切って2-1の勝利。15年ぶり35回目の全国行きを決めた。
[決勝]
帝京高 2-1 國學院久我山高
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