1000
2024/12/08 16:32
爆サイ.com 南東北版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
合計:
報告 閲覧数 1.6万 レス数 1000

#4012020/02/12 04:11
ホームスタジアムは同市北区都田町にあるホンダ都田サッカー場で、JFL以外のクラブも含め日本国内で数少ない「クラブ自身が所有する自前の」スタジアムである。

過去に2度Jリーグクラブ化の構想があったが、いずれも実現していない。1999年のJFL参入以来、優勝7回・2位4回の成績を残する。

チームのシンボルマークは、浜松の「H」とHondaの「H」が重なり合い、当時の浜松市鳥であるツバメと雄大な遠州灘の波を型どったデザイン。マスコットキャラクターはチームのシンボルマークでもあるツバメをモチーフとした「パッサーロ(Passaro)」。


■歴史

◇創設の経緯
ホンダの各事業所にはそれまでも同好の士を集めたサッカー部は活動していた。社員に共通の話題を提供し、社員の意識を強化を図り、士気を高めるという目的でいえば、埼玉製作所の野球部(現Honda硬式野球部)や、鈴鹿製作所の野球部(現Honda鈴鹿硬式野球部)が既に実績を挙げており、浜松製作所でも当初、野球部をという声も出たが、既に埼玉と鈴鹿に野球部があること、そして何よりも静岡という土壌を考え、サッカー部創設が決定した。まず監督・保崎昌訓、主将・望月修司の浜友会のメンバーを中心に、1971年春新入社の関東大学リーグ経験者を大量に加え、それまで浜友会が所属していた静岡県リーグ2部西部リーグからスタートを切った。翌1972年には、名相銀の中心選手だった桑原勝義が、日本サッカー協会の幹部・長沼健に口説かれ、銀行職を捨てて郷里のチームに加入。桑原は翌1973年にプレイングマネージャーとなり、桑原を中心にチームは強化された。

[匿名さん]

#4022020/02/12 04:12
■本田技研工業サッカー部 (1971年-2001年)
◇創設 - JSL時代
1971年に創部。1972年に静岡県リーグに加盟。1973年には東海社会人サッカーリーグ、1975年には日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。1981年には同1部に昇格し、以降1992年に終了するまで、トップカテゴリに居続けた。なお1989年に開催された第1回フットサル世界選手権(現:FIFAフットサルワールドカップ)に出場した日本代表は、ホンダサッカー部の選手で構成されていた。
90年代初頭、国内のトップカテゴリがJSLからJリーグへ移行する際、本拠地である浜松市内に第一種の競技場がなく、行政の協力も期待できなかったことから、誘致要請のあった埼玉県浦和市(現・さいたま市)に本拠地を移転し、本田技研工業狭山サッカー部と統合して浦和ホンダウィンズとしてJリーグ(オリジナル10)へ参加することが検討された。しかし、チーム関係者の間には「浜松を本拠にJリーグへ参戦したい」とする意向が根強く、結論が出ないまま91年にJリーグへの初年度参加見送りを発表した。当時は国内経済の悪化からホンダ本社はカーレースF1からの撤退を表明していたため、サッカー部のプロ化見送りに関しても、F1同様に「本業主義のため」という論理付けがされた。
鹿島アントラーズへ監督の宮本征勝(1990年にホンダサッカー部監督退任)、ヘッドコーチの関塚隆(1991年に現役引退→早稲田大学ア式蹴球部監督)、黒崎久志・長谷川祥之・本田泰人・内藤就行・入井和久・千葉修が移籍し、読売サッカークラブへ同ジュニアユース出身北澤豪や同クラブを前身としたヴェルディ川崎へは石川康などが移籍した

[匿名さん]

#4032020/02/12 04:13
■ジャパンフットボールリーグ時代

1992年からジャパンフットボールリーグ1部に参加した。しかし、先述の通り、レギュラーの大半を失ったチームは10チーム中9位に低迷し、翌1993年は同2部に降格したが、同年では2部優勝を果たす。翌1994年には、旧JFLが16チームによる1部制に再編され、それを機に現場サイドでJリーグ参戦へ向けた3年構想が始動した。これにより、前年にJリーグへ参戦したジュビロ磐田から戦力外通告を受けたバウテルや東川昌典らを補強し、翌1995年には柏レイソルから戦力外通告された呂比須ワグナー、大橋昭好らを補強した。
1996年には日本サッカー界に精通したエスピノーザをヘッドコーチとして招聘し、ヴィッセル神戸・鳥栖フューチャーズ・コンサドーレ札幌などのJリーグ参加構想チームと、東京ガスサッカー部を加えた熾烈な上位争いを制し、優勝を飾った。
これを受け、翌97年にはホンダ本社所有のスタジアム(Honda都田サッカー場)に50億円を投じ、改築することで懸案だったスタジアム問題を解決する見込みを立て、浜松F.CとしてJリーグ準会員となった。この時、ホンダ本社は浜松F.Cの株式約6割を引き受けて筆頭株主となった他、ダイドードリンコなどが大口スポンサーとして名を連ねた。
しかし当時は史上最悪の製造不況および通貨危機前夜の時期であったため、産業都市である地元・浜松市内では地元紙などの影響から本田技研工業サッカー部のJリーグ参戦に対し否定的な見方が支配的であった。故に浜松F.Cの経営陣は大きく動揺し、最終的に「時期が悪い」との判断に達したことから一連の構想を白紙撤回した。その後、ホンダ本社の方針もあり、プロ契約選手を減らし、選手全員がホンダの社員として社業にも従事する、いわゆる「完全なアマチュアチーム」へと、徐々に移行し始めた。

[匿名さん]

#4042020/02/12 04:14
■日本フットボールリーグ時代

1999年、旧JFLに所属するチームの多くは新たに創設されたJ2に参戦したが、プロ化を断念して「完全なアマチュアチーム」へ移行し始めてから間もないホンダサッカー部はJ2には参加せず、創設された日本フットボールリーグに所属した。1999年の第35回全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、2001年にJFLリーグで優勝した。同年、ホンダ本社は、2002年から選手とのプロ契約を行なわず、2013年まで社員選手のみでチームを存続させることとなった。


■本田技研工業フットボールクラブ (2002年-)

2002年、「本田技研工業サッカー部」から「本田技研工業フットボールクラブ」に改称(呼称は「Honda FC」)。この年から12年間、選手は社員のみであること、毎年の補強が高校卒業(ユースからの昇格も含む)か大学卒業の新卒選手のみとなるが、現役でない新卒選手の加入するという例もある。ただ、大学校や専門学校、専修学校や各種学校からの新卒選手加入実績は未だ無い。

並行して、所属選手がプロ選手としてJリーグに挑戦する際には快く送り出すこれまでの方針は変わりなく維持されることとなる。その主な例として、2004年には前年のJFL得点王だったFWの古橋達弥がシーズン途中でセレッソ大阪に移籍したことが挙げられる。また、ヴァンフォーレ甲府へは2005年に監督だった安間貴義がコーチとして移籍し、2006年にはMFの宇留野純も同チームへ移籍した。2008年のシーズンオフにはU-19日本代表に選ばれた村松大輔も湘南ベルマーレに移籍し、2009年シーズンオフにはFW早坂良太がサガン鳥栖に移籍している。

[匿名さん]

#4052020/02/12 04:16
■2002年 - 2008年

チーム名改称年となった2002年も優勝し、前身時代から含めての連覇を決めている。これは、横浜FC(1999・2000)に続いて、JFL史上2チーム目。JFL5回優勝(初代1回、2代目4回 2010年現在)は1992年のリーグ再編後では最多となる。
以後、12年間社員選手だけで構成されてきたものの、毎年上位につける実力を有する他、年末の天皇杯では、たびたびJリーグチームを脅かし、時には勝利することもある。また、Jリーグの関係者からも“Jリーグチームにも匹敵する”などと言わしめられたこともあり、いつしか「Jへの門番」という新たな異名で呼ばれることとなる。
2006年、向島満が引退し、これ以降、7年間は元Jリーガーの在籍選手は居なくなることになった。


■2009年 - 2012年

2008年にJFLで優勝すると、チームは過渡期を迎える。前年王者として迎えた2009年は1999年以降過去最悪の7位でシーズンを終えると石橋眞和が監督を退任。代わって大久保貴広が監督に就任するも2010年、2011年と2年連続で優勝を逃した。
2011年、天皇杯予選決勝で静岡産業大学サッカー部に敗れて18年ぶりに天皇杯本戦への出場を逃した。
この頃からチームのJFL時代の全盛期を支えた新田純也、鈴木弘大、石井雅之らベテランらがチームを離れ、チームの世代交代が進む傾向となる。

[匿名さん]

#4062020/02/12 04:17
■2013年

鈴木雄也、栗本広輝、砂森和也の3名が入団。JFLが事実上の3部として最終年となった2013年は18チーム中5位であった。内、2014年度からのJ3に参戦する10チーム中6チームよりも順位が上であった。この年の天皇杯では予選決勝で藤枝MYFCに0-1で負け、3年連続予選敗退となった。シーズン最終節終了後、計7名の選手が退団することが発表され、DF浅田はFC琉球へ移籍、FW河野・MF西・DF小栗・DF牧野・GK石川の5名が社業専念となった。また、FW齋藤はシーズン途中で諸事情により退団しているが、2014年からMIOびわこ滋賀へ移籍したことが同クラブから公表される。
また、この年を以ってU-18チームの活動が終了した。

[匿名さん]

#4072020/02/12 04:18
■2014年

2002年から12年間「選手は全員アマチュア(正社員)」という体制を貫いたが、この年から再びプロ・アマ混成の体制へと一新した。
吉澤英生以来8年ぶりのプロ契約監督として、2013年まで金沢U-18を監督して率いていた井幡博康が新監督に就任。井幡は選手として在籍していた1999年以来15年ぶりの古巣復帰ともなった。新入団選手は10年ぶりに復帰する形でベテラン古橋達弥と宇留野純をプロ契約で獲得し、また正社員選手として順天堂大学からMF原田開・日本体育大学からDF宮内啓汰・磐田U-18からGK高村弘尚の3名を獲得した。原田は現役卒業ではない新卒選手としては河野大星以来となるが、「元Jリーガーの新卒選手」としてはクラブ初の選手となる。併せて、クラブとして元Jリーガー選手の在籍は向島満以来8年ぶりとなった。
同年7月には富山から村松知輝、金沢から本田真吾をそれぞれ期限付き移籍で獲得。現行のJFLが開幕して以降、Honda FCが期限付き移籍制度を駆使すること及びシーズン中に選手補強を行うことは初となる。
2ステージ制となったこのシーズン、1stステージは鹿児島ユナイテッドFCを得失点差で交わしてステージ優勝。2ndステージは6位にとどまり年間の勝ち点では3番目となるものの、チャンピオンシップで2ndステージ優勝の佐川印刷京都SCを1勝1分で下し、6年振りのJFL王者となった。

[匿名さん]

#4082020/02/12 04:19
■2015年

GK中村元が引退(社業専念)、MF宇留野純が退団し、FW村松知輝は期限付き移籍期間満了で富山に復帰。新卒で三浦誠史、松本和樹、富田湧也が加入。金沢よりMF小野寺建人、福島よりFW久野純弥を期限付き移籍で獲得、MF本田真吾の金沢からの期限付き移籍期間を延長した。
シーズン途中にて、GKの清水谷侑樹が試合中に、高村弘尚が練習中に、それぞれ全治半年の大けがを負い、残ったGKは急遽選手登録を行ったGKコーチの川口剛史のみという緊急事態に陥ったことから、札幌から阿波加俊太を育成型期限付き移籍で、静岡産業大学3年の羽田野将史を期限付き移籍で獲得した。
天皇杯静岡県代表戦はJ3の藤枝MYFCに4-3で敗れて、5年連続で天皇杯出場を逃した。リーグ戦は1stステージは1位と勝ち点差1の3位。2ndステージは1位と勝ち点差2の2位で惜しくもJFLチャンピオンシップの出場を逃し、JFL連覇はならなかった。特に2ndステージ第12節のソニー仙台FCとの首位攻防戦は勝てばソニー仙台との勝ち点を1差に迫る最大のチャンスだった試合で試合終了間際にPKで先制し、このまま逃げ切ると思われたアディショナルタイムに失点・引き分けとなり、結果2ndステージ優勝を逃す結果となった。
一方、2013年度で終了したU-18チームを翌2016年度から復活させることが発表された。

[匿名さん]

#4092020/02/12 04:21
■2016年

GK阿波加俊太、羽田野将史、MF小野寺建人が期限付き移籍期間満了(小野寺は現役引退)。FW伊賀貴一と深谷泰介が引退(社業専念)。DF砂森和也がカマタマーレ讃岐に移籍した。新たに加入したのは新卒で九州産業大学からGK楠本祐規、高知大学からMF曽根友祐、鹿児島実業高校からMF渡邊大地の3選手と、ツエーゲン金沢から期限付き移籍で加入した大町将梧の計4選手。一方、本田真吾と久野純弥は期限付き延長となった。
リーグ戦は1stステージで16チーム中6位となったが、2ndステージで16チーム中1位でチャンピオンシップに進出。年間勝点では1位であった。チャンピオンシップでは1stステージ王者の流通経済大学ドラゴンズ龍ケ崎(流経大D)と対戦し、流経大Dのホームである千葉県立柏の葉公園総合競技場で行われた1stレグは2-0で前半を折り返すものの後半は追いつかれてしまい結局2-2で終えるが、Hondaのホームであるホンダ都田サッカー場で行われた2ndレグは、前半を0-0で折り返すも、後半にこのシーズンで引退を決めた香川大樹の決勝ゴールで1-0としこのまま試合終了。2戦合計3-2で、2年振り6回目のJFL年間王者となった。
天皇杯静岡県代表戦は4年連続の相手となったJ3の藤枝MYFCに3-2で勝利し、6年振りに天皇杯出場を決めた。本選では1回戦でシードのFC岐阜(J2)に2-1と延長を制して9年ぶりにJリーグチームからの勝利を収めると、続く2回戦はシードの松本山雅FC(J2)を相手に先制されながらも2-1の逆転勝ちを収め、3回戦はベガルタ仙台(J1)に5-2と大勝して駒を進めてきた岩手県代表のグルージャ盛岡(J3)に2-1と勝ちを収めて今回大会の台風の目となる。

[匿名さん]

#4102020/02/12 04:22
その後4回戦(ラウンド16)ではリーグ戦からの中2日を経て、ラウンド16からのシードであるFC東京(J1)を相手に挑み、前半に先制してそのまま折り返すも、後半に逆転され1-2で敗退を喫した。


■2017年

中川裕平、糸数昌太、香川大樹、桶田龍の4選手が社業専念のため引退。本田真吾が期限付き移籍期間満了に伴い退団。池松大騎、日高大、佐々木俊輝、鈴木理久、遠野大弥の5選手が入団した。
リーグ戦の1stステージでは11勝3分1敗とソニー仙台FCと同成績だったが、得失点差で上回り優勝を飾った。2ndステージでは10勝4分1敗で1位となり優勝。JFL連覇と、2ステージ制に移行してから初の完全優勝を達成した。
天皇杯ではベストアマチュアチームとしてシードで参戦し、1回戦・びわこ成蹊スポーツ大学戦を3-1で勝利し、2回戦に進出。2回戦ではジュビロ磐田(J1)と対戦し、1992年以来25年ぶりとなる天竜川決戦となった。この試合には約1300人の応援団が10台以上のバスでヤマハスタジアムへ駆けつけた。試合は接戦を極め、後半12分に磐田MF松本昌也に先制弾を許すも、同28分に古橋達弥が同点弾を挙げて1-1とした。試合は延長戦へと突入し、延長後半12分に途中出場の磐田FW川又堅碁に勝ち越し弾を決められるが、同15分に遠野大弥が同点弾を挙げ、120分間で決着がつかずにPK戦へと突入。清水谷侑樹が磐田のキッカーを務めたアダイウトン、松浦拓弥、中村太亮のPKをファインセーブしたが、最終的に4-5で敗れ2回戦敗退となった。

[匿名さん]

#4112020/02/12 04:24
■2018年

須藤壮史、柴田潤一郎、曽根友祐の3選手が社業に専念するため引退。久野純弥が期限付き移籍期間満了に伴い、退団。児玉怜音、八戸雄太、石田和希、清水航輔の4選手が入団した。前年までツエーゲン金沢より期限付き移籍中だった大町将梧と新たに選手契約を締結した。
リーグ戦の1stステージでは12勝2分1敗で1位となり、4ステージ連続制覇を達成した。2ndステージでは10月20日のJFL2nd-S第11節・ホンダロックSC戦に2-1で勝利したことで、JFL新記録となる17連勝を達成。10月29日のJFL 2nd-S第12節・東京武蔵野シティFC戦に2-1で勝利し、2位のMIOびわこ滋賀が翌日に開催された試合に敗れ、首位になる可能性が消滅したため、2年連続の完全優勝とJFL史上初の3連覇を達成した。2ndステージの成績は13勝2分で、無敗のまま2ndステージを終えた。また、大町将梧がシーズンを通して18得点を挙げ、初の得点王に輝いた。
天皇杯静岡県代表戦では準決勝で藤枝MYFC(J3)、決勝でアスルクラロ沼津(J3)を破り、3年連続で天皇杯出場を決めた。天皇杯1回戦ではアルテリーヴォ和歌山と対戦し、延長戦の末3-2で勝利した。2回戦では鹿島アントラーズ(J1)と対戦し、前半15分に栗本広輝が先制点を挙げるも、前後半にそれぞれ3失点し1-6で敗れ、2回戦敗退となった。

[匿名さん]

#4122020/02/12 04:26
■2019年

土屋貴啓、清水谷侑樹、宮内啓汰の3選手が社業に専念するため引退。白坂楓馬、堀内颯人、Honda FC U-18より小野寺倖志の3選手が入団した。
リーグ戦ではJFL史上初の4連覇を達成した。
天皇杯静岡県代表戦では準決勝で藤枝MYFC(J3)、決勝でアスルクラロ沼津(J3)を破り、4年連続で天皇杯出場を決めた。天皇杯1回戦では福井ユナイテッドFCと対戦し、4-2で勝利した。2回戦ではコンサドーレ札幌(J1)と対戦し4-2で勝利。3回戦では徳島ヴォルティス(J2)に2-0で勝利し、2016年以来のベスト16入り。ラウンド16では前回大会優勝チームとなる浦和レッズ(J1)と対戦し、2-0で勝利。準々決勝では前回大会 1-6で敗れた鹿島アントラーズ(J1)と対戦し0-1で敗れ、今大会の成績はベスト8入りとなった。


■下部組織

小学生を対象にしたスクールと、U-10、U-12、U-15、U-18の各カテゴリのチームを持っている。

◇主な下部組織出身の選手を以下に挙げる。

太田圭輔 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → 清水エスパルスユース → 清水エスパルス 他
松浦拓弥 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → 浜名高等学校 → ジュビロ磐田
小栗巧 - Honda FC U-15 → Honda FC U-18 → Honda FC
深谷泰介 - Honda FC U-18 → Honda FC
高村弘尚 - Honda FC U-12 → Honda FC U-15 → ジュビロ磐田U-18 → Honda FC
岩﨑雄大 - Honda FC U-18 → ブラジルへサッカー留学 → 名古屋オーシャンズサテライト(フットサル転向) → アグレミーナ浜松
松岡ジョナタン - Honda FC U-15 → 名古屋グランパスU-18 → 名古屋グランパス 他

[匿名さん]

#4132020/02/12 04:27
U-18チームは、2004年度・2007年度の日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会、2009年度のJリーグユース選手権大会等の全国大会に出場した実績を持つ。なお、2016年現在の所属リーグはU-18静岡県西部リーグ(カテゴリは3部B)である。

かつては女子チーム「ホンダFCレディース」も保有していた。女子チームは1991年に設立して以降、静岡県西部支部女子リーグ、静岡県女子リーグ、東海女子リーグ(トップチーム、セカンドチームは引き続き県リーグ所属)と昇格し、2004年に廃止されるまでの間に、数多くのタイトルを獲得した。またU-19日本代表としてAFC U-19女子選手権に出場した佐藤シェンネン、所属当時は中学生で後にアルビレックス新潟レディースに所属した口木未来などを始め、数多くの選手を輩出した。廃止後、所属選手の多くはジュビロ磐田のホームタウン推進部が受け入れ、同クラブ下部組織チーム「ヤマハジュビロレディース」が設立されている。


■本田浜松サッカー部

1954年に本田技研工業浜松製作所浜友会サッカー部として創部された浜松製作所のサッカー部である。このクラブが本社側のクラブであるHonda FCの母体となっている。同じ所内に本社チームが創設されて以降も長らく東海リーグに所属し、その後静岡県リーグに所属していたが、2012年、県1部で年間成績最下位となったのを最後にリーグを脱退し活動休止。なお、このチームには、Honda FCのOBも選手や指導者として活躍していた。

[匿名さん]

#4142020/02/12 04:28
■タイトル

◇リーグ戦
東海社会人サッカーリーグ1部:2回(1973年、1974年)
日本サッカーリーグ2部:2回(1978年、1980年 1980年優勝で自動的に1部昇格)
ジャパンフットボールリーグ2部(旧J2):1回(1993年 1994年に1・2部統合のため、旧J2最後の優勝クラブとなる)
ジャパンフットボールリーグ(旧JFL):1回(1996年)
日本フットボールリーグ(JFL):9回(2001年、2002年=旧JFLを含めリーグ再編後初の連覇、2006年、2008年、2014年、2016年‐2019年=旧JFLを含めリーグ再編後最多の4連覇)
※旧JFLを含めたJFLとしての通算優勝回数:10回
◇カップ戦
全国社会人サッカー選手権大会:2回(1974年、1999年)


■ホームゲーム開催実績

(1999年の日本フットボールリーグ=現JFL発足以後)

年度 都田 その他
1999 11
2000 10
2001 15
2002 9
2003 15
2004 15
2005 15
2006 17
2007 17
2008 17
2009 17
2010 17
2011 17
2012 16
2013 17
2014 13 三重・鈴鹿1
2015 14 三重・鈴鹿1
2016 15 栃木グリスタ1
2017 15
2018 15
2019 15

※ジャパンフットボールリーグ時代も基本の本拠地は本田技研都田サッカー場だったが、年数回、遠州灘海浜公園球技場でも主管試合を開催したほか、1994年には柏レイソル戦のホームゲームをレイソルの本拠地である日立柏サッカー場で行った事例もある。

[匿名さん]

#4152020/02/12 04:30
■歴代キャッチフレーズ

年度 キャッチフレーズ
2006 Aggressive action
2007 Fighting for team
2008 The Next Challenge.
2009 THE UNITED POWER
2010 前へ
2011 絆
2012 意志
2013 体現
2014 矜持
2015 考撃
2016 一意専心
2017 歩
2018 新たなカタチの創出
2019 挑戦〜Beginning of a new legend〜


■エピソード


◇浦和市への移転撤回に関するその他の理由

前述の通り、役員会議、関係者は“浜松を本拠にJリーグへ参入したい”という意向があった。サッカー部発足時から現在に至るまで浜松を本拠地にしていたこともあり、“Jリーグ発足のために浦和に移転することは、今までチームを応援してくれた地元・浜松の「お客様を裏切る」ことになり、企業イメージのマイナスになる”との判断があった。


◇2度目のJリーグ参入を目指して表面化した行政との溝

浜松F.C発足を仕掛けたのはホンダ側であったが、同社はチームを浜松F.Cに移管する際はいちスポンサーとしてやっていけばいいという考えであったため、あくまで浜松F.Cを「地域のクラブ」であることをアピールしていた。しかし、Jリーグ参入には行政の協力や理解が必要不可欠であるものの、当時の浜松市側は「ホンダ」というブランドが担保になるなら協力してもいいというスタンスであったという。また浜松市側からJリーグ参入について積極的に動いた形跡はなく、やがて“ホンダがやるのであれば応援する”という市長の言葉を耳にした、当時のホンダ社長であった川本信彦は“おい、話が違うぞ”とJリーグ参入に対する浜松市の態度に相当なギャップを感じていたという。

[匿名さん]

#4162020/02/12 04:31
◇「静岡県代表」として出場した第87回の天皇杯での活躍

2007年に行われた第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会では、リーグの前期で1位になれずにシード権を獲得できなかったため、天皇杯が現在の形式になってから初めて県代表を決めるための予選に参加し、天皇杯への出場を獲得。その後、大会ではJリーグチームを3つ破って前身時代以来16年振りの準々決勝(ベスト8)進出を果たし、当大会よりHonda FCが各都道府県代表として初の準々決勝進出を果たしたチームとなった。また、監督も含めて全員がアマチュア登録ということもあって話題となった。それまでHonda FCは、1998年の第78回大会でプロ契約選手を抱えていた本田技研時代に3回戦でジェフユナイテッド市原を破って以降、Jリーグチームに勝利したことはなかった。第87回大会以前における以前の回の試合では、第83回大会(2003年)の3回戦のFC東京戦で、第85回大会(2005年)の4回戦のセレッソ大阪戦で、それぞれ追い詰めるものの、いずれもPK戦で涙を呑んでいる。しかし、この大会以降Honda FCは天皇杯での低迷が続き、天皇杯のシード権を獲得できない状況が続くこととなった。そして2011年での天皇杯予選決勝で静岡産業大学サッカー部に1-3で敗れ、再び本選出場を果たせなくなり、16年続いた天皇杯の連続出場記録も途切れた。なお、2012年以降も予選敗退が続き、再びの本選出場は2016年の第96回まで待つことになる。

[匿名さん]

#4172020/02/12 04:32
◇16年ぶりの年代別代表選手の選出

1993年にJリーグが開幕して以降、本田技研時代も含めて各年代別共に長らくHonda FCから代表選手は選出されなかったが、2008年10月20日当時、AFCユース選手権の日本代表に(先述通り、後にJリーグ所属の湘南ベルマーレへ移籍した)村松大輔が選出された。Honda FCからの年代別代表選出は、本田技研時代の1992年、バルセロナオリンピック出場予選での日本代表に選出された石川康以来、実に16年ぶりとなった。また、当時の日本フットボールリーグに所属する選手から選出されたのは彼のみであると同時に、同リーグからの年代別日本代表選手の輩出は、リーグが1999年に開催されて以降初ともなった。


◇「Honda FC」としての実力評価

各シーズンにおける周囲の評価をここで述べる。

・2007年、第87回の天皇杯において東京ヴェルディの当時の監督であるラモス瑠偉は“J2クラブ並みの力があるチーム”と評しており、同じく第87回の天皇杯において名古屋グランパスの当時の監督であるセフ・フェルホーセンは“JFLのレベルではない。”、“非常にレベルが高いチーム。多くのチャンスを作れるとは思えないが、組織や規律がしっかりしている。”と評している。


・2009年度におけるJFLの各チームの関係者
は“実力はJリーグ2部の下位クラブより上”と評している一方、V・ファーレン長崎の監督であった東川昌典は、自身が指揮したチームと比較してみた場合に限り“(Honda FCとの)レベルの差があるとは思わない。”と述べている。

[匿名さん]

#4182020/02/12 04:33
・2013年では対戦相手のFC琉球に所属する元Jリーガーの永井秀樹が、自身のブログでHonda FCのサッカーについて語っている。ブログ内では「個の質が数年前より若干下がったが故に、勝ち点3を確実に奪う力は多少弱まった」と指摘しながらも“JFLというカテゴリーにおいて、この数年間で最も質の高いサッカーを展開してるのはHondaだ。”と述べている。また、自身が所属するFC琉球についてHonda FCと比較した上で“これからJを目指し、JFL優勝を真剣に考えるならば、最低限Honda以上のサッカーをしなければならない。”と言及している。


・2017年の6月21日に第97回天皇杯の2回戦で対戦したジュビロ磐田とは1-1で延長戦に突入し、延長後半12分に磐田の川又堅碁に勝ち越し点を許したが、同15分に遠野大弥が同点弾を決め、2-2でPK戦まで縺れ込む接戦となった。その後、PK戦を5-4で制した磐田が勝利した。試合後に磐田の名波浩監督は「ある人からホンダが勝ってもジャイアントキリングではないという言葉を聞いた」「ホンダの技術の高さ、それから穴を突く戦術眼は素晴らしいものがありましたし、どちらに転んでもおかしくないような、2対2でPK決着という結果通りのゲームだった」とコメントした。

[匿名さん]

#4192020/02/15 00:33
筑波大学蹴球部は、茨城県つくば市にある筑波大学のサッカー部。日本サッカー協会(JFA) の公式ホームページの「歴史・沿革」にも記載される、最も歴史を有するサッカーチームの一つである。


■原語表記
筑波大学蹴球部
■クラブカラー
紫、青
■創設年
1896年
■所属リーグ
関東大学サッカーリーグ戦
■所属ディビジョン
1部
■ホームタウン
茨城県つくば市
■ホームスタジアム
筑波大学第1サッカー場他


■歴史
体操伝習所における教材としてサッカーが取り入れられた1878年が現在の筑波大学とサッカーとの始まりとなる。1886年に高等師範学校に体操伝習所が統合されて、高等師範学校の「体操専修科」となった。

1896年3月、高等師範学校の「フートボール部」として創設され、同校教授の坪井玄道が部長に就任した。なお、当時はラグビーと未分化であったと伝えられている。1902年に高等師範学校から「東京高等師範学校」(東京高師)に改名した。

[匿名さん]

#4202020/02/15 00:34
1902年4月、フートボール部の理事であった中村覚之助らが日本で最初のサッカー指導書の「アッソシェーション・フットボール」を翻訳。また、同年中に中村によってア式蹴球部が創設された。1903年秋に「東京高等師範学校蹴球部」の名前で日本で最初のフットボールの書物となる「アッソシェーション.フットボール」が出版された。

1904年にイングランド人のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(英語版)が東京高師に教員として赴任。この時にデ・ハヴィランドがアソシエーション・フットボール(ア式フットボール。現在のサッカー)を指導したことでサッカーが行われるようになったと伝わっている(なお、デ・ハヴィランドは1906年に東京高師の教員を退任)。

1904年2月、横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)と対戦して0-9で敗北。なお、この試合が日本で初めて開催された外国のチームとの対戦とされている。

1907年11月、日本のクラブ同士で行われた初めての対抗試合とされる東京府青山師範学校との試合が開催された。

1917年5月、東京高師が日本代表チームとして第3回極東選手権競技大会に出場。5月9日に初めての日本代表としての国際試合で中華民国代表と対戦した(0-5で敗北)。また、5月10日には元FCバルセロナのパウリノ・アルカンタラを擁するフィリピン代表と対戦し、2-15で敗れたが、この試合で東京高師在学中だった藤井春吉が日本代表初得点を記録した。なお、この試合は現在でも日本代表の最大差敗戦試合となっている。

1921年、東京高師の関係者が中心となり「大日本蹴球協会」(現在の日本サッカー協会)が創設された。

[匿名さん]

#4212020/02/15 00:35
1922年、日本最初のリーグ戦である「専門学校蹴球リーグ戦」に東京帝国大学、早稲田大学、東京商科大学と共に参加。なお、同年で「専門学校蹴球リーグ戦」は休止されたが、1924年にア式蹴球東京コレッヂリーグ(現:関東大学サッカーリーグ戦 )が創設され、「専門学校蹴球リーグ戦」に参加していた東京帝大、早稲田大に加えて、法政大、慶應義塾大、東京農大の5校と共に1部に入った(同年は4位の成績)。1925年、ア式蹴球東京コレッヂリーグで初優勝を果たした。

1929年、東京高等師範学校から東京文理科大学へ改組し、同大学の蹴球部となった。

1935年に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に初出場して関大クラブなどを破って決勝に進出。決勝は全京城蹴球団(英語版)に敗れたが、準優勝の成績を残した。

1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技の日本代表に在学中の松永行が選出され、スウェーデン代表で決勝点となるゴールを決めた(ベルリンの奇跡)。

1949年、東京文理科大学が東京教育大学へ改組し、同大学の蹴球部となった。

1954年、全日本大学サッカー選手権大会で初優勝を果たした。1959年、中央大学学友会サッカー部との中教サッカー定期戦(現在は「中筑サッカー定期戦」)が開始された。また、1957年から1959年まで3年連続で現役・OBによる茗友クラブとして天皇杯に出場している。

[匿名さん]

#4222020/02/15 00:36
1978年、東京教育大学が閉鎖され、筑波大学が発足すると共に同大学の蹴球部となった。

1981年、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで初優勝した。また、同年の第61回天皇杯全日本サッカー選手権大会の2回戦で古河電工、準々決勝で日立製作所とJSL勢を連破してベスト4に入った。

2012年、26回目の出場となった第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会の1回戦でJFL所属(当時)のFC琉球に勝利した。

2014年11月、中央大学に敗れて創部以来初となる関東大学リーグ2部へ降格した。

2015年11月、関東大学リーグ2部で2位に入って1年での1部復帰を決めた。2016年12月に開催された第65回全日本大学サッカー選手権大会で優勝した(13年ぶり9回目)。

2017年、30回目の出場となった第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会の1回戦でJ3・Y.S.C.C.横浜に勝利、2回戦のベガルタ仙台戦で創部以来初となるJ1クラブから勝利を挙げた。3回戦ではJ2・アビスパ福岡に勝利した。2017年11月、関東大学リーグ1部で13年ぶりに優勝した。勝利数(17)、勝点(54)は共に22試合制になった2005年以降で最多となる。

[匿名さん]

#4232020/02/15 00:37
■主な成績

天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会
準優勝:1回(1935年)
全日本大学サッカー選手権大会
優勝:9回(1954, 1956, 1968, 1971, 1979, 1980, 2002, 2003, 2016)
準優勝:4回(1995, 1999, 2000, 2008)
総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント
優勝:3回(1981, 1988, 1992)
準優勝:6回(1983, 1987, 1989, 1993, 1995, 1999)
関東大学サッカーリーグ戦1部
優勝:15回(1925, 1953, 1968, 1969, 1980, 1983, 1987, 1988, 1992, 1993, 1994, 1999, 2000, 2004, 2017)
準優勝:11回(1948, 1955, 1977, 1979, 1955, 2001, 2002, 2003, 2010, 2016,2018)
アミノバイタルカップ
準優勝:3回(2012, 2015, 2017)
茨城県サッカー選手権大会(兼天皇杯茨城県予選)
優勝:11回(2000, 2002, 2003, 2005, 2007, 2011, 2012, 2013, 2014, 2016, 2017)
準優勝:3回(2004, 2010, 2018)


■主な出身選手

東京教育大学時代およびそれ以前の所属選手については東京教育大学の人物一覧#サッカーを参照

◇1978年度卒
大渕龍介
◇1979年度卒
内山勝
田嶋幸三
山口隆文
◇1981年度卒
坂下博之
◇1982年度卒
越田剛史
松田浩
◇1983年度卒
織田秀和
望月一頼
鈴木淳
風間八宏
◇1984年度卒
浅岡朝泰
倉田安治
小野剛
◇1985年度卒
吉田寿光
松村和彦
◇1986年度卒
保坂孝
◇1987年度卒
田口禎則
長谷川健太
◇1988年度卒
鋤柄昌宏
伊達倫央
野村雅之
◇1989年度卒
川俣則幸
畠山啓
井原正巳
中山雅史
森山佳郎
影山雅永

[匿名さん]

#4242020/02/15 09:26
この先不安定

[匿名さん]

#4252020/02/19 03:28
ヤンマーディーゼルサッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。ヤンマーディーゼルのサッカー部として1957年に創部された。呼称はヤンマー。「企業アマ」の体制確立に最も早くから着手したチームの内の1つでもある。日本代表で活躍した釜本邦茂を中心としたチーム構成で1970年代に全盛期を築き上げた。


■愛称
ヤンマー
■クラブカラー

■創設年
1957年
■ホームタウン
兵庫県
大阪府
滋賀県
■ホームスタジアム
神戸中央球技場
尼崎市記念公園陸上競技場
長居陸上競技場
水口スポーツの森陸上競技場



日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するセレッソ大阪の前身となったクラブである。


■概要

サッカー部は早稲田大学ア式蹴球部OBの古川能章を中心に1957年に創設。1963年には関西実業団選手権で優勝を飾ったが、当時の関西には田辺製薬、湯浅電池、日本ダンロップなどの強豪がひしめいており、そのため、日本サッカーリーグ設立の際には歴史の浅いヤンマーが加盟出来るとは思われなかった。

しかし、他チームが社業との両立や、リーグの成功と可能性を疑問視したことで参加を見送ると、関西唯一のチームとして第1回からの参加となった。これには、リーグ創設に尽力した古河電気工業サッカー部(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)の長沼健と古川が高校時代の同期で、リーグの意義や趣旨を理解していた事も大きな要因の一つであった。

[匿名さん]

#4262020/02/19 03:29
初年度は最終節の東洋工業サッカー部(現:サンフレッチェ広島)戦で0-11という記録的な大敗を喫して7位。翌年は最下位に終わり入替戦に回るなど惨憺たる結果に終った。

そこで監督の鬼武健二、コーチの加茂周、マネージャーの安達貞至らが中心となり改革に取り組む。環境面では天然芝の照明設備付きグラウンド、サウナ付きの選手寮の建設。待遇面でも残業手当に相当する「運動部手当」を支給、従来夕方からの練習参加としていたのを、午前中で仕事を切り上げ午後からの練習参加を可能にするなど、企業アマ体制を確立させた。この背景には関西出身の大型ストライカー釜本邦茂が加入したことにより会社が積極的な支援を行う様になった面もある。

またヤンマーがブラジルに自社工場のヤンマーディーゼル・モトーレス・ド・ブラジル(Yanmar Diesel Motores do Brasil)を所有していた事もあり、そこで勤務していた日系人のネルソン吉村を獲得、日本リーグ初の外国籍選手となった。吉村や黒人選手のカルロス・エステベスを獲得すると、それまでの守備一辺倒のスタイルからラテン志向のパスサッカーへ転換を果たし、1969年の天皇杯を制覇。これは創部11年目にして初のビッグタイトルとなった。

釜本、吉村のコンビを中心としたブラジル流攻撃サッカーは人気を集め、ドイツ流の組織的サッカーを志向するライバルの三菱重工業サッカー部(現:浦和レッドダイヤモンズ)との試合は人気を集め1968年11月17日に国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた試合は40,000人の観衆を集め、この記録は20年近くJSLでの最多入場記録であった。

[匿名さん]

#4272020/02/19 03:30
JSL優勝4回、天皇杯優勝3回を誇った名門も釜本の引退後は上位進出する事は少なくなり、1990-91シーズンにはリーグ11位となり2部降格。またJリーグ設立の際に候補として名乗りを挙げたもののホームタウンの問題から落選、1992年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に参加。1993年12月6日にヤンマーディーゼル、日本ハム、カプコン等の共同出資による運営会社「大阪サッカークラブ株式会社」を設立。名称を「セレッソ大阪」と改め、Jリーグ準会員として1994年にJFLで優勝し、Jリーグへ加盟した。


■略歴

1957年 創部
1965年 第1回日本サッカーリーグに参加
1991年 日本リーグ2部降格


■タイトル

天皇杯
1968年、1970年、1974年
日本サッカーリーグ
1971年、1974年、1975年、1980年
JSLカップ
1973年(スペシャルカップ)、1983年、1984年
スーパーカップ
1981年
クイーンズカップ(親善大会)
1976年


■ヤンマーディーゼルサッカー部に所属した主な選手

古川能章
鬼武健二
釜本邦茂
ネルソン吉村(日本名:吉村大志郎)
加茂周
西村昭宏
副島博志
山野孝義
堀井美晴
楚輪博
カルロス・エステベス
梶野智幸
貴志俊治
梶野智
森島寛晃
マルコス

[匿名さん]

#4282020/02/19 03:32
■「Category:ヤンマーディーゼルサッカー部の選手」も参照


安達貞至

伊藤裕二
今村博治

上野山信行
宇野秀徳

カルロス・エステベス

鬼武健二

梶野智
梶野智幸
釜本邦茂
加茂周
川前力也

貴志俊治
木村文治

草木克洋

ジョージ小林
小松晃

白澤久則

鈴木康仁

副島博志
楚輪博

武田治郎

坪田和美

西村昭宏

長谷川治久

ヴィタヤ・ラオハクル

バウテル・フェレイラ・ルス
古川能章

堀井美晴

見崎充洋
水口洋次
皆本勝弘

マルコス・アントニオ・メネゼス・ゴドイ

森島寛晃

山崎慎治
山田泰寛
山野孝義
山橋貴史

湯口栄蔵

吉村大志郎


■セレッソ大阪と異なる点

活動地域は大阪というよりも広く関西圏で試合を行っており、練習拠点に近い尼崎市記念公園陸上競技場を中心に、長居競技場、靭公園蹴球場(現:廃止)、神戸中央球技場、水口スポーツの森などで試合を行った。練習拠点は尼崎市と大津市瀬田のヤンマーグラウンドが使用された。
現在もヤンマー尼崎グラウンドではセレッソの下部組織(ユース他)の練習が行われているが、トップチームは舞洲スポーツアイランド、並びに南津守さくら公園のセレッソグラウンドで練習が開催されている。
また現在のサテライト組織相当のチームとして「ヤンマークラブ」というチームが作られ、1976年〜1979年の4年間、日本サッカーリーグ2部リーグに所属したが会社の合理化とサッカー部の一本化に伴い1979年のシーズン終了と同時に解散された。このチームに所属した選手の多くは1980年に松下電器産業サッカー部(現:ガンバ大阪)を結成し奈良県社会人リーグに参加した。
ユニフォームカラーは上下ともに赤。チームエンブレムにはサッカーボールを蹴るヤン坊マー坊が描かれていた。

[匿名さん]

#4292020/02/19 03:32
■参考文献

『モダンサッカーへの挑戦』 (加茂周、講談社 1994年)
『空っぽのスタジアムからの挑戦』 (平塚晶人、小学館 2002年)
『サッカー移民‐王国から来た伝道師たち』 (加部究、双葉社 2003年)
『虹を掴む』 (川淵三郎、講談社 2006年)
日刊スポーツ連載 <伝説>「日本サッカーの先駆者 ヤンマー」2008年10月〜11月

[匿名さん]

#4302020/02/23 00:02
松下電器産業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。松下電器産業(現パナソニック)のサッカー部として1980年に創部した。呼称は松下。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属のガンバ大阪の前身となったクラブである。


■呼称
松下
■クラブカラー
白と青
■創設年
1980年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ
■ホームタウン
大阪府
■ホームスタジアム
長居競技場
神戸中央球技場


■概要

◇創部
松下電器産業(現パナソニック)は野球部(1950年創部)、バスケットボール(1951年創部)、バレーボール(1952年創部)を既に有しており、サッカー部は4つ目のスポーツチームとして1980年に創部された。前年に活動を休止したヤンマークラブ(ヤンマーのBチーム)の監督だった水口洋次を初代監督として迎え、1980年4月7日に新チーム結成の記者会見が行われた。この記者会見時点ではまだゴールキーパーも在籍しておらず、所属選手の内訳はヤンマークラブからの移籍組が5人、新卒選手が6人、大商大クラブから山本浩靖、そして社内選手が1人だった。ヤンマークラブから加入したFW山口正信、枚方FC出身の新卒MF佐々木博和といった選手はチームがJSL1部に昇格後もなお主力としてプレーした。

[匿名さん]

#4312020/02/23 00:03
■県、地域リーグ時代(1980年-1983年)

松下電器産業サッカー部は、できるだけ早くトップレベルに上り詰めるために、カテゴリ構成が少なくかつ強敵がいない奈良県リーグからのスタートを選んだ。創部1年目の1980年は奈良県2部リーグに参戦し優勝、1部へ昇格。翌1981年は奈良県1部リーグに優勝したものの、関西府県リーグ決勝大会と天皇杯の日程が重なったことが災いして、関西リーグ入れ替え戦の出場権を逃した。1982年は前年の反省から天皇杯よりも入れ替え戦を重視する姿勢で臨んだ。1982年12月26日に行われた関西府県リーグ決勝大会の決勝では北摂けまり団戦に1-0で勝利。1983年1月9日および16日に行われた関西リーグ最下位・三菱神戸との入れ替え戦に勝ち(1戦目1-0、2戦目0-0)関西リーグ昇格を決めた。

1983年の関西リーグでは1位となり、全国社会人選手権にも優勝した。全国地域リーグ決勝大会では横浜トライスターに次ぐ2位となり、JSL2部との入れ替え戦に進んだ。JSL2部9位の東邦チタニウムとの入れ替え戦に勝利して(1戦目2-1、2戦目0-0)創部6年目にしてJSL2部入りを決めた。

[匿名さん]

#4322020/02/23 00:04
■JSL時代(1984年-1992年)

JSL2部昇格初年度となった1984年は3位にとどまり昇格を逃したが、1985年は優勝してJSL1部昇格を決めた。この年はFW山本浩靖がJSL2部得点王に輝いた。1986-87シーズンのJSL1部では降格圏内の11位に沈み、1年で2部に戻った。

1987年には大学からGK本並健治、DF島田貴裕、DF和田昌裕を獲得、かつてヤンマーでプレーしていたタイ人のビタヤ・ラオハクルがプレーイングコーチとして加わった。1987-88シーズンのJSL2部では2位に入り、1年でJSL1部復帰を決めた。このシーズン、元韓国代表の崔徳柱(en:Choi Duck-joo)はJSL2部アシスト王になった。ビタヤの加入によって選手獲得は東南アジア路線がとられ、1980年代後半にはタイ代表DFナティ(en:Natee Thongsookkaew)、インドネシア代表FWリッキー(en:Ricky Yacobi)、タイ代表FWロナチャイ(en:Ronnachai Sayomchai)といった選手たちが在籍した。

1988-89シーズンは7位で残留し、和田昌裕が9アシストでアシスト王となった。1989-90シーズンは県リーグ時代から在籍するFW永島昭浩が得点ランキング2位となる15ゴールを挙げベストイレブン選出されたものの、チームの順位は10位に後退した。新加入FWリッキーの怪我、大商大から加入した日本代表MF池ノ上俊一がチームがフィットできなかったことなどが低迷の要因だった。

1990-91シーズンは初めて順位表の上半分となる12チーム中6位でシーズンを終えた。1990年度の天皇杯では決勝で日産自動車を下して、初めての主要タイトルを獲得した。試合は120分を終えてもスコアレスのまま、同大会決勝史上初めてとなるPK戦による決着だった。

1991年、創部以来監督を務めていた水口が取締役強化部長に回り、水口のヤンマー時代の同期でもある釜本邦茂を監督に迎えた。

[匿名さん]

#4332020/02/23 00:05
■略歴
1980年 : 創部。奈良県リーグに加盟。
1983年 : 関西サッカーリーグ優勝。
1984年 : JSL2部昇格。
1985年 : JSL2部優勝、JSL1部へ昇格。
1987年 : 1986-87シーズンJSL1部11位。JSL2部へ降格。
1988年 : 1987-88シーズンJSL2部2位。JSL1部へ昇格。
1990年 : 第70回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝。
1992年 : ガンバ大阪への移行に伴って、サッカー部としての活動を終える。


■ガンバ大阪と異なる点

ガンバ大阪は吹田市などの大阪府北摂地域を拠点に活動しているが、松下サッカー部は当初奈良県へ拠点を置き、スタートも奈良県リーグからである。その後、活動拠点は大阪府枚方市へと移された。1983年10月、京都府田辺町(現:京田辺市)に練習グラウンドの田辺サッカー場が開場した。このグラウンドはガンバ大阪となった後も、1997年に万博記念公園内に練習場付きクラブハウスが建てられるまでのあいだ練習場として引き続き使用されていた。


■松下電器産業サッカー部に所属した主な選手

佐々木博和
本並健治
ビタヤ
久高友雄
永島昭浩
湯木英夫
桝本厚志
慶越雄二
肥塚一晃
梶居勝志
島田貴裕
和田昌裕
北浦重宏
倉橋克典
高祖和弘
斉藤敏明
林茂美
福田安和
山口正信
平野直樹
松島芳久
溝畑哲郎
美濃部直彦
池ノ上俊一
山本浩靖
奥出章弘
ダリオ
ランジェ
ミューレル

[匿名さん]

#4342020/02/23 00:06
■「Category:松下電器産業サッカー部の選手」も参照


池田司信
池ノ上俊一

岡中勇人

梶居勝志

久高友雄

慶越雄二

高祖和弘
肥塚一晃
今藤幸治

佐々木博和

塩川哲也
金相煥
島田貴裕

崔徳柱

永島昭浩

羽様隆

ヴィタヤ・ラオハクル
平野直樹

ダリオ・ペレイラ

坊野竜也
本並健治

前田浩二
桝本厚志
松島芳久
松永英機
松山吉之

水口洋次
美濃部直彦

マルコス・アントニオ・メネゼス・ゴドイ

山本浩靖

和田昌裕


■参考文献

荒井義行「チームストーリー」『Jリーグ・ファン・ガイドブック パナソニック ガンバ 大阪』集英社、1993年。ISBN 4087801853。

『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年。

「始動した新生・松下電器サッカー部 水口洋次と13人のサムライたち」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1980年5月25日号 No.237、 90-91頁。

「'83年、注目の新星・松下を追う」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1983年3月号 No.281、 82-83頁。

「松下新サッカー場完成」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1983年12月号 No.290、 28-29頁。

[匿名さん]

#4352020/02/26 01:51
富士通サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。富士通のサッカー部として1955年に創部し、1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称した。呼称は「富士通」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の川崎フロンターレの前身となったクラブである。


■呼称
富士通
■クラブカラー

■創設年
1955年
■所属ディビジョン
日本サッカーリーグ他
■ホームスタジアム
等々力陸上競技場他


【歴史】

■創立・JSL時代
富士通サッカー部は中原区の国鉄(現:東日本旅客鉄道)南武線武蔵中原駅前にある富士通川崎工場の従業員を中心した同好会として設立され、1960年代から徐々に強化を進めた結果、1967年の関東サッカーリーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格し、1976年にはGKで主将を務めた小浜誠二の活躍もあってJSL2部で優勝、ホーム&アウェー方式の入替戦で同シーズン1部最下位のトヨタ自動車工業サッカー部に1分1敗で敗れ一旦は1部昇格を逃したものの、その後1部7位だった永大サッカー部の活動休止が決まったことにより翌シーズンから1部に昇格した。しかし2シーズン後には2部に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む1973年から1991年は八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。

1988年/89年シーズンには元中国代表の沈祥福が北京足球倶楽部から入団し、以後は日本サッカーでは珍しく中国色の強いクラブへと変化した。

[匿名さん]

#4362020/02/26 01:52
■JFL

富士通はJリーグとしてのトップリーグのプロ化には参加せず、1992年からは企業内チームのままジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加。同年に現役を引退した沈が1994年にコーチから監督へ昇格し、魏克興など他の中国人選手の活躍もあって、他チームのプロ化が進む旧JFLで中位の維持に貢献した。1995年には専修大学から源平貴久が入団し、開幕戦の東芝堀川町サッカー部戦での2ゴールで華々しいデビューを飾り、シーズン終了までにチーム内最多の8得点を決めたが、チームは旧JFLで最低の12位へ後退した。シーズン終了後に沈は監督を辞任し、他の選手と共に中国へ帰国した。同年には11シーズンにわたって活躍した岩渕弘幹が現役を引退した。

沈が監督を辞任して中国へ帰国し、1983年から1988/89年シーズンまで富士通サッカー部の選手だった城福浩が監督となった1996年シーズンにクラブは「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称した。守備の中核としてジュビロ磐田からパウスを迎え、攻撃ではナイジェリア出身の新FWムタイルが期待された。シーズン序盤にはブランメル仙台からブラジル人MFのエンリケを獲得して更なる戦力強化を図り、ムタイルはチーム得点王の11ゴールを挙げて同年のJFLオールスター戦にも出場したが、最終順位は3ランクアップの9位に終わり、中位圏からの躍進はできなかった。

[匿名さん]

#4372020/02/26 01:53
■フロンターレへの移行

一方、運営面では大きな変革を迎えていた。既述通り、1996年3月の旧JFL開幕時に富士通サッカー部は「川崎」の名称を加え、従来は大和市の大和市営大和スポーツセンター競技場や厚木市にある厚木市荻野運動公園競技場での開催が多かった旧JFLの主催試合を市内の等々力陸上競技場で増やせるようになったが、その将来像はまだ明確ではなく、栃木県小山市などでは富士通の誘致を念頭に置いた「Jリーグクラブ招致活動」も行われていた。しかし、富士通は自らの手でサッカー部をプロ化し、川崎市をホームタウンとしてJリーグ参加を目指す事を決定し、10月17日に富士通本社から記者発表を行った。同月には同じ川崎市が本拠地だったJリーグクラブのヴェルディ川崎と等々力で公開練習試合を行って川崎市民への告知を行い、11月21日には「富士通川崎スポーツ・マネジメント株式会社」を設立してチームを法人化し、更にチーム名の公募も始めて、翌シーズンへの準備を進めた。城福監督やコーチ、それに選手の多くはアマチュアだったため、クラブのプロ化による大量の退団・社業専念が実施され、数人のプロ契約選手もムタイル以外は全員が退団した。

その変革の中で臨んだ天皇杯では、11月17日の3回戦でジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグクラブを倒してベスト16に進出した。4回戦は旧JFL閉幕後の12月23日に等々力で行われ、ガンバ大阪に1-3で敗れた富士通川崎サッカー部は歴史に一区切りを付けた。

なお、「富士通川崎サッカー部」なるクラブは、その後フロンターレに参加せず社業に専念する選手により別に作られ、現在神奈川県社会人サッカーリーグ3部リーグ(2013年)に所属している。

[匿名さん]

#4382020/02/26 01:54
■略歴

1955年 : 創部。
1967年 : 関東サッカーリーグ発足と同時に同リーグへ参加。
1972年 : 日本サッカーリーグ(JSL)2部へ昇格。
1977年 : JSL1部へ昇格。
1979年 : JSL2部へ降格。
1992年 : ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ参加。
1996年 : 「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称。
1997年 : 「川崎フロンターレ」へと組織を改編し、「富士通サッカー部」としては消滅。


1995年と1996年のJFLにおける1試合平均観客数は、1995年が1,129人、1996年が1,720人。出典は「週刊サッカーダイジェスト 2008年J1&J2選手名鑑」。


■獲得タイトル

日本サッカーリーグ2部
優勝 : 1回 (1976年)
関東サッカーリーグ
優勝 : 1回 (1968年)


■チーム記録

旧JFLでの最多得点試合
1995年 本田技研戦 ○6-1
旧JFLでの最多失点試合
1993年 フジタ戦 ×0-7


■その後

既述の通り、富士通サッカー部は1997年に「川崎フロンターレ」としてJリーグを目指す法人格のプロクラブへと組織を一新し、1999年にはJリーグに新設された2部(J2)に参加し、2000年には念願の1部(J1)昇格を果たした。この時は1年でJ2へ降格したが、2005年にJ1復帰を果たし、以後定着している。なお、富士通(川崎)サッカー部とフロンターレはスポンサー企業・本拠地・所属選手など多くの点で明確な連続性があるが、公式記録では通算して扱われず、フロンターレのクラブ自己紹介でも「クラブヒストリー」の中で「1992年 ジャパンフットボールリーグ加盟」と触れられるだけである。

[匿名さん]

#4392020/02/26 01:55
フロンターレのJリーグ参入ではJSL1部昇格時の主将だった小浜誠二が運営会社の常務として送り込まれてプロジェクトの中心となり、豊富な資金を与えられて積極的な補強策を展開したが、1998年のJ1参入決定予備戦敗退(「博多の森の悲劇」)を含め、その成果はなかなか挙がらなかった。2000年には前年途中に監督に就任しJ1昇格を実現させた松本育夫をクラブの社長とし、自らは副社長として補強の実権を握ったが、その権限を巡って松本との対立が表面化し、シーズン終了後にJ2降格の責任を問われる形で退社した。2001年、運営体制が一新されたクラブには1982年から3シーズン富士通の監督を務めた福家三男が強化本部長(GM)に据えられ、中長期的な戦力強化や運営会社名の変更などの改革が進められた。

[匿名さん]

#4402020/02/26 01:56
1996年の富士通川崎所属34選手のうち、1997年のフロンターレに登録されたのはムタイルを含む13名で、1999年のJリーグ初年度まで残ったのは伊藤彰・川元正英・久野智昭・小松崎保の4名だった。このうち、J1参入決定予備戦にも出場した川元などはアマチュア契約のまま「社員選手」としてプロ契約選手と一緒にプレーし、1999年限りでの引退後は富士通での社業に専念した。源平貴久も社員選手としてフロンターレに在籍し、1998年限りの引退後は富士通在職のまま母校専修大学のサッカー部でコーチを始め、現在は同部の監督となっている。また、久野は2000年にプロ契約へ切り替え、富士通川崎に在籍した最後のフロンターレ選手として2005年まで現役を続けた後、スカウトやコーチとしてクラブに残っている。一方、小松崎保や伊藤彰は社員選手としてフロンターレでプレーした後、チームからの戦力外通告を受けた際に富士通も退社して他チームでプロ選手となった[14]。 フロンターレへの移行時にムタイル以外のプロ契約選手は全員退団したが、そのうち巻田清一は水戸ホーリーホックの主将に任命され、同時に移籍した3名と共に水戸の創立時メンバーとなった。また、蓮見知弘は東京ガスに移籍し、巻田らと同様に旧JFLでフロンターレと対戦した。

[匿名さん]

#4412020/02/26 01:56
富士通川崎の監督だった城福浩は監督続投の希望が容れられずに富士通での社業専念となったが、プロの指導者としてサッカーに携わる希望が強く、1998年には富士通川崎と同様に同じく旧JFLの企業内部活動(東京ガスサッカー部)からJリーグクラブへの転換を目指す「FC東京設立準備室」に参加するために富士通を退社した。その後、2008年から2010年途中まではFC東京のトップチーム監督となり、フロンターレと対戦した。この他にも富士通からFC東京へ移動したスタッフがおり、この両チームのJリーグでの対戦を「多摩川クラシコ」として盛り上げる共同キャンペーンの素地となった。 一方、城福の下でヘッドコーチを務めていた安部一雄はフロンターレの運営委員となり、その後にU-18チーム監督に就任した。高畠勉も斉藤和夫新監督の下でフロンターレのコーチとなり、その後2008年と2010年には監督となった。富士通川崎でコーチ生活を始めていた岩渕弘幹もフロンターレのコーチへ残留し、現在はフロンターレで育成普及を担当をする傍ら、専修大学サッカー部コーチとして源平監督を補佐している。

沈祥福は中国に帰国した1996年から中国サッカー・スーパーリーグ所属で古巣の北京国安でコーチ・監督となり、その後は2002年W杯でW杯初出場を果たした中国代表のコーチや2004年アテネ五輪予選のU-23中国代表監督などを務めた。その後は北京国安の監督に復帰するなどの後、2010年には長春亜泰の監督としてAFCチャンピオンズリーグ(ACL)で鹿島アントラーズと対戦した。魏克興は北京国安のコーチとなり、2010年シーズンではACLでフロンターレと対戦した後、9月からシーズン終了まで同クラブの監督を務めた。

[匿名さん]

#4422020/02/26 02:37
この他、富士通サッカー部出身の著名なサッカー指導者としては大木武が挙げられる。大木は1984年から1990/91年まで富士通でプレーし、引退後は母校の東京農業大学サッカー部でコーチを務めた後、1993年に富士通を退社して清水エスパルスのユースチーム監督へ就任した。


■富士通サッカー部の選手


浅野裕史

伊藤彰 (サッカー選手)
今井敏明
岩渕弘幹

浮嶋敏

大木武
太田貴光
沖宗敏彦

川元正英

岸本浩右

久野智昭
カルロス・エンリケ・クペール・カルドーソ

源平貴久

高升 (サッカー選手)
小島光顕
小林慎二
小松崎保

境秋範

城福浩
申在範

高畠勉
武田信平

沈祥福

中村一義 (サッカー選手)

アンドレ・パウス
蓮見知弘

福家三男

保坂信之

巻田清一
牧野安正
松田岳夫

望月豊仁
ムタイル・モモドゥ

柳田伸明

呂洪祥

[匿名さん]

#4432020/03/01 00:02
東芝堀川町サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。東芝のサッカー部として1935年に創部した。神奈川県川崎市幸区堀川町の東芝川崎事業所に本拠地を置いていた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の北海道コンサドーレ札幌の前身となったクラブである。


■呼称
東芝
■クラブカラー
赤と黒
■創設年
1935年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ他
■ホームタウン
神奈川県川崎市
■ホームスタジアム
等々力陸上競技場


■概要

1935年創部。1970年代後半以降、本格的な強化が始まった。1977年に全国社会人サッカー選手権大会優勝。翌1978年に日本サッカーリーグ(JSL)2部昇格、1979年には優勝を果たしJSL1部との入替戦に挑戦するが日産自動車サッカー部に敗れ昇格は果たす事は出来なかった。当時の選手には中村道明(永大産業サッカー部等に所属)がいた。

1980年に「東芝サッカー部」と改称。1981年に大西忠生を監督に迎え、同年にJSLカップ優勝、1982年度にはリーグ2位となり再び入替戦に挑戦するが本田技研に敗れ今回も1部昇格を果たす事は出来なかった。1987年に高橋武夫が監督に就任、1989年に念願の1部昇格を果たした。

1990年代初頭にはウルグアイ代表のウーゴ・デレオン、ペドロ・ペデルッチや実力派日本人選手の向島建、堀孝史らを擁し、昇格2年目の1990-91シーズンとJSL最後のシーズンとなった翌1991-92シーズンに2シーズン連続で4位に入る成績を収めた。

[匿名さん]

#4442020/03/01 00:03
しかし同サッカー部はJリーグ参加へ名乗りを挙げなかった為、1992年からは実質的な下部リーグであるジャパンフットボールリーグ(旧JFL)への参加となった。1993年度にホルヘ・ルイス・デリー・バルデスの活躍もあってJFLで3位となったものの、Jリーグでのプレーを希望する選手の流出もあってJFLでは中堅クラブの位置に留まっていた。

その後、1990年代半ばに北海道でのプロサッカークラブ誘致活動を受けると、これを承諾。1996年に新しく運営会社「株式会社北海道フットボールクラブ」が設立され、「コンサドーレ札幌」と改称された。ただし、コンサドーレ札幌には東芝の社員選手も何人か在籍することになった。

ユニフォームは当初は上下赤の物を着用していたが、当時チームに在籍していた石崎信弘の発案で、1990-91シーズンから石崎が好きなACミランにあやかり、赤と黒のストライプの物を着用する様になった。これはコンサドーレ札幌にも受け継がれている。

なお、東芝は現在、サッカー部のお膝元であった川崎市を本拠地とするJリーグ ディビジョン1・川崎フロンターレの協賛スポンサーとして、ピッチ看板を提供している。また東芝社員によるサッカーチームは、改めて結成された「東芝イーグルス(2016年にTOSHIBA EGS)」として、東京都社会人サッカーリーグ2部に在籍しており、公式サイトにも「TOSHIBA EGS since1935」のロゴや、「創部1935年」との説明が書かれてある。

[匿名さん]

#4452020/03/01 00:04
■略歴

1935年 東芝堀川町サッカー部創部
1977年 全国社会人サッカー選手権大会優勝
1978年 日本サッカーリーグ2部昇格
1979年 日本サッカーリーグ2部優勝
1980年 東芝サッカー部に改称
1981年 JSLカップ優勝
1988/89年 日本サッカーリーグ2部優勝(2回目)
1989/90年 日本サッカーリーグ1部昇格
1992年 第1回ジャパンフットボールリーグ1部参加
1995年 東芝サッカー部として最後のシーズン。1996年からは札幌市に移転しコンサドーレ札幌となる。


■歴代監督

清水曙 1976-1980、1986
大西忠生 1981-1985
高橋武夫 1987


■東芝堀川町サッカー部に所属した主な選手

石崎信弘
川勝良一
ウーゴ・デレオン
ペドロ・ペデルッチ
アレハンドロ・ルイディアス
向島建
パベル・ジェハーク
ホルヘ・ルイス・デリー・バルデス
鈴木将方
堀孝史
白井淳
川合孝治
村田達哉


■「Category:東芝サッカー部の選手」も参照


浅沼達也
エドゥアルド・アセベド

石崎信弘

落合弘

加藤正明 (サッカー選手)
唐井直
川合孝治
川勝良一

木島敦

櫛引実

白井淳
新明正広

鈴木政紀

高橋武夫
高本詞史

千葉泰伸

ホルヘ・ルイス・デリー・バルデス
ウーゴ・デレオン

中込正行

パベル・ジェハーク

ペドロ・ペデルッチ

保坂孝
保坂不二夫
堀孝史

向島建
村田達哉

山路嘉人

アレハンドロ・ルイディアス

[匿名さん]

#4462020/03/04 03:17
NEC山形サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。山形日本電気(NEC山形)のサッカー部として1984年に創部し、1996年から1998年まではアマチュア組織のままでチーム名を「モンテディオ山形」と呼称した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するモンテディオ山形の前身となったクラブである。


■呼称
NEC山形(1984年 - 1995年)
モンテディオ山形(1996年 - 1998年)
■創設年
1984年
■ホームタウン
山形県
■ホームスタジアム
山形県総合運動公園陸上競技場他


■概要

1984年に山形日本電気の鶴岡工場内で創部された「山形日本電気サッカー同好会」からスタートし、1985年に山形工場内へ本拠地を移転した。

1987年、鶴岡地区リーグ在籍時に地元で1992年に開催の第47回国民体育大会(べにばな国体)のサッカー競技承引企業に指定され、地元の有力高校から強化指定選手を採用するなど本格的に強化。1989年に発足した山形県社会人サッカーリーグで優勝した。

1990年より東北社会人サッカーリーグに昇格。その年の東北リーグはリーグ2連覇中のTDKサッカー部(現:ブラウブリッツ秋田)などが所属していたが、12勝2分(無敗)、得失点差+36の成績で初出場初優勝を飾った。また、全国地域サッカーリーグ決勝大会(地決)に初めて参加し、東京ガスサッカー部(現:FC東京)などと同組のグループAに入ったが1勝1敗の成績でグループリーグ敗退。また、天皇杯全日本サッカー選手権大会の東北予選を突破して本戦へ初めて出場(1回戦で全日空サッカークラブに敗北)。

[匿名さん]

#4472020/03/04 03:18
1991年、東北リーグは14戦全勝の成績で2位の東北電力サッカー部(現:ベガルタ仙台)に勝ち点8差を付けて2年連続の優勝(2度目)。初出場となった全国社会人サッカー選手権大会(全社)は準々決勝でPJMフューチャーズに敗北するがベスト8の成績。地決はグループAを1勝1分の成績で突破したが、決勝ラウンドは2分1敗で4チーム中最下位に終わった。

1992年、東北リーグは11勝2分1敗の成績で2位の東北電力に勝ち点5差を付けて3年連続の優勝(3度目)。地決はグループAを2戦2勝で突破。決勝ラウンドはPJMなどと同組となったが1勝1分1敗で4チーム中3位の成績で上部リーグへの昇格は成らなかった。なお、べにばな国体は成年1部で6位に入賞した。

1993年、東北リーグは13勝1分(無敗)の成績で2位の東北電力に勝ち点3差を付けて4年連続の優勝(4度目)。全社は2回戦で藤枝市役所サッカー部に敗北。地決はグループAを1勝1分の成績で突破。決勝ラウンドは日本電装(現:FC刈谷)などが同組となり1勝1分1敗の成績で4チーム中2位に入りジャパンフットボールリーグ2部の下位チームとの入れ替え戦に出場。1回戦は西濃運輸サッカー部に敗れたが、敗者復活戦で日本電装に勝利して東北地方に本拠地を置くクラブとして初めてのJFL昇格を果たした。

1994年よりジャパンフットボールリーグ(JFL)へ昇格、この年の天皇杯で初めてJリーグ加盟クラブと対戦(1回戦:相手は名古屋グランパスエイト)。1995年より石崎信弘が監督に就任。

[匿名さん]

#4482020/03/04 03:19
1996年、将来のJリーグ昇格に向けて「NEC山形」からチームの名称変更を実施する事になった。県民などによる一般投票(投票総数1570票)の結果、「モンテディオ山形」、「オラクロス山形」、「ヴァーテクス山形」、「アルテリア山形」、「山形セレノール」という5つの名称候補の中から最多の490票を獲得した「モンテディオ山形」に決定し、アマチュアチームのままチーム名をモンテディオ山形へ変更。なおNEC系列のスポーツクラブでは、基本的に「○○ロケッツ」(○にはチームカラーの英語名が入る)を使っているが、モンテディオ山形は、かつてバレーボール女子リーグに加盟した「NEC関西レイクスターズ」と同様に「○○ロケッツ」を使用しなかった。

1999年からのJリーグ加盟に向け、1996年9月、山形県サッカー協会・モンテディオ山形後援会・NEC山形による「モンテディオ山形法人設立準備室」が設置され、法人化に向けた準備を開始する。しかし、行政・NEC山形以外の出資企業が現れない為にJ2参入条件の一つである法人設立が難航した。1997年4月、当時のチーム運営母体のNEC山形が、法人化が実現しなかった場合の当年限りのJFL撤退を表明(但しユニフォームのスポンサー協賛は継続)し、山形県内の企業に法人化に向けた支援を求めた。

[匿名さん]

#4492020/03/04 03:20
その後、同年5月には後に山形県副知事ならびに山形県スポーツ振興21世紀協会理事長となる山形県教育長の金森義弘が積極的な行政支援を表明するなど、法人設立に向けての活動が促進され、1997年9月29日、モンテディオ山形法人設立準備室は運営母体を社団法人としてクラブを運営するとし、1998年2月に社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会が設立され、プロ化した。なお、1998年シーズンは一時期首位に立つも最終的には3位になった。その後、クラブは1999年よりJリーグへ加盟して、Jリーグ ディビジョン2(J2)へ参加した。


■スタジアム
山形市陸上競技場
山形県総合運動公園陸上競技場 (1994年および1996年以後の本拠地)
山形市陸上競技場 (1995年に山形県総合運動公園陸上競技場の改修期間に伴い、本拠地として使用)。
鶴岡市小真木原陸上競技場
山形県野球場 (1994年のみ。当時県内にナイターが可能な球技場がなかったため)


■タイトル・主な成績

◇リーグ戦
東北社会人サッカーリーグ
優勝(4回):1990, 1991, 1992, 1993
山形県社会人サッカーリーグ
優勝(1回):1989

◇その他
全国地域サッカーリーグ決勝大会
準優勝(1回):1993年(第17回)
3位(2回):1991年(第15回)、1992年(第16回)


■モンテディオ山形と異なる点

現在はかつてのNEC山形創設時から今日に至るまでの経緯により、「山形市・天童市・鶴岡市を中心とした山形県全域」をホームタウンと位置づけており、J2初期のころは山形県陸上競技場(現・NDソフトスタジアム山形)のほか、山形市陸上競技場、鶴岡市小真木原陸上競技場でも主催試合をしていた。

[匿名さん]

#4502020/03/04 03:21
その後、同年5月には後に山形県副知事ならびに山形県スポーツ振興21世紀協会理事長となる山形県教育長の金森義弘が積極的な行政支援を表明するなど、法人設立に向けての活動が促進され、1997年9月29日、モンテディオ山形法人設立準備室は運営母体を社団法人としてクラブを運営するとし、1998年2月に社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会が設立され、プロ化した。なお、1998年シーズンは一時期首位に立つも最終的には3位になった。その後、クラブは1999年よりJリーグへ加盟して、Jリーグ ディビジョン2(J2)へ参加した。


■スタジアム
山形市陸上競技場
山形県総合運動公園陸上競技場 (1994年および1996年以後の本拠地)
山形市陸上競技場 (1995年に山形県総合運動公園陸上競技場の改修期間に伴い、本拠地として使用)。
鶴岡市小真木原陸上競技場
山形県野球場 (1994年のみ。当時県内にナイターが可能な球技場がなかったため)


■タイトル・主な成績

◇リーグ戦
東北社会人サッカーリーグ
優勝(4回):1990, 1991, 1992, 1993
山形県社会人サッカーリーグ
優勝(1回):1989

◇その他
全国地域サッカーリーグ決勝大会
準優勝(1回):1993年(第17回)
3位(2回):1991年(第15回)、1992年(第16回)


■モンテディオ山形と異なる点

現在はかつてのNEC山形創設時から今日に至るまでの経緯により、「山形市・天童市・鶴岡市を中心とした山形県全域」をホームタウンと位置づけており、J2初期のころは山形県陸上競技場(現・NDソフトスタジアム山形)のほか、山形市陸上競技場、鶴岡市小真木原陸上競技場でも主催試合をしていた。

また、昇格当時は山形県内にJリーグ・JFLの公式戦に必要なナイター設備を整えた球技場が存在しなかったため、1994年に限り山形県野球場を間借りして数試合を主管したことがあった。1995年に山形市陸上競技場、1996年に山形県陸上競技場にそれぞれ照明塔が完成しナイター開催も可能となった。

[匿名さん]

このスレッドは1000件に達しました。これ以上書き込み出来ません。





🌐このスレッドのURL





📑関連掲示板