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NO.7201210

デッツォーラ島根④
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#4512020/03/08 03:41
全日空横浜サッカークラブは、かつて存在した日本のサッカークラブ。全日本空輸の子会社である全日空スポーツが運営をしていた。呼称は全日空。かつて日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟していた横浜フリューゲルスの前身となったクラブである。


■呼称
全日空
■クラブカラー
白と青
■創設年
1964年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ他
■ホームタウン
神奈川県横浜市
■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
三ツ沢公園球技場


■概要

1964年に横浜市中区スポーツ少年団として創設、当初は小学生から社会人の各年代のチームを擁する市民クラブであった。

1975年に横浜サッカークラブに改称。1979年から全日空が資金援助を行い名称は当時の全日空の主力機であったロッキード L-1011 トライスターに肖った横浜トライスターサッカークラブへ変更された。1984年に日本サッカーリーグ(JSL)1部昇格を決めた事を契機に、全日空は完全出資の子会社「全日空スポーツ株式会社」を設立し、全日空横浜サッカークラブに改称、本格的な経営に乗り出した。

しかし1985年シーズンのJSL1部では最下位と低迷を続け、来期に向けた選手との契約問題のもつれからボイコット事件(後述)が発生し、選手や関係者が処分される事態に発展した。

[匿名さん]

#4522020/03/08 03:42
その後、名古屋相互銀行や永大産業で選手、指導者経験のある塩澤敏彦を監督に迎えると、1988年に1部復帰を果たし全日空サッカークラブに改称。前田治やフェルナンド・ダニエル・モネールらを擁して1988-89シーズンのJSL1部では2位、翌1989-90シーズンでは3位。天皇杯では1988年と1989年に2年連続でベスト4進出を果たした。

1991年に塩澤に代わって日産自動車の監督として実績のある加茂周が監督に就任。加茂は当時世界最先端の戦術であったゾーンプレスを導入するため、スロベニアからズデンコ・ベルデニックをコーチとして招聘し、戦術の浸透に務めた。

中区スポーツ少年団時代から使用していた戸塚グラウンドは、2006年シーズンまで横浜F・マリノスが、2007年から横浜FCがそれぞれ練習グラウンドとして使用している。


■略歴

1964年 横浜市中区スポーツ少年団として設立
1983年 JSL2部昇格
1984年 JSL1部昇格
1985年 JSL2部降格
1988年 JSL1部昇格


■タイトル

◇リーグ戦
関東サッカーリーグ1部:1回
1983年
◇カップ戦
全国地域リーグ決勝大会:1回
1983年

[匿名さん]

#4532020/03/08 03:43
■ボイコット事件

1986年3月22日、第21回日本サッカーリーグ第22節の対三菱重工戦(国立西が丘サッカー場)において、かねてから全日空によるクラブ運営に不満を抱いていた全日空クラブ所属の登録選手6名が試合をボイコットする事態が発生した。

全日空クラブは、この試合を残りの登録選手10名(うち先発メンバーは8名)で行い、1対6で三菱に敗れた。ルール上、1チーム7名以上の選手が出場していれば試合は成立するが、このリーグ史上初の不祥事に日本サッカー協会は、試合をボイコットした6選手に対して無期限登録停止、全日空クラブに対し翌シーズンのJSLカップを含む3か月間の公式戦出場停止の処分を下した。

なお、この時ボイコットした選手のうちの1人と、この年を最後に全日空横浜サッカークラブを退団した選手のうちの1人が、同年9月に「横浜スポーツクラブ(現:横浜スポーツ&カルチャークラブ(Y.S.C.C.横浜))」を設立した。

※ 詳細は「全日空横浜サッカークラブ・ボイコット事件」を参照

[匿名さん]

#4542020/03/08 03:44
■歴代監督

西海輝(1970年 - 1971年)
森豊(1972年 - 1974年)
田中豊(1975年)
森本孝光(1976年)
久保英夫(1977年 - 1983年)
栗本直(1984年 - 1985年)
塩澤敏彦(1986年 - 1991年)
加茂周(1991年 - 1992年)


■全日空に在籍した主な選手

李国秀
上野展裕
水島武蔵
反町康治
山口素弘
田口禎則
前田治
ピッコリ
モネール


■参考文献
加茂周 『モダンサッカーへの挑戦』講談社、1994年 ISBN 978-4062071147

[匿名さん]

#4552020/03/11 11:45
住友金属工業蹴球団は、かつて存在した日本のサッカークラブ。住友金属工業(現・日本製鉄)のサッカー部として1947年に創部され、始めは大阪府、1975年からは茨城県鹿島郡鹿島町(現在の鹿嶋市)を拠点として活動していた。略称は住金。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する鹿島アントラーズの前身となったクラブである。


■呼称
住友金属、住金
■クラブカラー

■創設年
1947年
■ホームタウン
茨城県鹿島郡鹿島町
■ホームスタジアム
住友金属鹿島製鉄所
総合グラウンド陸上競技場
収容人数
5.000人


■概要

◇歴史
1947年に同好会(住友金属工業蹴球同好会)として創設。1956年に正式にサッカー部となり、会社から援助が受けられる「団」へ昇格した。

1969年に関西サッカーリーグに昇格したが、優勝した京都紫光クラブ(現:京都サンガF.C.)に2戦合計で0-9で敗れる等で最下位に沈み、1年で降格した。

1973年に関西リーグに復帰して優勝。全国社会人サッカー選手権大会で優勝。羽衣クラブとの入れ替え戦に勝利。

1974年から日本サッカーリーグ (JSL) 2部へ昇格した。

[匿名さん]

#4562020/03/11 11:47
1975年に大阪本社から稼動したばかりの鹿島製鉄所がある茨城県鹿島町(現在の鹿嶋市)に移転した。これ以降に本格的な強化が始まり、1985年にJSL1部に昇格した。

JSL1部には1985年、1987-88年、1988-89年の3シーズンを過ごしたが、Jリーグ入りが承認された1991年当時はJSL2部に所属していた。

日本リーグ時代の主要な試合会場は住友金属鹿島製鉄所総合グラウンド陸上競技場(ナイター設備あり 5000人収容)で行われた。現在の鹿島アントラーズクラブハウスグラウンドが出来る前はアントラーズ・トップチームの練習会場、Jサテライトリーグの試合会場でもあった。


■鹿島アントラーズ設立の経緯

住友金属の事業所の中で鹿島製鉄所は中核を成していたが、街と周辺地域は魅力に乏しく、社内でも鹿島への勤務や転勤は敬遠されがちであった。一般的に人気の無い勤務先は活気に欠け、それが業務効率低下にも繋がる恐れがあり、街の活性化は会社としても最重要課題であった。そこで住友金属本社は1990年5月に「2000年ビジョン」を発表した。その中には「地域社会に貢献する住友金属」という趣旨の項目が含まれていた。

こうした思惑は、1980年代後半の日本サッカー界のプロ化への動きと合致し、1989年にプロサッカーリーグ設立が具体化し「プロリーグ検討委員会」からプロリーグ参加への聞き取り調査が行われた際には、名乗りを上げることになった。しかし、参加候補を選考する過程において、住友金属の前述の成績や、都市としての規模の小ささから集客能力に問題があるとして関係者からは住友金属のプロリーグ入りに批判的な意見が大半を占めた。

[匿名さん]

#4572020/03/11 11:47
1991年に元ブラジル代表のジーコを獲得。また地元自治体の支援を受け国内初となる全席オールシートのサッカー専用スタジアム(茨城県立カシマサッカースタジアム)の建設を発表するとこれが決定的な要因となり、初年度からのJリーグ参加が決定した。

1991年10月に地元の5自治体と43企業の出資からなる株式会社株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーを設立。1992年3月のJSL閉幕をもって、蹴球団としての活動を終えた。

※ 詳細は「鹿島アントラーズ#歴史」を参照


■略歴

1947年 : 住友金属工業蹴球同好会として創部。
1956年 : 住友金属工業蹴球団に名称を変更。
1973年 : 関西サッカーリーグ優勝。全国社会人サッカー選手権大会優勝。
1974年 : 日本サッカーリーグ (JSL) 2部昇格。
1975年 : 本拠地を大阪から茨城県鹿島町に移す。
1984年 : JSL2部優勝、JSL1部へ昇格。
1986年 : JSL2部降格。
1987年 : JSL1部昇格。第12回JSLカップ準優勝。
1989年 : JSL2部降格。
1991年 : Jリーグ加盟が承認。株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーを設立
1992年 : 蹴球団としての活動を終える。


■タイトル

◇リーグ戦
関西サッカーリーグ1部:1回
1973年
JSL2部:2回
1984年、1986年
カップ戦 編集
全国社会人サッカー選手権大会:1回
1973年


■歴代監督

種田孝一 1947年-1956年
松田太郎 1957年-1960年
皆木忠夫 1961年-1964年
木村俊郎 1965年-1973年
山本栄治 1974年-1978年
中村潤吉 1979年-1984年
野見山篤 1985年-1988年
鈴木満 1989年-1992年

[匿名さん]

#4582020/03/11 11:49
■住友金属工業蹴球団に在籍した主な選手

ジーコ
手倉森浩
手倉森誠
副島博志
藤代伸世
江本城幸
大野俊三
賀谷英司
石井正忠
真中靖夫


■「Category:住友金属工業蹴球団の選手」


石井正忠

江本城幸

大野俊三 (サッカー選手)
大場健史
岡本賢二
奥友敏朗

垣田健
賀谷英司
川地貴裕

佐藤洋平
里内猛

ジーコ
城祐万

鈴木満 (サッカー選手)

副島博志

手倉森浩
手倉森誠

根岸誠一

野見山篤

平野雅義

福井勲
藤代伸世
藤本義一 (サッカー選手)

眞中靖夫

[匿名さん]

#4592020/03/11 11:50
■関係する人物

鈴木昌 - 住友金属工業蹴球団、団長。株式会社株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー元代表取締役社長。


■参考文献

茨城県サッカー協会50年史編集委員会『茨城サッカー五十年のあゆみ』茨城県サッカー協会、1997年2月。NCID BA34610527。

鹿島アントラーズFC『鹿島アントラーズ栄光の10年 : Football dream 1992-2001』ベースボール・マガジン社、2001年10月。ISBN 4-583-03667-1。

[匿名さん]

#4602020/03/15 00:06
【あの日、その時、この場所で】川淵三郎/前編 Jリーグは2DKの一室から始まった

2019年10月17日 17時30分 【サッカーダイジェストWeb】


ゴールは果てしない。しかし日本代表が7大会連続出場を狙うW杯2022年カタール大会のアジア2次予選はもうスタートした。「ドーハの悲劇」(93年アジア最終予選イラク戦)にピッチで打ちのめされたMF、森保一(51歳)が、四半世紀を経て、日本代表を率いて同じカタール・ドーハにたどりつこうとしているのも不思議な巡り合わせだ。

 Jリーグの開幕は1993年5月だが、プロリーグを発足させるため「プロリーグ準備検討委員会」が初めて設置されてから、実は今年でちょうど30年となる。

 準備室長からJリーグ初代チェアマン、チェアマンから日本サッカー協会会長と、日本サッカーを昭和、平成とけん引してきた川淵三郎キャプテン(82歳)が令和を迎え、歴史の原点となった場所を再訪し、改めてそれを留める「あの日、その時、この場所で」。

 川淵が「最初の事務所」と形容した九段コーポラスからスタートする。



「そこがJリーグの、本当に最初の場所」と記憶に刻む「九段コーポラス」跡地に立ち、外堀通りに近い坂下から靖国通りに続くなだらかな坂を確認するように川淵は少し沈黙し、クスリと笑った。

「それにしても、全く懐かしくないなぁ」

 同マンションは08年、すでに11階建ての「住友不動九段北ビル」になっており、当時の面影と呼べるようなものは周囲にも何ひとつ残っていないのだから無理もない。

[匿名さん]

#4612020/03/15 00:06
 1989年6月、日本サッカー協会はプロ化を目指して「プロリーグ準備検討委員会」を設置。13回もの同検討委員会を経て、91年2月には「オリジナル10」と呼ばれるリーグ最初の10クラブが決定し、3月「プロリーグ設立準備室」が立ちあがった。

 その時、Jリーグのプロモーションを担う博報堂の紹介で「初めて構えた、本当に最初の事務所らしきもの」(川淵)が、九段コーポラスの一室だった。

 事務局メンバーは、準備室室長の川淵、日産自動車から準備室事務局長として加わった佐々木一樹(後にJリーグ事務局長)、当時博報堂に勤務していた加賀山公、豊野輪華子のわずか4人。プロ誕生に向けて本格的に華々しいスタートを切った、わけではなく、部屋の間取りは2DK、折り畳み式のベッドを引き出しに収納してから仕事を始めるようなひっそりとした船出だった。

 Jリーグが広報誌として発行し続ける「Jリーグニュース」記念すべき第一号でも、最初の事務所と記載されているのは九段下の後に移転した、神田の雑居ビルであるから、2DKのマンションが「初代事務所」だった時代を知る人物も、少なくなってしまったのだろう。

「あれから一度もここには来ていないだろうから、懐かしいような、懐かしくないような不思議な気分になるね。マンションは当時でさえとても古い公団住宅のような作りで、相当年季が入った感じだった。それでもあの頃はサッカーのために事務所を借りるなんて、そういう感覚もお金も全くなかったわけだから、博報堂の厚意でここを紹介してもらったのは有難かった。僕がJリーグの本当に最初の場所、と今でもここを記憶している理由は、自分たちで初めてサッカーの事務所と呼べる場所を構えた、そういう気持ちが強く残っているからだろう」

[匿名さん]

#4622020/03/15 00:08
 4人の事務局員に担当はなかった。オールラウンダーといえば聞こえはいいが、実際には役割分担をする余裕もなかったからだ。

「あまりの忙しさに、担当も何もあったもんじゃなかったんです。今も鳴りっぱなしだった電話を思い出すくらいですから。本当に大変だった」

 加賀山はそう振り返って笑う。

 プロリーグへの問合せや確認の電話は朝からずっと切れる間がなく、電話の嵐がやっと収まるのは夜遅くなってから。しかし、小さな秘密基地のような場所で、Jリーグの理念の根幹を成す重要な言葉や理念が検討された。

 川淵は、スピーチを頼まれれば個人ならばその人物像を、企業、団体ならば背景やエピソード、さらに場を盛り上げるためには時流を捉えた話題を必ず交えて自ら原稿を書く。これだけ長く、多くのスピーチを行なってきたが、「スピーチライター」は一切頼まず常に自分で原稿を書き上げている。それは、「自分の言葉」で発信する力、魅力をもっとも重要だと考えているからだ。だからこそ、これまでにないプロサッカーリーグを、新鮮でオリジナリティのある存在として表現するために「言葉にこだわって考えよう」と、よく佐々木、加賀山たちに話していたという。

[匿名さん]

#4632020/03/15 00:09
 日本では使われていなかった「チェアマン」(理事長)の名称はよく知られる。他にもプロ野球で使われていた「フランチャイズ」。興行権の意味合いが強く、サッカーで使うには違和感がある。様々な表現を考え、一度は「本拠地」としたが、どこか馴染めず新しさもない。事務局、関係者が議論した結果、最後は「ホームタウン」となった。ホームタウンにはまさに新しい響きが備わり、その後、スポーツが企業を離れ、地域がスポーツを盛り上げるといった日本社会の構造的な転換にも影響力を発揮した。91年11月に発表されたリーグ名も、新しいものだった。

「この場所は、本格的に準備に取り掛かろうとした、言ってみれば勝負が始まった場所だったと思う。段取りの時代といってもいいのかもしれない。何もかもか手探りだったけれど、とにかく色々な場所に出掛けて説明して、対話をして、理解を得る、それを繰り返す毎日だった。社団の名前を決める際も、(当時)文部省からプロ野球は、機構、と漢字を使っており、プロサッカーリーグ、とカタカナで表記するのは社団の名前では前例がないと説明された。それまで企業の福利厚生費や広告宣伝費でまかなわれていたサッカークラブの運営費も、プロになって、企業の出費としてどう課税されるのかも調べる必要があった。国税庁を訪ねて話を聞いたり、資料を読んだり……本当に段取りのためにあちこち走り回ったね。ただバブル期の頂点だったので、経済面では強気で考えられたし、クラブを持つ企業は、僕らが官公庁で何か交渉する際は必ず、役員クラスの助言や紹介の根回しをして下さったんで、皆さんに理解して頂くのは案外早い印象だった」

[匿名さん]

#4642020/03/15 00:10
 当時54歳、古河電工から古河産業に出向しており、仕事を抱えながら週4回は事務所に足を運んだ。古河産業の日本橋オフィスから事務所に行き、時には、事務所がひと段落するともう一度会社に戻って業務をこなし千葉へ帰宅する日もあった。

 一口坂(ひとくちざか)の傾斜はとても緩やかで、外堀通りから事務所を目指して坂を上っていく時間はほんの少しだけ歩みを遅らせ、プロリーグは一体どんなものになるのだろうか、と考え事をするのに適していたのかもしれない。

 取材の終わりに、もう一度、坂道を振り返って見つめた。

「坂道だけは覚えている。あの頃、日本サッカーの未来を考え意気揚々と、なんていう明るい気持ちじゃなくて、かといって不安だけでもなかった。何か確信を持って段取りしていたわけではなかったから、本当に手さぐりで、手さぐりで……坂道を、沈思黙考(黙って深く考える様子)で上がっていた。そんなところだろうか」

 沈思黙考の坂道を数か月で離れ、1991年11月、文部省が当初賛成しなかったカタカナで「日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)」が設立される。川淵は30年勤務した古河電工を退社し、「初代チェアマン」に就任した。Jリーグ開幕まで1年半となっていた。


取材・文:増島みどり(スポーツライター)

[匿名さん]

#465
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#4662020/03/18 03:06
1991年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市(合併前は清水市)。ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平、練習場はエスパルス三保グラウンド。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する。1993年のJリーグ開幕を戦った10クラブ(オリジナル10)の一つで、10クラブの中では唯一母体となるクラブが実業団ではなく、かつ日本サッカーリーグ (JSL) に加盟していないクラブである。発足時の運営会社は株式会社エスラップ・コミュニケーションズ、1998年2月1日以降は株式会社エスパルス。

クラブマスコットは、パルちゃん(名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生したピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示す星より)、パルちゃんの妹的な存在に当たるこパルちゃんである。パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されている。

[匿名さん]

#4672020/03/18 03:07
■クラブ発足の経緯

1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した堀田哲爾によって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた。選抜チームのオール清水(清水FC)はJFA全日本U-12サッカー選手権大会にて優勝8回を数え、高校選手権では市内の学校(清水東高・清水商・東海大一)が1980年から1988年の間に7度決勝進出(うち優勝4回)を重ね、多数のサッカー選手を輩出している地域であった。

また、1991年には静岡県で行われた高校総体サッカー競技のメイン会場として、日本平運動公園球技場が完成。開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられた。

Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く静岡県社会人サッカーリーグ所属の「清水FC」が初年度の参加チームとして選抜された。

[匿名さん]

#4682020/03/18 03:08
■1991年〜1992年(静岡県リーグ)

◇1991年
5月、清水FCの運営企業として、テレビ静岡をはじめとして中日新聞東海本社、フジテレビジョンなどが出資、市民からも1割の持株を募り、株式会社エスラップ・コミュニケーションズを設立。チーム名を清水FCエスパルスと定め、企業チームとの差別化を図った。初代監督にはエスピノーザが就任。クラブ創設に伴い、堀池巧、大榎克己、長谷川健太の“清水東三羽烏”をはじめ、初代主将となる三浦泰年や澤登正朗など地元出身の選手が加入した。

◇1992年
6月、エスピノーザに代わりエメルソン・レオンが監督に就任。7月4日には長居陸上競技場にてガンバ大阪とのプレシーズンマッチが開催された。クラブでは初試合となったこの日を「エスパルスの誕生日」としている。1992Jリーグヤマザキナビスコカップでは準優勝を果たしている。

◇1993年(Jリーグ)
5月15日、Jリーグ開幕。翌16日の三ツ沢球技場で開催された横浜フリューゲルスとの試合が開幕戦となった。1stステージは10チーム中4位と健闘。2ndステージ第2節からGKシジマールが加入すると、第3節から6戦連続無失点で6連勝を果たし、一時は首位に立つなど快進撃を見せた。2ndステージは14勝4敗で2位となり、1993Jリーグヤマザキナビスコカップの準優勝、天皇杯のベスト4進出と好成績を収めた。

[匿名さん]

#4692020/03/18 03:10
■エスパルス栄誉賞

クラブ在籍中の活躍や貢献が著しかった選手・監督・スタッフに対し「エスパルス栄誉賞」を授与、その功績を称える。 原則として移籍・引退・退任等でクラブから離れる際に表彰する。

1999年 スティーブ・ペリマン、長谷川健太、堀池巧
2000年 カルロス・サントス
2002年 大榎克己
2005年 真田雅則
2006年 澤登正朗
2010年 伊東輝悦、市川大祐
2014年 齊藤俊秀


■引退試合

Jリーグ引退試合
S-PULSE ALL STARS vs JAPAN ALL STARS
2007年1月21日 『鈴与グループPRESENTS 澤登正朗引退試合』
2018年1月8日 『鈴与グループPRESENTS 市川大祐引退試合〜THANK YOU FOR FOOTBALL〜』


■スタジアム・練習場

◇ホームスタジアム
ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平(正式名称:静岡市清水日本平運動公園球技場)。1994年に客席増設工事を実施した期間を除き、ほぼ全ての試合を開催している。2001年に開場された静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパスタジアム)でも一部の試合を開催している。

◇練習場
練習場はエスパルス三保グラウンド、三保移転前は蛇塚グラウンドを使用。過去には静岡市清水総合運動場も使用していた。

[匿名さん]

#4702020/03/18 03:11
◇新スタジアム構想
IAIスタジアム日本平は2013年から発効している「Jリーグクラブライセンス制度」の「スタジアムに関する規定」を満たしていない。

スタジアム規定では「A等級基準」である収容人員15000人以上(J1基準)は満たしているものの、「観客席の屋根を競技場の1/3以上覆うこと」や「トイレ(洋便座)を1000人当たり5台以上設置する」ことを求めている。現在の日本平にはメインスタンドの中央部の一部とバックスタンド(東側一部除く)しか屋根が敷設されておらず、基準を満たしていないことが問題になっている。

エスパルスは静岡市に対してライセンス規格に沿った新スタジアムの建設を2014年7月、同市長の田辺信宏に対し要望書を提出した。田辺のこのスタジアム計画については2015年度からの静岡市第3次総合計画の審議に組み入れられ、2014年11月までに具体化することを目指している。

有力な候補地として、葵区にあるJR東海東静岡駅北の約2.5haの市所有地が挙げられている。当初この箇所は1990年に「東静岡地区新都市拠点整備事業構想」で、体育館の建設が予定されていた他、新市庁舎の建設計画も予定されていた。しかしいずれも計画がとん挫しており、現状も空き地になっている。そこで静岡市は2013年にこの市有地の活用を市民や専門家から意見を聞くための都市デザイン案のコンペティションを実施し、その意見には、スポーツ施設や文化施設(総合博物館)などの誘致を期待する声が寄せられていた。

[匿名さん]

#4712020/03/18 03:12
周辺の病院や高層マンションなどの騒音対策や、防災機能を兼ね備えた公園整備などの選択肢も考えられていること、更に東静岡駅の南側に静岡県草薙総合運動場陸上競技場、同球技場もあることからなお難航が懸念されており、実際、田辺市長は2014年9月の静岡市第3次総合計画の骨子案を発表した時もこの8年間で予定している計画案に何を建設するかを盛り込まず、事実上結論を出すことを凍結した影響から静岡県の川勝平太知事もサッカー場を建設すべきであるとする私見を述べている。

ところが2016年3月になって、川勝知事が新たな移転先の候補地として清水駅周辺を選択肢の一つとして示したと静岡放送が報じた。田辺市長は上記の東静岡駅北口をローラースポーツの施設として一時的に作るための予算を計上したことに3月3日、川勝知事が抗議した。川勝知事はJリーグの舞台で戦うエスパルスと静岡市が中心となってサッカー専用スタジアムを建設すべきとしたうえで、県としてもスタジアムの建設には全面的に協力し、それをするために担当部局に検討するよう指示したという。


■出資会社

鈴与ホールディングス株式会社
静岡鉄道株式会社
静岡瓦斯株式会社
株式会社静岡新聞社
株式会社小糸製作所
中部電力株式会社
静岡ビルサービス株式会社
株式会社J-オイルミルズ
株式会社静岡朝日テレビ
株式会社ヤマシタコーポレーション
鈴与建設株式会社
株式会社清水銀行
清水綜合リース株式会社
清水信用保証株式会社
株式会社清水地域経済研究センター

[匿名さん]

#4722020/03/18 03:13
■関連施設

◇フットサル施設
エスパルスドリームフィールド (フットサル施設)
エスパルスドリームフィールド清水
エスパルスドリームフィールド静岡
エスパルスドリームフィールド富士
エスパルスドリームフィールド藤枝
エスパルスドリームフィールド駿東

◇店舗
エスパルスドリームハウス (オフィシャルショップ)
エスパルスドリームハウス清水
エスパルスドリームハウス静岡葵
エスパルスドリームハウス静岡駿河 (エスパルスドリームフィールド静岡併設)
エスパルスドリームハウス駿東 (エスパルスドリームフィールド駿東併設)
エスパルスドリームハウス藤枝 (エスパルスドリームフィールド藤枝併設)
エスパルスドリームハウス富士 (エスパルスドリームフィールド富士併設)

[匿名さん]

#4732020/03/22 00:32
□■【FOOTBALL CHANNEL】■□


■日の丸をつけるということ——。W杯に出られなかった時代の証言シティ

98年W杯フランス大会まで、日本はW杯本大会へ出場することはできなかった。しかし、これまで本大会の扉に手をかけたことは二度ある。85年のメキシコ大会予選、もう1つは93年アメリカ大会の予選である。本大会出場の目前まで戦った木村和司、都並敏史、そしてチームを率いた森孝慈の3名に、当時を振り返りながら日の丸をつけることとはどういうことかについて話を聞いた。(原稿執筆2010年2月)

Posted on 2014.07.03 / text by 海江田哲朗 / photo Tetsuro Kaieda



■木村和司がFKを決めた韓国戦

(原稿執筆2010年2月)

 1985年10月26日、国立競技場。W杯メキシコ大会のアジア最終予選、日本は韓国との第1戦に臨んだ。

 試合前、スタンドの光景を目の当たりにした木村和司は身体の震えが止まらなかった。6万人の大観衆。選手が入場する階段の下から覗くと、バックスタンドの最上部までぎっしり埋め尽くされている。横にいた都並敏史は目を丸くしていた。

「すげえ。こんなの見たことねえぞ」

 選手たちはロッカールームを出て入場口に着くまで、いつもとは違う気配を感じていたが、予想をはるかに超える眺めにただただ圧倒された。

 監督の森孝慈は、同年3月21日に行われた1次予選の北朝鮮戦との違いを思った。その時は国立に2万5000人を集めたが、スタンドでは北朝鮮の国旗が幅を利かせ、およそ6割が在日朝鮮人の観客と思われた。

 今日は完全にホームゲームの雰囲気だ。陰ながら日本を応援してくれていた人々が、大一番のゲームに駆けつけてくれたんだと感謝の思いを強くした。

[匿名さん]

#4742020/03/22 00:34
 日本は前半30分、41分と失点。43分、木村のFKが決まって1点差に詰めるが、反撃及ばず1-2のまま終了のホイッスルを聞いた。11月3日の第2戦、敵地に乗り込んだ日本は0-1で敗れた。こうして、森監督率いる日本のW杯初出場の夢は散った。



■国立が満員になった時は涙が出るほどうれしかった

「わしらの頃は上が見えんかった。弱かったもん。わざわざヨーロッパまで遠征に行っても代表とやらしてもらえん。クラブチームと対戦して、それでも勝てんかった。W杯なんて本当に雲の上。(ライバルの)韓国に勝ちたい。それだけよ」

 と語るのは、今季から横浜F・マリノスの監督に就任した木村和司だ。80年代から90年代初期の日本サッカーを彩ったスタープレーヤーの1人で、特に韓国戦で見せた40メートルのFKは伝説である。

 82年のW杯スペイン大会は、欧州遠征を兼ねて現地で観戦した。本当にこんな舞台でサッカーができるのだろうか。現実感はまるで湧かなかったという。

「いまの選手はいいなと思うよ。思い切り自分のサッカーを懸けて、もっと楽しんでやれよと思う。難しいけどね、楽しむというのは。メンバーに選ばれるのは限られた選手だけ。自分の持っているものを出し切らなくてどうするの。誇りや名誉を胸に秘め、全国の子どもたちに影響を与えることも頭に入れてやってもらいたい」

 75年、ユース代表に選出され、79年、明大2年時に日本代表入りを果たした。以降、攻撃の中心として国際Aマッチ54試合26得点の実績を残した。

[匿名さん]

#4752020/03/22 00:35
「ユース代表に選ばれてから、もっと上を目指したいと思うようになった。周りのレベルが上がって、サッカーがもっと面白くなって、それならA代表に選ばれればさらに楽しくやれるじゃろうと。そんなもんよ。たくさんの人に自分のプレーを見てほしい、知ってもらいたいという気持ちもあったね。だから、韓国戦で国立が満員になった時は、涙が出るほどうれしかった」

 W杯まであと一歩に迫った韓国戦を振り返って言う。



■ 日本代表は別。無条件に応援するし、勝ったら自分のことのようにうれしい

「86年のメキシコ大会に出とったら、どうなったかな。人生変わっとったかもしれん。経験するもの、体感するものはそれほど大きい。ただ、わしらの時は扉が動かんかったなァ。いいところまで行って、手を掛けたけども頑として動かんかった。その次のドーハの時は、少し動いてチラッと中が見えたかもしれん。でも、すぐに閉ざされた。まだ早いよって。

あの時は家族とテレビを見ながら、『おい、W杯行けるかもしれんど。何でもいいからわしも連れて行ってほしい。オフトに頼もう』と言いよったね(笑)。いま思えば……自分にはチャンスがなかったよ。ようわからんけど、たぶんそう」

 97年11月16日、マレーシアのジョホールバルで日本はイランを破り、悲願のワールドカップ初出場を決めた。木村はその時も家でテレビ観戦だった。岡野雅行のゴールが決まった瞬間の興奮は今も憶えている。隣近所からドッと声が上がり、それこそ日本中から歓声を聞いたような気がした。

「試合に勝つのはうれしいよ。自分が活躍して勝つ。もっとうれしい。逆に自分が試合に出ていなければ、そんなにうれしくない。そんなもんよ、人間。だけど、日本代表は別。無条件に応援するし、勝ったら自分のことのようにうれしい」

[匿名さん]

#4762020/03/22 00:36
■ プロ発足が早かった韓国。レベルの差を痛感

 都並は生粋の日の丸小僧だった。サッカーを始める前から日の丸に対する憧れがあり、文房具や自転車など身の回りの品々にマジックで日の丸を描き、アメ横にワッペンを買いに行ってはそこかしこに縫い付けていた。そんな少年が、やがて日本代表に思い焦がれるのはごく自然な成り行きだった。

 18歳の冬、憧れのユニフォームに初めて袖を通した。ユース地域選抜研修会に参加し、青地に白ラインの入ったシャツを貸与された。もちろん左胸には日の丸。どうにかしてこのまま持って帰る方法はないかと真剣に考えたほどだ。

 その時の模様は『サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)で特集され、〈技術のしっかりとしたサイドバックで、安定性でもこの研修会でピカ一の逸材だった〉と写真入りで紹介されている。都並は有頂天となり、書店にあったその号の在庫を残らず買い占めた。

 19歳で日本代表に選出され、W杯スペイン大会のアジア予選に出場。デビュー2試合目のマカオ戦で退場処分を受けた。

「俺が国を守るんだという気持ちが強く出すぎて、相手と取っ組み合い。格闘技になっちゃってね(笑)」

 都並の繰り出すオーバーラップは日本の武器になった。そして、W杯メキシコ大会のアジア予選であの韓国戦を経験する。

「すでにプロリーグがあった韓国との差を痛感しましたね。フィジカル面をはじめ、戦術や駆け引きなど、あらゆる面で木端微塵に叩きのめされた。韓国は違うレベルに行ってしまったなと」

[匿名さん]

#4772020/03/22 00:37
■ どれだけ多くの人に夢や希望を与えられるかを知れば選手のプレーは変わる

 一方、個人としては十分な手応えがあった。都並にとって、日本代表で戦うことは世界との距離を測る物差しでもあった。韓国戦で都並が抑え込んだ相手の右ウイングは、本大会のベルギー戦で度々チャンスを作っていた。

「結果を出すチームというのは、すべての作業を隙なく行わなければならない。少しでも甘いところがあれば引導を渡される。ドーハの悲劇がそうでした。作戦の一部とはいえ、骨折して満足にプレーできない自分がメンバーに入っていた。チームのモチベーションアップには有効だったかもしれないけど、当然マイナス面もそこにはあります」

 その経緯については『狂気の左サイドバック』(一志治夫著/小学館)に詳しい。さて、現在の日本代表は都並の眼にどう映るのだろうか。

「選手が戦っていないとは思わない。ただ、素直に表現できていないとは感じます。監督ありき、戦術ありきになっている。規律があるのはいいが、過剰に縛られている印象です。だから、負けるにしてもスカッとした負け方ができない。こういう時は感覚的にはみだしてプレーする選手の存在が大事になります。

かといって、そういう選手ばかりを集めてもチームの秩序が保たれなくなる。2つの調和、バランスの取り方は難しいですね。いずれにせよ、相手を叩き潰してやるんだという思い切りの良さが必要なのでは」

 都並はガッツを前面に出し、攻撃的なプレースタイルに磨きをかけてきた。そのうち自分の持ち味を出せるのは、周りの助けがあってこそだと知るようになる。

[匿名さん]

#4782020/03/22 00:37
「自分がたくさんの人に支えられ、どれだけ多くの人に夢や希望を与えられるか。それを知ることによってプレーが変わるんです。本物のプロとして、責任感のある重いプレーができるようになる。若い頃は分からないんだな、これが。俺もそうだったもの。早めに気づいた方がいいよと言えるくらいかな」


■ 故・森孝慈が激昂した日

 森孝慈(11年7月17日死去)が選手に対し、日の丸の持つ意味について激昂したのは一度だけだ。81年2月、東南アジアに遠征した時のこと。当時の監督は川淵三郎。森は次期監督が内定しており、スタッフとして加わっていた。

 アバウトな試合運営により開始時間が遅れるなどの不手際が多く、チームには弛緩した空気が流れていた。

「お前たちは日本サッカー協会の登録者40万人の代表なんだぞ。みんながお金を出し合って、送り出してくれているんだ。胸に日の丸をつけて、こんな締まりのないゲームをするな。恥ずかしいと思わんのかッ」

 なお、09年4月時点の集計で、日本サッカー協会の登録者数(指導者や審判員などを含める)は131万4565人を数える。

「メキシコ大会の予選は、準備段階から試合を重ねながらだんだんチームが出来上がってきて、やりようによっては勝てる可能性が出てきたなと思えるほどに成長した」

 個々のプレーも少しずつ変化した。木村はディフェンスで身体を張り、それを見た日産のチームメイトは「和司さんがスライディングするのを初めて見ましたよ」と笑った。森は木村に守備をしろと言っていない。本人が必要に感じたことを実行し、自然とそうなっていったのだという。

 それでも韓国の壁は高かった。大会終了後、森はサッカー協会の幹部にプロ化を強く進言する。

[匿名さん]

#4792020/03/22 00:38
かつて日本代表チームの練習場といえば、千葉県の検見川グラウンドが定番だった。

 合宿や大会のたび、宿舎にはファンから果物などの差し入れがあったという。また、森は支援者から陣中見舞いを受け取っていた。中には毎回2、3万円ずつ包んでくれる人もいた。森は一切手をつけず、大事に貯めておいたそうだ。そのお金は、チームが解散する頃にはそこそこまとまった金額になっていた。


■ 当時の日本代表は無報酬。日の丸のために気持ちがある人しかできなかった

 森は何とか選手たちの労をねぎらいたいと考え、サッカー協会の専務理事だった長沼健(08年死去)に相談を持ち掛けた。

「頑張ってくれた選手たちを温泉に連れて行ってあげようと思います。お金の心配は要りません。つきましては、何か記念になるものを協会から出していただけませんか?」

 長沼は親分肌の人物として知られる。森の意図を汲み取り、「分かった。できる範囲でやってみよう」と約束した。

 長沼はサッカー協会の個人登録制度やオフィシャルサプライヤー制度を導入し、慢性的な赤字体質から脱却させつつあった。それでも資金は潤沢とは言えない。その中でどうにか工面しようとした。

 ところが、記念品となるとなかなか名案が浮かばなかった。「いまさら楯を作っても絵にならない。だいたいどんな文字を彫ればいいんだ」と困った挙句、結局、各選手たちに10万円の報奨金を出すことにした(出場数によって多少上積みがあった)。

[匿名さん]

#4802020/03/22 00:40
 森は準備を整え、選手たちに伝えた。

「みんなで熱海の温泉宿に集まろう。家族を連れてこいよ。彼女でもいいぞ。ただし、すまんが足代は自分で持ってくれ」

 現在も森ファミリーのOB会があり、年に何度か集まるそうだ。なお、この時に利用した西熱海ホテルは06年に営業を終了している。

「あの頃は日本代表の誰もが無報酬でやっていた。選手は休みの日に代表に引っ張られ、そこで一銭も稼げない。そういう時代だからさ、日本のために、日の丸のために、その気持ちがある奴しかできなかった。気持ちで1つになるしかないんです。そういった意味ではいまの方が難しいだろうね。個人と組織、それぞれに打算的な要素が絡んでくる」

 近年、森は病気を患い、声帯の大部分を手術で失った。声は小さく、絞り出すように日本代表への思いを語る。

「南アフリカに行くのは無理だな。ヨーロッパに行って、テレビで見ようか(笑)。少しでも代表の近くに行って、応援したいよ」

(文中敬称略。原稿執筆2010年2月)

【了】

[匿名さん]

#4812020/03/22 00:41
□■【SAMURAI BLUE】■□

【FIFAワールドカップメキシコ'86 アジア地区最終予選】
[ 1985.10.26 ] 東京・国立競技場

日本代表 🆚 韓国代表

1 対  2

1 前半 2
0 後半 0

【GOAL】
■日本
木村和司 43´

■韓国
鄭龍煥 30´
李泰昊 41´


【日本代表メンバー】

GK 松井清隆
松木安太郎
加藤久 イエローカード
石神良訓
都並敏史
西村昭宏
宮内聡
木村和司 ▼82' OUT
水沼貴史
戸塚哲也 ▼77' OUT
原博実


与那城ジョージ ▲82' IN
平川弘 ▲77' IN
GK 森下申一
岡田武史
勝矢寿延

【監督】 森孝慈


■FIFAワールドカップメキシコ'86 アジア地区最終予選 結果

・1985/10/26 東京・国立競技場
日本代表 1-2 韓国代表
・1985/11/03 ソウル
韓国代表 1-0 日本代表

[匿名さん]

#4822020/03/25 06:34
ドーハの悲劇(Agony of Doha)は、1993年10月28日にカタールの首都・ドーハのアルアリ・スタジアムで行われたサッカーの国際試合、日本代表対イラク代表戦の日本における通称。


■1994年FIFAワールドカップ アジア地区最終予選

日本 🆚 イラク

2 対 2

■開催日
1993年10月28日
■会場
アル・アリ競技場(カタール ドーハ)
■最優秀選手
中山雅史
■主審
セルジュ・ムーメンターラー


1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の最終節で行われたこの試合は、第4戦までで日本はグループ1位となり本戦出場が有力視されていた。しかし、試合終了間際まで日本優勢で進み2-1で勝っていたところ、ロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入ってしまう。

この結果、勝点7のサウジアラビアが1位で、勝点6と日本と同数ではあったが得失点差により韓国が2位出場となり、FIFAワールドカップ初出場が期待されていた日本代表が一転して予選敗退する結末となった。

[匿名さん]

#4832020/03/25 06:36
■最終予選の経過

アジア地区最終予選は、ドーハでのセントラル方式にて行われた。1次予選A〜F組を1位通過した6か国が総当たりのリーグ戦で対戦し、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。日本は1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて最終予選へ進出した。一方のイラクは1次予選A組で6勝1分1敗で勝点13、中国を勝点1差で抑えて進出した。

日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分けたが、第2戦のイラン戦を1-2で落としこの時点で6か国中最下位に転落した。スタメンの入れ替えを敢行した第3戦の北朝鮮戦を3-0で快勝。続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国に三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立った。守備は6チーム中最少失点(4試合中3試合を完封)、スーパーサブからスタメンに起用された中山雅史が攻撃を活性化するなど、攻守のバランスは上向いていた。

イラクは初戦の北朝鮮戦で2点を先取しながら退場者を出し、2-3で逆転負け。イラクサッカー協会が監督を更迭し、1980年代に2度五輪チームを率いたエマヌエル・"ババ"・ダウド (Ammo Baba) が監督に就任した。第2戦韓国戦は86分に追いつき2-2で引き分け、第3戦イラン戦は2-1で初勝利を収め、第4戦サウジアラビア戦は1-1で引き分けた。6チーム中最多の7得点を挙げながら、失点も7失点という出入りの激しいサッカーをしていた。

[匿名さん]

#4842020/03/25 06:38
第4戦終了時点で首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、日本が引き分けてかつサウジアラビアと韓国がどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合には(即ち得失点差で日本と同数となる場合)、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア−イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。3位の韓国も自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。

[匿名さん]

#4852020/03/25 06:38
■第5戦(最終戦)

◇試合経過
第4戦までは全試合がハリーファ国際スタジアムで行われてきたが、最終戦は3試合同時進行のため、日本-イラク戦はアル・アリ競技場で開催された。観客席はイラクのサポーターが多数を占めたが、遠来の日本サポーターも懸命に声援を送った。

両国の過去の対戦成績は日本の1引き分け3敗で、ロサンゼルス五輪アジア・オセアニア地区最終予選(1984年4月21日 日本 1-2 イラク)以来9年半ぶりの対戦となる。第4戦からイラクは中3日、日本は中2日を挟んで最終戦に臨む。

日本は、北朝鮮戦・韓国戦で成功した4-3-3システムを継続。前線には三浦知良・中山雅史・長谷川健太が変則3トップ気味に並ぶ。中盤のボランチのポジションには、韓国戦で活躍した北澤豪に替わり、出場停止明けの森保一が戻った。イラクは出場停止処分が重なり、主力数名を欠いた布陣で臨んだ。

◇前半戦
試合は開始5分に中山のポストプレーから長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知がヘディングで押し込み、日本が早々と先制する。その後は勝利でしか望みをつなげないイラクが同点を狙い、日本が堅守からカウンターを仕掛ける展開となり、前半は1-0のまま終了した。
他会場の前半は『サウジアラビア 2-1 イラン』『韓国 0-0 北朝鮮』で、このスコアのままだと日本とサウジアラビアが勝ち抜けとなる。

[匿名さん]

#4862020/03/25 06:39
◇後半戦
後半に入るとイラクのサイド攻撃が活発になり、55分にアーメド・ラディがセンタリングをゴールへ流しこみ、1-1の同点に追いついた。日本は特に中盤の運動量が落ちてセカンドボール回収がままならなくなり、以降イラクが更にボール支配率を高めて攻勢を強めていく[2]。他会場ではサウジアラビアと韓国が得点を重ねており、日本は劣勢下で勝ち越すことができなければ予選敗退となる。
イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず、64分には日本のDFとGKをドリブルで抜いたアラー・ジェベルが無人のゴールにシュートするも外す。逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山が受け、ゴール右角に決め2-1の勝ち越しに成功した。

◇ロスタイム
その後、イラクの運動量も落ちたことで、膠着状態のまま日本の勝利の時が近づく。89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクは自陣からカウンターアタックを仕掛け、日本の左サイド(バックスタンド側)からコーナーキックのチャンスを得た。このキック前に90分を経過してロスタイムに突入。ここでキッカーのライト・フセインはゴール前に直接センタリングを送らず、素早くショートコーナーを開始。意表を突かれた日本は三浦知が対応するが、フセイン・カディムに振り切られセンタリングを上げられる。これをニアポスト側にいたオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となった(90分17秒)。

[匿名さん]

#4872020/03/25 06:40
イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審のセルジュ・ムーメンターラーの笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となった。

◇試合終了後
終了後、ピッチ上の日本代表選手の多くはその場にへたり込んだまま動けず、控え選手やスタッフに声をかけられ、夢遊病者のようによろよろと立ち上がるという状態だった。キャプテンの柱谷哲二は両手で顔を覆って号泣し、ハンス・オフト監督と清雲栄純コーチに支えられながらピッチを後にした。左サイドバックの勝矢寿延は、これまで惨敗でのワールドカップ地区予選敗退のイメージがあったため、引き分けという結果で予選敗退という状況が呑み込めておらず、他の選手がピッチにへたりこむ様子を見て不思議に思ったという。

日本−イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得。得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃した。「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれた。

[匿名さん]

#4882020/03/25 06:42
■放送

日本では、テレビ東京およびNHK BS1がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。

テレビ東京の放送では、現地実況を久保田光彦アナウンサー、解説を前田秀樹が務めた。東京のスタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。ロスタイムの同点ゴール時には久保田が「決まった!」と叫んだあと久保田、前田ともに一言も発せず、日本の制作スタッフは放送事故かと慌てたという。沈黙が30秒近く続いたあと、ようやく久保田が「仕方ないですね」と発した。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森はロスタイムの同点劇について「これがサッカーなんですよ」とコメントし、金子は「サッカーの世界では、天国と地獄を見て初めて本当のサポーターになれる」との言葉を紹介した。柱谷は、金子から「お辛いでしょうけど」と促され、絞り出すように「1カ月、辛かっただろうけど、胸を張って帰ってこい」と弟の哲二ら選手にメッセージを送った。番組の視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。

[匿名さん]

#4892020/03/25 06:43
NHK BS1の放送では実況を山本浩アナウンサー、解説を田中孝司が務めた。スタジオでは友田幸岐が司会を務め、解説は岡田武史と田嶋幸三が担当した。試合終了後、岡田は言葉を詰まらせ、友田は「サッカーの怖さが出ました。何もこの試合じゃなくても良かったんじゃないかと…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。

ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄アナウンサー、解説は小谷泰介が務めた。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。

[匿名さん]

#4902020/03/25 06:44
■エピソード

ロスタイムに突入する頃、日本サッカー協会の川淵三郎強化委員長は「(Jリーグ開幕に続いて)こんなにすべてが上手くいっていいのかな」と思っていたが、イラクの同点ゴールが決まった時には「ああ、やっぱりな。神様はそうさせるはずはないって、本当にそう思った」という。川淵は、この試合がテレビ放映で高視聴率を記録したというだけでなく、国民感情の振幅も大きく日本国民にサッカーの面白さを強烈に印象付けることとなり、オリンピックをも上回る最大のスポーツイベントであるFIFAワールドカップの人気を日本に定着させることになったと評価した。
最終予選のベストイレブンに、参加6か国では最多となる松永、柱谷、ラモス、三浦知の4名が選ばれており、表彰式に参加するよう日本サッカー協会に要請が来ていたが、当時オフト監督の通訳を担当していた日本サッカー協会強化委員会の鈴木徳昭総務担当が柱谷に確認したところ、みんなの判断で行けないとのことだったため、鈴木総務担当と川淵強化委員長、小倉純二だけで出席することとなった。鈴木総務担当は、「それはそれでそのときのどうしようもない判断だったけど、本来は結果にかかわらず、どんな悲惨なことがあったとしても、行かせなければいけなかったのかもしれない、とあの後すぐに思った」と回顧している。また鈴木は、FIFA関係者のドイツ人から「これがサッカーだよ」という言葉を投げかけられ「こういう経験を私たちサッカー界はあと100年の間に何十回も経験しないと、本当の意味で世界を知ることは、世界と伍することはできないんだなと思いました」と語っている。

[匿名さん]

#4912020/03/25 06:45
川淵は日本への帰国便に乗る前、「明日から我々に厳しい批判の声が飛んでくるけれど、それを受け止めて、前へと進んでいこう」と声をかけた。しかし、選手達を乗せたチャーター便が成田国際空港に到着すると、数百人のファンから温かく出迎えられた。多くのマスコミやファンは、ワールドカップ出場を直前で逃したにもかかわらず、この結果を好意的に受け止めた。しかし、こういった反応はワールドカップ出場をギリギリで逃した選手たちにとって複雑なものだったという。松永は、「日本はサッカー先進国に向かっている途中だからこうなんだ。これがドイツやブラジル、スペインだったらこういう歓迎のされ方はしないんだろうな。これから代表を背負って戦っていく選手たちに対して、ここでブーイングされるときこそが本当の日本のサッカーのスタートなんだな」と感じたという。また実際に現場で取材したベテラン記者の中には、こうした国内の反応を苦々しく思う者もいたらしい。

試合終了の数時間後に発行された読売新聞10月29日付朝刊では、すでに解説文中で「ドーハの悲劇」という言葉が使われていた。現地で取材した読売新聞記者は、1986年のUEFAチャンピオンズカップ決勝で優勝候補のFCバルセロナがステアウア・ブカレストにPK戦で敗れた「セビリアの悲劇」を思い浮かべながら記事を書いたという。その日以降、ほかの新聞や雑誌でも「ドーハの悲劇」というフレーズが用いられた。

[匿名さん]

#4922020/03/25 06:46
韓国の選手は本戦出場決定に大喜びし、試合後にホテルで祝勝パーティーを行った。しかし、部屋に戻りテレビで日本の選手・サポーターが泣く映像を見ると、誰もが声を失ったという。なお、日本と韓国はドーハの同じホテルに泊まっており、サンフレッチェ広島に所属していた盧廷潤の好意で焼肉とキムチをお裾分けしてもらったこともあった。
この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国が本大会出場を決めたため、韓国国内では「ドーハの奇跡(도하의 기적)」と呼ばれている。その後、大韓サッカー協会は同点ゴールを決めたオムラムを韓国に招待して国賓級の待遇をもてなし、韓国のテレビ番組でも英雄扱いされた。協会国際部の部屋には、オムラムのサインボールが飾られた。なお、2006年アジア競技会カタール大会の野球競技で、大会3連覇を目指した韓国代表がチャイニーズタイペイと日本代表に連敗したショックを、韓国では「ドーハの悲劇」と表現することがある。

日本のフジテレビもオムラムらイラク代表選手数名を日本に招待し、ニュース番組でドーハの悲劇の感想を聞いたり、バラエティ番組「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」で芸能人らとのリベンジマッチを行わせたりもした(1994年4月8日放送分)。

[匿名さん]

#4932020/03/25 06:47
■分析

◇オフト采配
日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。10日に川淵三郎強化委員長とオフト監督との間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。

サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、オフト監督自身の指導力の限界を指摘した。

オフトは1992年3月に代表監督に就任すると、前任の横山謙三監督時代の選手を継続起用しながら、「アイコンタクト」「トライアングル」などの規律を浸透させ、同年8月のダイナスティカップと同年10月のアジアカップで初優勝するなど短期間でチーム力を向上させた。しかし、ワールドカップ・アジア1次予選(1993年5月)まで1年しかない状況でレギュラーをほぼ固定してチームを強化したため、新戦力の導入は進まなかった。1993年1月のカールスバーグカップ(香港)に参加した日本選抜チームの若手や、開幕したJリーグで好調な選手をサブメンバーに補強してみたものの、主力選手の故障・不調が重なると選手層の薄さが深刻な問題になった。

[匿名さん]

#4942020/03/25 06:49
特に左サイドバック (SB) の都並敏史が左足を亀裂骨折した影響は大きく、左サイドで三浦知・ラモス・都並のヴェルディトリオが絡みながら、都並の攻撃参加を引き出すという武器が失われた。オフト監督と清雲コーチは70試合のスカウティングを重ねたが、都並の代役になりうる攻守のバランスがとれたバックアップは見つからなかった。悩んだオフト監督は「街で『あなたサッカーやってませんか?左サイドバック、できませんか?』と聞いて回りたいくらいだ」と清雲コーチに真顔で話したという。スペイン合宿でのレアル・ベティスとの練習試合では江尻篤彦をテストするも満足できず、最終予選の壮行試合を兼ねたアジア・アフリカ選手権(10月4日)ではボランチの三浦泰年を左SBに起用し[注 2]、一応の目途がついたと思われたが、最終予選第2戦でイランに三浦泰のいる左サイドを執拗に狙われ、第3戦以降はセンターバック(もしくは右SB)が本職の勝矢を左SBにコンバートした。勝矢は北朝鮮のキーマンであるキム・グァンミンを完封するなど守備面で貢献したが、攻撃面とのバランスは解決しなかった。

[匿名さん]

#4952020/03/25 06:50
イラク戦の後半、日本は中盤の運動量が落ちてボールを回収できず、ディフェンスラインが下がりっぱなしになりイラクの波状攻撃を浴びる状態だった。ピッチ上の選手は中盤のカンフル剤となる北澤豪の投入を望んでおり、ラモスはベンチに向かって「キタザワー」とリクエストしていた。しかし、オフト監督は韓国戦と同じく「長谷川→福田正博」「中山→武田修宏」という前線2人の交代を行い、結果的に劣勢を挽回する事が出来なかった。清雲コーチは「中盤の選手を入れると、イラクのディフェンダーが上がってきてプレッシャーがきつくなる。それが嫌だったんです」と交代策の意図を説明する。結果論にすぎないが、北澤は後に「やはり(あの交代は)間違いだったと思う」と述べている。

[匿名さん]

#4962020/03/25 06:51
◇チームの内情
オフトジャパン人気との相乗効果で、同年5月のJリーグ開幕は社会現象的な注目を集め、選手たちは期待と関心に応えるため、アマチュア時代とは全く異なるプレッシャーの中でプレーしていた。さらに、延長・PK戦にもつれることもある試合が週2回ペースで続き、厳しいスケジュールでコンディションを崩す選手が続出した。北澤と都並は足を疲労骨折し、柱谷は風邪が治りきらないまま出場し続けたためウイルス感染で肝機能を低下させ8月上旬から入院した。福田は所属する浦和レッズの成績低迷で自信を失っていた。代表のキャンプは野戦病院のようで、オフトはそこで鍛える事よりも、コンディションを普通の状態に回復させることに苦労していた。最終予選1カ月前のスペイン合宿は戦術の最終チェックを行う目的だったが、レギュラーに怪我や病気が相次ぎ、この時期にメンバーの再選考をしなければならないという誤算が生じた。合宿中、チーム状態が上向かないことに苛立ったラモスが「ああ、つまんねえ!帰りたいよ、日本に」と癇癪を起したこともあった。

イラン戦の敗戦で崖っぷちに立たされた日本は、オフト監督の「3WIN(残り3試合を全勝する)」というメッセージで気持ちを切り替え、活気を取り戻した。北朝鮮戦で圧勝し、次の韓国戦ではカズのスタンドプレーによる先制点を守り切って勝利し、最下位から一転首位に躍り出た。都並によると、本当はあと1つ勝たなければならないにも関わらず宿敵韓国に勝利した事で日本の選手達の間ではワールドカップ行きが決まったような雰囲気が生まれ、ラモスが選手たちに「まだ終わっていない」としつこく言っていた。

[匿名さん]

#4972020/03/25 06:51
イラク戦のハーフタイム中、ロッカールームに引き上げてきた選手たちは、オフト監督が3度も「Shut Up(黙れ)!」と怒鳴らなければならない程の興奮状態にあり、オフト監督の戦術説明を聞かず勝手に修正点を話し合っていた。清雲コーチによれば「選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況」で、「そんな混乱が続く中でオフトが『U.S.A. 45min』とホワイトボード上の模造紙に書いて説明しようとしたら、後半のブザーが鳴ってしまった」という。

後半ロスタイム突入間際、日本はカウンターから敵陣深くへ侵入したが、途中出場の武田はボールをキープせず、味方が詰め切れていないゴール前へセンタリングを上げた。そのルーズボールを回収したラモスも、最終ラインの裏へ浮き球のスルーパスを通そうとしてカットされた。そこからイラクの同点ゴールにつながるカウンターが始まった。オフト監督は後に「ゲームの作り方(組織戦術)は教えたが、ゲームの壊し方(試合を逃げ切る方法)は教えることが出来なかった」と語っている。また、吉田光範によれば、前の韓国戦も1-0でリードした残り10分間の内容が不安定で、オフト監督は「キープ・ザ・ボール!」と声を嗄らして叫んでいたという。

[匿名さん]

#4982020/03/25 06:52
◇イラクの健闘
最終予選の対戦国ではサウジアラビアと韓国が難敵になると予想されていたが、オフト監督はイラクを「危険なチーム」として一番マークしていた。井原は「試合が始まってみて、こいつら、まだこんなに走れるのかよと驚いた」、堀池は「運動量もテクニックもあるモダンなサッカーに走らされて、身体も心も追いつめられていった」と述べている。イラクの選手は後半ロスタイムに同点とすると、センターサークルにボールを戻して日本のキックオフを待ち、最後まで勝利を目指す姿勢を見せた。奮闘の理由として、イラクオリンピック委員長ウダイ・フセイン(サダム・フセインの長男)から「日本に敗れたら鞭打ちの刑に処す」と脅されていたという。

イラクは最終予選を通して不利な判定を受けており、イラクが湾岸戦争の「敵国」アメリカで開催されるW杯へ出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれた。日本戦では出場停止中だった主力選手2名が復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった。ラモスは主審の笛が日本寄りな雰囲気を感じ取り、オフサイドかどうか微妙な場面ではそのまま流すことも想定していた。69分の勝ち越しゴールの場面では、中山が確実にゴールを決められるよう、中山がオフサイトポジションに出た瞬間を狙ってスルーパスを出した。ゴールシーンをベンチ正面から見ていた都並は「こりゃオフサイドだ、これ、くれるか」と呟いたという。

[匿名さん]

#4992020/03/25 06:53
ロスタイムに入り主審がいつ試合終了の笛を吹くか分からない状況では、コーナーキックを直接ゴール前へ蹴るのが常識だった。イラクの選手がコーナーにボールをセットする間、柱谷はゴール前の人数と配置を確認して、これなら大丈夫と思ったという。しかし、日本選手の予想を裏切り、イラクのフセインはショートコーナーを選択した。松永は「もしゴールが逆だったら、イラクは電光掲示板を見ていたはず。そうしたら、イラクはショートコーナーなんて絶対やらなかったと思う。あいつらはロスタイムだってことを知らなかったんだ」と述べている。同年12月22日放送のNHKクローズアップ現代「空白の17秒 〜日本がW杯にもっとも近づいた日〜」でフセインはインタビュー答え、「試合に夢中で、時計を見る余裕がなかったので、時間が残っているのかいないのか分かりませんでした」と語った。

柱谷哲二はのちに最後のコーナーキックの守備について、「マークについていなかった。ゴール前に密集していればクリアできるものだと思った」と語った。
イラクがコーナーキックを始める前、ラモスがレフェリーにポルトガル語で「アカボウ(これで終わり)?」と尋ねると、「スィ(イエス)」と答えたという。ラモスはコーナーキックを蹴った時点で試合終了になると思ったが、イラクがショートコーナーを繋いでも終了の笛は鳴らなかった。のちに、川淵が主審になぜ前半はロスタイムを取らなかったのに後半は取ったのかと尋ねると、後半途中にイラクの観客がピッチへ投げ込んだコカ・コーラの瓶を拾って副審へ渡しに行った時間を加えたと教えられた。

[匿名さん]

#5002020/03/25 06:55
イラク代表は最終予選を通じて全チーム中1位の得点数を叩き出していた。また日本戦までの星どりは1勝2分け1敗だったが、ワールドカップ本戦出場国の韓国・サウジアラビアを苦しめた上での2分け、唯一の黒星となった北朝鮮戦も後半途中退場者を出すまで2-0でリードしており、日本戦においても主力を多く欠く中での引き分けであった。ラモスも最終予選を振り返った時に強かったチームはとインタビューで聞かれると「間違いなく韓国とイラク。イラクは特にサッカーをよく知っているなと思った」と述懐している。


■その他

アジア最終予選に関しては、イラク戦の結果のみがクローズアップされがちだが、それまでの経過に敗退の原因があるという意見もある。

中山は快勝した北朝鮮戦・韓国戦でも決定的なチャンスが2・3本あり、そこで決めていれば得失点差で大きなアドバンテージになっていたはず、と語っている。
柱谷は「W杯に行けなかったのはイラク戦の引き分けよりもイラン戦の負けが要因だったと思う」「固定メンバーで熟成されていた半面、イランに分析され対応されたときに変化を出せなかった」と語っている。

解説者のセルジオ越後は「時間を稼ぐべきところで稼がなかった」と指摘し、「あの1試合だけじゃなくて、最終予選を通じて取るべきところで取らなかったり、そういうチャンスロストはたくさんあった」とチーム全体の経験不足を指摘している。

[匿名さん]

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