最終予選はセントラル方式(中立地開催)だったが、中東の地で開催された点で日本はアウェイの立場だった。福田は「東アジアの2か国に勝ったけど、中東の3か国には勝てていない。ホームとアウェイはそれくらい違うということを、改めて理解すべきだと思う」と述べている。
■参考文献
一志治夫『狂気の左サイドバック 日の丸サッカーはなぜ敗れたか』、小学館、1994年
潮智史『日本代表監督論』、講談社、2002年
大住良之『アジア最終予選』、双葉社、2005年
後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』、双葉社、2007年
後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年 資料編』、双葉社、2007年
鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』、文藝春秋、1994年
戸塚啓『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992-2007』、ソニーマガジンズ、2007年
杉山茂樹『「ドーハ以後」ふたたび 世界から見た日本サッカー20年史』、PHP研究所、2012年
西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』、学習研究社<学研新書070>、2010年
『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』、ベースボールマガジン社<分冊百貨シリーズ12 永久保存版 全7巻シリーズ③>、2015年
「週刊サッカーマガジン」1993年11月17日号、ベースボールマガジン社
「Sports Graphic Number No.839 ドーハの悲劇 20年目の真実」2013年10月31日号、文藝春秋社
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□■【SAMURAI BLUE】■□
【FIFAワールドカップアメリカ'94 アジア地区最終予選】
[ 1993.10.28 ] ドーハ
日本代表 🆚 イラク代表
2 対 2
1 前半 0
1 後半 2
【GOAL】
■日本代表
三浦知良 5´
中山雅史 69´
■イラク代表
アーメド・ラディ 54´
オムラム・サムラン 89´
【メンバー】
■日本代表
GK 松永成立 イエローカード
堀池巧
柱谷哲二 (Cap.)
井原正巳
勝矢寿延 イエローカード
森保一
ラモス瑠偉
吉田光範
長谷川健太 ▼59' OUT
中山雅史 ▼80' OUT
三浦知良
【SUB】
福田正博 ▲59' IN
武田修宏 ▲80' IN
GK 前川和也
都並敏史
大野俊三
三浦泰年
高木琢也
黒崎比差支
北澤豪
大嶽直人
澤登正朗
【監督】
ハンス・オフト(オランダ)
■FIFAワールドカップアメリカ'94 アジア地区最終予選 結果
・1993/10/15 ドーハ
日本代表 0-0 サウジアラビア代表
・1993/10/18 ドーハ
日本代表 1-2 イラン代表
・1993/10/21 ドーハ
日本代表 3-0 朝鮮民主主義人民共和国代表
・1993/10/25 ドーハ
日本代表 1-0 韓国代表
・1993/10/28 ドーハ
日本代表 2-2 イラク代表
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中田 英寿(1977年1月22日 - )は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手。元日本代表。愛称は「ヒデ」。国際サッカー評議会(IFAB)諮問委員。株式会社東ハト執行役員。一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」代表理事。観光庁「アドバイザリー・ボード」メンバー。
■愛称
ヒデ
■生年月日
1977年1月22日(43歳)
■出身地
山梨県甲府市
■身長
175cm
■体重
72kg
■選手情報
◇ポジション
MF
◇利き足
右足
■ユース
1985–1988
北新サッカースポーツ少年団
1989–1991
甲府北中学校
1992–1994
韮崎高校
■クラブ
出場
(得点)
1995–1998
ベルマーレ平塚
85
(16)
1998–2000
ペルージャ
48
(12)
2000–2001
ASローマ
30
(5)
2001–2004
パルマ
67
(5)
2004
ボローニャ (loan)
17
(2)
2004–2006
フィオレンティーナ
20
(0)
2005–2006
→ボルトン (loan)
21
(1)
■通算
289
(41)
■代表歴
1991–1993
日本 U-17
6
(2)
1994–1995
日本 U-20
12
(6)
1995–2000
日本 U-23
12
(3)
1997–2006
日本
77
(11)
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日本代表のFIFAワールドカップ(以下W杯)3大会連続出場に貢献。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリア政府よりイタリア共和国功労勲章(カヴァリエーレ)受章。U-17世界選手権(現在のU-17W杯)、ワールドユース(現在のU-20W杯)、U-23オリンピック、コンフェデレーションズカップ、W杯、以上のナショナルチーム主要世界大会すべてでゴールをあげた唯一の日本人選手である。
■来歴
◇ユース時代 - Jリーグ(-1997年)
小学3年生、8歳のときに兄の影響で北新サッカースポーツ少年団に入団してサッカーを始めた。甲府市立北中学校3年生のとき、U-15(15歳以下日本代表)に選抜された。このとき指導していた中学校の監督は、関東選抜の一員であったがレギュラーではなかったため、落選するだろうと思っていたので、スタッフに選考理由を尋ねると「世界で戦うには、少しばかりのテクニックよりもフィジカル面の強さの方が大切。技術面では中田君より上の選手はたくさんいるが、フィジカル面の強さでは、彼はいいものを持っている。そこを評価した」と言われたという。当時はFWとして登録されていた。U-16アジアユースで世界への第一歩を踏み出して以後は、全ての年代別日本代表に選出され、年代別の世界大会であるU-17世界選手権、U-19アジアユース、ワールドユース、オリンピック(23歳以下)には全て「飛び級」で出場した。オリンピックには19歳でアトランタオリンピック、23歳でシドニーオリンピックと、2回出場している。韮崎高校2年の時には第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。
[匿名さん]
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Jリーグに加盟する全12クラブ(当時)のうち11クラブからオファーを受け、その中から横浜マリノス、横浜フリューゲルス、ベルマーレ平塚の練習に参加した上で、1995年ベルマーレ平塚に加入。翌年、ゲームメイクの能力を買われトップ下にコンバートされた。
1996年アトランタ五輪に出場し、後に「マイアミの奇跡」といわれるブラジル五輪代表戦勝利に貢献した。次戦のナイジェリア五輪代表とは、強化試合やU-17世界選手権(現U-17W杯)で対戦していた中田は、勝てない相手ではないと判断。ハーフタイムには日本のDF陣に対して「もっとラインを押し上げてくれないと攻撃できない」と意見するが、前半、日本のDF陣は身体能力に物を言わせて攻めまくるナイジェリアに圧倒されており、中田英寿の意見は受け入れ難いものだった。それを見咎めた西野朗監督に叱責され、信頼を失って最終戦は外された。同じく下の世代から選出されたDF松田直樹も、実は中田と同じ意見であったが、世界を知らない上の世代には言ってもわかってもらえないと思い黙って見ていたという。同年のシーズンオフに、イタリア・セリエAの名門ユヴェントスへ短期留学。期待したトップチームではなく下部での練習であったが、海外に目を向けていることを窺わせた。「平塚に行って良かったと思っています。平塚でプロを始めたから今がある。ペルージャに行くときにも、本当に気持ちよく送り出してくれた。」と語っている。韮崎高校時代には「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」と、資格取得にも挑戦した。
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1997年に韓国との親善試合でフル代表に初招集され、先発デビューを飾る。以後、レギュラーに定着し、W杯アジア最終予選で苦しむフル代表をW杯初出場へと導く原動力となった。アジア予選の成績不振により加茂代表監督が更迭され、岡田ヘッドコーチが監督に就任すると、アウェイのウズベキスタン戦でスターティングメンバーから外されて後半から出場することになったが、これ以後、監督の構想から外れるという理由で代表から外された事は一度もない。アジア第3代表決定戦となったプレーオフ・イラン戦では、中山雅史、城彰二、岡野雅行の上げた全てのゴールの決定機を作る活躍で勝利に貢献、『ジョホールバルの歓喜』と称して語られている。中田自身も、この試合の結果があったから国内外でメディアに注目され、同年12月に各国のスタープレーヤーを招いて行われた「フランスW杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜」に出場することになり(後半途中からはキャプテンマークを巻いてプレーした)、日本代表の責任を負っていくような立場になっていく、ターニングポイントになった試合だったことを語っている。その後引退までに計8回にわたって世界選抜試合に招かれ、引退後も世界選抜試合や親善試合に出場している。
[匿名さん]
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◇ペルージャ - ローマ時代・1998年W杯(1998年-2001年)
2001年ローマは18年振りにスクデットを獲得した。
日本の初出場となった1998年フランスW杯では、チームの核としてグループリーグ全3試合にフル出場。中田のプレーは海外のクラブに認められ、W杯後獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼった。アーセナル、ユヴェントスFCというビッグクラブは、レンタルに出される危険性があったために選択せず、同年7月、21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍金470万ドルで完全移籍した。
1998-1999シーズン開幕戦で、ジネディーヌ・ジダンを擁する強豪ユヴェントスFCから2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、年間10得点(うちPK4得点)をあげるというミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立て、イタリアの有力スポーツ誌グエリン・スポリティーボが選出するセリエA初年度の外国人選手を対象にしたセリエAサプライズ賞に選ばれた。
1999-2000シーズン開幕前には中田に興味を示す欧州のクラブが続出したが、ペルージャが移籍金を釣り上げたため契約には至らなかった。この時点で最も獲得に熱心だったクラブはリーグ・アンのASモナコといわれる。シーズン途中に1600万ドルで名門ASローマへ移籍。これは監督だったファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。当初はボランチで起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場した。しかし、トッティが復帰すると再びボランチで起用され、外国人枠の問題もあり、徐々に途中出場が多くなっていった。
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2000-2001シーズンは大型補強でローマの選手層が厚くなったため、開幕から首位を独走するローマではベンチを温める日々が続いた。スタメン出場も僅か5試合に留まったが、シーズン終盤の敗戦濃厚だったユベントス戦を途中出場から引き分けに持ち込み存在感を示し、日本人で初めてセリエA優勝メンバーとなった。
2000年シドニーオリンピックではU-23代表の一員として決勝トーナメント進出に貢献したが、アメリカ戦でPK戦の4本目を失敗し、チームはベスト8で大会を去ることになった。この頃から「海外組」の先駆者として、日本での代表活動と欧州リーグ戦のスケジュール調整が厳しくなる。2001年のコンフェデレーションズカップでは、セリエAの首位を走っていたASローマと日本代表監督フィリップ・トルシエとの間で、中田の招集を巡って軋轢が起こった。「グループリーグ3試合のみ」という条件で日本に帰国して戦ったが、日本代表がグループリーグを突破すると、トルシエは中田に準決勝以降も出場するよう要請した。日本サッカー協会とASローマとの話し合いの結果、準決勝まで参加を延長し、その後イタリアに戻ることになった。中田自身も「日本人初のセリエA優勝」の瞬間に立ち会うことを望んでいた。準決勝では豪雨の中、強いグラウンダー(ゴロ)のフリーキックで直接ゴールをあげ、このゴールが決勝点となって日本をフル代表初の国際大会決勝に導き、チームを離れた。
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◇パルマ時代・2002年W杯(2001年-2003年)
2001年、パルマは獲得を目指していたルイ・コスタがACミランに移籍した事もあり中田を獲得。移籍金は当時アジア人選手最高額の約33億円にのぼった。レンツォ・ウリヴィエリ監督の下、トップ下でプレーしたが、高額な移籍金に見合うパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリの更迭後は監督が次々と交代し、レギュラー争いの日々となっていった。一方、イタリア杯では準決勝のブレシア戦で1ゴール1アシスト、決勝のホームアンドアウェイ方式で行われたユヴェントスFCとの第1戦で1ゴールをあげた。チームは1-2で第1戦を落としたが続く第2戦でパルマが1ゴールをあげ合計2-2となり、結果的にアウエーゴール方式によりパルマの優勝が決まった。これがパルマ最後のタイトルとなっている。
25歳で記念すべき地元開催となった2002年日韓W杯に出場。精神的にもチームを牽引する中心選手として、グループリーグ3試合、決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。グループリーグのチュニジア戦では、ヘディングで自身のW杯初ゴールを記録した。
2002-03シーズンから指揮をとったチェーザレ・プランデッリ監督には右サイドハーフでレギュラーとして起用される。アドリアーノ、アドリアン・ムトゥと共に構成された攻撃陣はイタリアメディアから『トリアイナ(三叉の槍)』と称される高い攻撃力を発揮し、中田は敵地でのユヴェントス戦で先制点を決めるなどユヴェントス・キラーとしても賞賛された。しかしシーズン後半になると、手数をかけずFWに預ける守備的なチーム戦術へ変更された影響を受け、中田は攻撃よりも右サイドでの守備に奔走することを求められていった。
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◇ボローニャ-フィオレンティーナ時代 (2004年-2005年)
2003-04シーズン冬の移籍市場で、中田に信頼を寄せるマッツォーネ監督率いるボローニャへ半年間のレンタル移籍を決断する。センターハーフを任された中田は、移籍初戦と次節の2試合連続のアシストによってチームメイトの信頼を得た。以後、セリエAと日本代表の全試合にフル出場する過密日程をこなし、サッカー選手の職業病ともいえるグロインペイン症候群(鼠径部痛症候群)を発症するが、ボローニャのセリエA残留に貢献して恩師の期待に応えた。シーズン末、マッツォーネは中田の完全移籍を熱望し、中田側もパルマの給料未払いを相殺することで資金のないボローニャを援助する形で移籍する計画を遂行しようとしていた矢先、パルマが子会社の粉飾決算により破産。ボローニャはレンタル元であるパルマ側の破産管財人が要求した金額と年俸を工面できず頓挫した。
2004-05シーズン直前にACFフィオレンティーナへ完全移籍。シーズン前の合宿までの2か月あまり、日本でグロインペインの治療に専念した。しかし、低調なプレーに終始して現地ファンに酷評され、クラブと日本代表の両方の出場機会を失った。2005年3月にサテライトの試合で結果を出すと、すぐにドイツW杯アジア最終予選に招集され、予選を突破した。クラブにおいても翌シーズンに向けての決意を新たにしたところ、2005-06シーズンから、パルマ時代に確執があったプランデッリが監督に就任することを知り、急転直下、移籍することにした。
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◇ボルトン時代・2006年W杯(2005年-2006年)
2006年W杯でウォーミングアップをする中田
2005年、7年間過ごしたイタリアを離れ、28歳でイングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。加入後すぐにレギュラーを掴んだ。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。まもなく日本代表の親善試合に招集されたが、サム・アラダイス監督はコンディションを憂慮して難色を示したのに対して中田は招集された代表戦に全て出場し、やがてアラダイス監督の信頼を失い、主にリーグ戦の途中出場とカップ戦の出場になっていった。しかし、リーグ戦終盤には5試合連続で先発出場。チームの勝利に貢献し、ドイツW杯を前に懸念されていた試合勘の問題も払拭した。ただし、ボルトンはロングボール戦術を中心とするチームだったため、その能力をフルに発揮出来たとは言い難い。
2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツW杯のグループリーグ全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントには進出できなかった。ブラジル戦では力の差を見せつけられ、疲弊させられて手も足も出ない状況に陥るが、試合終了の笛が鳴るまで走り抜き、ピッチに倒れた。そこから立ち上がってセンターサークルへ行くと仰向けに倒れ込んだ。
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◇引退 - フリーランス(2006年-2016年)
ドイツW杯をもって日本代表から引退する事は以前から決まっていたが、2005年11月、中田は代表引退と同時に引退の意向を所属事務所社長の次原悦子に初めて話した。その後の話し合いで次原は中田の引退の意思が固い事を確認し、引退プロジェクトが始動。2、3月には守秘義務契約を交わした上で各スポンサーに報告を行った。また、現役最後の試合となったW杯のブラジル戦の前に監督のジーコには、この試合が引退の試合になるという事を伝えている。
2006年7月3日、自身の公式HP 上で引退を表明。「あらゆる人に、できるだけ同時にニュースが伝わるタイミングを狙った(次原談)」との理由で日本時間21時の発表となった。チームとの契約は残っていたが、「もうお金はいらないから契約を切ってほしい」とチームと話し合い契約を解除してもらった。
引退の記者会見を開かなかった理由については、ヨーロッパでは開く人はいないからと答えており、引退の理由にケガは関係なく、引退したのはサッカーを好きな部分が長きに渡って楽しめなくなったからと後のインタビューで答えている。
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以後は世界各地を旅しており、見聞を広めながら自分にできることを探したいという趣旨の発言をしている。また、サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし、貢献もしたい」と繰り返し語っている。同年12月、2007年7月に開催される第14回アジアカップの組み合わせ抽選会にドロワーとして出席した。
2007年7月モナコ居住権取得。
2007年12月、日本で開催されたクラブW杯の記者会見に出席、引退後初めての公式会見となった。その席でFIFAのブラッター会長は、中田が世界50カ国、150都市以上を旅し、国連のプログラムに協力しながら、サッカーを通じた社会貢献活動を続けていることを高く評価し、世界で16人目となるFIFA親善大使への就任を要請したことを発表。中田は今後FIFAと共にさまざまな活動をしていく考えを述べ、要請を受諾した。
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2008年6月、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』を立ち上げ、地球環境に「なにかできること、ひとつ。」をテーマにキャンペーンを行った。その中の企画の一つとして、海外スター選手を招いてのサッカー親善マッチ『+1 FOOTBOOL MATCH』を開催。海外では選手や元選手が世界のスター選手をオーガナイズしてチャリティーマッチや親善試合を行っているが、日本人では初の試みとなるもので、横浜国際総合競技場に約6万3000人の観衆を集めた。この試合は啓発を目的としておりチャリティーマッチではなかったが、来場者に出場選手の直筆サイン入りユニフォームが当たるラッフル(くじ)を購入するという方式で寄付を募り、寄付金はミャンマー・サイクロン食糧支援と、中国・西部大地震復興支援に全額寄付された。また、中田の主旨に賛同したルイ・ヴィトン主催によるチャリティー・ガラにおいて、「中田チームと試合できる」権利が800万円で落札されるなど約2900万円の収益をあげ、アフリカのマラリア対策のための蚊帳を購入する資金として寄付され、翌年の5月には中田本人がアフリカに行って配布に参加し、配布状況を見届けている。 また、『TAKE ACTION! 2008 実行委員会』は、収益の中から岩手・宮城内陸地震へ義援金を寄付した。この取り組みは、高校生向けの倫理副読本「最新図説倫理」(浜島書店)に掲載された。
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2009年1月、審査団の一員として選出方法から参画していた、アラブ系最大サッカー雑誌の『Super』誌による年間最優秀アジア選手、年間最優秀アフリカ選手、年間最優秀アラブ選手の表彰式に出席、年間最優秀アジア選手賞のプレゼンターを務めた。審査委員長は、著名なレフェリーだったピエルルイジ・コッリーナが務めている。同月、メンバー6名からなる国土交通省観光庁の有識者会議「観光庁アドバイザリー・ボード」に、世界各地を回った経験が評価された中田が選ばれ、定期的に会合に出席してアドバイスをしていくこととなった。
チャリティマッチに出場した中田(2011年)
また、一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」を立ち上げ、代表理事に就任[28]。4月には、TAKE ACTION FOUNDATIONの初事業として、中田の郷里である甲府市の信玄公祭りに合わせ、山梨県サッカー協会主催のヴァンフォーレ甲府との親善試合と、TAKE ACTION F.Cのメンバーがコーチとなるサッカー教室が行われた。収益の一部から、アフリカへのサッカーボール2万個の寄付と教育プログラムが実施され、また、甲府市が行うサッカーの機会拡大のための地域活性プロジェクトへ250万円を寄付した。
[匿名さん]
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同月から、フジテレビ「すぽると!」月曜日「マンデーフットボール」に半年間月1回不定期で録画出演した。6月、ローマ時代の元同僚であるヴァンサン・カンデラの引退試合に出場。選手時代と同じ「8」の番号を付けたユニホームでスターティングメンバーとしてスタディオ・オリンピコのピッチに立った。9月、週刊誌『AERA』に日本全国を周る旅について綴るコラムの連載を開始。同月、FIFAとコカ・コーラ共催の「コカ・コーラ FIFAワールドカップトロフィーツアー」のアンバサダーに就任。11月には、これまでのアフリカへの支援活動により、アフリカ各国の大使らが構成する在日本アフリカ外交団から表彰を受けた。
2010年2月、湘南ベルマーレのJ1昇格記念試合『We're back』では、TAKE ACTION F.C.とベルマーレOBとの親善試合が開催され、また、ハイチ復興支援のための寄付活動も合わせて行われた。同年3月、TAKE ACTION FOUNDATIONでの活動が評価され、世界経済フォーラム(通称「ダボス会議」)の「ヤング・グローバル・リーダーズ2010」に選出された。
ほか、朝日新聞社「AERA」にてコラム「つなぐ」を連載中。
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◇IFABのFAPメンバー - 現在(2015年- )
2017年初頭、アジア・フットボール連盟枠で国際サッカー評議会(IFAB)内のルール変更案に対してサッカー面とスポーツ面についての助言を行うFootball Advisory Panelに入っていたことが一部メディアで報じられた。「FIFA入り」と報じるメディアもあったが、IFABはFIFAとは独立した組織である。FIFAの公式サイトでは2015年4月のIFABのFAP立ち上げを発表した記事の時点ですでに中田英寿の名前は明記されていた。
2018年9月13日に、セリエAでデビューしてから20周年と言うことで、イタリアで所属したペルージャからフィオレンティーナまでの5クラブのスタジアムやクラブハウスを訪れる「中田英寿20年目の旅セリエA在籍5クラブを訪ねて」がAbemaTVで放送され、「Number Plus セリエA在籍5クラブを訪ねて 中田英寿 20年目のイタリア」(9月3日発売)として書籍化もされている。
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■経歴
1991年4月(14歳中学3年)- 甲府市立甲府北中学校3年生時、U-15に選出
1992年5月(15歳高校1年)- U-17アジアユース選手権出場
1993年8月(16歳高校2年)- U-17世界選手権 4試合中3試合出場、ベスト8
1994年
1月 - 全国高等学校サッカー選手権大会出場、2回戦敗退
9月(17歳高校3年)- U-19アジアユース選手権 全6試合出場、準優勝
12月 - Jリーグ12チーム時代、11チームからオファー。ベルマーレ平塚と仮契約
1995年
2月(18歳高校3年)- プロデビュー(途中出場)東京ドームカップ・対ジュニオール戦
3月 - 公式戦デビュー(Jリーグ)- 3月11日 XEROX SUPER CUP・ヴェルディ川崎戦(国立競技場)
リーグ戦デビュー(Jリーグ) - 3月25日 ジェフ市原戦(市原臨海競技場)
4月 - U-20 FIFAワールドユース選手権 全4試合出場、ベスト8
5月 - プロ初ゴール(Jリーグ)- 5月3日 鹿島アントラーズ戦(平塚競技場)
1996年
7月(19歳)- アトランタオリンピック(U-23) 3試合中2試合出場、2勝1敗、グループリーグ敗退
12月 - アジアカップウィナーズカップ優勝
1997年
5月(20歳)- フル代表初出場 - 5月21日(ワールドカップ日韓共催記念試合)韓国代表戦(国立競技場)
6月 - フル代表初ゴール - 6月22日(ワールドカップ・アジア一次予選)マカオ代表戦(国立競技場)
7月 - Jリーグオールスター戦出場
11月 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本3-2イラン 3アシスト(ジョホールバルの歓喜)
12月 - W杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜
12月 - 天皇杯全日本サッカー選手権大会出場 3戦2勝1敗
1998年
3月 - ダイナスティカップ優勝
6月(21歳)- フランスワールドカップ一次リーグフル出場 3戦全敗
7月 - セリエA・ACペルージャへ移籍
9月 - シーズン開幕戦(ユベントス戦)で2得点
[匿名さん]
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12月 - イタリアサッカー連盟100周年記念試合 イタリア代表対世界選抜
2000年
1月(22歳)- ASローマへ移籍
8月(23歳)- 世界選抜チャリティーマッチ フランス対世界選抜
9月 - シドニーオリンピック ベスト8
10月 - ジュビレオ杯(イタリア聖年記念試合) イタリア対セリエA外国人選抜
2001年
6月(24歳)- FIFAコンフェデレーションズカップ2001出場 準優勝、1得点
6月 - セリエA優勝(ASローマ 日本人として初)
7月 - ACパルマへ移籍
8月 - チャンピオンズリーグ最終予選出場
2002年
5月(25歳)- コッパ・イタリア優勝
6月 - 日韓ワールドカップ 全4試合出場 ベスト16、1得点
8月 - スーペルコッパ・イタリアーナ出場 準優勝
12月 - レアル・マドリード創立100周年記念試合『世界選抜対レアル』レアル・マドリード対世界選抜
2003年
6月(26歳)- 親善試合 セレッソ大阪対パルマA.C.
6月 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝2敗、1得点 グループリーグ敗退
12月 - 貧困撲滅の慈善試合『ロナウド&フレンズvsジダン&フレンズ』(ロナウドチーム)
2004年
1月 - ボローニャへ期限付き移籍
3月(27歳)- 「THE FIFA 100」に選出される
7月 - ACFフィオレンティーナへ完全移籍
11月 - 世界エイズデー 国際慈善試合 バルセロナ対世界選抜 1得点
2005年
2月(28歳)- スマトラ沖地震チャリティーマッチ 世界選抜対欧州選抜
6月 - 「FIFA人種差別撲滅キャンペーン」親善大使に任命される
6月 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝1分1敗、グループリーグ敗退
8月 - イングランド・FAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズへ1年契約の期限付き移籍
2006年
6月(29歳)- ドイツワールドカップに出場、1分2敗でグループリーグ敗退
7月 - 引退
[匿名さん]
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2007年
6月(30歳)- フィーゴ主催・フィーゴチーム対世界選抜慈善試合(フィーゴチーム)
7月 - 香港の中国返還10周年記念試合 中国代表対世界選抜(世界選抜チームのキャプテン)
12月 - FIFA親善大使就任
12月 - ジーコ主催チャリティーマッチ『JOGO DAS ESTRELAS(スターゲーム)』
2008年
5月(31歳)- フィーゴ主催・フィーゴチーム(世界選抜)対ルーマニア選抜慈善試合(フィーゴチーム)
6月 - 自身主催『+1 FOOTBOOL MATCH JAPAN STARS vs. WORLD STARS』
7月 - フランスワールドカップ世界選抜試合『France 98 Selection mondiale』
2009年
1月 - 一般財団法人『TAKEACTION FOUNDATION』設立、観光庁のアドバイザリーボードメンバーに就任
4月(32歳)- 『TAKEACTION in 甲府』 開催
6月 - ヴァンサン・カンデラ引退試合 1998フランス代表対ローマメンバー
6月 - TAKEACTION!クリック募金「ケニアに10万食の給食を届ける!」(WFP支援プログラム、協力企業 株式会社東芝)
2010年
1月 - 名波浩引退試合に出場 (1月10日、エコパスタジアム)
2月(33歳)−湘南ベルマーレJ1昇格記念試合『We're back FC vs.TAKE ACTION FC』(2月20日、平塚競技場)
[匿名さん]
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2011年
1月 - 口蹄疫復興イベント『TAKEACTION in 宮崎』開催(1月10日、宮崎県総合運動公園)
4月 - 東日本大震災チャリティマッチ『TAKEACTION in シンガポール』(4月2日、JALAN BESAR STADIUM)
5月 - 〃 『TAKEACTION in バンコク』(5月17日、SUPHACHALASAI STADIUM)
5月 - 〃 『ペルージャ PER 仙台』(5月23日、STADIO RENATO CURI)
6月 - 98年W杯仏代表GKラマ引退試合『フランス98 vsブラックスターズ vsパリサンジェルマンOB』にゲストプレーヤーとして出場
6月 - 『ASIAN DREAM CUP 2011 inホーチミン』 パク・チソン主催のチャリティーマッチに出場(6月15日、THONG NHAT STADIUM)
2012年
1月 - 松田直樹メモリアルゲームにNaoki Friendsとして出場(1月22日、横浜日産スタジアム)
12月 - 貧困撲滅チャリティーマッチ第10回『ロナウド&フレンズ VS ジダン&フレンズ』に出場(ジダンチーム)
[匿名さん]
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■逸話
◇個人として
イタリア語、英語が堪能で、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、ロシア語でも簡単な会話ができるという。高校生のころからセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強を始め、イタリアへ渡って2か月後には通訳なしで会話できるようになっていた。さらにボルトンへの移籍会見では、50分間通訳を通さず英語で応対。イタリアにいるころから英語の家庭教師についており、英語のインタビューには英語で応じていた。
ファッションが独特でファッションアイコンとして海外でも有名。2007年、米誌『ヴァニティ・フェア』で第68回ベストドレッサー男性部門の第8位に選ばれた。「服が好き」と公言しており、ミラノやパリのファッションショーに出没することも多い。現役時代は帰国する際のファッションがファンやマスコミの注目を集め「成コレ」(成田コレクションの略)と呼ばれた。海外ファッション誌『GQ』に10ページに渡って特集されたこともある。
[匿名さん]
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クールなイメージで多くのCMに出演したが、Jリーグデビュー当時、前園真聖と供に出演した日清ラ王の一連のCMシリーズでは、どちらかといえばサッカー選手として絶頂の時期であった前園がクールな役割だったのに対し、中田は三枚目的な役割で出演しており、今となっては大変珍しいCMである。また、クールなイメージに反して無類のゲーマーであり、子供の頃はアクションゲームやRPGなど、毎日朝から晩までゲームばかりしていたという。『イナズマイレブン2』の隠しキャラクターとしての登場依頼を引き受けた。『3』には自身がプレーしたイタリア代表で登場。また、漫画好きでもあり、海外に住んでいたときも『週刊少年ジャンプ』、『週刊少年マガジン』などの少年誌のほか、『週刊ヤングジャンプ』などの青年誌を毎週欠かさず航空便で送ってもらい、30年ぐらいかかしたことがなかった。中でも『キャプテン翼』はサッカーをはじめるきっかけになった。
[匿名さん]
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マスコミとの激しい確執は広く知られるところである。1996年のナビスコカップの際、日刊スポーツの報道をはじめ、1998年フランスワールドカップ時の一連の出来事[注 1]を契機に記者への不信感が高まり、「真実を伝えない」とマスコミとの軋轢が絶えなくなった。「君が代事件」により、右翼団体から抗議を受けた中田は、身の危険を感じて国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードをつけていたこともあった。マスコミへの不信感から、自分の言葉を直に伝えるために、ウェブサイトでメールを発信するようになった。このスタイルはスポーツ選手が作るオフィシャルウェブサイトの先駆けとなり、マスコミの前で見せないような素の口調で書く形式で情報発信していった。ワールドカップ日韓大会後は特別番組を組んで生出演、さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画構成することで、自らが主体となってメディアを利用するようになっていった。そのnakata.netには木村拓哉も出演経歴があり、クールなイメージの中田が木村拓哉に対し、初対面で「拓哉くん」と呼び、木村に飲まされたと言った際、「電波を使って言うのやめろよ」と注意されたこともある。また、その日が大晦日であったことから、東京タワーに行き、初日の出を一緒に見たというエピソードもある。引退後は、現役時代ほどマスコミとの関係は険悪でなくなっており、2010年、2014年のワールドカップの中継番組でゲスト出演し、多くのサッカー番組にも出演するなどしている。
[匿名さん]
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2005年、貧困問題を訴えるホワイトバンドプロジェクトのクリッキングフィルムに参加。当プロジェクトの日本版は、中田の所属事務所サニーサイドアップが協力している。ファッション性の高さもありバンドは日本中に流行したが、「バンドの購入=寄付」ではないことがアナウンスされていなかったと批判された。同プロジェクトは2008年10月末に解散した。
引退後は、旅をしながら様々な慈善活動に参加している。
大の野菜嫌いでも有名で、子供の時から食べられるのは潰したジャガイモとトマトソースだけで、ハンバーガーは必ず野菜抜きを注文をし、バンズにケチャップを大量に塗って食べる。 野菜を食べない理由は「野菜を食べて得られるものより、嫌いなものを無理して食べるストレスの方が影響が大きい」のと、野菜を食べると蕁麻疹が出ることがあるからだという。
[匿名さん]
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■サッカー選手として
高校進学の際、当時韮崎工業高校の監督で、3度にわたり韮崎高校を選手権準優勝に導いた横森巧からも誘いを受けた。しかし中田は「僕は工業向きではない」と断っている。最初は父親と同じ甲府第一高校への進学を希望していたが、入学の年から校舎改修のためにグラウンドが使用できなくなるのを知り、当時山梨県のトップ選手が集まる韮崎高校を受験することを決め、特別枠だと500満点中270点ほど取れば合格だと聞かされるが、一般受験をする。当時、監督やコーチをしていた新道道也は、学区外だったために420点ぐらい取らなければならないのを心配したが、「460点ぐらい取ってしまった」と語っている。
フランスワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合で、初めて「世界選抜」の一員として出場した時、チームの主将だったロナウドが後半で途中交代する際にキャプテンマークを渡されて巻いている。これ以後、世界選抜の記念試合や、ジーコ、ジネディーヌ・ジダン、ロナウド、ルイス・フィーゴら有名選手の主催するチャリティーマッチに多数出場している。ドイツワールドカップのブラジル戦では、入場通路でロナウド、ロナウジーニョ、カカらと談笑する姿が放映され、試合終了直後には、ピッチに倒れている中田にパルマ時代の同僚であるアドリアーノが近寄って腰をかがめ、「ヒデ、人生には、涙を流すときもあれば、笑うときもあるさ。」と慰めるシーンが見られた。
[匿名さん]
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試合に出られなかった日は、試合後にトレッドミルで試合時間と同じ90分間走り、試合に出たのと同じになるように心拍数をあげてコンディション管理をしていたという。また、ボローニャ時代のマッツォーネ監督は、「規律を守り、基本を疎かにせず、さらに自分なりに目的を持ってトレーニングに励んでいた。チームメイトは『ナカタはすぐに腹筋する変な癖がある』と言っていたよ(笑)」と話している。このようなサッカーに対する真摯な姿勢からか、他チームに移籍しても古巣との試合では相手サポーターから拍手が送られることがあった。元日本代表監督のジーコは、どんな状況でもすべての力を注ぐことができるのは大きな才能だと評価した。
引退後の2008年5月、自身が主催するサッカーのエキジビションマッチであるTAKE ACTION! 2008 『+1 FOOTBALL MATCH』に向けた体づくりのため、古巣の湘南ベルマーレの練習にチームウェアを着用して予定日数を超えて参加した。
[匿名さん]
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引退後はフィリピンのスラム街の子供たちとサッカーを楽しんだり、チベットの僧侶たちにサッカーのコーチをすることを約束するなど、各地でサッカーを通じた交流を行っている。中東では情勢が緊張していることもあって国境を越えるのも大変だろうと思っていたところ、周囲に「ナカタ?」と気づかれ、顔パスのような待遇を受けたと語っている。これは自分が有名だからではなく、世界中でサッカーが大きな存在である証拠だと謙遜している。2007年には、モンゴルサッカー協会主催のサッカーイベントに大相撲横綱の朝青龍とともに招待され、サッカーの試合に参加した。このとき朝青龍は、腰の疲労骨折と肘の靭帯損傷を理由に夏巡業の休場を決めたばかりだったことから「仮病疑惑」が浮上し、2場所の出場停止などの処分に発展した。中田までが批判されたが、日本サッカー協会の川淵三郎キャプテンは、中田は海外を拠点に活動していたために朝青龍が故障で夏巡業を休場していたことを知らなかったと擁護した。2009年の初場所初日には、朝青龍から招待され桝席で相撲観戦をする中田の姿が見られた。
[匿名さん]
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■実業家として
日本のサッカー界へさまざまな貢献をしている。
故郷の山梨で中学時代の恩師が監督をしているクラブ「フォルトゥナSC」をサポートしており、会員No.0001である。出身地の山梨県をホームとするヴァンフォーレ甲府がJ1に昇格した際にはスポンサーを紹介した。また、山梨県にユニフォームを贈呈したこともある。
ローマに移籍した22歳の時、J2に降格して資金的に窮したベルマーレを救済するために自身のHPの"nakata.net"の名で広告を出して出資して以来、ずっとスポンサーになっている。ユニフォームの背中の「nakata.net」の広告や、2004年、ベルマーレジュニアユースの公式戦用ユニフォーム作成の依頼を引き受け、自らデザインして一式を贈り、2008年には、「湘南ベルマーレ持株会」が目標とした2000万円に届かないため、1週間の期限延長とともに中田の持ち株会参加を表明すると、結果2700万円に達した。ベルマーレも感謝の印として、平塚競技場の7番ゲートを「Hideゲート」と名づけている。
2006年、2007年シーズンの2年間なでしこリーグのスポンサーだった株式会社モックとのスポンサー契約は、中田がモックの山田納生房代表取締役社長兼CEOと個人的な親交があったため、橋渡し役となった。
[匿名さん]
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2002年と2006年には、W杯に合わせて営業した『nakata.net cafe』で使用された家具のチャリティーオークションの収益で、Jリーグアカデミーへ全Jリーグクラブ分のミニゴールなどを寄贈している。
中田は菓子が好きなことで知られ、2003年7月9日には菓子メーカー株式会社東ハトの非常勤執行役員CBO(Chief Branding Officer=チーフ・ブランディング・オフィサー)に就任。キャラメルコーンやハーベストのパッケージを一新して話題になった。社員啓発のために配布した共著の絵本「お菓子を仕事にできる幸福」が評判を呼び、一般向けにも刊行した。
2005年には、ニューヨークにビルを購入、建築家の安藤忠雄にリフォームを依頼し、部屋のレンタルを計画した。
2015年11月には「JAPAN CRAFT SAKE COMPANY」を設立し、自ら社長に就任。日本酒を初めとした日本文化の本格的なPR活動に乗り出している。
所属事務所であるサニーサイドアップの大株主でもあり、取締役の次原に次ぐ第2位の株主である(2008年6月30日の段階で7.92%を保有)。
[匿名さん]
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■代表歴
◇出場大会など
1991年4月(14歳中学3年)- 甲府市立甲府北中学校3年生時、U-15に選出
1992年5月(15歳高校1年)- U-17アジアユース選手権出場
1993年8月(16歳高校2年)- U-17世界選手権 4試合中3試合出場、ベスト8
1994年9月(17歳高校3年)- U-19アジアユース選手権 全6試合出場、準優勝
1995年4月(18歳)- U-20 FIFAワールドユース選手権 全4試合出場、ベスト8
1996年7月(19歳)- アトランタオリンピック(U-23) グループリーグ敗退
1997年
5月(20歳) - W杯日韓共催記念試合 フル代表デビュー
6月 - フランスW杯アジア一次予選
11月 - フランスW杯アジア最終予選
1998年
6月(21歳) - フランスW杯 グループリーグ敗退(最下位)
1999年
9月 (22歳)- シドニーオリンピックアジア最終予選
2000年
9月(23歳)- シドニーオリンピック ベスト8
2001年
5月(24歳)- FIFAコンフェデレーションズカップ2001一次リーグ、準決勝
2002年
6月(25歳)- 日韓W杯 ベスト16
2003年
6月(26歳)- FIFAコンフェデレーションズカップ2003 グループリーグ敗退
2004年
2月 - 3月(27歳)- ドイツW杯アジア一次予選
2005年
3月 - 6月(28歳)- ドイツW杯アジア最終予選
6月 - FIFAコンフェデレーションズカップ2005 グループリーグ敗退
2006年
6月(29歳) - ドイツW杯 グループリーグ敗退(最下位)
■日本代表における個人成績
日本代表戦 77試合 11得点 9アシスト(1997年 - 2006年)
[匿名さん]
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■タイトル
◇クラブ
1995-1996年 アジアカップウィナーズカップ 優勝(ベルマーレ平塚)
2000-2001年 セリエA 優勝(A.Sローマ)
2001-2002年 コッパ・イタリア 優勝(A.Cパルマ)
◇個人
Jリーグベストイレブン(1997年)
日本年間最優秀選手賞(1997年)
アジア年間最優秀選手賞:2回(1997年-1998年)
AFC All Star Team:3回(1997年-1999年)
FIFAコンフェデレーションズカップ2001ベストイレブン(2001年)
FIFAコンフェデレーションズカップ2001ブロンズボール(2001年)
FIFA 100(2004年)
Jクロニクルベスト ベストイレブン(2013年)
◇その他
日本プロスポーツ大賞/大賞(1997年)
日本プロスポーツ大賞/殊勲賞(1998年)
セリエAサプライズ賞 グエリン・スポリティーボ(イタリア有力スポーツ誌)選(1998年)
朝日スポーツ賞(2006年)
イタリア連帯の星勲章(2006年)
カヴァリエーレ勲位(ナイト)(2006年)
チャイナ・ファッション・アワーズ 国際賞(2006年)
ブルガリ・ブリリアントドリームアワード2008 特別賞(2008年)
[匿名さん]
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■関連作品
◇VHS
中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.1
中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.2
◇DVD
NAKATA
Grande NAKATA-グランデ・ナカタ-
HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 1
HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 2
HIDETOSHI NAKATA 2004-2005 FIORENTINA VOLUME.7
HIDETOSHI NAKATA 2005-2006 BOLTON VOLUME.8
HIDETOSHI NAKATA-THE JOURNEY2枚組
HIDETOSHI NAKATA [THE JOURNEY] Vol.3 ベルマーレ平塚
中田英寿 僕が見た、この地球。〜旅、ときどきサッカー〜
■書籍
◇執筆書籍
1998年 新潮45 9月号別冊 アッカ!! (新潮社、中田英寿編集)
1999年 中田語録 (文藝春秋、小松成美編集、ISBN 978-4-16-727222-7)
2000年 nakata.net—98-99 (新潮社、ISBN 978-4-10-435901-1)
2001年 nakata.net〈2000〉 (新潮社、ISBN 978-4-10-435903-5)
2002年
nakata.net〈2001〉 (新潮社、ISBN 978-4-10-435904-2)
中田英寿・洪明甫 TOGETHER-2002ワールドカップBook (講談社、洪明甫共著、ISBN 978-4-06-179351-4)
2003年
nakata.net〈2002〉 (新潮社、ISBN 978-4-10-435905-9)
文体とパスの精度 (集英社、村上龍共著、ISBN 978-4-08-747571-5)
nakata.net〈2003〉 (新潮社、ISBN 978-4-04-853627-1)
nakata.net ITALY WALK (角川書店、サニーサイドアップ編纂、ISBN 978-4-04-853627-1)
2004年
nakata.netTV 2003-2004 (扶桑社、ISBN 978-4-594-04771-9)
お菓子を仕事にできる幸福 (日経BP社、東ハト(編集)、木曽健一共著、ISBN 978-4-8222-4408-8)
[匿名さん]
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2005年
NAKATA 1998-2005 〜中田英寿 イタリア セリエAの7年間〜 (エクスナレッジ、ISBN 978-4-7678-0496-5)
nakata.net Italy walk (2005) (角川書店、サニーサイドアップ編纂、ISBN 978-4-04-721525-2)
ドイツW杯への道 nakata.net (新潮社、小松成美編集、ISBN 978-4-10-435907-3)
2006年
教えて! ヒデ (小学館、nakata.net kids監修、ISBN 978-4-09-253266-3)
すべてはサッカーのために nakata.net 05-06 (新潮社、ISBN 978-4-10-435908-0)
2008年 nakata.net 06-08 the journey (講談社、ISBN 978-4-06-214652-4)
◇関連書籍
1998年
中田英寿 鼓動 (幻冬舎、小松成美、ISBN 978-4-87728-278-3)
戦いの前の素顔—Keibun Miyamoto photographs (マガジンハウス、宮本敬文、ISBN 978-4-8387-1057-7)
2001年 ジョカトーレ-中田英寿新世紀へ (文藝春秋、小松成美、ISBN 978-4-16-356920-8)
2002年 悪魔のパス 天使のゴール (幻冬舎、村上龍、ISBN 978-4-344-00189-3)
2003年 Amore Pace (講談社、宮本敬文、ISBN 978-4-06-308654-6)
2005年
ナカタ ノ ナカミ (マガジンハウス、ナカタ ノ ナカミ製作委員会、ISBN 978-4-8387-1568-8)
セリエAに挑んだ男たち (朝日新聞社、パオロ・ロッシ、ISBN 978-4-02-250050-2)
2007年
中田英寿日本代表全試合—1991-2006 (幻冬舎、ISBN 978-4-344-01272-1)
In His Times 中田英寿という時代 (光文社、増島みどり、ISBN 978-4-334-97514-2)
中田英寿 誇り (幻冬舎、小松成美、ISBN 978-4-344-01339-1)
[匿名さん]
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◇CD
2005年
FREE STYLE VOL.1 R&B COLLABORATIONS〜nakata.net music
FREE STYLE VOL.2 DANCE&SOUL〜nakata.net music
2006年 FREE STYLE VOL.3 Special edition for nakata.net cafe
■出演
◇CM・広告
日清食品 「日清ラ王」 (1996年) - 前園真聖と共演
アサヒ飲料
「Eau+(オー・プラス)」 (1998年)
「Eau+V(オー・プラス V)」
「SWITCH」 (1999年)
FILA イメージキャラクター (1998年 - 1999年)
富士重工業 (スバル)
「プレオ」 (1998年)
「レガシィ」 (2000年)
SKY PerfecTV!
NIKE イメージキャラクター
キヤノン
「デジタルカメラ・IXY」 (2001年 - 2006年)
「プリンター・PIXUS」 (2001年)
日本コカ・コーラ
「アクエリアス」 (2006年)
「コカ・コーラ ゼロ」 (2009年-)
トヨタ自動車 「WiSH」 (2006年)
ほっとけない 世界のまずしさキャンペーン
国際連合
資生堂 「SHISEIDO MEN」
エステティックTBC 「HUMAN×BEAUTY」 (2009年)
東芝 NTTドコモ携帯電話「T-01A」 (2009年)
JAL 「旅 中田英寿」 (2009年)
カルバン・クライン「Calvin Klein X Underwear」 (2010年)
レベルファイブ「イナズマイレブン3 世界への挑戦!!スパーク/ボンバー」 (2010年)
テレビ・ラジオ番組 編集
nakata.net TV (2000年7月〜2006年8月、スカイパーフェクTV!)
緊急スペシャル番組『nakata.net TV 2008 〜再会〜』 (2008年1月、スカイパーフェクト・コミュニケーションズ)
『nakata.net TV 2008 +1』 (2008年7月、スカイパーフェクト・コミュニケーションズ)
ニュースステーション (1997年12月8日・1999年9月3日、テレビ朝日)
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筑紫哲也 NEWS23 (1998年7月24日、TBS)
クローズアップ現代 (1999年3月3日、NHK)
ZONE (1999年11月4日、TBS)
Ryu's Barスペシャル21 (2001年1月2日、毎日放送)
イタリア語会話 (2001年4月、NHK教育)
日本の至宝・中田英寿独占密着1470日 (2002年7月5日、TBS)
PERFECT SPORT EXTRA〜 (2003年7月13日、フジテレビ)
FUGA presents 世界を駆けるヒーロー達 (2004年12月13日、日本テレビ)
サンデースポーツ (2005年6月12日、NHK)
報道ステーション (2006年5月2日・15日、テレビ朝日)
緊急放送!中田英寿引退特別番組 (2006年7月15日、テレビ朝日)
Hidetoshi Nakata Revealed (2006年12月9日 - 、CNNj)
中田英寿 引退特別番組〜遥かなる旅の途中〜 (2006年12月25日、テレビ朝日)
新報道プレミアA (2007年10月7日、フジテレビ・関西テレビ)
TOYOTAプレゼンツFIFAクラブワールドカップいよいよ世界一が決定!キックオフ直前SP (2007年12月16日、日本テレビ)
NEWS ZERO「NAKATA×ZERO」 (2007年11月9日・2008年2月7日・3月18日・4月17日・5月8日・5月29日・9月22日・11月3日、日本テレビ)
中田英寿 僕が見た、この地球。〜旅、ときどきサッカー〜 (2008年6月2日、日本テレビ)
[匿名さん]
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Touch ! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル (2008年6月8日、日本テレビ)
週末ランニング部 (2008年12月12日、19日、FM東京)
「LANDSKAPE」〜アスリート、その視線の彼方〜 (2008年12月28日-30日、2009年1月1日、2日、BS民放5局共同)
すぽると! (2009年4月 - 、月1回月曜出演、フジテレビ)
20世紀スポーツ名勝負 ライバル伝説…光と影 (2009年7月20日、TBS)
2010FIFAワールドカップ開幕直前SP 中田英寿×本田圭佑 (2010年6月6日、テレビ朝日)
Nakata wants Japan and Italy to do well (2010年6月24日、CNN)
Nakata: 'Capello unites teams' (2010年6月25日、BBC)
ザ☆スター「坂東玉三郎」 (2010年8月7日、NHK-BS2)
Revalue NIPPON Project 中田英寿 日本をつなぐ (2011年3月 - 2012年3月、日本テレビ)
J-WAVE HOLIDAY SPECIAL TSUCHIYA presents LIGHT UP YOUR HEART (2012年1月、J-WAVE)
アナザースカイ/4周年SP(2012年10月5日・12日、日本テレビ)
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【NHK SPORTS STORY】
◇スポーツの面白さに出会えるメディア◇
[2018年6月4日(月)]
【FIFAワールドカップ 悔しさと喜びの日本代表20年史 -前編-】
世界中の人々が注目するサッカーW杯。選手もサポーターもときにはタコにも!?サッカーW杯では毎回数々のドラマが繰り広げられています。
■【1998年フランス大会】ドーハの悲劇を乗り越えた 日本
日本が初めて本選出場を叶えた1998年のフランス大会。1994年アメリカ大会への出場をあと一歩のところで逃した「ドーハの悲劇」から4年、出場を決めるまでのアジア最終予選にもドラマが詰まっていました。
日本がW杯に初挑戦してから43年、挑み続けた夢の実現がかかったアジア最終予選。
初戦の対ウズベキスタンでは、ドーハの悲劇を経験したエース、三浦知良選手が4得点の活躍で大勝を収め幸先の良いスタートを切ります。
しかし、その後は苦戦しカザフスタン戦で引き分けに終わると、日本サッカー協会は当時監督を務めていた加茂周監督を解任し、新監督として当時コーチだった岡田武史氏を起用しました。
しかし、その後3試合連続引き分けに終わると、国立競技場は怒りが収まらないサポーターたちで深夜にわたる騒ぎになったことも。
そんな状態の中行われた、アジア第3代表決定戦で日本が起こしたのが「ジョホールバルの歓喜」です。
前半は1点リードしたものの、後半で逆転を許します。しかし岡田監督の采配により2-2の同点に追いつき延長戦へ。
そして同点のまま迎えた延長後半13分に野人・岡野選手のゴールが決まり、3対2で勝利し、悲願の初出場を決めたのです!
[匿名さん]
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ジョホールバルの歓喜(Delight of Johor Bahru)は、1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルでサッカー日本代表が1998 FIFAワールドカップ・フランス大会のアジア最終予選のアジア第3代表決定戦をイラン代表と戦い、勝利を収めたことによりFIFAワールドカップ本戦初出場を決めたサッカーの試合の日本における俗称である。
【1998 FIFAワールドカップ・フランス大会
アジア第3代表決定戦】
■大会名
1998 FIFAワールドカップ・アジア予選
日本 対 イラン
3 🆚 2
(延長ゴールデンゴール)
■開催日
1997年11月16日
■会場
ラルキン・スタジアム(ジョホールバル)
■主審
マヌエル・ディアス・ベガ
■背景
1998年W杯のアジア地区の出場枠は3.5であり、アジア最終予選は10チームがA・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、各組1位の2ヵ国が本大会出場権を獲得し各組2位同士で第3代表決定戦を行い、この勝者が3番目の本大会出場権獲得。敗者がアジア4位としてオセアニア1位との大陸間プレーオフに回りその勝者が本大会出場という方式であった。
[匿名さん]
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最終予選の形式は当初、前回アメリカ大会予選と同様のセントラル方式が予定されていたが、日本協会をはじめとする東アジアの国はマレーシア開催を主張し、西アジアの国はバーレーンでの開催を主張し対立が起き開催地を決着できなかったため、FIFAが直前の7月21日の総会でホーム&アウェー方式への変更を発表した。この方式変更によって試合数が2倍に増えることになるため、結果として最終予選の日程が相当過密なものとなった。予選の終盤までもたつくも、強豪アラブ首長国連邦(以下「UAE」)を逆転して日本はグループ2位に滑り込んだ。
■グループ展開
◇日本(B組)
日本は、ホーム・アンド・アウェー方式の1次予選第4組で5勝1分けとし、オマーンを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。
9月7日、ホーム国立競技場で行われた初戦のウズベキスタン戦を三浦知良の4ゴールなどで6-3と大勝し、約2週間後の9月19日、気温40度のアブダビで行われたUAE戦を0-0で引き分けた日本は、9月28日、このグループ最大のライバルとされた韓国をホーム国立競技場に迎えた。日本は後半22分、山口素弘のループシュートで先制するも、この日日本代表として初出場だったFW呂比須ワグナーをDF秋田豊と交替させ守りに入ったことが裏目に出て、後半39分に徐正源、42分に李敏成にゴールを許し、1-2で逆転負け、3試合を終了して1勝1分1敗の勝点4にとどまった。同じく3試合を消化した韓国は3連勝で勝点9の1位、2位にUAEが勝点7で続く状態となり、1位通過が危ぶまれた。
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続く10月4日、アルマトイで行われたカザフスタン戦は、コーナーキックから秋田豊のヘディングで先制するも、ロスタイムに同点ゴールを決められて引き分け。同日、首位の韓国がホームでUAEに3-0で快勝したため、2位UAEとの勝点差こそ2に縮まったものの、首位韓国との勝点差は7に開き、1位となる可能性はほぼ消滅した。この試合後に加茂周監督は更迭され、ヘッドコーチの岡田武史が監督に就任した。
岡田監督の初戦、かつアウェー連戦となった10月11日、タシケントでのウズベキスタン戦では前半30分に先制され、敗戦直前まで追い詰められるが、終了間際にDFも前線に上げるパワープレーを敢行した結果、井原正巳のロングボールを呂比須ワグナーがヘディングシュート、これが同点ゴールを生みそのまま引き分けとなった。同節、韓国はアウェーでカザフスタンと引き分け、UAEは試合がなかったため、韓国との勝点差こそ7のままながら、UAEとの勝点差はUAEが1試合少ないとはいえ1に縮まり、首の皮一枚繋がった形での引き分けとなった。
[匿名さん]
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次の試合は10月26日、UAEをホームの国立競技場に迎えた2位争いの直接対決で、UAEが10月18日の第7節でカザフスタンにアウェーで敗れたためUAEと日本の勝点差1はそのまま、日本が勝てば2位浮上となる試合だった。呂比須が前半4分に先制ゴールを挙げるも、前半37分に追いつかれそのまま追加点を挙げられず引き分けた。この試合ではUAE寄りだったジャッジと、異様に短いロスタイムが問題になり、試合後に国立競技場周辺で日本のサポーターが暴動を起こす事態となった。この試合の結果、上位3チームがいずれも2試合を残した状態で、同節試合がなく既に勝点16を得ていた韓国と2位UAEとの勝点差が8となり、韓国のグループ1位およびW杯本戦出場が決定するとともに、日本の自力による2位からのプレーオフでの最終予選通過が消滅した。
もうあとがなくなった日本。11月1日、アウェーでの韓国戦で日本は、既にワールドカップ出場を決め、主力DFの洪明甫を累積警告で欠いた韓国守備陣を試合開始から翻弄し、前半1分に名波浩、前半37分に呂比須がゴールを決め2-0と快勝、勝点を10とする。翌日、UAEがホームで最下位ウズベキスタン相手に引き分けたため、UAEの勝点は9にとどまり、日本は逆にUAEに勝点差1をつけ2位に浮上した。
日本は、勝てばB組2位が確定する11月8日の最終戦、アウェーで終了間際引き分けに持ち込まれたカザフスタンをホームに迎えた1戦でも、秋田のヘディングで先制、代表復帰した中山雅史や高木琢也のゴールなどで5-1で快勝し、第3代表決定戦への出場権を得た。
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◇イラン(A組)
一方、A組には前大会ベスト16のサウジアラビアと強豪イランが所属していた。当初はイランがA組の首位を走っていたが、第9節にて最下位のカタールに0-2で敗れ、9節終了時点で勝点12の暫定首位で、最終節の第10節に試合がないため一足早く全日程を終了。第10節のサウジアラビア(勝点11)−カタール(勝点10)戦が引き分けに終われば、勝点でサウジアラビアと並ぶものの得失点差で1位となるが、いずれかが勝利した場合、もう1試合の中国対クウェートがいずれかの大勝に終わらない限り2位となるため、サウジアラビア対カタールの結果待ちとなった。この試合を1-0で制したサウジアラビアが首位となって本戦出場権を獲得、イランは2位に転落して第3代表決定戦にまわることとなった。
A組2位が決まるまでの間、日本では、第3代表決定戦の相手としてはサウジアラビアの方が与しやすいとの論が主流であったが、期待に反して第3代表を争う相手はイランとなった。
■開催地決定
第3代表決定戦をホーム・アンド・アウェー方式のもとで2試合開催することは日程的に難しく、中立地での一発勝負の実施が前提とされた。当時のB組の展開から、UAEがB組2位になることが想定されたため、第3代表決定戦はバーレーンで開催されることとなっていた。しかし移動距離や気候などで著しい不利を被ることになる日本協会はこれに反発。AFCでは、西アジア勢同士ならバーレーン、東アジア勢同士なら韓国、西アジア勢対東アジア勢の対戦ならマレーシア(イスラム教国であり、かつAFC本部がある)で開催するという案に落ち着いた。
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イランは時差の点で不利を受け(日本とマレーシアの時差1時間、イランとマレーシアの時差4時間半)、さらにイランは直行便が確保できず、試合直前にやっと確保できたのはドバイや香港を経由した約36時間の移動であった。加えて飛行機の遅延でクアラルンプールでの乗り継ぎに失敗し、ジョホールバルへの到着がさらに6時間も遅れることとなった。そのため体調を崩す選手が続出し、準備もできなかった。時差や移動の面で日本に有利に働き、また、日本の第3代表決定戦出場がイランよりも先に決定したこともあり、マレーシアには日本のサポーターが多数観戦に訪れ、またクアラルンプールの日本企業や日本人学校を練習場として使用できた上に日本人会の支援を受けるなど、日本にとってはホーム同然の環境であった。
試合2日前の練習では、イランの選手達がコーランを大音量で流したり、日本選手の真横をランニングするなどのあからさまな挑発行為に出たが、並木磨去光は「肩でハアハアと息をしていて、明らかに疲れていた」とイラン代表の余裕の無さが既に現れていたと振り返った。
[匿名さん]
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■試合展開
日本はアウェー韓国戦から機能している北澤豪をトップ下に置いたダイヤモンドの4-4-2のフォーメーションを継続。FWはそれまでレギュラーながら前節カザフスタン戦で出場停止だった三浦知良と呂比須ワグナーが揃って出場停止から復帰したが、直前に実母を亡くしたばかりの呂比須はベンチスタートにして、三浦とカザフスタン戦で代表復帰ゴールを決めた中山雅史が2トップを組んだ。一方、イランはアジア予選で19得点と活躍したMFカリム・バゲリを累積警告による出場停止で欠いていたが、前日練習で車椅子に乗っていたコダダド・アジジが平然とスタメンで出場し、エースのアリ・ダエイ、ドリブラーのメフディ・マハダビキアと変則3トップを組む。それまで右サイドMFだったマハダビキアをウイングの位置まで高くしたのは、日本の攻守の要となっていた左SB相馬直樹のオーバーラップを牽制する狙いであった。
試合は前半39分、日本がMF中田英寿のスルーパスに反応した中山がGKアハマド・レザ・アベドザデの脇を抜くシュートを決めて先制。前半はこのまま1-0と日本がリードして折り返すも、イランは後半開始25秒にダエイのシュートのこぼれ球をアジジが押し込んで同点とし、後半14分にはダエイがヘディングシュートを決めて2-1と逆転した。
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後半18分、後のない日本の岡田監督は2トップの三浦と中山に代えて城彰二と呂比須を同時投入し、同時に3バックに変更した。この積極策が功を奏し、後半31分に中田のクロスボールを城がヘディングでゴールに突き刺し、2-2の同点に追いつく。コンディショニングに失敗したイランの選手は時間経過とともに運動量が落ち、接触プレーで倒れた後起き上がれない場面が目立つようになる。しかし、両チーム決勝点を奪えないまま後半を終了し、得点が決まった時点で試合終了となるゴールデンゴール方式の延長戦に突入した。
延長戦開始と同時に、日本はMF北澤に代えて5人目のFW岡野雅行を投入。岡野は最終予選においてそれまで一度も出場機会を与えられていなかったが、中田からのパスに俊足を活かして何度もゴールに迫る。しかし、GKと1対1になる絶好機でシュートを打たず、ゴール前へ走りこんできた中田へのパスを選択してチャンスをつぶし、次のチャンスではシュートを打ったもののゴールのはるか上に打ち上げてしまう。城はゴールへ迫った際にアベドザデと接触、この時から岡野の決勝ゴールの場面までの記憶が全くないという。
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イランも反撃を見せ、ゴール前でフリーでクロスを受けたアリ・ダエイのシュートがバーの上を通過するなど両チームとも決定的なチャンスをものにできなかった。そのピンチの直後、PK戦への突入も近づいた延長後半13分、呂比須が中盤で奪取したボールを中田がドリブルで持ち上がり、ペナルティエリア直前からミドルシュート。アベドサデがはじいたルーズボールに岡野が走りこみ、スライディングしながら右足でゴールに押し込んだ。決勝点を決めた岡野は「これを外したらもう日本に帰れないと思った」と後に語っている。試合終了直後、岡田監督を始めスタッフ・ベンチメンバーが一斉にピッチへ飛び出し、岡野を祝福した。
シーソーゲームの末に、日本はこのゴールデンゴールでW杯本戦初出場を決めた。1954年のW杯スイス大会予選に参加して以来43年目、10回目の挑戦での出場権獲得となったが、ワールドカップの予選及び本大会でゴールデンゴール方式が採用されたのはフランス大会および日韓大会(2002年)のみで、2004年をもってゴールデンゴール方式は廃止されたため、この方式でW杯出場を決めたのはこの試合に勝った日本だけである。
なお、この一戦に敗れたイランはオセアニア地区代表オーストラリアとの大陸間プレーオフに勝ち、ワールドカップ本戦進出を決めた。
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■放送
この試合は地上波ではフジテレビ(実況:長坂哲夫、解説:清水秀彦)、衛星放送ではNHK-BS1(実況:山本浩、解説:松木安太郎)が生中継した。日曜日の深夜の放送にもかかわらず、フジテレビの平均視聴率は47.9%という高視聴率だった。「フジテレビが中継する試合で日本代表は負けない」という、当時の不敗神話はこの試合でも継続された。
岡野のゴールデンゴールの瞬間、フジテレビの中継で解説を務めていた清水は「やったー!」という歓声をあげ、実況の長坂は「最後は、岡野ー!日本、勝った!ワールドカップ!」と叫んだ。ラジオで実況を務めたニッポン放送の師岡正雄は「岡野だぁーっ!岡野! 岡野!」と絶叫。翌日の新聞・ニュースには「日本中が歓喜した」との言葉が躍った。
試合後は興奮したり泣きながらインタビューに応じる選手が多い中で、中田は落ち着いてインタビューに応じ、「代表はうまく盛り上がったんで、あとはJリーグをどうにか盛り上げてください」とコメントした。
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翌日放送の『ニュースステーション』(テレビ朝日)ではサブキャスターの小宮悦子と、サッカーコーナー担当の川平慈英がその喜びを伝えた。特に小宮は現地に赴き、試合を観戦するほどの熱の入れようで、岡野のゴールデン・ゴールの瞬間は絶叫で後のことは覚えていないと述べている。また、川平は自由が丘のスポーツバーで兄であるジョン・カビラとこの試合をテレビ観戦し、日本が勝利(出場権獲得)した際は嬉し涙を浮かべ、「(日本に)生まれてよかったよ。生きててよかった!」と絶叫。最後はバーの客とともに「日本サッカーの曙だ!」と勝ち鬨を挙げた。
■両監督の再会
2007年2月3日、長野市サッカーフェスティバルの講演会で、岡田武史とイラン代表を率いていたバドゥが、ジョホールバルでの試合以来約9年ぶりに再会し対談を行った。バドゥは当時AC長野パルセイロで監督を務めており、その縁もあって長野での対談が実現した。対談の内容はやはりジョホールバルに関する話題が殆どで、当時話題になった、コダダド・アジジの起用に関する情報戦的な駆け引きなど采配についての裏話も語られた。
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■脚注
^ のちにフジテレビ製作「FAIR PLAYの記憶」に出演した岡田は、当初は呂比須のみを投入するつもりだったが、選手のがっくり来た様子を見てショックを与えるため咄嗟に城の投入を決断したと語り、そのため城はウォーミングアップをせずにピッチに立ったと述べた。
^ 岡野は試合翌日のインタビューで「僕はあんまり緊張とかしない方なんですけど、さすがに昨日の出されかたはちょっとビビりましたね。今まで一回も出てないのに、突然延長で"行くぞ"と言われても」と苦笑した。
^ フジテレビのスタジオでは青嶋達也が進行を担当し、解説は田島幸三(現・日本サッカー協会会長)、ゲストに長谷川健太(当時清水エスパルス、現・FC東京監督)、武田修宏、ラモス瑠偉(ともに当時京都パープルサンガ。元ヴェルディ川崎)、森保一(当時サンフレッチェ広島、現・日本代表監督)が出演した。
^ 当時のJリーグはリーグ発足時のブームが去り、Jリーグの観客動員は低迷。2ndステージの観客動員数は9,651人と1万人を割り込み、年間の平均観客動員数も10,131人と過去最少の数値となり、翌年の横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併に繋がった。
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