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2025/06/15 19:17
爆サイ.com 南部九州版

🌹 鹿屋市雑談





NO.12441906

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館
館長からの挨拶

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館には、昭和11年に海軍鹿屋航空隊が開隊して以来、現在の海上自衛隊鹿屋航空基地に至るまでの豊富な史料が展示してあります。
海軍精神発露の史実、先の大戦における特別攻撃隊にまつわる遺品や零戦の実機の展示。
災害派遣や我が国周辺海域における警戒監視、海外派遣任務等の海上自衛隊の現在の活動など。私たちは、こうした過去の歴史を学び、また今を知り、そして未来に生かさなければなりません。
史料館の見学を通じて、これからの私たちの在るべき姿を一緒に考えて頂きたいです。特に、若い皆さんに未来を考えるきっかけとして、是非この史料館を訪れて頂きたいと思います。

史料館長 永山 勉

かのやファン倶楽部様より
報告閲覧数414レス数42
合計:

#12025/02/07 17:53
>>0
史料館への来館者数
旧史料館への来館者数
(昭和48年12月~平成3年12月28日) 840,640人
新史料館への来館者数
(平成5年7月25日~令和6年12月31日現在) 2,167,172人
所在地 鹿児島県鹿屋市西原3丁目11番2号
TEL 0994-42-0233(FAX兼用)
開館日 12月29日~1月3日を除く毎日
開館時間 午前9時から午後5時まで(16:30までに入館)
入館料 無料
災害等発生時の入館について 台風通過に伴い暴風圏等に入ることが予想される場合または、災害発生時等については、来館者の安全確保及び施設保護の観点から、予告なく閉館させていただく場合がございますので予めご了承ください。
お知らせ  新型コロナウイルス感染症等に対する基本的な感染防止対策のご協力をお願いしています。
禁止事項 当史料館では、下記の事項について禁止していますので御理解、御協力をお願いします。
喫煙・飲食
 ※喫煙については、屋外の指定された場所を御利用ください。
酒酔い状態による大声での会話や足元のふらつき等
 ※危険防止及び他の来館者への影響、当館の性質上の観点から、場合によっては入館をおことわりする場合があります。
ペット及び危険物等の持ち込み
スパイク靴及びゲタ履き等での入館
撮影禁止場所での撮影

かのやファン倶楽部様より

[匿名さん]

#22025/02/07 18:02
(旧海軍の基地と施設)

串良航空基地

串良航空基地は、昭和19年4月1日鹿児島県肝属郡細山田 (現鹿屋市串良町有里) に整備教育を担当する串良航空隊が置かれたことに始まります。 その串良航空隊の経緯は次のとおりです。
昭和18年4月1日
串良航空隊開隊   
第十八連合航空隊に編入
練習航空隊に指定され、整備教育を担当
昭和20年3月1日
第二十二連合航空隊に編入、予科練教育を担当
昭和20年 7月10日
解隊
また、終戦までに多くの航空隊が本基地を特別攻撃隊の出撃地として使用したようですが、航空隊が移駐したわけではありませんので、細部については省略します。
終戦後は飛行場として使用されることなく全敷地は民間に払い下げられて農耕地となりましたが、滑走路跡はその中心部が道路となりました。
一帯は現在でも基本的には田園風景がそのまま広がっており、かつての航空基地を思わせるものは何も残っていませんが、2本の滑走路の交叉部付近が平和公園となっており、公共施設の他に慰霊塔などが設置されています。

海軍砲術学校サイト様より

[匿名さん]

#32025/02/07 18:03
(旧海軍の基地と施設)

笠ノ原航空基地

笠ノ原航空基地は、元々は大正11年この地に陸軍主導の下に鹿屋町営の 「笠野原飛行場」 として設置され (用地は借り上げ)、これを陸海軍も演習などで使用しており、かつ大正14年以降は陸海軍共同で賃借料を町に支払って利用していたことに始まります。  
そして、鹿児島県からの飛行場誘致もあり、鹿児島県鹿屋市付近に航空基地を設置するため昭和7~8年に適地調査が行われましたが、当時は当該地区は将来的には陸軍用と考えていたことから候補地に挙げられていません。
なお、大正14年の借り上げ以降は陸海軍共にここを 「鹿屋飛行場」 と呼ぶこともありましたが、昭和11年鹿屋航空基地の設置に伴って混同を避けるために、以後 「笠ノ原飛行場」 と呼ぶことに統一されました。
開戦前には機動部隊の艦爆隊が本基地において真珠湾攻撃の訓練を行ったことは有名ですが、その他での使用状況については不詳です。
なお、一般では昭和19年1月15日に海軍航空基地となったとされているもの (鹿屋市観光協会による現地説明板など) がありますが、少なくとも昭和17年10月30日内令1989号により鹿屋航空隊を管理部隊とする 「笠ノ原航空基地」 として制定されていますので、これは誤りと考えられます。
本基地において編成、開隊した航空隊は次のとおりです。


海軍砲術学校サイト様より

[匿名さん]

#42025/02/07 18:03
本基地において編成、開隊した航空隊は次のとおりです。
第二六五航空隊 (艦戦)
 昭和18年11月15日
    同
昭和19年 1月15日   本基地において編成、開隊 (原駐基地 : 鹿児島)
第一航空艦隊に編入
新竹に進出
第二二一航空隊 (艦戦)
昭和19年 1月15日
    同
昭和19年 6月15日
昭和19年10月23日   本基地において編成、開隊 (原駐基地:香取)
第六十二航空戦隊に編入
第二航空艦隊に編入
比島 (アンヘレス) に進出
また、次のものが本基地に移駐して作戦を行っています。
第三四一航空隊 (艦戦)
昭和18年12月 5日
昭和19年 1月14日
昭和19年 7月10日   松山より笠ノ原に移駐 (原駐基地 : 松山)
館山に移駐
館山より笠ノ原に移駐
第二〇三航空隊 (艦戦)
昭和19年11月20日
昭和20年 7月21日   比島より笠ノ原に転進 (原駐基地 : 厚木)
築城に移駐
次の特設航空隊が本基地を原駐基地に指定されていましたが、実際にどれだけ本基地を使用したかどうかは不明です。
第六五三航空隊
昭和19年 2月15日
    同
昭和19年10月12日
昭和19年11月15日   「千歳」 「千代田」 「瑞鳳」 の飛行隊を以て岩国にて編成
第三航空戦隊 (第三艦隊) に編入
比島に進出、捷号作戦に参加
解隊

海軍砲術学校サイト様より

[匿名さん]

#52025/02/07 18:04
その他にもいくつかの航空隊の飛行隊が本基地に進出して作戦を実施しましたが、その全容については不詳です。
本航空基地は、鹿屋航空基地の分散用として考慮されたものですが、結局のところ当初からの民間飛行場としての滑走路は拡張の余地がなく、これとは別に南北の新滑走路の建設に着手しましたが、完成を見る前に終戦を迎えました。 また付帯施設・設備も整備中に空襲を受けるようになったため、未完成のものが多かったようです。
終戦後は無償で民間に払い下げられて一帯は農地となり、その後も再開発されることなく現在に至っています。 また庁舎地区は現在では鹿屋市立笠野原小学校となっています。
なお、地名としては一般的にもまた公文書などでも 「笠之原」 あるいは 「笠野原」 とも呼ばれることがありますが、基地名としては本項では海軍の公式名称に従い全て 「笠ノ原」 で統一しています。

海軍砲術学校サイト様より

[匿名さん]

#62025/02/07 18:04
九州最大級の地下壕は魚雷整備の施設 治山工事の測量中に「発見」

鹿児島県垂水市で見つかった大規模な地下壕(ごう)について、市教育委員会は太平洋戦争中につくられた旧日本軍の特殊地下壕で、魚雷整備の施設だったとする調査結果を10日、明らかにした。長さ約100メートルの直線の坑道が10本あり、総延長は約1・75キロ。「ひとまとまりの地下壕としては九州最大級」としていて、戦時中を物語る重要な戦争遺跡と位置づけている。
壕は垂水市浜平の鹿児島湾に面した高さ40メートルのシラス台地下にある「浜平特殊地下壕」。2022年4月、崖崩れを修復する治山工事の測量中に見つかり、調査してきた。
市教委によると、素掘りの真っすぐな坑道(縦坑)が11本ある。このうち10本の長さは100メートル。もう1本は50メートルほどで途中まで掘られたとみられる。11本は奥で横坑でつながっており、その長さは約170メートルだった。内部はトンネルのようになっていて、高さ、幅とも最大4メートルほど。さらに複数の横坑でつながれ、平面図にするとはしご状になっている。総面積は5138平方メートル。
戦時中、近くには魚雷の整備・教育を担った旧日本軍の垂水海軍航空隊の基地があった。市教委は「民間の防空壕とは異なり、

6/11(火) 11:39配信
朝日新聞デジタル
(仙崎信一)

[匿名さん]

#72025/02/07 18:05
>>6
非常に規格性の強い構造」といったことや昔の史料から、1945年3月ごろにつくられた垂水海軍航空隊の施設だと結論づけた。
魚雷に関連する施設だったことを示す明確な残存物はなかったが、三つの貯水槽が確認された。近くにディーゼル発電機を使った痕跡があったことから、貯水槽は燃料貯蔵庫だった可能性があるという。地下壕に電気を行き渡らせるための遺物も各所にあった。
また、壕を支える木枠を設置したとみられる「支保工」の跡と思われるかぎ形のくぼみもあった。重い魚雷をつり下げる用途としても使われたとみている。これら構造物群は北側に集中的に見られ、「北側エリアが先につくられ、南側の完成を待たずして終戦となった可能性がある」としている。
浜平地下壕の規模は、全国的にも大規模とされる全長約1.6キロの館山海軍航空隊赤山地下壕跡(千葉県館山市)をしのぐといい、担当者は「全国的にも大規模で貴重な戦跡。100メートルの直線の坑道が複数あるのもシラスの地質だからできたもので国内でも珍しいのではないか」と話した。
一帯は頑丈な岩質のシラス台地のため保存状態は良好だという。ただ、崖崩れを防ぐ治山工事が始まっており、中に入ることはできない。市教委は当面は3D映像などで内部を公開したいとしている。

6/11(火) 11:39配信
朝日新聞デジタル
(仙崎信一)

[匿名さん]

#82025/02/07 18:06
垂水海軍航空隊

沿革

普通科雷爆練習生教育の航空隊として 太平洋戦争たけなわの昭和19年2月1日開隊
九一式航空魚雷の整備教育を実施した
ここに集う普通化雷爆練習生約八百名 甲種飛行予科練習生約六百名が卒業して 各戦線に参加した
昭和20年8月15日 終戦とともにその役割を終えた
この碑は 当時の隊出身者らが青春の血を燃やして散った戦友を慰めるとともに 跡地を後世に伝えようと
垂水市 の市制施行30周年を機に建立したものである
2020年12月04日
昭和63年10月1日建立
名称 垂水海軍航空隊之碑
住所 〒891-2116
鹿児島県垂水市柊原
解説 垂水海軍航空隊は1944年(昭和19年)2月に設立された航空隊で、91式航空魚雷の整備教育を行った。
雷爆練習生約800人、甲種飛行予科練習生約600人が卒業し、各戦線に送られた。
国道沿いに「垂水海軍航空隊之碑」と「平和祈念之碑」が隣接している。
国道沿いにひっそりとあります!
垂水市内、道の駅TARUMIZU近くの国道沿いに「垂水海軍航空隊之碑」があります。
駐車場や案内看板などが無いので、運転しながらでも注意深く見ていくしかない。
垂水海軍航空隊之碑に隣接して「平和祈念之碑」も建立しています。
整備をした「91式航空魚雷」は航空機から海へ投下し、目標物に向かって進み爆破するといったものです。
全長5.27メートル・直径45センチ・重さ約1トン程の大きさで、水深5メートルを42ノット(77.8キロ)のスピードで進みます。
射程距離は1.5㎞~2㎞

基地は、現在の道の駅垂水あたりと思われます

2020年12月04日
黒しばわんこの戦跡ガイド様より

[匿名さん]

#92025/02/07 18:06
海軍航空隊桜島(牛根)基地

昭和20年に造られた水上機の秘匿基地で、本土決戦のための攻撃部隊が置かれていました。
第二次世界大戦も末期になり、指宿の航空基地がアメリカ軍に空爆を受け、他に移さねばならないということになり、選ばれたのがこの地だそうです。この地は松ヶ崎と呼ばれ、海岸近くまで山が迫り、航空基地が造られそうな場所ではないのですが、水上機が5・6機ここに配置され、竹や木ぎれで覆われた格納庫に隠され、偵察や攻撃に出撃したそうです。道の駅敷地内「湯っ足り館」の西側、駐車場の奥にひっそりと碑があります。

海軍航空隊桜島(牛根)基地跡の碑(全文) 
この地、鹿児島県垂水市牛根は雄大な桜島の麓に位置し錦江湾内でも唯一波静かな美しい処である。一九四五年(昭和二十年)第二次世界大戦末期福岡県船越村に第六三四海軍航空隊本部(秘匿玄海基地)が訓練基地として設置され、ここ垂水市牛根にも秘匿桜島(牛根)基地が前進攻撃基地として開設された。この桜島(牛根)基地には、比島戦から多大の戦果を挙げていた水上爆撃機瑞雲二十機と零式水上偵察機を零式水上雷撃機に改修した雷撃機十機、哨戒偵察機六機を配し、海軍航空史上初の玄海・桜島(牛根)両隊で百三十機を越える水上機による攻撃大部隊として本土決戦に備えていたが、八月十五日には大戦終決となった。茲にこの地の歴史を後世に伝えるとともに今日の日本の尊い礎となった若者達の鎮魂と平和を祈念しこの碑を建立する。 平成十七年八月吉日 記念碑建立賛同者一同 海軍関係者一同

この桜島基地は偵察等が主要な任務だったようですが、
ここに来ていた飛行機の数機は未帰還となったようです。
碑には水上機のパネルが埋められていました
ところで、こことは別に桜島自然恐竜公園の近くに、桜島海軍基地というのがあり、網の目の壕があるらしいのだが、時間の都合で、また次の機会に

2012年08月05日12:20:00
日記 海とひこうき雲様より

[匿名さん]

#102025/02/07 18:14
Welcome to the Japan Maritime Self-Defense Force Kanoya Air Base

[匿名さん]

#112025/02/07 18:41
[桜島海軍基地]魚雷格納庫他

鹿児島県は桜島。桜島フェリーターミナルの大きな駐車場前に城山台地(袴腰台地)が聳える。台地の麓には桜島海軍基地(第5特攻戦隊)の地下壕群がある。台地の上は、戦国時代には島津氏の三角城(長門城)が築かれ、戦時中は陸軍が高射砲陣地(6門)を置いている。
海軍特別攻撃隊実施部隊の佐世保鎮守府所属第5特攻戦隊には、蚊龍・海龍24隻、回天46隻、震洋725隻が所属していたとのこと(諸説あり)。
地下壕群から1キロほど海岸沿いに北上すると、県道沿いに魚雷格納壕が現れる。
今は桜島造船所の所有だが、お声がけをすると丁寧にご案内していただけた。
格納庫は元々50メートルほどあったが、裏の小学校がプールを造ることになり、格納壕の後ろ側半分を切断して壊したとのこと。
(切り取られた後ろ半分から、小学校の敷地がみえる)
格納庫の天井にある釣り鉄管はオリジナル!
魚雷格納庫から目の前の海岸まではレールが敷設されていた。このレールは造船所が船体陸揚げ用に今も使用中。
「こんなのがあるんだけど」と見せていただいたのが、魚雷を乗せる台座が2台!地中に埋められていたのを掘り起こしたとのこと。
すげぇ(・∀・)(ありがとうございました!)
魚雷発射台は「方崎の鼻」に設置予定だったが、未完のまま終戦。
桜島海軍基地(第5特攻戦隊)の地下壕群に戻る。
「壕の高さ・幅はともに2~3m程で、手掘りによって作られたトンネルが網の目状に張り巡らされています。総延長は約650m。壕の中には魚雷保管室や動力室がありました」
壕口はコンクリート巻きだが、奥は素掘りのままらしい。第5特攻戦隊司令部壕も同居する一大地下空間だ。
駐車場からみえる壕口は4箇所。駐車場からみえる壕口は案内板によれば、魚雷調整室と動力室に通じるもの。いづれの壕もがっつり施錠され、扉の隙間から無理矢理みるしかない。(奥は動力室)(壕口をここまで厳密に封鎖しなくてもいいんじゃないか?)(奥は魚雷調整室)壕内の状態は良さそうだが、シラス台地の掘削なので細かい砂が堆積しているのかも。案内板の完成度が高いだけに封鎖は残念である。

魚雷格納庫(桜島造船所)
鹿児島県鹿児島市桜島赤生原町1−7

2022-03-11 00:56:12
Ameba ブログ
はるさんの戦跡巡礼記

[匿名さん]

#122025/02/07 19:26
病院に行ってください。

[匿名さん]

#132025/02/07 20:52
神経どん

[匿名さん]

#142025/02/07 20:53
魚雷が好きなら抱きついて太平洋

[匿名さん]

#152025/02/07 21:38
ちっとばっかいゴラのガナズだん!
ほんなこて、神経病院にいきなっせ!

[匿名さん]

#162025/02/07 23:28
>>0
魚雷が〜魚雷が〜🤣
魚雷と共に太平洋へ

[匿名さん]

#172025/02/15 21:37
台湾ドジョウば雷魚て言うげなばい。
ぬしどま知っとったかい?

[匿名さん]

#182025/04/08 00:04
沖縄特攻の戦艦大和にロケット弾攻撃 100発超、米空母艦載機の戦闘報告書

旧日本海軍が誇った世界最大・最強の戦艦「大和」は1945年4月7日、米軍の上陸が始まった沖縄への水上特攻の途上、多数の米軍機によって鹿児島県・坊ノ岬沖で沈められた。
米軍の航空攻撃には爆弾や魚雷だけでなく、100発を超えるロケット弾も発射されていた。
今月2日に亡くなった戦史研究家の原勝洋さんが、収集した米海軍省の機密解除史料を基に3月、取材に答えていた。
史料は、大和攻撃に参加した米海軍の空母「バンカーヒル」に所属する第84戦闘飛行隊の戦闘報告書だ。
4月7日、沖縄に向けて航行する日本艦隊攻撃のため、同飛行隊の戦闘爆撃機コルセア15機が発艦。「攻撃目標」の大和に対し、午後0時30分、14機が急降下により高度1500フィート(約457メートル)から500ポンド爆弾を投下し、機銃掃射のほか、「HVAR」と呼ばれる高速航空ロケット弾112発を発射した。
HVARは44年に米で開発された。高性能爆薬が装填(そうてん)されており、射程は約4.8キロ。最高速度は秒速425メートルに達する。
太平洋戦争で航空攻撃が優位性を増す中、大和は搭載する高角砲や機銃を増設し、対空火器の強化を図った。数を優先し、シールド(防盾)が未整備のものもあった。
しかし、そうした努力もむなしく、殺到する米軍艦載機の攻撃で、対空火器は次々と破壊されていった。
「軍艦大和戦闘詳報」(45年4月20日作成)によると、大和の戦果は撃墜3機、撃破20機。原さんは「日米で、兵器の質にも大差がついていた。高速で飛んで来るロケット弾など防ぎようもない。米軍機に機銃で応戦しようにも、大和自体が爆弾や魚雷への回避行動で回頭するため、たちまち照準が定まらなくなる。射撃は相当な困難が伴ったはずだ」と解説していた。
水上特攻部隊として出撃した大和の乗員は3332人、うち生還者は276人という。

4/7(月) 19:35配信
時事通信
(時事通信解説委員 宮坂一平)

[匿名さん]

#192025/04/08 07:42
>>18
暇人(笑)

[匿名さん]

#202025/04/16 02:09
旧日本海軍の防備隊本部跡、最新技術で〝発掘〟 ドローン使いレーダー計測、穴や複数のくぼみ確認 奄美・加計呂麻島 瀬相地区

鹿児島県瀬戸内町教育委員会は、太平洋戦争で町内最大の戦闘があった加計呂麻島・瀬相地区の山中に、機銃陣地や米軍が投下した爆弾跡とみられる場所を発見した。同地区には旧日本海軍の大島防備隊本部があり、機銃陣地があったと伝わっていたが、位置などは分かっていなかった。ドローンを使った3月のレーザー計測で確認した。今後、現地調査を検討する。
加計呂麻島と奄美大島の間にある大島海峡の中ほどにある瀬相地区には1941年、大島防備隊本部の前身の大島根拠地隊が設置された。45年4月2日には同地区に入港していた輸送艦などが米軍機の空襲を受け、2隻が沈没し、100人以上が犠牲になった。
これまで平地にある弾薬庫や船のドック跡は確認されていたが、山中は毒ヘビ・ハブが生息することもあり、詳しい調査はされていなかった。町教委は上空からのレーザー照射により木々に覆われていても地表の形状を確認できる技術に着目。ヤマハ発動機(静岡)の協力で3月5~11日に調査した。
データを加工した画像で機銃を設置するために山の峰に掘られたとみられる穴や、爆弾でできたとみられる複数のくぼみを確認。詳細は精査中で、5月にも住民向けに開く報告会で説明する。
町では2023年、大島海峡に面する西古見砲台跡(奄美大島側の同町西古見)と手安弾薬本庫跡(奄美大島側の同町手安)、安脚場砲台跡(加計呂麻島)の旧陸軍の3遺跡が国史跡に指定された。町内には今回調査した大島防備隊本部跡(同)のほか、特攻艇・震洋(しんよう)隊基地跡(同)、佐世保海軍軍需部大島支庫跡(奄美大島側の同町久慈)の旧海軍の3遺跡もある。
これら6遺跡が造られたのは1890~1940年代。旧陸軍と旧海軍の施設が長期間にわたり同じ地域に置かれ、さまざまな遺構が残るのは珍しいという。
町は旧海軍3遺跡の国指定も目指す。町教委で埋蔵文化財を担当する鼎(かなえ)丈太郎さん(49)は「80年前の戦闘の痕跡を確認でき驚いた。当時の奄美や日本の戦況の一端を垣間見ることができる。次世代への継承に生かしたい」と話す。

4/15(火) 15:03配信
南日本新聞

[匿名さん]

#212025/04/16 02:28
旧日本軍の戦闘機「紫電改」 展示施設の移設に向け「補修や補強が必要」との調査結果

愛媛県愛南町に現存する旧日本軍の戦闘機「紫電改」の新たな展示施設への移設に向けた機体の調査結果が公表されました。
愛南町で展示されている「紫電改」は、1979年7月に久良湾から引き揚げられました。
機体を管理する県では、耐震基準を満たした新しい展示施設への移設を決め、紫電改を開発した新明和工業に委託して、機体がクレーンでの吊り上げに必要な強度を保っているかなどの調査を進めていました。
その結果、過去に補修されていない胴体の後ろ部分やコクピットの周辺などに損傷や腐食が確認されたということです。そのため、移設に耐えうる最低限の補修や補強。機体への負荷を最小限にする移設方法が必要としています。
補修や補強作業は今年度中に始まり、新たな展示館は、現在の施設に隣接する形で来年度に完成予定です。

4/15(火) 15:17配信
南海放送

[匿名さん]

#222025/04/16 07:43
暇やらいね(笑)

[匿名さん]

#232025/04/17 14:36
ユーチューブのゆっくりとラベルさんの動画でで紹介されてたね

[匿名さん]

#242025/04/20 00:12
旧海軍戦闘機「紫電改」の両翼と機銃か 新たに発見  鹿児島・阿久根沖

太平洋戦争末期、阿久根市沖に沈んだ旧海軍の戦闘機「紫電改」の潜水調査が行われ、両翼と機銃とみられる残がいが新たに見つかりました。
阿久根市折口の浜から数百メートル沖に沈む「紫電改」。太平洋戦争末期、1945年4月21日に不時着した旧海軍の戦闘機です。
林喜重大尉が、アメリカの爆撃機「B-29」を迎え撃つために霧島から出撃し、被弾して海に不時着したもので、林大尉は戦死しました。
紫電改を引き揚げ、後世に伝えようと活動する地元のNPO法人の呼びかけで集まった水中カメラマンらが撮影しました。
これまでの調査で機首部分は確認できていましたが、18日と19日の調査で、両翼や機銃とみられる残がいが新たに見つかったということです。
(調査した東海大学 木村淳准教授)「両翼は想定された以上に残っている」
(紫電改・林大尉機を引き揚げる会 肥本英輔代表)「戦争の記憶を後世に残すのが会の趣旨。出来るだけ保存状態のよい形で、長期的に皆さんの身近なところで(展示したいと)考えている」
NPO法人では今後、クラウドファンディングなどで資金を募り、早ければ年内に機体の引き上げに着手したいとしています。

4/19(土) 19:11配信
MBC南日本放送

[匿名さん]

#252025/04/20 00:41
>>24
紫電改

用途:戦闘機
分類:局地戦闘機
設計者:菊原静男
製造者:川西航空機(現新明和工業)
運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(日本海軍)
初飛行:1942年12月27日
生産数:1,422機
退役:1945年8月15日
運用状況:退役
表示
紫電(しでん)は、太平洋戦争期に開発・運用された大日本帝国海軍の戦闘機。水上戦闘機「強風 (N1K)」を改良・設計変更して陸上戦闘機化した機体である。初期型の制式名称は紫電一一型、後期型の制式名称は紫電二一型であるが、二一型は紫電改(しでんかい)の通称でも知られる。 なお、本機の正式名称はあくまで「紫電」であり、「紫電改」は二一型の通称に過ぎないが、第三四三海軍航空隊をふくめ、日本海軍の当事者達が実際に使用していた「紫電改」という名称の方が有名であるため、本記事名は「紫電改」となっている。

ウイキペディアより

[匿名さん]

#262025/04/20 00:41
>>25
本来、零戦(零式艦上戦闘機)の後継機となる次期主力戦闘機として、艦上戦闘機としては「烈風」、局地戦闘機としては「雷電」が採用される予定だった。しかし、両機ともに開発が難航し実用化が遅れていたため、それまでの繋ぎとして応急的に開発されたのが紫電である。だが、雷電は実戦投入が遅れ、烈風は終戦までに開発が間に合わず、そして紫電改が期待以上の高性能だったことにより、本機が事実上の零戦後継機として運用されるに至り、戦争後期における日本海軍の主力戦闘機として活躍した。
また、紫電改の生産機数は400機程度であり、戦局に大きな影響を与えたとは言い難いが、戦争末期に精鋭部隊の第三四三海軍航空隊「剣部隊」に集中配備されて活躍した。終戦後に数多くの漫画作品や映像作品などで題材となり、多大な知名度を獲得した。本機は後述するように日本海軍、ひいては日本軍の戦闘機の中で最優秀の一つとされ、大東亜決戦機と称された陸軍の四式戦闘機「疾風」と双璧を成す優秀機とされる。

ウイキペディア

[匿名さん]

#272025/04/21 22:25
戦前・戦後のレア機多数!「エアーメモリアル in かのや」で見たい 海自 鹿屋基地史料館の保存機まとめ

「エアーメモリアル in かのや2025」が2025年4月26日(土)から27日(日)まで、鹿児島県の海上自衛隊 鹿屋航空基地で開催されます。メインイベントの航空祭は27日に開催されますが、あわせて見ておきたいのが基地に隣接する史料館の保存機たち。史料館には18機が展示されていますが、その多くは国内に数機しか存在しないレア機ばかり。今回は、18機の中でも特に希少な10機種、12機をピックアップして紹介します。
【展示機】
鹿屋航空基地史料館では、屋内に3機、屋外に15機の保存機を展示。今回ピックアップする12機のうち、零式艦上戦闘機52型とP-2J「機体記号:4770」の機首部分のみが屋内に展示。そのほかは全て屋外に展示されています。
<唯一の保存機! 戦前の四発飛行艇:川西二式飛行艇 (T-31)>
川西二式飛行艇は、1941年1月に初飛行した川西航空機製造(現・新明和工業)製の四発大型飛行艇。第二次大戦中にのべ167機が製造されましたが、現存するのはこの1機のみです。同機は戦後、アメリカで評価試験が行われた後1979年に返還。2003年までは東京で展示されていましたが、2004年からは鹿屋航空基地の正門前に置かれています。
< 二式飛行艇の系譜継ぐ「US-2の先代型」:US-1A (9076)>
US-1は、対潜飛行艇PS-1を元にした救難飛行艇。PS-1は二式飛行艇の設計・開発者によって生み出されており、US-1は二式飛行艇の系譜を継ぐ存在であると同時に、現在運用されているUS-2の先代型でもあります。US-1AはUS-1のエンジン出力向上型。計20機が製造されましたが、すでに全機が退役しています。US-1Aは岐阜県のかかみがはら航空宇宙博物館にも展示されていますが、先述の二式飛行艇と合わせて展示されているのは鹿屋のみ。機首付近の水沫対策や脚構造といった、二式飛行艇との違いをじっくり見比べることができます。

2025/04/21 20:50
FlyTeam

[匿名さん]

#282025/04/21 22:30
>>27
国内唯一の保存機! 海自創成期の遠洋哨戒機 :P2V-7 (4618)
P2Vは、1947年からアメリカ海軍で運用された大型の対潜哨戒機。P2V-7は日本周辺の海洋防衛体制を整備するため、当時の最新鋭機として1956年1月から64機が供与。うち48機は川崎重工業がノックダウン生産・ライセンス生産を行いました。P2V-7は1980年2月までに全機が引退。鹿屋に保存されている「機体記号:4618」は国内に残されている唯一のP2V-7です。
P2V-7から改造の国産哨戒機:P-2J (4770,4771,4783)
P-2Jは、P2V-7を改造した川崎重工業製の対潜哨戒機。1966年7月21日に初飛行し、P2V-7からの改造機1機を含め83機が製造。1994年まで運用されました。鹿屋では、屋外に2機のP-2J「4771」「4783」が保存されているほか、館内に「4770」の機首部分と機上員席を展示。このほか、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に1機が、東京都内に原型機の機首部分が保存されています。改造元であるP2V-7とP-2Jの両方が展示されているのはここ鹿屋のみで、機体の大きさやエンジン、プロペラ、主脚といった違いを見比べることができます。
国内に2機のみ 海自創成期に近海を哨戒 :S2F-1 (4131)
S2F-1は、海上自衛隊創成期に60機が供与された双発の小型対潜哨戒機。先に紹介したP2V-7やP-2Jが外洋の哨戒を行う一方、本機種は近海での哨戒を担当しました。また、後年に2機が人員輸送用のS2F-Cへ、4機が標的曳航用のS2F-Uへと改造。1984年に運用を終了しました。S2F-1の保存機は、本機のほかには徳島航空基地に展示機があるのみ。国内に2機しかいない貴重な存在です。

2025/04/21 20:50
FlyTeam

[匿名さん]

#292025/04/21 22:31
>>28
任務は謎!? DC-3のアメリカ海軍型 :R4D-6Q (9023)
R4Dは、ダグラスDC-3をモデルとしたアメリカ海軍型の機体。海上自衛隊には1958年11月に4機が供与されました。「9023」は電子戦訓練機で、鼻先・背中・胴体下にそれぞれレドームがある珍しい機体で、その任務の詳細すら明らかにされていない“謎めいた”存在です。DC-3はかつて日本航空(JAL)や全日本空輸(ANA)でも運用された機体ですが、本機以外には映画「飛べ!ダコタ」の撮影用にタイから運んできた機体が浜名湖畔に置かれているのみ。全国的に見ても希少な存在です。
<元海自機は全国に2機のみ 機雷除去で活躍 :V-107A (8608)>
V-107は、陸・海・空の自衛隊で運用されたタンデムロータの中型ヘリコプター。V-107Aはその性能向上形です。海上自衛隊には1963年から1976年までに2機のV-107と7機のV-107Aが納入され、航空機を用いて機雷を除去する「航空掃海」に使用。1990年までに全機が引退しました。海自で活躍したV-107は、「8608」のほかには千葉県の下総航空基地に1機が残るのみと、全国に2機しか残されていないレア機です。
< 南極観測隊も使用したヘリコプター :ベル47G-2A (8753)>
ベル47は、1945年に初飛行したヘリコプター。世界でのべ5,000機以上が生産され、国内でもANAの前身である日本ヘリコプター輸送などで運用されました。海上自衛隊では、前身の警備隊時代である1953年から1995年までの間、訓練用として15機のベル47を運用。中には、「8751」のように南極観測船初代しらせに搭載され、南極観測支援を行った機体もあります。展示されている「8753」は1969年から1983年まで第211教育航空隊で運用。その後用途廃止(用廃)となり、ここ鹿屋に保存。海上自衛隊で運用されたベル47としては、唯一の展示機です。

2025/04/21 20:50
FlyTeam

[匿名さん]

#302025/04/21 22:31
>>29
< 陸自はメジャー でも海自機は激レア!:OH-6J (8763)>
OH-6は1963年に初飛行した小型ヘリコプター。日本では陸上自衛隊が117機のOH-6Jを運用したことでメジャーな機体ですが、海上自衛隊では訓練用としてわずか3機しか導入されず、実は非常にレアな機体です。その後、海自では14機のOH-6Dと5機のOH-6DAを導入しましたが、いずれも2016年3月までに全機が退役。同機は、海上自衛隊のOH-6系の機体として唯一保存されています。
< 言わずと知れた旧海軍の戦闘機:零式艦上戦闘機52型>
零式艦上戦闘機(零戦)は、旧日本海軍が開発した艦上戦闘機。同機は1992年に錦江湾と吹上浜から引き揚げられた、異なる型式の二機を合体させ、52型として復元した機体。鹿屋基地史料館の館内に展示されています。なお機体撮影はできますが、遺品などの展示物は撮影できません。
以上、「エアーメモリアルかのや2025」にあわせて見たい、鹿屋航空基地史料館の展示機を簡単に紹介しました。史料館には、以上の機体以外にもHSS-2A、T-34A、KM-2、JRB-4、B-65、S-61AHを1機ずつ展示。また同館は、年末年始を除く毎日、9時から17時まで開館しており、「エアーメモリアル in かのや」以外の機会にも訪問することができます。航空祭に限らず、鹿児島へ向かう際にはぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

2025/04/21 20:50
FlyTeam

[匿名さん]

#312025/05/11 07:18
豊の国宇佐市塾が米軍撮影の新映像14本公開 突入する特攻機や攻撃受ける偵察機記録
おおいた戦後80年
戦中・戦後に米軍が撮影した映像14本を「豊の国宇佐市塾」が新たに報道機関に公開した。空母に突入する特攻機を捉えたものも。

宇佐市の地域おこし団体「豊の国宇佐市塾」(平田崇英塾頭)は10日、太平洋戦争中と終戦直後に米軍が撮影した映像14本(計20分35秒)を報道機関に公開した。大分県関係は、大分市坂ノ市出身の機長が乗った偵察機「彩雲」が攻撃を受ける映像があった。
偵察機の映像(5秒)は1945年4月30日午前8時ごろ、鹿児島県奄美大島の南方沖で撮影された。米軍の攻撃により、主翼を炎上させながら降下していく様子が写っていた。
同塾による解析で、偵察機の機長は坂ノ市出身の姫野庸(いさお)中尉=当時(20)=と分かった。3人が搭乗し、航行中の米艦隊を
偵察するため鹿屋基地(鹿児島県)から発進。攻撃を受け海面に墜落し、全員死亡した。
44年10月25日の映像(12秒)は、日本軍の「神風(しんぷう)特別攻撃隊」による攻撃を初めて撮影したもの。フィリピンのレイテ島沖を航行する空母の飛行甲板後部に突入し、搭載の爆弾が爆発した瞬間が記録されていた。
翌26日の特攻を撮った映像(2分6秒)も初公開された。空母に突入、爆発して黒煙が上がる様子が写っている。米軍の記録によると、100人以上の死傷者が出たとされる。
映像は同塾が2013年から23年にかけ取得。米軍の戦闘報告書や地形などから日時、場所を特定した。
映像解析を担当した塾生の織田祐輔さん(38)は「これまで初期の特攻の様子は写真しか残っていなかった。映像が見つかったのは貴重」と説明している。
今回と3月に公開された映像は、宇佐市の戦争遺構を巡る第19回宇佐航空隊平和ウオーク(今月17日開催)で一般公開する。

2025/05/10(土) 20:34
大分合同新聞

[匿名さん]

#322025/05/11 07:25
>>31
大分市坂ノ市

坂ノ市町(さかのいちまち)は、かつて大分県北海部郡にあった町。
1963年3月10日に、旧大分市をはじめとする2市3町1村で新設合併し、新たに大分市となった。現在の坂ノ市地区にあたり、旧坂ノ市町役場のあった場所には、現在、大分市役所の坂ノ市支所が置かれている。

Wikipedia

[匿名さん]

#332025/05/11 07:34
>>31
偵察するため鹿屋基地(鹿児島県)から発進。攻撃を受け海面に墜落し、全員死亡した。偵察機「彩雲」

偵察機までもが特攻に行ったということは、戦闘機がほぼなかったということでしょうか

[匿名さん]

#342025/05/14 01:51
特攻作戦が本格化する前の串良基地をグラマンが集中攻撃…米軍撮影の映像を「豊の国宇佐市塾」が公開

大分県宇佐市の豊の国宇佐市塾(平田崇英塾頭)は、太平洋戦争中の米軍撮影映像を解析している。10日公開した映像には、1945(昭和20)年の薩摩川内市下甑町の釣掛埼灯台や、鹿屋市串良の串良海軍航空基地の襲撃が含まれる。
釣掛埼灯台は8月12日、沖縄から出撃した米陸軍戦闘機P51の執ような機銃掃射で白煙に包まれた。同塾が入手した戦闘報告書によると、P51の主任務は友軍搭乗員の救出に向かう飛行艇の護衛だった。帰途、積んできた弾薬を活用する「臨機目標」として同灯台が選ばれた。
同塾の織田祐輔さん(38)は「灯台は物流を阻害するため、目標によく選ばれた」と話す。戦後、仮復旧したものの、戦災のダメージの大きさなどから51年、北に30メートル離れた現在地に新たな灯台が建てられた。
串良海軍航空基地の襲撃は3月29日。米海軍機動部隊のグラマンF6F戦闘機がロケット弾や機銃で、格納庫や滑走路を集中攻撃している。目立つのは滑走路に施された迷彩。この後本格化していく沖縄への航空特攻作戦を前に、空襲被害を極力抑えようとした、日本軍の努力がうかがえる。
映像は今月17日まで南日本新聞のホームページで視聴できる。

5/13(火) 17:00配信
南日本新聞

[匿名さん]

#352025/06/02 03:45
旧海軍航空基地の資料を集めた展示 指宿図書館

太平洋戦争で特攻隊の基地にもなった指宿海軍航空基地に関する資料を集めた展示が、指宿市の図書館で行われています。
この展示は、10年前(2015年)の戦後70年の節目に行われた企画展の内容に新たな資料を加え、常設展示として戦後80年となる2025年も続けられています。
展示は、特攻隊や基地に関する書籍や、指宿市での戦争体験を語った証言などおよそ160点に上ります。
指宿海軍航空基地は、太平洋戦争で偵察用の飛行機である水上機の発着場として建設されましたが、その後、戦闘用ではない水上機を特攻機として出撃させる基地になり、アメリカ軍の空襲なども受け82人の特攻隊員を含む192人が犠牲となりました。
展示の中には、地元の写真館によって家族に残すためにと撮影された特攻に出撃する前の3人の写真などもあり、戦争のさまざまな実相を知ることができます。
指宿図書館の下吹越かおる 館長は、「指宿に海軍基地があったことを知ってほしい。写真などの資料を目に焼き付けて、記憶に残してほしい」と話していました。
図書館では、新たな証言や資料を継続的に募集して、展示を続けていくということです。

05月31日 12時20分
鹿児島NHK NEWS WEB

[匿名さん]

#362025/06/12 19:03
鹿児島の海自史料館、フジ系列局の取材拒否 中居氏問題理由に判断

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(鹿児島県鹿屋市)が、鹿児島テレビ放送(KTS)の取材申請をフジテレビ系列であることを理由に断っていたことが12日、わかった。元タレントの中居正広氏をめぐるフジの問題を受け、館長が許可に時間がかかると判断したのが原因という。
史料館などによると、男性俳優が県外で上演される特攻隊に関する舞台の役作りのため、5日に史料館を訪問。これに先立ってKTS記者が5月30日、電話で取材を申し込んだ。永山勉館長は「フジ系列の取材申請は許可に1カ月ぐらいかかるのでお断りします」と伝え、受け付けなかったという。南日本新聞と別の民放テレビ1社は取材ができた。

6/12(木) 12:59配信
朝日新聞

[匿名さん]

#372025/06/12 19:04
>>36
海自史料館、フジ系取材断る 対応方針「誤認」と説明、鹿児島

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(鹿児島県鹿屋市)が、鹿児島テレビ放送(KTS)の取材をフジテレビ系列局であることを理由に断っていたことが12日、分かった。史料館側は、元タレント中居正広さんの性暴力に端を発する一連の問題を踏まえた報道対応方針を「誤認した」として、謝罪した。
史料館によると、特攻隊を題材にした舞台に出演する男性俳優が5日、役作りや告知で訪問するのに先立ち、KTSから先月30日に取材申請を受けた。その際、館長が「フジ系列局は取材許可に1カ月程度かかる」などと電話で断った。

6/12(木) 17:19配信
共同通信

[匿名さん]

#382025/06/12 19:05
>>37
海自 史料館が「フジ系」取材拒否 館長「認識に誤りがあった」

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館が、KTS鹿児島テレビ放送の取材申請を、フジテレビ系列であることを理由に受け付けなかったことがわかりました。
史料館などによりますと、先月30日に、KTSの記者から電話で史料館の永山勉館長に、特攻などをテーマにした舞台に出演する俳優が、6月5日に史料館を訪れることに関する取材申請があったということです。
永山館長は、「フジ系列の取材申請は許可に1カ月ぐらいかかり時間的な制約があると思い込み、独断で取材を断った」としています。
国は、元タレントの中居正広さんと女性とのトラブルをめぐる問題を受け、フジテレビとの番組などのタイアップや企画・制作への協力は、内閣官房に相談の上対応することとしていますが、報道対応については、通常通りとする旨を示しています。
KTSは「フジテレビの一連の問題に関しては、系列局として重く受け止めている」とした上で、「KTSはフジテレビと別法人の地方局で、館長の独断とはいえ取材を許されなかったことは非常に残念だ」などとしています。

6/12(木) 18:20配信
KKB鹿児島放送

[匿名さん]

#392025/06/12 19:13
KTS鹿児島テレビ放送

資本構成
企業・団体は当時の名称。
主要株主:岩崎産業・南日本新聞社・関西テレビ放送・フジ・メディア・ホールディングス・指宿観光・島津興業・いわさきコーポレーション・西日本新聞社・読売新聞グループ本社・日本テレビ放送網 他
主要取引銀行:鹿児島銀行・みずほ銀行 他
関連事業:ケーティーエス開発・KTSクリエイティブ 他

Wikipedia

[匿名さん]

#402025/06/13 00:42
暇人😪

[匿名さん]

#412025/06/13 08:07
>>38
全国のフジ系メディアが記事にしてんのにフジ擁護のコメント少ないのまじで草

[匿名さん]

#422025/06/15 19:17最新レス
沖縄戦当時に米軍の攻撃で沈没した船を新たに5隻確認 学童疎開船「対馬丸」の記念館が企画展

戦時中、アメリカ軍などの攻撃により沈没した県関係の船について、対馬丸記念館の調査によって、これまで確認されていた26隻に加えて新たに5隻の存在が明らかになりました。
対馬丸の沈没からことしで81年となり、那覇市の対馬丸記念館では、戦時中に沈められた県関係の船に関する企画展を14日から開催しています。
県は1995年の調査報告を基に、県関係の船を26隻としていましたが、対馬丸記念館による今回の企画展に向けた調査で新たに5隻の存在が確認されました。
5隻のうち、1943年3月、避難訓練中に台湾・基隆沖で沈没した高千穂丸では少なくとも県民2人が亡くなったほか、県民も乗船し、1945年2月に久米島沖で沈没した嘉進丸ではおよそ40人が命を落としました。
ほかの3隻は大東島沖で沈められましたが、県民の被害は確認されていません。
▼対馬丸記念館学芸員・嶋袋寿純さん
「皆さんの対馬丸以外の船の記憶、それを一つ一つ紡いで、多くの人々に『戦時撃沈船舶』が伝えられたらと思っています」
乗船中の住民の被害については、これまで全体を把握する調査が十分行われておらず、対馬丸記念館は今回確認された5隻の存在をきっかけに調査が進んでほしいとしています。
企画展は8月31日まで開かれています。

6/15(日) 18:46配信
RBC琉球放送

[匿名さん]

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