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2024/12/08 16:32
爆サイ.com 北海道版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
合計:
報告 閲覧数 1.6万 レス数 1000

#6012020/07/26 19:21
ヴィッセル神戸の佐々木大樹、レスポール浜田出身だから、年代的に中国リーグ強豪時代のデッツォーラ島根を知ってたりするかも。イニエスタ、山口蛍と名を連ねるなんて、島根県のサッカー関係者は誇ってもいいんじゃないか?本人の才能と努力の賜物であるのは間違いないが。

[匿名さん]

#6022020/07/27 22:21
解散か?

[匿名さん]

#6032020/07/30 22:42
天皇杯常連だった時代が懐かしいな、、、

[匿名さん]

#6042020/08/06 06:45
すこしずつ情報発信はじまりましたね。

[匿名さん]

#6052020/08/09 14:11
☆★ サッカーマガジンWEB★☆

□■初代王者は高校のグラウンドがホーム【連載◎J前夜を歩く第1回】■□

【2020-01-25】
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第1回は1965年の驚きのエピソードを綴る。


■日本サッカーリーグの誕生は1965年

Jリーグが華々しくスタートした1993年から遡ること28年、1965年に「日本サッカーリーグ(JSL)」は誕生した。1964年に開催された東京オリンピックにおいて目標であったグループステージ突破、ベスト8進出を果した日本代表の活躍を受けて、さらに日本サッカーのレベルアップ、普及を図り、発展させるべく、ドイツ人コーチ、デットマール・クラマーが提言。さまざまな困難、解決しなければならない問題があった。

だが、「日本サッカーを上昇させるために、どうしてもやろう」(長沼健JSL常任委員、日本代表監督。1966年JSL年鑑より)と、とにかく前へ進もうという関係者の努力により、日本のアマチュアスポーツ界で初めてとなる全国リーグが組織されることになった。

それまでは、負ければ終わりの勝ち抜き戦による全国大会が主流で、トップレベルのチーム同士が複数回対戦する総当たりのリーグ戦が必要であることをクラマーは説いた。サッカーの本場であるヨーロッパでは早くから当たり前に行なわれていた方式だが、当時の日本では大学など地域、期間が限られた形で行なわれていただけだった。

[匿名さん]

#606
この投稿は削除されました

#6072020/08/09 14:14
参加したのは関東から古河電工、日立本社、三菱重工(いずれも東京)、東海から豊田織機、名古屋相互銀行(ともに愛知)、関西からヤンマーディーゼル(大阪)、中国から東洋工業(広島)、九州から八幡製鉄(福岡)と全国から選りすぐられた8チーム。ホーム・アンド・アウェー2回戦総当たりで、各チームがホームグラウンドを用意するのだが、関東勢は東京オリンピックで使用した駒沢競技場や横浜の三ツ沢球技場が使用でき、愛知には名古屋に瑞穂、刈谷にも競技場があった。

また、関西は大阪に靭(うつぼ)、京都に西京極、神戸に王子競技場、北九州にも大谷、鞘ヶ谷競技場があったが、広島にはそうした施設がなかった。東洋のホームゲームが行なわれたのは何と、広島国泰寺、広島大附属、広島皆実と3つの高校のグラウンドだったのだ。

国泰寺高のグラウンドは1957年度の天皇杯全日本選手権では決勝戦も含めた会場になるなど、当時国内の主要な大会でも使われていた。とはいえ、あくまで高校のグラウンドであり競技面は土で(リーグの規約では芝のフィールドを用意することが求められていた)、観客の多くは立ち見で観戦しなければならなかった。

今では考えられない環境での試合開催だった。それでも東洋は14試合を戦って12勝2分けと無敗で初代チャンピオンに輝く。優勝を決めた最終節も広大附高のグラウンドでヤンマーを11-0と圧倒し、歓喜の時を迎えた。

[匿名さん]

#6082020/08/09 14:15
続く2年目の1966年シーズンも、東洋は高校のグラウンドでホームゲームを戦い2連覇。3年目の1967年後期にようやく広島県営競技場が新設されここで3連覇も達成、さらに4連覇まで記録を伸ばした。下村幸男監督に率いられたチームは、堅守と組織的なサッカーで、まだ個人の力に頼りがちなプレーが多かった時代に異彩を放った。また、劣悪な環境にも屈しないタフさも持ち合わせていた。

見切り発車と言っていいスタートを切ったJSLだが、さまざまな問題を抱えながらも、選手の成長に不可欠な戦いの場を提供した。そのエネルギーが1968年メキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得の快挙につながったことは間違いない。

文◎国吉好弘


■著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める

[匿名さん]

#6092020/08/09 14:16
>>606
大当り!!!!!

[匿名さん]

#6102020/08/09 21:32
>>606
そういう意味では、デッツォーラも社会貢献してますね!不満の吐口的立場を数年にわたり維持できてますから。ここの執拗なコピぺが別の様相で世の中に表出されると、大袈裟ではなく、警察ごとでしょう。

[匿名さん]

#6112020/08/12 02:49
☆★ サッカーマガジンWEB★☆

□■東洋工業の5連覇を阻んだ三菱重工の初優勝◎J前夜を歩く第18回■□

【2020-06-02】
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第18回はJSLに新風を吹き込んだ三菱重工について綴る。

文◎国吉好弘


■要所にメキシコ五輪組を配す

 1964年東京オリンピックの翌年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)は、第1回から4年連続で東洋工業が優勝し、黄金時代を築いた。その牙城に風穴を開け、初めてタイトルを獲得したのが69年の三菱重工だった。

 三菱重工は東京、そして銅メダルを獲得した68年メキシコ・オリンピックでも活躍した「黄金の足」杉山隆一を擁し、ここまでの4年間で5位、4位、3位、3位と順位を上げてはいた。ただ、優勝には手が届かなかった。しかし、この年は意気込みが違っていた。

 前年はプレーイングマネジャーとして試合にも出場していた二宮寛が監督に専念。GK横山謙三、DF片山洋、MF森孝慈、そしてFW杉山と、各ポジションにメキシコ五輪銅メダリストを配し、軸となる人材がそろっていた。

 そこで、チームは改革を断行する。前年までFWだった菊川凱夫をサイドバックに下げ、スイーパーだった片山を中盤に上げて森と組ませると、CFだった落合弘は一列下げて中盤の攻撃的な役割を担わせ、既存の選手の能力を見直した。新戦力としては早大から関東大学リーグ得点王の細谷一郎、秋田商高から足利道夫と、のちの日本代表が加入している。若手を主力のレベルに引き上げることも重要となっていた。

[匿名さん]

#6122020/08/12 02:50
 果たしてチームは、シーズン前の2月に東南アジア遠征を敢行。新しい陣容でタイ、香港のクラブなどと練習試合を重ねて、開幕を迎えた。初戦でヤンマーと1-1で引き分け、第2節では押されながら東洋を1-0で下すと、ここから前期終了まで6連勝で首位を走った。


■先進的だった二宮監督の手腕

中断期間には、当時西ドイツで日の出の勢いを見せていたヘネス・バイスバイラー監督率いるボルシア・メンヘングラッドバッハ、さらにはイングランドのアーセナルに、菊川、落合、大西忠生、大久保賢司の中堅4人を留学させた。二宮が事前に渡欧して関係を築いていたのだ。

 この効果は大きかった。帰国後、落合の得点力には磨きがかかり、後期7得点、前期の5得点と合わせて12得点で得点王に輝く。菊川は守備が向上したことで、SBで持ち味のスピードを攻守に生かせるようになり、大西はハードな守りに安定感が増した。彼らの成長でチーム力がさらにアップして後期も無敗のまま、第13節の東洋戦に2-0で勝ち、念願の初優勝を決めた。

 エース杉山はチャンスメークに徹した。「僕はシーズン初め、アシスト王を取ってやると宣言した。みんなに走ってもらい、合わせてもらうことを念じたのです。やっぱり優勝しないと何にもならないからね」と語っていた。実際、過去最多の11アシストを記録して、前年に続くアシスト王になった。

 あらためて振り返っても、優勝するにふさわしい、穴のないチームだったが、その中でやはり二宮監督の存在は特筆される。斬新なアイディア、それを押し進める行動力は、それまでの日本の監督には見られなかったもので、異質かつ新鮮に映った。

[匿名さん]

#6132020/08/12 02:56
 二宮は76年に日本代表監督に就任すると、ここでも選手を分散して西ドイツのクラブに留学させたり、代表での待遇を改善するなど、独自の路線を進んだ。また成長著しい奥寺康彦をトップに据え、釜本邦茂を背後に置いて攻撃力を高め、ムルデカ大会で初の決勝進出を果たすなど、その手腕を存分に発揮した。奥寺の西ドイツ移籍や釜本の代表引退などで、代表の成績は先細りとなってしまうが、その仕事ぶりは独特で先進的だった。

 三菱がJSLに吹き込んだこの新風は、翌年こそ東洋の巻き返しに遭うものの、70年代に入ってヤンマー、日立と「3強時代」を築く端緒となった。

[匿名さん]

#6142020/08/16 18:42
☆★福山シティFC★☆

■クラブ名
福山シティフットボールクラブ
■英文呼称
FUKUYAMA CITY FOOTBALL CLUB
■呼称
福山シティFC
■役員
代表 岡本佳大 / 副代表 樋口敦 / 統括 小林政嗣

■監督
小谷野 拓夢

■メディカルダイレクター
樋口 敦
■トレーナー
松本 拓海
■マネージャー
佐藤 文和


■所在地
〒720-0054 広島県福山市城見町2丁目1−22
■TEL
080-4266-1225 (担当:藤田)
■FAX
084-983-1226(備福運送株式会社内)

□■ホームタウン■□
広島県福山市を中心とした備後エリア
福山市・尾道市・三原市・府中市・世羅町・神石高原町・井原市・笠岡市

[匿名さん]

#6152020/08/16 18:43
□■アデランテサッカーアカデミー■□

アデランテは広島市を中心に、岩国、東広島、北広島、竹原、呉、廿日市、大竹、周南、大島などから沢山の子供たちが参加しています。
幼児〜小学生〜中学生の活動において、当アカデミー・スクール会場では保護者の練習時の付き添いや各種割り当てなどの当番はございません(地域スクールを除く)。
スタッフが責任を持ってお子様をお預かりします。
保護者の方は子供たちが高いモチベーションでアデランテの活動に参加できるようにしっかりご自宅での サポートをお願い致します。
メンバーは300名を超えました。他人と一緒じゃつまらない、さらなる活動の充実を図り、優れたサッカー選手、個性あふれる人材を育成していきます。



☆コーチ紹介☆

■ 加藤 賢士

[ライセンス等]
FCバルセロナキャンプ広島コーチングスタッフ
日本サッカー協会公認C級指導者ライセンス
日本サッカー協会公認4級審判

[略歴]
広島市出身:尾長FC−二葉中−安芸府中高−吉備国際大−福山SCC

[指導歴]
吉備国際大-吉備国際大女子−FCセントラル中国 − ADELANTE

[匿名さん]

#6162020/08/21 00:40
専門機関受診療養をおすすめしますwww

[匿名さん]

#6172020/08/23 22:12
三菱自動車水島FC(Mitsubishi Motors Mizushima F.C.)は、岡山県倉敷市で活動する社会人サッカークラブ。

■原語表記
三菱自動車水島FC
■呼称
三菱水島FC
■愛称
レッドアダマント
■クラブカラー

■創設年
1946年
■所属リーグ
中国サッカーリーグ
■ホームタウン
岡山県倉敷市
■ホームスタジアム
岡山県総合グラウンド補助陸上競技場
神崎山公園陸上競技場
収容人数
1,200(岡山県補)
5,000(神崎山)

■代表者
加治貞雄
■監督
菅慎


日本フットボールリーグ (JFL) 参戦当時は「三菱水島FC」の呼称を用いていたが、現在は「三菱自動車水島FC」の呼称としている。メディア等では「三菱自水島」の略称で呼ばれることもある。


■概要

母体は三菱自動車工業水島製作所。多くの選手が期間工として働いている。

1946年に「三菱自工水島FC」として創部、1990年代に入ると中国サッカーリーグで強豪チームとなり、2005年シーズンからJFLに5年間参加、2010年のみ下記歴史の事情により1年間は岡山県リーグ1部、以降中国リーグに在籍している。

[匿名さん]

#6182020/08/23 22:13
チームカラーは「赤」。ギリシャ語でダイヤモンドの語源であり、英語では「断固とした・強固な」という意味を有する「レッドアダマント」の愛称を持っている。マスコットキャラクターは、桃太郎をモチーフとした「桃助」、「こももちゃん」、「まもる君」。

かつては女子サッカーチーム「レッドアダマントFC」が存在していたが2008年度を以て廃止された。


■歴史

1946年に終戦で荒廃した水島地区の地域レクリエーションの向上を目指して「三菱自工水島FC」として設立され、1965年から岡山県の社会人リーグに在籍。県内の実業団サッカーをリードするチームとして長年活躍。1979年に中国サッカーリーグ昇格を果たしたが、1982年に岡山県リーグに転落。

その後1990年に8年ぶりの復活を果たしてからは中国リーグで常に上位に君臨。1992年に初優勝して以来2004年まで中国リーグ5回の優勝を達成。2004年度の第28回全国地域リーグ決勝大会で初優勝を果たし、JFL昇格が決定した。

これを機に地域密着型チーム運営を目指すことになった。ただJFL昇格後の成績は芳しくなく、多くの選手が期間工として2交替勤務で1週間おきに夜勤があるため、なかなかベストメンバーで試合ができず、チームは下位に低迷した。

JFL昇格1年目の2005年は勝ち点8で16チーム中最下位だった。特に後期は勝ち点を3しか上げられず、2005年から2006年にかけて15連敗を喫することになる。ちなみに三菱水島が2005年から2006年に記録した15連敗はJFLのリーグワースト記録である。

[匿名さん]

#6192020/08/23 22:14
2006年も苦しい戦いとなり前期は17位と残留争いに巻き込まれたが、後期はチームが持ち直した。最終順位は17位になるも佐川急便東京SCと佐川急便大阪SCの合併で全国地域リーグ決勝大会上位チームとの入れ替え戦の対象が18位チームだけになったこともあり、JFL残留を果たした。

2007年は自力で残留を果たす。

2008年も降格圏内に低迷、しかし上位チームのJ2昇格(栃木SC・カターレ富山・ファジアーノ岡山FC)に伴い引き続きJFL残留を果たしている。同年には同県のファジアーノ岡山FCとの岡山ダービーが実現した。

2008年末、世界的な経済情勢の悪化から、今後の活動について運営費削減および活動縮小が懸念された。これに対し、ホームスタジアム・岡山県笠岡陸上競技場のある笠岡市が、同クラブが地域スポーツ振興の中核的な存在であるとして活動存続を要望した。

2009年も引き続きJFLに在籍したものの、所属選手の半数近くが雇用保険やアルバイトで生計を立てる状況で、チームも最下位に低迷。さらには遠征費どころかJFL加盟料を捻出する事が困難な状況になったため、同年9月30日JFL事務局に脱退する書面を提出、同年10月30日JFL臨時評議員会にて認められ、成績にかかわらず降格が決定した。三菱自動車では長引く不況の影響で、社営水島病院が廃院閉鎖に追い込まれるなど、リストラ策が進められており、本業以外に対する支出に厳しい目が向けられていた。

[匿名さん]

#6202020/08/23 22:15
降格以外の理由でのJFL脱退であるため、全国社会人サッカー連盟の規約上中国リーグ側から参加登録を拒否されたこともあり、2010年はさらにその下の都道府県リーグである岡山県リーグ1部に参加することとなった。

2010年、岡山県リーグ1部を無敗で優勝。中国地域県リーグ決勝大会で準優勝。2011年から中国リーグに昇格した。

2016年6月、三菱自動車による燃費データの改竄問題を受けて岡山県サッカー選手権大会(天皇杯県予選)への参加を辞退した。10月、第52回全国社会人サッカー選手権大会で優勝。11月の全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2016は1次ラウンドを3戦全勝で決勝ラウンドに進んだが3戦全敗に終わり、大会を4位で終えた。

2017年、13年ぶりに中国リーグ優勝。全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2017では、BグループでFC TIAMO枚方、アミティエSC京都に連敗、最終戦を待たずにグループリーグ敗退が決まった。

[匿名さん]

#6212020/08/23 22:16
■歴代監督

・熊代正志
・菅慎


■主な結果・タイトル

◇リーグ戦
中国サッカーリーグ
優勝(6回):1992, 1999, 2002, 2003, 2004, 2017
準優勝(7回):1993, 1994, 1995, 2000, 2001, 2018, 2019

◇カップ戦
全国地域サッカーリーグ決勝大会
優勝(1回):2004
全国社会人サッカー選手権大会
優勝(1回):2016
岡山県サッカー選手権大会(兼天皇杯岡山県予選)
優勝(13回):1985, 1986, 1988, 1991, 1996, 1997, 1998, 1999, 2004, 2005, 2006, 2007, 2009
準優勝(7回):1981, 1989, 2000, 2008, 2013, 2014, 2015


■スタジアム

中国リーグ時代は以下の通り。

倉敷市水島緑地福田公園陸上競技場(倉敷市)
倉敷市水島緑地福田公園サッカー場(同)
倉敷運動公園陸上競技場(同)
岡山県総合グラウンド補助陸上競技場(岡山市北区)
神崎山公園陸上競技場(同東区)
灘崎町総合公園多目的広場(同南区)

JFL時代は5000人以上収容スタンドが求められていたこともあり、公式戦会場は以下の通り。

本拠地 : 岡山県笠岡陸上競技場(笠岡市)
準本拠地 : 岡山県美作ラグビー・サッカー場(美作市)
準本拠地 : 岡山県総合グラウンド陸上競技場(岡山市)
準本拠地 : 福山市竹ヶ端運動公園陸上競技場(広島県福山市)


■関連項目

◇三菱水島製作所内のスポーツチームを起源とするクラブ

・三菱自動車倉敷オーシャンズ
・三菱自動車水島ラグビー部


◇他の三菱グループ内のサッカークラブを起源とするクラブ

・三菱重工長崎サッカー部
・浦和レッドダイヤモンズ(旧三菱重工業サッカー部)
・ギラヴァンツ北九州(旧三菱化成黒崎サッカー部)

[匿名さん]

#6222020/08/26 00:25
SRC広島(エス・アール・シーひろしま)は、広島県広島市を拠点に活動するサッカーのクラブチームである。


■原語表記
Soccer Representative Club広島
■呼称
SRC広島
■愛称
SRC
■クラブカラー
 赤
■創設年
1953年
■所属リーグ
中国サッカーリーグ
■ホームタウン
広島県広島市
■ホームスタジアム
庄原市上野総合公園陸上競技場
廿日市市サッカー場
真田グラウンド
ゼロ・バランスサッカーフィールド
◇収容人数
1,001(庄原上野)
■代表者
森脇誠司
■監督
菊地功


創部時は「広島教員サッカークラブ」の名前の教員のクラブであったが、現在はさまざまな職種で働く選手が在籍している。2011年から現名に変更。公式発表において「SRC」とは、Soccer Representative Club(「広島を代表するサッカークラブ」の意)の頭文字を取ったものである。

[匿名さん]

#6232020/08/26 00:26
創設年は1953年、学校教員のクラブとして設立した。なおこの年から国体サッカーに教員部門が創設されている。当時はサッカーに関する情報が圧倒的に少なかったため、このクラブはプレーする場としてだけでなく、指導レベル向上のため各教員が情報を持ち寄り情報交換する場としても機能した。これにより小中高校での指導レベルがあがり、その教え子が関東や関西の強豪大学や全国の実業団に進み、1960年代にはさまざまなチームで中核となり、さらには1968年メキシコシティオリンピック銅メダル獲得に貢献することとなる。

1966年から始まった県リーグには初期から参加、1973年から始まった中国サッカーリーグに初期から参加した。1977年に県リーグ降格、1985年から再び中国リーグに昇格を果たす。1986年・1987年と2年連続で2位となり、全国地域リーグ決勝大会に2度出場した。1992年に再び県リーグに降格、1996年に中国リーグに昇格。 2002年に3度目となる、県リーグに降格。ちなみにこの間、中国リーグでは優勝はない。その後は教員選手は減っていった。

また、1996年には全広島サッカー選手権大会決勝で広島経済大学を破り優勝、同年に行われた第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会に広島県代表として出場した。ちなみに、1933年の第13回ア式蹴球全国優勝大会に「広島教員」の名前のチームが出場しているが、現在のこのチームではない。

[匿名さん]

#6242020/08/26 00:27
2011年、広島市安佐南区沼田町で中古車販売業を営む株式会社エス.アール.シーが母体となり、現名の「SRC広島」に変更した。2012年、中国地域県リーグ決勝大会を勝ち抜き、11年ぶりに中国リーグ昇格を果たした。

2014年、全広島選手権に優勝し、第94回天皇杯全日本サッカー大会出場

2016年、全広島選手権に優勝し、第96回天皇杯全日本サッカー大会出場。中国リーグ初優勝。

2017年、全広島選手権優勝。


■タイトル
リーグ戦
中国サッカーリーグ:2回
2016年、2019年

■脚注
SRC広島11年ぶり挑戦 サッカー中国L6日開幕”. 中国新聞 (2013年4月3日). 2013年4月3日閲覧。

■参考資料
“広島教員サッカークラブ”. 中国放送 (2006年10月8日). 2014年9月15日閲覧。
『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1979年4月25日。

[匿名さん]

#6252020/08/27 18:17
#爆サイで夢をかなえる!

[匿名さん]

#6262020/08/30 00:02
佐川急便中国サッカー部(さがわきゅうびんちゅうごくサッカーぶ)は、広島県(中国地方)を拠点とする、佐川急便中国支社実業団サッカー部である。


■原語表記
佐川急便中国サッカー部
■クラブカラー

■創設年
1989年
■所属リーグ
広島県社会人サッカーリーグ
■所属ディビジョン
1部
■ホームタウン
広島県広島市
■ホームスタジアム
広島スタジアム
揚倉山健康運動公園
吉田サッカー公園
庄原市上野総合公園
廿日市市サッカー場
■監督
廣田将久


■クラブの概要

1989年:佐川急便中国支社内でサッカー同好会として活動を始める。
1995年:第1回佐川急便全国サッカー大会に出場するため、正式に佐川急便中国支社サッカー部として認可。
1997年:広島県のシティーリーグ参加。
2001年:広島県リーグ3部に初参加。初優勝で2部昇格。
2002年:広島県リーグ2部に初参加。初優勝で1部昇格。
2003年:広島県リーグ1部に初参加。初優勝で中国リーグ入れ替え戦出場し勝利、中国社会人リーグ昇格。
2005年:チーム名から支社をとり「佐川急便中国サッカー部」に。中国社会人リーグ優勝、全国地域リーグ決勝大会ではグループリーグ敗退。同年全広島サッカー選手権大会優勝。
2010年:全広島サッカー選手権大会優勝。

[匿名さん]

#6272020/08/30 00:03
■タイトル

◇リーグ戦
中国サッカーリーグ:2回
2005年、2009年
◇天皇杯
出場2回(2015年現在)


■関連項目

SAGAWA SHIGA FC
佐川急便東京サッカー部
佐川急便大阪サッカー部
SP京都FC (旧・佐川印刷SC)
ヴォロンテールFC (旧・佐川コンピューター・システムサッカー部)

[匿名さん]

#6282020/08/30 19:41
>>433
枚方市と京田辺市は隣同士

[匿名さん]

#6292020/08/31 09:48
>>628
お構いいただき、書き込み者もお喜びですかね。

ベルガロッソ浜田はCSL特別レギュレーション初戦、勝利のようです。

[匿名さん]

#6302020/09/02 01:25
☆★まりびと | コラム | 木村 和司 | 横浜F・マリノス 公式サイト★☆

2019.04.26

TEXT BY
二宮 寿朗


□■すべては木村和司から始まった。「加茂さんのおかげよ。あの人がおったからよ■□


一枚の写真がある。

鹿島アントラーズ戦を盛り上げる企画「The CLASSIC」の一環で用意されたポストカード。F・マリノスの「10番」を引き継いだ天野純をバックに、25年前産声を上げたばかりのJリーグでキックを放つ木村和司の姿がモノクロで浮かび上がっている。

樽のような丸々としたぶっとい太腿は、はち切れんばかりだ。トランクスがやけに小さく見える。


60歳になったレジェンドは試作用のポストカードを手にした筆者の声を聞いたのか、つぶやくようにして言う。

「1日、何本くらい蹴りよったかの。遊びで蹴って、シゲ(松永成立)を呼んで。200本、300本……。蹴っとったら、自然とそれくらいの数にはなるんよ」

口数の多くない剛健の人は、決して努力とは言わない。
蹴り込んだその「証」から、人々を魅了するキックは放たれた——。

38年前、日本にまだプロサッカーがなかった頃。
明治大学在学中に日本代表でも活躍していた木村には日本サッカーリーグ(JSL)の各チームから多くの声が掛かっていた。プロ契約に近い読売クラブに惹かれたものの、最終的には2部に降格した日産自動車を選んだ。結婚が決まっていたために、妻の両親に安心してもらいたいという思いもあった。しかし何よりも加茂周監督の存在が大きかったという。

[匿名さん]

#6312020/09/02 01:26
「加茂さんと一緒に食事をしたとき、『面白いサッカーをしようや』と誘われて。これからチームを強くするぞっていう強い意志が凄く伝わってきた。2部とか1部とか、そこは関係なかった。話の持っていき方が、あの人はとにかくうまいんよ(笑)」


ゴールにこだわる攻撃サッカー。

加茂監督に口説き落とされて、日産自動車に入社する。この名キッカーの加入が、日産自動車サッカー部の転換点となる。新たな歴史の始まりであった。当時は当然ながら社業とサッカーを両立しなければならなかった。

新入社員の木村は人事部に配属され、朝8時に出社して昼まで仕事をしていた。寮に戻って昼食を取り、午後2時からトレーニングに励んだ。部には県立広島工業高校の先輩、金田喜稔がいた。2人の活躍もあってチームは1年で1部に復帰。新日鉄との入れ替え戦で、木村は直接FKを叩き込んでいる。早くもチームの大黒柱になっていた。この年に、サッカー専用の獅子ヶ谷グラウンドが完成した。

「画期的やったね。クラブハウスがあってトレーニングルームや、一人ひとりのロッカーもある。当時は珍しいというか、ここまでそろっていたのってほかにはなかったんじゃない? それもこれも加茂さんの力よね。会社と交渉して、選手が必要と思うのはそろえてくれた。新幹線でグリーン車移動というのも加茂さんのおかげ。選手のことを、一番にいつも考えてくれた」


忘れられないのが、鉄骨を組み立てた〝壁〟だ。フリーキック練習用のダミー人形などなかった時代に、加茂がわざわざ木村のために特注でつくらせたものだった。

[匿名さん]

#6322020/09/02 01:27
「下に車輪がついとるんやけど、鉄だから重いんよ。あれを引っ張り出すのが大変。でもあ りがたかった。あれでうまくなったようなもんよ」

練習自体は「厳しかった」。しかし練習が終わったら「遊び」が待っていた。日が暮れるまでボールを蹴った。一日ごとにうまくなっていく自分を感じることができた。同時に新たな欲も生まれる。もっとうまくなりたい。

3年目の1983年には水沼貴史、柱谷幸一ら続々とタレントが入団してきて、チームはついに天皇杯を制覇する。創部11年目にして初めてのタイトルだった。木村自身、日産時代の一番の思い出はこの優勝だという。

「清水(秀彦)さんをはじめ、みんな日本一を目標にしてきたから。貴史とか加茂さんがいい選手を連れてきてくれて、より『面白いサッカー』がやれるようになったんでね。あのときはうれしかったな。ワシにとっても、サッカー人生で初めての日本一だからな」

木村は1983、1984年とJSLで2年連続のリーグMVPに輝いている。右ウイングのポジションを中盤に移し、多彩なパスで味方を活かした。逆に中盤から右ウイングに移った金田とは「名コンビ」と言われた。

[匿名さん]

#6332020/09/02 01:27
■正社員から契約社員に切り替えてもらった。保証よりも勝負を求めた。


イマジネーションとコンビネーション。

プレーしているほうも、観ているほうも「面白いサッカー」。しかし、ただ面白いだけではない。「勝つ」と「面白い」を両立させる。加茂の目指したもの、木村が志向したものが、ドンドンと発展していく。
入社して4年後、サッカーに専念したいという気持ちから正社員から契約社員に切り替えてもらった。保証よりも勝負を求めた。

「正社員じゃなくなるのは大変かもしれん。でも外国人選手と同じように『ワシもそうさせてください』って会社にお願いして、デニーズで契約したことを今でも覚えとる。これも加茂さんが会社に働きかけてくれた。今のプロで言えば、最低ラインくらいの給料やったと思うよ。でもサッカーでメシを食うっていう覚悟はできたね」

あの〝伝説のFK〟で知られる1985年メキシコワールドカップ、アジア最終予選の韓国戦に敗れたことが、日本サッカーにプロ化の動きが始まる。木村は奥寺康彦に続いて事実上のプロ契約「スペシャルライセンスプレーヤー」を勝ち取った。
プロとして魅せるプレーをしなきゃいけない。素晴らしいプレーをしなきゃいけない。自分が活躍することで、プロの道を加速させていかなきゃいけない。
この使命感が、逆にプレッシャーとなって木村の背中に重くのしかかった。

「いいプレーしようって思ったら、体が思うように動かんし、プレーも全然ダメよ、自分を出す〝我が、まま〟を出せないでいた。(ストレスで)太ったりということもあったしな」

[匿名さん]

#6342020/09/02 01:28
重い荷物を降ろすことにした。
余計なことを考えず、サッカーを楽しく、面白く。
その後、日産自動車は88〜89年シーズン、89〜90年シーズンとJSL、天皇杯、JSLカップの3冠を2年連続で達成する。木村もリーグMVPを獲得し、日産黄金期の象徴であり続けた。


円熟期に入っていた木村に、目指すものができた。Jリーグが生まれることになったのだ。

「個人でプロになっても、やっぱりプロのリーグというものを自分の目で見ておきたかったし、経験したかった。それで現役選手として長生きできたところはある。ワシらは元々、お客さんに来てもらおう、お客さんに喜んでもらおうとやってきたから」

「面白いサッカー」でタイトルを取り、強豪と呼ばれるようになった。その日産自動車サッカー部を基盤にした横浜マリノスの船出に、自分がかかわるということが己の使命だと思えた。
1993年5月15日、東京・国立競技場。Jリーグのキックオフを告げるヴェルディ川崎との開幕戦に、木村は34歳でピッチに立った。


「あんなにお客さんが入るなんて、つい数年前までは考えられんことやったから感慨深いものはあったよ。みんなよう走っとったよな(笑)。ボールは全然、外に出んし。今見ても、当時のサッカーは面白かったと思うよ」

翌1994年シーズンを最後に引退を決断する。
サッカーをやり切って、体力を使い切ったはずだが、「もっとうまくなりたい」と語った引退会見はサッカーに真摯に向き合ってきた木村らしくもあった。

[匿名さん]

#6352020/09/02 01:29
あの日「面白いサッカーをやろうや」と誘われていなければ、違うサッカー人生が待っていたのかもしれない。木村は、日産自動車サッカー部に縁をくれた加茂に感謝する。

「ほんと、加茂さんのおかげよ。あの人がおったからよ」

それ以上の言葉は必要ないと言わんばかりに、頷くような仕草を繰り返した。

1972年の創部以来、多くの人がかかわり、積み上げてきて今の横浜F・マリノスがある。
加茂がいて、木村がいて、すべてのOBがいて——。

一枚の写真が伝えていること。

うまくなれ、楽しめ、勝て。
樽のようなぶっとい太腿が、それを伝えている。


■二宮寿朗Toshio Ninomiya

1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当。'06年に退社し「Number」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人〜松田直樹物語』(三栄書房)、『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『サッカー日本代表勝つ準備』(北條聡氏との共著、実業之日本社)がある。現在、Number WEBにて「サムライブル—の原材料」、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)を連載

[匿名さん]

#6362020/09/06 01:06
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□■初の日韓プロ対決で見えた差。82年の読売クラブ【連載◎J前夜を歩く第8回】■□

2020-03-17
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第8回は1982年の読売クラブと日本サッカーの状況について綴る。

文◎国吉好弘



■韓国は1983年にプロ化

 韓国のプロサッカーリーグはJリーグに先んじること10年、1983年にスタートしている。さらにその2年半前には最初のプロクラブであるハレルヤが誕生。韓国のプロテスタント系キリスト教「ハレルヤ協会」を母体に、国内のサッカーレベルの向上とキリスト教の布教を目的に結成された。

 まだ国内でプロリーグが始まっていない時期には、世界各国のプロチームと親善試合を行なって興行を実施しており、82年2月、日本の「プロ(を目指し、実際にそういった側面もすでにあった)」チーム、読売クラブとの対戦が実現した。

 このときのハレルヤは、MF李栄武(イ・ヨンム)を中心に元韓国代表のベテランを中心とし、プロになることで84年ロサンゼルス・オリンピック出場を目指す韓国代表でのプレーを諦めたGK趙炳得(チョ・ビョンドク)らの若手も含まれた強力な陣容。監督はかつて日本代表としてベルリン・オリンピックに出場した金容植(キム・ヨンシク)だった。


 2月は例年、国立競技場が使えない時期ということもあり、会場は同じ読売ではあるものの、プロ野球の巨人のホームスタジアムである後楽園球場だった。すでに人工芝が敷き詰められていた野球の聖地を間借りして行なわれている。

[匿名さん]

#6372020/09/06 01:06
読売クは日本リーグ(JSL)1部昇格から4年目を迎えた前シーズンに、リーグ、天皇杯とも準優勝と、タイトル獲得まであと一歩のところまで迫り、存在感を高めていた。

 ブラジル育ちのジョージ与那城、ルイ・ラモス(この時は負傷で欠場)、トレドを軸に、クラブで育った小見幸隆、松木安太郎、戸塚哲也、都並敏史など日本代表にも選ばれる選手たちでブラジルスタイルのサッカーを展開し、JSLでも異彩を放っていた。



■スコア以上に痛感させられたもの

 当時でも注目度の高かった試合には、2万2000人の観客が集まった(2月28日13時にキックオフ)。立ち上がりはハレルヤが主導権を握り攻め込む。16分には戸塚からボールを奪って金喆用(キム・チョルヨン)が決め、先制。さらに30分にも申鉉浩(シン・ヨンホ)が強烈なシュート、これはGK中山良夫にはじかれたが、こぼれを李栄武が決めて2-0とした。

 しかし、後半に入ると流れが変わる。前半、失点のきっかけとなってしまった戸塚が奮起し、FKからのこぼれを左足で20メートルの距離から決めて1点差に詰め寄る。さらにその2分後には相手のハンドでPKを得て、追いつく絶好のチャンスを迎えた。だが、浜口和明のキックはGK趙炳得に阻まれてしまう。

 その後も読売クが押し込んだのだが、結局追いつくことはできずにタイムアップ。本物のプロとプロを目指すチームの差が出たか、ハレルヤの勝利で終わった。

 試合後、ハレルヤの金容植監督は「PKが決まっていたら負けていたかもしれない。読売クの後半の攻撃は素晴らしかった。与那城など技巧派選手が多いのに驚いた」(翌日の読売新聞より)と読売クのプレーを称えていた。だが、スピードと力強さに優るハレルヤの勝利は順当と言えた。1-2のスコアと結果は、そのまま当時の日本と韓国の差を表していた。

[匿名さん]

#6382020/09/06 01:07
 翌年に韓国はプロリーグをスタートさせた。85年にはメキシコ・ワールドカップ出場を懸けて両国が最終予選を戦い、日本はホームで1-2、アウェーで0-1と連敗。スコアの上では接戦ながら内容的には完敗だった。その敗戦の衝撃から森孝慈日本代表監督がプロ化の必要性を痛感して、少なくとも自分の立場をプロ化するように日本協会に直談判する。しかし、時期尚早と跳ね返された。

 93年にJリーグが創設され、両国の差は急速に縮まることとなった。ただ、ライバルがプロ化してからおよそ10年という月日を費やさなければならなかったのも、事実である。

[匿名さん]

#6392020/09/09 00:59
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□■あのハンス・オフトが率いた1986年のマツダ◎J前夜を歩く第19回■□

2020-06-10
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第19回はあのハンス・オフトが監督に就任したマツダについて綴る。

文◎国吉好弘



■3シーズンぶりの1部復帰

 1986年10月25日、「プロ元年」とうたわれた86-87シーズンの日本サッカーリーグ(JSL)1部が開幕。翌日は5試合が各地で行なわれ、東京の西が丘サッカー場では優勝候補の一角であったフジタ工業と、この年2部から復帰してチーム名も新しくなった元東洋工業の、マツダサッカー部が対戦した。

 前シーズン4位のフジタは日本代表のFW手塚聡、谷中治など既存のメンバーに、のちにはブラジル代表にも入るMFカルロス・アルベルト・ジアスらを新しく加え、充実した戦力を誇っていた。一方マツダは、1960年代に5度の優勝を遂げていたとはいえ、70年代から80年代にかけて成績は低迷し、84年からは2シーズンをJSL2部で過ごしている。3シーズンぶりの復活で、まだまだ上位陣を脅かすとは考えられていなかった。

 ところが、試合の主導権を握ったのはマツダだった。豊富な運動量と激しいプレスでフジタに自由を与えず、奪ったボールを素早く攻撃につなげる。前線のターゲットマンとなった英国人グラハム・ノーリーの高さと、高橋真一郎のスピードで相手ゴールを脅かした。42分にはFKからノーリーがヘッドで落としたボールを、高橋が押し込んで先制する。

[匿名さん]

#6402020/09/09 01:00
後半に入ってもマツダの運動量は衰えず、フジタのジアスが素晴らしいテクニックを発揮するものの、GKディド・ハーフナーの好守もあって得点は許さない。1-0のまま進んだ83分には、オフサイドトラップの裏を突いて抜け出したノーリーがフジタGK横川泉に倒されてPKを獲得。これを高橋が決め、2-0として快勝した。

 この開幕戦で観客を、そして当時多いとは言えなかった報道陣を驚かせたチームを率いたのが、ハンス・オフトだった。周知のように、のちに日本代表を率いて92年のダイナスティカップ、アジアカップを初制覇。アメリカ・ワールドカップ予選では『ドーハの悲劇』に阻まれ、あと一歩で出場を逃したオランダ人指導者だ。

 日本とのつながりは、1976年に日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に指導したのが始まり。82年にはJSL2部のヤマハ発動機が短期のコーチを依頼し、同年の1部昇格、さらには天皇杯優勝を果たすという快挙に大きく貢献した。

 そして84年に2部に降格したマツダを立て直すために、今西和男監督がコーチとして招へいする。オフトの肩書はコーチながら実質的にチームの指揮を執り、今西監督はマネジメントに徹する体制をとって、85年に1部復帰を決めた。そして前述のプロ元年と言われた86年は、オフトが肩書も監督になって臨んだ初めてのシーズンだった。

[匿名さん]

#6412020/09/09 01:01
■聞きなれない言葉の数々

オフトがマツダにたたき込んだのは、主に戦術面といってよかった。個人、グループ、チームとして果たすべき役割、プレーを整理し、徹底してゲームで実行させた。それはサッカーの本場であるオランダをはじめとしたヨーロッパでは当たり前のことながら、当時の日本ではおろそかにされていた部分。オフトは「ディシプリン(規律)」という言葉でチームに浸透させた。

 フジタ戦の試合後の会見でも「チームにとって重要なのはディシプリン」だと熱弁をふるったが、当時はまだ聞き慣れない単語として筆者をはじめ、居合わせた報道陣の脳裏に深く刻まれたのだった。「スリーラインをコンパクトに」「トライアングルを作る」「アイコンタクト」「コーチング」など、のちの日本代表監督時代に定着させた単語も当時から使っており、チームの方向性を定める手腕は秀逸だった。

 オフトは技術的にはアジアでも上位に迫っていた日本代表にも確かな戦術意識を植え付け、アジアの頂点に導いた。その原型が、この日のマツダにあった。

[匿名さん]

#6422020/09/10 11:44
ビッグクラブでも、ここまで執着心があるコアサポはなかなかいない。光栄なことのように錯覚してしまうし、哀れの一言。

[匿名さん]

#6432020/09/13 00:09
☆★ サッカーマガジンWEB★☆


□■初優勝を果たした1972年の走る日立【連載◎J前夜を歩く第12回】■□

2020-04-21
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第12回は、2冠を達成した「走る日立」について綴る。

文◎国吉好弘


■チームを変えた高橋英辰監督

 1972年の日本リーグ(JSL)で初優勝を果たした日立製作所のことを語るとき、必ず登場するキャッチフレーズが「走る日立」だ。当時テレビ放映の事前取材に訪れたNHKの鈴木文弥アナウンサーが、練習を見て感じた特徴を実際に中継でも使ったことで広まった。

 チームの指揮を執った高橋英辰監督は、まさにそういったチームづくりをしており、当時学生だった私も観客の一人として実際にスタンドから見て、またテレビで放映された試合を眺めても、相手チームより走っている印象は確かにあった。

 高橋監督はJSLが始まる以前にも日立を率いて、日本のトップレベルに引き上げた人だが、日本代表監督を務めるなど日本協会の仕事のために一度は退いていた。しかしJSLが創設されると日立は、最初のシーズンとなった1965年は4位だったが(全8チーム)、66年は5位、67年は6位で、68年には7位となり、社会人の上位チームと入れ替え戦を戦わなければならなくなる。


 まさにじり貧状態のチームを立て直すため、69年のシーズン途中に監督として復帰を要請された。

[匿名さん]

#6442020/09/13 00:10
 その手腕は確かで、会社と交渉して練習時間を大幅に増やし、グラウンドなどの設備を整え、選手補強も行なった。69年こそ途中からの采配だったこともあり、再び7位にとどまったが、翌70年には一気に3位に引き上げる。71年は4位と一つ後退したものの、72年には連覇を狙った本命のヤンマーに競り勝ち、最終節で優勝を決めたのだった。

 さらにこの年、オープン化した天皇杯(前年まではJSLと全国大学選手権の上位4チームずつ、8チームによる争いだった)でも、73年元日の決勝でヤンマーを2-1で下し、2冠を達成している。



■オシム千葉の40年前に考えて走った

高橋監督はチームの立て直しにあたって、その方針と選手への要求を以下のように振り返った。

「1年目は自分のチームとよそのチーム状況を知ることに終始。その中から、まず走らなければ、とても技術的な差はカバーできないと考えた。2年目はバカに思えてもいい、ただ遮二無二走れ。3年目は正確なパスを要求して『ボールも走らせよ』。そして4年目は効率の良さを目指して『頭を使って走れ』と求めた」

「まず走れ」「頭を使って走れ」といった言葉を、どこかで聞いたと感じる人は多いのではないだろうか。40年後にJリーグでジェフユナイテッド市原(現・千葉)の監督に就任し、やはり下位にくすぶっていたチームを優勝争いに加わるまでにした、イビチャ・オシムのそれと酷似しているのだ。飛び抜けたスタープレーヤーはおらず、身体的、フィジカル能力にも秀でていないチームだったところも同様だった。

[匿名さん]

#6452020/09/13 00:10
 高橋監督は、日本中から称賛を浴びたオシムのチーム再建を、この時代にやってのけた。しかもリーグ、カップの2冠を手にしている。

 当時のサッカーマガジン(1973年1月号)に、毎日新聞の荒井義行記者が日立の優勝を分析して、以下のような文章を残している。

「今シーズンの日立の強さとか、長所と言われたものを列挙してみよう。よく走る。攻守の切り替えが早い。ボールを持たないプレーヤーがよく動く。FWの守備、BK(バック=DF)の攻撃参加。出足が良い…など」

 ハードワーク(よく走る)、攻守の切り替えの早さ、オフ・ザ・ボールの動き、全員守備・全員攻撃、素早いボールへの寄せ——。表現は変わっても、現在のサッカーで強調される点ばかりだ。

 さらに荒井氏は、この後に「サッカーの教科書を開けば必ず書いてある、基本的なことばかりだ」と綴っている。一つひとつの要素のスピード感や精度は大きく進化しているが、やはり原則は変わらないということだろう。

[匿名さん]

#6462020/09/13 21:49
#爆サイで夢をかなえる人のスレッドとなりました。

[匿名さん]

#647
この投稿は削除されました

#6482020/09/16 01:37
 1978年に加入した日本鋼管でも1年目は3得点、2年目は6得点を挙げたもののチームは10チーム中9位で、入れ替え戦に敗れて2部降格。82年に1部へ帰り咲くが、また1年で2部へ降格した。それでも、この頃から松浦はストライカーとして大きく成長し、武器だった高さも活かせるようになる。

 チームも力をつけて83年JSL2部で優勝、再び1部復帰を決め、松浦も18得点で得点王に輝く。2部で得点王となった選手が、1部でも得点王になるのは初めてのことだった。

 1部に復帰した84年は8位に終わり、1部の壁を感じたが、翌85年には松浦が10得点、同僚の藤代伸世も11得点を挙げ、チームも2位に躍進する。そして迎えたのが、冒頭に記したように『秋-春制』となった86-87年シーズンだった。

 松浦は腰の持病でコンディションが万全ではなく、開幕戦はベンチスタート。それでも第2節、アウェーでのヤンマー戦で先発出場すると、31分に藤代のクロスをヘッドで合わせて先制点。さらに2点を追加してハットトリックを達成、3-2の勝利の立役者となった。

[匿名さん]

#6492020/09/16 01:38
■ 2年連続のゴールキング

 3節、4節でもゴールを奪うと、ウインターブレイクを挟んで再開された1月31日の第7節、本田戦で2得点を挙げて得点王レースでトップを走り、チームも初優勝へ向けて突き進む。優勝を争った読売クラブと最後の最後まで競り合い、松浦もラスト3試合で連続得点するなど貢献した。しかし、最終節を終えて読売クラブと同勝ち点ながら得失点差で及ばず、日本鋼管は涙をのんだ。

 優勝を果たした読売クラブでは、清水東高を卒業したばかりの武田修宏が活躍し、この年の年間最優秀選手にも選ばれる。しかし、リーグで挙げた得点は11でランキング2位。14得点を挙げた松浦が得点王となったのだ。

翌年の『日本サッカーリーグ年鑑』に総評を記した平木隆三・日本協会技術委員長も、「ここのところ足元のプレーに巧みさを増し、安定した力を発揮するようになっている松浦くんの年ごとの成長ぶりは、各チームにとって今後も脅威となるだろう」と綴り、その成長を認めていた。

 32歳、190センチ、JSL2部に続く得点王と、異色ずくめのストライカーは、翌年も得点王となってJSLの歴史に名を刻む。だが日本鋼管はまたしても2位に終わり、その後も優勝には1度も手が届かなかった。

[匿名さん]

#6502020/09/20 00:08
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□■得点以外にも光を。1966年に導入したアシスト制【連載◎J前夜を歩く第10回】■□

【2020-04-05】
サッカーマガジン編集部


1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第10回は得点を導くプレー以外に光を当てるべく導入されたアシスト制度について綴る。

文◎国吉好弘


■初代アシスト王は桑原隆幸

 Jリーグでは採用されていないが、日本リーグ(JSL)の時代には、得点となったシュートの前のプレーに「アシスト」をつけていた。JSL2年目の1966年3月29日に行なわれた評議会で以下の事項が決定された。

「1966年度のリーグの試合を記録する際にアシスト制を採用し、得点があった際に必要と思われる場合は得点者以外の者にアシストを認め、アシスト点1点を与え、試合記録に記入する。ただしこのアシストに関する記録は参考記録として報道関係者に発表する」(機関紙「サッカー」56号)

 これは、得点者だけがクローズアップされるのではなく、その前のプレーにも注目してもらおうと、加盟8チームの代表と、日本協会の竹腰茂丸理事長など3人の理事によって構成される評議員会によって提案され、実現の運びとなった。そのアイディアは、当時すでに「アシスト」を記録していたアイスホッケーからヒントを得たものと言われている。

 具体的には「アシストは得点があった場合、その得点のために行なわれた直接のプレーに関係した者にのみ認められる。またそのプレーは得点となるまでのプレーのうち、得点からさかのぼって2つ以上前のプレーには認められない」と規定された。

[匿名さん]

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