1000
2024/12/08 16:32
爆サイ.com 北海道版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
合計:
報告 閲覧数 1.6万 レス数 1000

#9012024/11/16 21:46
[特集]指導者の聞く力 ~いつの時代も追求すべきものがある 古沼貞雄さん(矢板中央高校サッカー部アドバイザー)インタビュー
2022年10月28日


高校サッカー界屈指の名伯楽だ。1970年代以降、帝京高校を強豪に仕立て上げ、全国高校サッカー選手権大会で史上最多タイとなる6度の優勝に導いた。80歳を過ぎた今もなお、指導者として育成の現場に立つ古沼貞雄さんに話を聞いた。

○オンライン取材日:2022年7月14日
※本記事はJFAnews2022年8月に掲載されたものです


🔳サッカーに走力は必須 動き回って汗をかけ

――サッカーの指導者として、大切にしていることを教えてください。

古沼 帝京高校の指導者時代から大事にしてきたのは、「技術」「戦術」「走り」の基本です。技術の話をすると、キック、トラップ、ヘディングの基礎を徹底して教えました。どこまでこだわるかがポイントです。インサイドのパスを一つ取ってもそう。それこそ、同じパスを同じ場所へ100回成功するまで繰り返しやらせることもありました。「止めて・蹴る」の重要性は時代が移り変わっても変わらないものです。

[匿名さん]

#9022024/11/16 21:48
――では、戦術の基本練習はどのようなことをしていたのですか。

古沼 もともと私はサッカーの素人でした。当時、難しい戦術を教えろと言われても、よく分からなくてね。1960年代、帝京高校のサッカー部は狭いグラウンドで練習していました。当然、できるメニューは限られます。その中で重視したのは、シュート練習です。トータルで3時間あれば、そのうち2時間は、グラウンドに四つ、五つのゴールを置いて、シュートを意識した練習に費やしました。ゴール前のプレーを想定した1対1から始まり、6対6まで人数を増やし、シュートに持ち込む形をつくっていました。ハーフコートより少し狭いピッチでの4対4は、私の定番メニューです。帝京を定年退職した後、青森山田高校、流通経済大学附属柏高校、帝京長岡高校、滝川第二高校などに特別コーチとして呼ばれましたが、そのときもこのメニューを実践しました。その昔、岡田武史元日本代表監督にもこの練習方法を書いて渡したことがあったかな。選手たちに意識させたのは、ゴールに向かうこと。練習ではあえて難しい設定にして、選手たちに考えさせました。

――練習中、選手たちの話を聞くことはありましたか。

古沼 選手たちにはよく問いかけました。滝川第二高校でワンタッチの制限を設けて練習しているときでした。決まったルール通りにプレーしない選手がいたので、その理由を聞きました。その選手は「今のボールをダイレクトで返すのは無理です」と答えたのですが、私は「どうしてなのか?」と言いました。はじめから考えずにほかのプレーを選択するのではなくワンタッチでパスを返せるように工夫しなければなりません。だから、「自分で考えてほしい」と言いました。できないからといって設定を簡単にすると、それ以上の成長はありません。

[匿名さん]

#9032024/11/16 21:49
練習試合でも、選手には意識を高く持ってプレーさせていました。高校年代のトップレベルであったとしても、より高い水準のプレーを求めました。取り組む姿勢を評価しつつ、厳しくするところは厳しくする。それは、走りの練習も同じです。ただ走らせていたわけではありません。

――「走り」の基本については、どのような指導をしてきたのでしょうか。

古沼 まず走るフォームです。私はサッカーの指導に携わる前は、陸上競技をしていたので、走り方にはこだわっていました。短距離、中距離、長距離では走り方が異なります。サッカーにも通じるものがあり、練習メニューに取り入れていました。とはいえ、マラソン選手を育てるわけではありませんから、工夫しましたよ。スプリント力をつけるダッシュにしても、直線で走るだけではなく、「8の字」を描くように走るとかね。サッカーにおいて走力は必須です。練習でも試合中でも、ピッチで突っ立っている選手が大嫌いなんですよ。とにかく「動き回って汗をかけ」と。ボールを扱いながらも走力は鍛えることができます。「今どこパス」は私の口癖でした。今、どこが空いているのか必ず見るようにしよう、と。ドイツ人のデットマール・クラマーさんもよく言っていましたが、「パス・アンド・ゴー」はサッカーの基本。パスを出したら終わりではなく、次のパスコースをつくるために動かなければなりません。

[匿名さん]

#9042024/11/16 21:49
――古沼さんがかつて指導した帝京高校は、練習で走る量も相当だったと聞きます。

古沼 私が監督をしていたころのサッカーの合宿は、今では考えられないほど過酷でした。練習は朝5時から始まります。100人くらいの部員を5チームに分け、午前7時までは朝食の前に「メシ前リーグ」を行います。試合は30分1本。勝ったチームから宿に戻り、朝食の準備を手伝うのです。朝食が終わったら9時半から11時半まで練習です。昼食後、少し休んで午後2時から夕方6時半までは学年対抗のリーグ戦を実施しました。雨が降り、グラウンドが使用できないときは、走りのメニューが中心になります。帝京高校の合宿地、菅平(長野県)で名物だったのは、マラソンとほぼ同じ距離を走る42km走です。途中で水分をしっかりと取らせ、体調面に気を使いながらでしたが、下り20km→上り5km→下り5km→上り10kmと上り下りが激しかったので、世界一過酷なコースだと思います。浦和レッズ、アルビレックス新潟で活躍した田中達也は、4時間弱で走ったかな。特に3年生のときは「最後なので完走できるように頑張りたい」と気合を入れていました。強豪と呼ばれていたころの帝京は誰もが走力を備えていました。そこには疑いの余地がありません。

[匿名さん]

#9052024/11/16 21:50
🔳技術論や戦術論より人間力を磨くことが大事

――現在、矢板中央高校サッカー部のアドバイザーを務められています。選手たちにはどのように接していますか。

古沼 昔のように叱咤するようなことはほとんどありません。選手がミスをしても何も言いません。ただし、雰囲気が締まっていないと感じるときは、「サッカーの基本は何だ?」と問いかけます。選手たちは「球際です」と答えるんですが、練習だからといって手を抜いたら試合で通用しません。競り合いではボールをしっかりと見て、相手に体を寄せなければならない。試合はもちろん、練習から激しく戦うことが不可欠です。
思い出したことがあります。帝京時代に初めてドイツ遠征したとき、現地のドイツ人指導者に「帝京の選手たちはボール扱いがうまいけれど、それだけでは勝てないよ」と言われたんです。これが真理です。サッカーは球遊びではありません。ボールを奪うか、奪われるか、点を奪うか、奪われるか。いつの時代もそこを追求していくべきだと思っています。

――育成年代の指導者に大事な素養とは何でしょうか。

古沼 いろいろありますが、一つは選手たちのやる気を引き出すこと。そして、その気にさせるには、情熱を持って選手たちと接することです。親交のあったイビチャ・オシム監督(故人)は、まさにそういう指導者でした。あれほどサッカーを愛し、選手たちと向き合う時間を惜しまなかった指導者を私は知りません。

[匿名さん]

#9062024/11/16 21:51
――最後に、育成年代に携わる指導者たちに伝えたいことはありますか。

古沼 人間として信頼され、リスペクトされる存在であってほしいと思います。走りの練習でも「この監督が言うのだから走ろう」と思ってもらえるくらいに。技術論、戦術論を身につけることも重要ですが、人間力を磨くことはもっと大事で、選手からの人望がない監督やコーチは良い結果を出せませんし、優秀な選手を育てることもできません。サッカーは人生そのものです。自分だけが幸せになろうとか、自分さえよければいいという考えではうまくいかないでしょう。「年寄りが何を言っているんだ」と笑われるかもしれませんが、私には「時代遅れの男でありたい」というポリシーがあるので、いつまでも言い続けますよ。

30年以上、日誌を書き続け、気になった記事をスクラップしている。「指導者たる者、学ぶ姿勢を忘れてはならない」と語る

[匿名さん]

#9072024/11/16 22:15
藤倉 寛(ふじくら ひろし、1980年4月24日 - )は、栃木県出身のサッカー選手でポジションはDF。

【藤倉寛】

🔳名前
カタカナ
フジクラ ヒロシ
ラテン文字
FUJIKURA Hiroshi

🔳基本情報
◻︎国籍
日本
◻︎生年月日
1980年4月24日(44歳)
◻︎出身地
栃木県小山市
◻︎身長
178cm
◻︎体重
72kg
🔳選手情報
◻︎ポジション
DF

🔳所属クラブ
1996年-1998年 帝京高等学校 (日本高校選抜 1998年)

1999年-2002年 東京学芸大学 (ユニバーシアード日本代表 2001年)

2003年-2007年 ソニー仙台

[匿名さん]

#9082024/11/17 12:53
☆★SOLTILO TOKYO FC★☆

【本田 圭佑プロデュース】

「一人でも多くの『世界』で戦える指導者・選手の育成を考え、 良い環境を整え、指導者・選手そして人間を育てていく。

将来的に、この組織での様々な経験が素晴しい人間に成長させ、1人でも多くの人間がこの日本の地から『世界』に羽ばたき、世界に認められる『エース』のような存在となる」


🔳名称
SOLTILO TOKYO FC / S.T.FC
ソルティーロ トーキョー フットボールクラブ

🔳設立
2007年4月

🔳対象
U-15(中学3年生~中学1年生)
U-12(小学6年生~小学3年生)

🔳実績
2018年
日本クラブユース選手権 全国大会ベスト8
2017年
東京都U-15リーグ1部 優勝
2016年
日本クラブユース選手権 関東大会出場(7回目)
2014年
日本クラブユース選手権 全国大会出場(決勝トーナメント進出)

🔳活動場所
清瀬市内山運動公園 他


🔳スタッフ

【プロデューサー】
本田 圭佑

【代表・監督】
HEAD COACH
廣瀬 太郎

🔳生年月日
1983年12月28日

🔳選手歴
帝京高-帝京大学

🔳主な指導歴
S.T.FC

🔳取得資格
JFA公認B級ライセンス


【テクニカルアドバイザー】
廣瀬 龍

🔳生年月日
1956年4月19日

🔳選手歴
帝京高-中央大-フジタ工業(現・湘南ベルマーレ)

🔳主な指導歴
帝京第三高 監督-帝京大 監督-帝京高 監督-鹿島学園 総監督-ソウルデジタル大 監督-S.T.FC-サムットプラーカーンシティ ヘッドコーチ(タイ1部)

🔳取得資格
JFA公認S級ライセンス

[匿名さん]

#9092024/11/17 14:13
日立アプライアンス株式会社(ひたちアプライアンス、英: Hitachi Appliances, Inc.)は、かつて存在した日立グループの電機メーカー。

【日立アプライアンス株式会社】
Hitachi Appliances, Inc.

🔳種類
株式会社
🔳市場情報
非上場
🔳略称
日立AP
🔳本社所在地
日本
東京都港区西新橋二丁目15番12号
日立愛宕別館
🔳設立
1998年11月26日(株式会社日立空調システム)
🔳業種
電気機器
🔳法人番号
8010401057011
🔳事業内容
総合空調及び家電製品の開発・製造・販売
🔳代表者
德永俊昭(取締役社長)
2019年4月 - 谷口 潤
🔳資本金
200億円
🔳売上高
4,180億円(2018年3月期、連結ベース)
🔳従業員数
約8,500名(2017年3月末現在 連結)
🔳主要株主
株式会社 日立製作所 100%


・2006年4月1日に株式会社日立製作所の分社化第一号の株式会社日立空調システムを存続会社として日立グループの白物家電会社日立ホーム&ライフソリューション(日立H&L)との合併により発足。
その際、日立H&Lの子会社だった日立コンシューマ・マーケティング等は日立製作所の子会社になった。

[匿名さん]

#9102024/11/17 14:15
・2006年4月1日:日立H&Lと日立空調システムが合併し、日立アプライアンス株式会社を設立。

・2010年10月1日:照明事業会社である日立ライティングを吸収合併。

・2012年12月:縦型洗濯機「白い約束」NW-8SY/6SYのOEMモデルである三菱電機ストアー向け洗濯機「MAW-70AP/60AP」を生産開始。

・2013年4月:日立空調テクノサービス株式会社を吸収合併

・2015年10月1日:アメリカのジョンソンコントロールズ社との合弁で日立ジョンソンコントロールズ空調株式会社を設立、日本国内向け製品は製造のみ同社へ移管され、販売は従来通り日立アプライアンスが担当。

・2019年4月1日:日立コンシューマ・マーケティングと合併し、日立グローバルライフソリューションズに商号変更


🔳主要事業

・家電事業
・オール電化事業
・総合空調事業


🔳 製造事業所

・栃木事業所(栃木県栃木市)
・多賀事業所(茨城県日立市)
・青梅事業所(東京都青梅市)

青梅事業所は新会社以降後の2019年に閉鎖、2020年現在は解体済み。

栃木事業所の一部と以下の2事業所は日立ジョンソンコントロールズ空調株式会社となった。

・清水事業所(静岡県静岡市)
・土浦事業所(茨城県土浦市)


🔳 関連会社

・日立アプライアンステクノサービス株式会社(旧日立多賀テクノロジー株式会社) (日立市)
・日立空調関東株式会社(練馬区)
・株式会社新潟日立(新潟市東区)
・日立空調関西株式会社(大阪市中央区)
・日立空調九州株式会社(福岡市博多区)
・株式会社関東エコリサイクル(栃木市)
・株式会社日立ソフテック(港区)

[匿名さん]

#9112024/11/17 14:15
以下の2社は日立ジョンソンコントロールズ空調株式会社の関連会社となった。

・日立レフテクノ株式会社(栃木市)
・日立空調SE株式会社(静岡市清水区)

[匿名さん]

#9122024/11/18 02:52
佐川急便株式会社大阪サッカークラブ(さがわきゅうびんかぶしきがいしゃおおさかサッカークラブ)は、かつて日本の大阪府大阪市を本拠地として活動していた佐川急便大阪支社の企業サッカークラブ。呼称は佐川急便大阪SC(さがわきゅうびんおおさかSC)。


【佐川急便大阪SC】

🔳原語表記
佐川急便株式会社大阪サッカークラブ
🔳呼称
佐川急便大阪SC
🔳クラブカラー

🔳創設年
1965年
🔳解散年
2006年
🔳ホームタウン
大阪府大阪市
🔳ホームスタジアム
鶴見緑地球技場


🔳歴史

大阪体育大学のOBたちによって1965年に創設され、1978年に北摂蹴鞠団の名称で大阪府4部リーグに加盟した。1980年代後半、大阪体育大学の2軍チームの指導を任された祖母井秀隆は、選手たちを社会人が参加する地域リーグの中で競わせようと考え、当時の大体大サッカー部部長の仲裁により北摂蹴鞠団の監督に就任した。チームは当初こそ大体大OB選手が主力だったが、すぐに大体大の2軍選手たちに取って代わっていった。1986年に関西サッカーリーグに初めて昇格したが10チーム中9位に終わり1年で降格した。

その後、純粋に大体大の2軍選手を中心とするチーム構成に変わり、1989年にチーム名が体大蹴鞠団に改称された。1990年に関西リーグに復帰すると、2年連続で2位となった。関西リーグでの成績の結果、全国地域リーグ決勝大会に2年連続で出場した。1990年は4位、1991年はジャパンフットボールリーグ(旧JFL)圏内の2位となったが、大学側が昇格にともなう支出増加を問題視したため昇格を辞退した。同年限りで祖母井は体大蹴鞠団から離れてサッカー部に戻った。

[匿名さん]

#9132024/11/18 02:53
1997年に佐川急便大阪支社のチーム佐川急便SCとして再編され、1999年に佐川急便大阪SCに改称。関西リーグで1998年から2001年までの4年間に3度優勝を果たした。2001年の地域リーグ決勝大会に優勝したことにより、翌年より日本フットボールリーグ (JFL) に昇格した。佐川急便グループでは2001年にJFLに昇格した佐川急便東京SC(2001年度は「佐川急便SC」として登録)に次いで2チーム目のJFL参戦となった。

2002年にJFLに昇格したあとは、降格することなく5シーズンをJFLで過ごした。2005年には、その年のJFL得点王(18点)となった大坪博和が所属した。ラストシーズンとなった2006年はHonda FC、佐川急便東京SCに次ぐ3位というクラブ史上最高成績を残した。2006年9月14日、ライバルでもあり同系列の佐川急便東京SCとの合併(佐川急便によれば「統合」)が発表され、2007年度からは滋賀県に移転し佐川急便SCとして再出発した。佐川急便大阪SCなどは支社による公認のクラブという位置づけだったが、統合後は佐川急便のオフィシャルチームとなった。


🔳その他

本拠地は長居第2陸上競技場(15000人収容)と鶴見緑地球技場(4000人収容)を併用していた。

佐川急便東京SCとの対戦は「佐川ダービー」と呼ばれていた。佐川急便では支社間のライバル関係が非常に強く、各地のサッカー部はそれに後押しされて強化が進んでいったという面がある。佐川急便東京SCとの対戦はJFLだけではなく、毎年ゴールデンウィークに佐川守山陸上競技場で行われる社内大会「佐川スポーツフェスティバル」でも繰り広げられた。

[匿名さん]

#9142024/11/18 02:54
選手たちは佐川急便の社員であり、配送や構内作業といった部署ごとの仕事を終えた後、15時からサッカーの練習というスケジュールが組まれていた。

サポーターの応援に特色があり、あえて「私設應援團」と称し、トランペットなどの野球風応援でJFL名物となっていた。


🔳タイトル
・リーグ戦
関西サッカーリーグ:3回
1998年、2000年、2001年
・カップ戦
全国社会人サッカー選手権大会:1回
2001年
・全国地域リーグ決勝大会:1回
2001年

[匿名さん]

#9152024/11/20 03:33
SAGAWA SHIGA FC(サガワ シガ エフシー)は、かつて存在した日本のサッカーチーム。佐川急便(SGホールディングス)のサッカー部として、2007年に佐川急便東京SC、佐川急便大阪SCの2つのチームを合併して発足した。滋賀県守山市に本拠地を置いてJFLに参加していたが、2012年シーズンをもってJFLを退会。2013年1月をもってトップチームの活動を停止した。

2007年より開設しているジュニアユースチーム・アカデミーなどの下部組織については、2013年以降も活動を継続している。


【SAGAWA SHIGA FC】

🔳原語表記
SAGAWA SHIGA FC
🔳クラブカラー

🔳創設年
2007年
🔳ホームタウン
滋賀県守山市
🔳ホームスタジアム
SGホールディングスグループ健康保険組合守山陸上競技場
🔳代表者
近藤宣晃


🔳概要

1991年に佐川急便東京支社のサッカー同好会として設立した佐川急便東京SCと、1965年に北摂蹴鞠団として設立した佐川急便大阪SCが2007年に「佐川急便サッカークラブ」[1] (略称は佐川急便SC)として合併、滋賀県守山市に本拠を移し滋賀県で初めてのJFLチームとして活動を始めた。

SGホールディングスグループが所有する保養施設・守山パークにあるSGホールディングスグループ健康保険組合守山陸上競技場(佐川守山)をホームスタジアムとしたが、年に2〜3回程度皇子山陸上競技場(大津市)でホームゲームを行ったこともあった。

選手は全員が社員として雇用されており、陸上競技場に隣接した人工芝サッカー場を練習場としていた。

[匿名さん]

#9162024/11/20 03:35
🔳歴史

・2007年

佐川急便SCとしてのJFL参入1年目である2007年は、GMとして伊藤庸夫を迎え、旧佐川大阪の中口雅史を監督、旧佐川東京の田中信孝をヘッドコーチに据えた。佐川東京から15名、佐川大阪から16名の選手が集まり、新たな獲得選手は迎えずにシーズンに臨んだ。

合併・ホーム移転の困難から序盤は苦戦を強いられ、開幕戦は辛くも勝利したものの、翌節では前年の下位チーム相手に星を落とした。しかし、MF堀健人、嶋田正吾の両サイドアタッカーにトップ下の中村元が絡み、FW御給匠が得点する攻撃の形ができると勝利を重ね始め、競り合いの試合ではFW竹谷英之がスーパーサブとして試合を決めるなど勝負強さも発揮して、5月上旬に首位に立った。以降首位を明け渡すことなく、後期第15節に2位のロッソ熊本が敗れ、同節にHonda FCと引き分けて、前身の佐川東京、佐川大阪を含めても初のJFL優勝を果たした。

この年Jリーグ参入を果たした熊本には1勝1分、FC岐阜には2勝と強さをみせた。30得点で得点王・MVPとなった御給の他、堀、嶋田、MF山根伸泉、DF影山貴志、冨山卓也、GK森田耕一郎の総勢7名がベストイレブンに選ばれ、中口が最優秀監督に選ばれた。なお、8月にホーム佐川守山で行われた栃木SC戦では試合開始後に突然の雷雨により試合が前半途中で中止となり、後日再試合となるハプニングがあった。

JFLシードとして出場した第87回天皇杯では、3回戦でバンディオンセ神戸に勝利した後、迎えた4回戦の横浜F・マリノス戦では先制を許し、御給のゴールで一時同点に追いついたものの後半に失点を重ねて1-4と敗れた。

[匿名さん]

#9172024/11/20 03:35
・2008年

この年から地域密着のためにチーム名を「佐川急便滋賀フットボールクラブ」(略称はSAGAWA SHIGA FC)に改称したが、同年5月2日にチームの正式名を略称だった「SAGAWA SHIGA FC」に変更。また、同じ滋賀県のチームであるMIOびわこ草津がJFLに昇格し、JFLにおける初の滋賀ダービーが実現することになった。この年からユニフォームサプライヤーをアンブロに変更。

中口雅史がテクニカルディレクターに退き、ヘッドコーチの田中信孝が監督に就任した。前年シーズン終盤にMF山根がケガで長期離脱し、攻撃の中心となっていたFW御給、MF堀、嶋田がそれぞれJリーグのチームへ移籍するなど計8名の選手が離脱、大学卒の4名を加えての開幕となった。

滋賀ダービーとなった開幕戦でMIOびわこ草津に敗れると、序盤は昇格組や前年の下位チームを相手にカウンターで失点を重ねる試合が続き、7戦で1勝2分4敗と苦戦した。4月29日のガイナーレ鳥取戦に竹谷の逆転ゴールで勝利した後はMF田谷高浩などの活躍でいったん調子を上げるものの、再び5月中旬から連敗。その後上位陣との対戦では引き分けが続いたが、前期を13位で折り返した。後期に入ると接戦をものにできず、再び黒星が続くようになった。

8月に行われた第88回天皇杯滋賀県予選では決勝でMIOびわこ草津に雪辱を果たし、滋賀県代表としての天皇杯出場となったが、1回戦で北信越リーグのツエーゲン金沢に接戦の末、延長で敗退した。

[匿名さん]

#9182024/11/20 03:37
10月のリーグ戦再開を前に、田中信孝がテクニカルコーディネーターに退き、代わってテクニカルディレクターだった中口雅史が監督に復帰した。あわせてケガで離脱していた選手も復帰し、中村や竹谷に加えてMF大沢朋也や高橋延仁、FW米倉将文などが得点を重ねて調子を取り戻した。再開後は5勝3分け無敗としたが、最終的には12位でシーズンを終えた。優勝したHondaや、この年Jリーグ参入を争った栃木SC、カターレ富山、ファジアーノ岡山、鳥取など上位には互角の戦績を残したが、中位のチームに星を落とすことが多かった。


・2009年

引き続き中口雅史が監督として指揮をとった。GKの定位置を争っていた真子秀徳がJリーグのチームへ移籍、ほか数名の選手の離脱はあったものの、攻撃陣を中心に前年の主力メンバーが残ってシーズンを迎えた。

開幕3試合で2分1敗とやや低調なスタートを切るものの、前期第4節のニューウェーブ北九州戦で初勝利をあげると、MF中村や大沢など好調な選手を軸にパスをつないで、中盤からの飛び出しや両サイドバック旗手真也、榎本周平の積極的な攻撃参加でチャンスをつくる攻撃の形ができ、順位を上げ始めた。米倉、竹谷といったFWの主力をケガで欠くとMF高橋がFWとして入るようになり、いわゆる0トップの形に近い攻撃陣の構成となった。

[匿名さん]

#9192024/11/20 03:37
5月に入ると、当時無敗で首位を走っていたガイナーレ鳥取にアウェイで初黒星をつけるが、その後に2連敗。ここで新型インフルエンザの流行の影響で、自治体の要請を受けて5月23日に予定されていたホームゲームが中止・延期となったが、翌週の三菱自動車水島FC戦から6連続完封を含む8連勝と調子を上げた。延期試合であった6月17日のV・ファーレン長崎戦での勝利で首位に立つとそのまま前期を1位で折り返し、天皇杯出場権(JFLシード)を獲得した。

後期に入ると、鳥取やHonda FCなどとの上位対決をともに1点差で制するが、その後は勝ちきれずに引き分けが続いた。10月10日に行われた第89回天皇杯2回戦ではザスパ草津と対戦し、序盤は互角に戦ったものの前半終了間際に失点を重ね、1-3で敗れた。

その後も勝ち点を伸ばせない時期が続いたが、2位チームとの差が詰まった状況で迎えた11月22日の後期第16節ジェフリザーブズ戦に大沢のゴールで1-0と勝利し、2年ぶりのJFL優勝を決めた。

攻撃陣の中心として15得点をあげMVPに選ばれた中村の他、MF大沢、山根、DF冨山、旗手がベストイレブンに選ばれた。

[匿名さん]

#9202024/11/20 03:38
・2010年

この年も引き続き中口雅史が指揮をとった。前年の優勝メンバーから主力がほぼ残留し、大量8名の新人が加入。さらに、2007年のJFL得点王である御給匠が3年ぶりにチームに再加入して、初の連覇を狙った。

開幕から9戦して4勝5分と引き分けが多く、無敗ながら勝ちきれない試合が目立った。前期第10節のMIOびわこ草津戦からは接戦を制して連勝するものの、前期第14節のHonda戦で初黒星を喫した。しかしその翌節は同じく無敗で首位のガイナーレ鳥取に快勝して初黒星をつけ、前期を2位で折り返して天皇杯出場権(JFLシード)を獲得。後期に入るとパスワークを中心とした攻撃に御給がうまく適応して攻撃陣が調子を取り戻し、7戦で5勝1分1敗と勝ち星を伸ばした。

約1カ月のブランクをおいて、9月5日に行われた第90回天皇杯2回戦では水戸ホーリーホックと対戦。試合開始直後に御給、さらに後半に岡村政幸がゴールを奪い、2点のリードで優位に立ったが、その後終盤に逆転を許し、2-4と敗退した。

[匿名さん]

#9212024/11/20 03:39
その後のリーグ戦では、勝ち点差5で迎えた9月18日の首位鳥取戦で敗れ(鳥取に対しての合併後初の敗戦)、優勝の望みをほぼ失うと、その後も負けが込むようになり、10月下旬に鳥取の独走優勝を許した。その後もさらに順位を落とす可能性もあったものの、町田ゼルビアとの直接対決に引き分け、辛うじて2位を確保してシーズンを終えた。引き分け数がリーグで2番目に多く、鳥取、町田、V・ファーレン長崎、松本山雅のJリーグ準会員勢に対して2勝3分3敗と分が悪い結果となった。

この年、新人右サイドバックとして先発に定着した奈良輪雄太がJFL新人王を獲得し、御給が2度目の得点王を獲得したほか、中村、山根、旗手がベストイレブンに選ばれた。


・2011年

引き続き中口雅史が監督を務めた。選手の離脱や補強は前年に比べて小幅なものとなったが、大卒新人2人に加えて、復帰を除いた初めての他チームからの移籍選手となるFW鳥養祐矢を迎えた。東日本大震災の影響でJFLの開幕が4月下旬となったが、開幕戦で敗れると、序盤はその後も黒星が先行した。

[匿名さん]

#9222024/11/20 03:40
しかし5月下旬から、ブラウブリッツ秋田や松本山雅に逆転勝利をおさめ、Hondaとのアウェイゲームを終盤の得点で勝って調子を上げると、6月25日の町田ゼルビア戦では0-3のビハインドから終盤に3-3の引き分けに持ち込むなど、勝負強さを発揮するようになった。天皇杯のJFLシード権は逃したものの、MF清原翔平やGK村山智彦、FW鳥養などの若手の活躍とベテランとが噛み合って夏場に6連勝を果たし、混戦のリーグで首位に立った。

天皇杯滋賀県予選では決勝でMIOびわこ草津を下し、滋賀県代表として天皇杯出場[12]。1回戦を勝ち抜いたが、10月12日の2回戦では若手メンバー主体のガンバ大阪に対して、シュート数では上回るなど持ち味をみせながら決定力を欠き、0-2で敗れた。

9,10月のリーグ戦では終盤に逆転を許すなど接戦をものにできず、2度の連敗を喫した。しかし2位以下の混戦にも助けられて首位をキープし、Hondaとのホームゲームを制した後は守備が安定感を取り戻して白星を重ねた。そして12月4日のカマタマーレ讃岐戦、相手ペースの試合ながら終盤の清原のゴールで勝利し、1試合を残して2年ぶり3度目のJFL優勝が決まった。シーズン通じて引き分けが1試合(災害復興支援試合を含めて2試合)と少ないのが特徴的であった。またこの年Jリーグ参入を果たした松本山雅には2勝したが、町田ゼルビアには接戦を演じるも1分1敗とし、初めてJリーグ参入クラブに負け越すこととなった。

[匿名さん]

#9232024/11/20 03:41
キャプテンのMF山根がMVPに選ばれた他、MF中村、DF冨山、旗手、GK村山がベストイレブンに選ばれた。加えてチームとしてフェアプレー賞を受賞、さらに発足以後5シーズンにわたって異議による警告を受けていないことが評価され、JFLの特別賞を受賞した。


・2012年

引き続き中口雅史が監督を務めた。前年のメンバーからMF岡村の引退に加え、MF高橋はじめ3名が海外クラブへ移籍した。新人3人に加えて、FC岐阜からMF嶋田正吾が5年ぶりにチームに再加入し、三たび連覇を狙うシーズンとなった。

開幕2戦は昇格チームに対してともに先行を許しながらも逆転で連勝したが、3月24日の第3節YSCC戦で1-4と大差で敗れると、以降6試合勝利から遠ざかった。5月6日には当時首位のカマタマーレ讃岐に勝利するが、その後も連敗するなど調子が安定せず、長崎、長野パルセイロなどの上位陣にも白星をあげられずに11位でシーズン前半を折り返した。しかし7月に入ると、好調の清原を中心に攻撃陣が調子を取り戻して5連勝とし、順位を3位に上げた。

8月に入るとドローで連勝が途切れるが、天皇杯滋賀県予選では前年に続いて決勝でMIOびわこ滋賀との対戦を制し、6年連続の天皇杯出場を決めた。

天皇杯本大会では1回戦で関西学院大学に6-0と勝利すると、9月8日に姫路市立陸上競技場で行われたJ1のヴィッセル神戸との2回戦では、前半の嶋田、後半の清原のゴールとGK森田の好セーブなどでと2-1と逃げ切り、滋賀県勢として初、チームとしては前身の一つである佐川東京以来7年ぶりのJリーグクラブに対する勝利をあげた。

[匿名さん]

#9242024/11/20 03:42
その後のリーグ戦でも好調を維持して、10月10日にホームズスタジアム神戸で行われたJ2のジェフユナイテッド市原・千葉との天皇杯3回戦では、後半開始早々に先制されるも御給のゴールで追いつき、同点での延長戦、さらにはPK戦に持ち込んだ。PK戦も当初リードを許すものの後に追いつく粘りを見せたが、最終的にはここで敗退となった。

その後、中3日で行われた長野とのリーグ戦を引き分けた後、10月20日にはすでにチームの活動停止の報道が流れていたなか、首位に立つ長崎を2-0と下した。さらに活動停止が正式発表された後の秋田との対戦も制し、7月以降のリーグ戦を13戦無敗として優勝への望みを残したが、11月3日の横河武蔵野FC戦に逆転で敗れて優勝の可能性が消えた。そして、チーム最終戦となった11月18日の藤枝MYFC戦を1-1の引き分けとし、最後のシーズンを3位で終えた。

リーグトップの得点数を挙げ、この年Jリーグ参入を争った長崎に1勝1分、讃岐には2勝と互角以上の戦いをみせたが、前年に1つのみだった引き分けが9つに増え、下位チームに対する取りこぼしもあるなど、やや安定感に欠けたシーズンとなった。DF旗手、奈良輪、MF清原がベストイレブンに選ばれるとともに、前年に続きフェアプレー賞を受賞して、チームの歴史に幕を下ろした。

[匿名さん]

#9252024/11/20 03:43
・JFL退会とトップチーム活動停止

2012年10月22日、SGホールディングスグループの2013年度からの中期経営計画策定にあたり、「JFLで3回の優勝を果たし、『仕事とサッカーを両立させ、企業スポーツとしてアマチュア最高峰であるJFLで活躍する』というチーム設立時の理念について一定の成果を果たした」として、トップチームの活動を停止することを決定、10月18日のJFL理事会でJFL退会が承認されたことが発表された。2013年1月31日をもって、トップチームの活動を停止したことを公式ホームページにて告知した。

小学生を対象にした「SAGAWA SHIGA FOOTBALL ACADEMY」、および中学生を対象にした「SAGAWA SHIGA FOOTBALL ACADEMY ジュニアユースチーム」については、2013年以降も運営サポートを継続するとした。

2013年3月、発足以後6シーズンにわたって異議による警告をゼロとした取り組みが評価され、日本サッカー協会より『Respect Award 2012』が授賞された。


🔳ユニフォーム

ユニフォームサプライヤ
・ミズノ(2007年)
・アンブロ(2008年-2012年)


🔳下部組織
2007年秋よりアカデミー(小学生対象)を開講、2008年よりジュニアユースチームを保有。ジュニアユースチームは2009年に滋賀県トップリーグに昇格し、JリーグU-13ヤマトタケルリーグ、クラブユース選手権関西大会などにも出場している。

[匿名さん]

#9262024/11/20 03:43
🔳タイトル・表彰
チーム

・日本フットボールリーグ
優勝 : 3回 (2007年、2009年、2011年)

・フェアプレー賞 (2011年)
特別賞 (2011年)

◆個人
日本フットボールリーグ

◆年間最優秀選手
2007年 - 御給匠
2009年 - 中村元
2011年 - 山根伸泉

◆得点王
2007年 - 御給匠(30得点)
2010年 - 御給匠(27得点)

◆新人王
2010年 - 奈良輪雄太

◆ベストイレブン
2007年 - 森田耕一郎、冨山卓也、影山貴志、山根伸泉、堀健人、嶋田正吾、御給匠
2009年 - 冨山卓也、旗手真也、山根伸泉、大沢朋也、中村元
2010年 - 旗手真也、山根伸泉、中村元、御給匠
2011年 - 村山智彦、旗手真也、冨山卓也、中村元、山根伸泉
2012年 - 旗手真也、奈良輪雄太、清原翔平

◆最優秀監督賞
中口雅史 (2007年、2009年、2011年)

[匿名さん]

#9272024/11/21 08:10
⬜︎🔳東京都サッカー協会🔳⬜︎

[2024.11.13]

12/16(月)申込締切>【C級養成講習会】1/28(火)~2/11(火・祝)日野コース@日野陸上 開催について
下記の通り、標記講習会を開催します。
詳細ついては開催要項を確認の上、KICKOFFよりお申込み下さい。

(「詳しくはこちら」をクリックするとKICKOFFのログイン画面に移動します)
※先着順ではありません。申込期間終了後、2週間以内を目途に受講の可否をお伝えします。

■日程、講習時間
①1/28(火)【受付】8:30~、9:00~16:30
②2/1(土)9:00~17:00
③2/2(日)9:00~17:00
④2/4(火)9:00~16:00
⑤2/8(土)9:00~16:30
⑥2/9(日)9:00~16:00
⑦2/11(火・祝)11:30~17:00
※全7日間
※上記とは別に、期間中オンデマンド(オンライン上)でお受けいただく講義がございます。

■会場:
日野市陸上競技場(〒191-0011 日野市日野本町7-12-1 市民の森スポーツ公園内)

■申込期間:
11月18日(月)~12月16日(月)



【トラックニュース⭐︎TRUCK NEWS】

☆★トラック専門ニュース メルマガ週2回配信!★☆

交通事故統計/10月の事業用トラックによる死亡事故、前年より4件増加

2024年11月19日 11:14 / 交通

警察庁が公表した交通事故統計月報によると、今年10月中に発生した交通事故件数は2万6021件(速報値・前年同期比6.6%減)で、うち死亡事故は249件(確定値・1.2%増)となった。

[匿名さん]

#9282024/11/21 08:11
また今年1月から10月末までの累計では、交通事故件数は23万6467件(5.3%減)、死亡事故は2074件(0.0%)で交通事故は減少しているが、死者数は前年より4人増加し、2128人(0.2%増)となった。

このうち、10月中に発生した事業用トラックが第1当事者となる死亡事故件数(軽トラックは除く)は前年同月より4件増加し17件が発生。

内訳は大型10件(前年同)、中型5件(4件増)、準中型2件(前年同)、普通0件(前年同)。中型の死亡事故件数が大きく増加した。また1-10月の累計では161件(5件増)となっている。

<事業用トラックが第1当事者となる死亡事故件数・警察庁「交通事故統計」から全日本トラック協会作成>



小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日)は、日本の実業家、ヤマト福祉財団元理事長。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。東京都出身。

1991年に代表取締役相談役。1993年に名誉会長を経て、1995年に退任した後は、ヤマト福祉財団理事長として障害者が自立して働く場所作りに取り組んでいた。また、「郵政民営化」を唱えた小泉純一郎首相との親交でも知られていた。


🔳 テレビ番組

日経スペシャル ガイアの夜明け 金儲けで福祉を変えろ!(2004年8月24日、テレビ東京)。

[匿名さん]

#9292024/11/21 08:13
🔳 書籍

【著書】
・『小倉昌男 経営学』(1999年10月4日、日経BP社)ISBN 9784822241568

・『経営はロマンだ! 私の履歴書』(2003年1月8日、日本経済新聞社 日経ビジネス人文庫)ISBN 9784532191627

・『やればわかるやればできる クロネコ宅急便が成功したわけ』(2003年5月30日、講談社)ISBN 9784062118705

・『福祉を変える経営 障害者の月給一万円からの脱出』(2003年10月14日、日経BP社)ISBN 9784822243647

・『「なんでだろう」から仕事は始まる!』(2004年5月26日、講談社)ISBN 9784062124102

・『「なんでだろう」から仕事は始まる! 新装版』(2012年4月28日、PHP研究所)ISBN 9784569804538

・『やればわかる やればできる 小倉昌男の経営と仕事についての120項』(2005年11月20日、講談社)ISBN 9784062569736

・『小倉昌男の人生と経営』(2012年9月10日、PHP研究所)ISBN 9784569806914

【関連書籍】
・『宅急便・小倉昌男の需要創造の経営』(著者:久留一郎)(1997年12月18日、同友館)ISBN 9784496026201

・『小倉昌男の福祉革命 障害者「月給1万円」からの脱出』(著者:建野友保)(2001年1月1日、小学館)ISBN 9784094051018

・『自ら語る小倉昌男の経営哲学』(編者:日経ベンチャー)(2005年8月1日、日経BP社)ISBN 9784822210281

[匿名さん]

#9302024/11/21 08:14
・『宅急便を創った男 小倉昌男さんのマーケティング力』(著者:中田信哉)(2013年6月1日、白桃書房)ISBN 9784561612056

・『クロネコ遺伝子 生き続ける「小倉昌男」イズム』(著者:岡田知也)(2014年11月11日、日本経済新聞出版社)ISBN 9784532319694

・『逆境を越えて 宅急便の父小倉昌男伝』(著者:山岡淳一郎)(2015年5月1日、KADOKAWA)ISBN 9784046005762

・『小倉昌男 祈りと経営 ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』(著者:森健)(2016年1月25日、小学館)ISBN 9784093798792 - 第22回小学館ノンフィクション大賞受賞

・『小倉昌男 祈りと経営 ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』(著者:森健)(2019年11月6日、小学館 小学館文庫)ISBN 9784094067163

・『ヤマト正伝 小倉昌男が遺したもの』(編者:日経ビジネス)(2017年7月21日、日経BP社)ISBN 9784822236878

・『小倉昌男 成長と進化を続けた論理的ストラテジスト』(著者:沼上幹)(2018年2月22日、PHP研究所)ISBN 9784569834337


🔳 関連資料

【DVD】
・『ザ・メッセージⅡ ニッポンを変えた経営者たち 小倉昌男 ヤマト運輸』(2011年3月31日、NHKエンタープライズ)JAN 4988066176265

[匿名さん]

#9312024/11/24 15:30
SP京都FC(エスピーきょうとエフシー、SP Kyoto Football Club)は、日本の京都府向日市にあった社会人サッカークラブ。登録チーム名は「SP京都フットボールクラブ」。


【SP京都FC】

🔳原語表記
SP京都フットボールクラブ
🔳呼称
SP京都FC
🔳愛称
プリントダイナマイト
🔳クラブカラー

🔳創設年
1986年
🔳解散年
2015年
🔳ホームタウン
京都府向日市
🔳ホームスタジアム
・京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場
・京都府立山城総合運動公園太陽が丘陸上競技場他
🔳収容人数
西京極:20,588
太陽が丘:7,000
🔳代表者
木下宗昭


🔳概要

1986年に佐川印刷のサッカー部として創部。2000年に関西サッカーリーグ、2003年に日本フットボールリーグ(JFL)へそれぞれ昇格した。また、2014年より登録チーム名を「佐川印刷京都サッカークラブ」、呼称を「佐川印刷京都」へ変更。さらに2015年より「SP京都フットボールクラブ」(呼称:SP京都FC)に名称変更した。

[匿名さん]

#9322024/11/24 15:31
🔳歴史

・1986年
佐川印刷サッカー部として創部し、1998年の京都府1部リーグ昇格を機に本格的に強化を開始。

・2000年
関西サッカーリーグへ昇格。全国社会人サッカー選手権大会に初出場して準優勝。

・2002年
関西サッカーリーグで優勝。全国地域リーグ決勝大会で準優勝。JFL15位の静岡産業大学との入れ替え戦にPK戦で勝利。天皇杯全日本サッカー選手権大会に初出場し、1回戦でTDK(現:ブラウブリッツ秋田)を破り大会初勝利も挙げた。

・2003年
日本フットボールリーグ(JFL)へ昇格。リーグ戦は入れ替え戦圏内の15位で終えたが、レギュレーション変更によりJFLに残留した。

・2006年
ヴィッセル神戸などの元監督の松永英機が監督に就任したが、成績が振るわず8月31日付で退任、強化部長の田中克季が監督に就任(正式な監督としての活動は9月3日の京都FAカップ京都サッカー選手権大会決勝からであり、前日である9月2日の同カップ準決勝は当初の「強化部長」の肩書で指揮)。

・2009年
水戸ホーリーホックから移籍した塩沢勝吾が17得点を挙げてチーム初のJFL得点王を獲得。

・2010年
チームカラーを従来の紺から赤へ、ユニフォームも赤へ変更。成績は前年を上回る6位となった。シーズン後に塩沢が松本山雅FCへ移籍した。

・2012年
カターレ富山より江添建次郎、大分トリニータより池田達哉、京都サンガF.C.より下畠翔吾などDFを中心に補強。第4節から第10節まで7試合連続無失点記録のJFLリーグ新記録を達成した。新卒入団としては、近畿大学から藤本憲明が新加入している。

[匿名さん]

#9332024/11/24 15:33
・2013年
第27節から最終の第34節までチーム新記録のリーグ戦8連勝で終え、最高タイの6位でシーズンを終えた。

・2014年
FC岐阜元監督の辛島啓珠が監督に就任。また、京都サンガF.C.と業務提携を結び、その一環としてサンガでコーチを務めていた森岡隆三がヘッドコーチに就任した。1stステージは勝ち点27で3位だったが、2ndステージは勝ち点34でステージ優勝となった。年間チャンピオンをかけたチャンピオンシップは1分1敗の成績でリーグ初優勝は成らなかった(詳細は当項目を参照)が、JFL昇格後最高成績となる2位でシーズンを終えた。シーズン終了後に監督の辛島が契約満了で監督を退任した。

・2015年
チーム名を「佐川印刷京都FC」から「SP京都FC」に変更し、ロゴとエンブレムを一新。2014年に現役を引退した大槻紘士が監督に就任した。
9月30日、「佐川印刷の社内構造の見直し」と「諸般の事情」との理由で、2015年シーズン終了をもってJFLを退会する旨の届けを申請、10月29日のJFL理事会で承認された。
JFL退会時点ではチームの存続について「今後議論する」とし、京都府サッカー協会からも京都府社会人リーグ1部への参加を打診されていたが、最終的に佐川印刷が2016年の社会人チーム登録を見合わせることになり、活動凍結状態となった。2015年シーズンの選手23人のうち18人が他チームに移籍、5人は現役引退し社業に専念した。

[匿名さん]

#9342024/11/24 15:34
🔳タイトル・表彰
クラブ
・日本フットボールリーグ
準優勝:1回(2014)
・関西サッカーリーグ
優勝:1回(2002)
準優勝:1回(2001)
・京都FAカップ京都サッカー選手権大会(兼天皇杯全日本サッカー選手権大会京都府予選)
優勝:9回(2002, 2004, 2005, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2013)
準優勝:5回(2001, 2006, 2012, 2014, 2015)


🔳個人
日本フットボールリーグ
・得点王
2009年:塩沢勝吾
・ベストイレブン
2009年:塩沢勝吾
2014年:中野圭、高橋弘章
・最優秀監督
2014年:辛島啓珠


🔳その他
日本フットボールリーグ
・フェアプレー賞:2010年
・国民体育大会サッカー競技:4回
2005年、2006年、2008年、2012年(いずれも京都府代表として出場)


🔳ユニフォーム

・チームカラー


◆ユニフォームスポンサー

・胸:佐川印刷
・背中:ジャパンニューペーパー
・袖:エスピーメディアテック
・パンツ:エスピータック

※胸以外の3社は全て佐川印刷のグループ会社


🔳ユニフォームサプライヤー
・アンブロ


🔳スタジアム
・京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場(京都府京都市)
・京都府立山城総合運動公園太陽が丘陸上競技場(京都府宇治市)
・SGホールディングスグループ健康保険組合守山陸上競技場(滋賀県守山市)


🔳練習場
エスピータック亀岡サッカーグラウンド(京都府亀岡市)

[匿名さん]

#9352024/11/27 02:03
富士電機株式会社(ふじでんき、英: Fuji Electric Co., Ltd.)は、東京都品川区大崎に本社を置く、日本の大手電機メーカーである。古河機械金属(旧・古河鉱業)・古河電気工業・富士通とともに古河グループ(古河三水会)の中核企業である。重電5社(日立製作所・東芝・三菱電機・富士電機・明電舎)の一角。日経平均株価の構成銘柄の一つ。


🔳概要

大型電気機器を主力製品とする日本の大手重電メーカーの1社である。 同業他社には、日立製作所、東芝、三菱電機、明電舎などがある。

古河電気工業とドイツのジーメンス社(当時の呼称。現在は日本語圏内ではシーメンスと読むようになった)が資本・技術提携を行い設立した会社である。そのため、現在も古河グループで形成される古河三水会の中軸となる10社の理事会社のうちの1社となっている。

中心となる富士電機機器制御株式会社 (FCS)他、子会社116社及び関連会社21社を傘下に持つ。

2003年(平成15年)10月より持株会社制を導入し、「富士電機ホールディングス株式会社」と社名を変えていたが、2011年(平成23年)4月に廃止し、現在の社名に戻した。

2007年(平成19年)シーズンより、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)ジェフユナイテッド市原・千葉のオフィシャルパートナーとなっており、ユニフォームの胸部にロゴが掲出されている。

[匿名さん]

#9362024/11/27 02:04
純粋持株会社化を翌年に控えた2002年(平成14年)より、Fuji Electric の頭文字「Fe」を図案化したグループシンボルマークに変更、グループステートメント「e-Front runners」を組み合わせたグループブランドを導入した。2012年7月からは、シンボルマークはそのままで、「e-Front runners」に変わるブランドステートメント「Innovating Energy Technology」を導入した。


🔳富士通との関係

1935年(昭和10年)6月20日に電話部所管業務を分離し、現在の富士通になる富士通信機製造株式会社が独立している。すなわち、富士電機は富士通の出身母体である。

その後、富士通はファナックやニフティなど優良企業を多数輩出している。富士通および系列会社とは、互いに筆頭株主、役員を相互に出し合う、同等の取引・パートナー関係、共同で新会社を設立するなど、兄弟会社のような親密な関係が続いていたが、平成時代に入りこうした株式持ち合いが問題になったことから、取締役相互派遣停止を経て、2017年(平成29年)2月に株式相互保有方針の見直しを行い、富士電機保有の富士通株式の売却を発表した(2月8日実施)。富士通保有の富士電機株式も2017年(平成29年)9月29日付で売却され、古河グループであること以外の関係性は弱くなった。実際に両社はプロサッカーにおいてそれぞれ別のチームを支援している。

[匿名さん]

#9372024/12/01 14:56
株式会社東芝(とうしば、英語: TOSHIBA CORPORATION)は、エネルギーシステム、インフラシステム、電子機器、デジタルソリューションなどを主要事業とする日本の電機企業である。2015年の粉飾決算事件をきっかけに経営危機に陥り、大規模な事業再編が行われた。2017年に事業の分社化・子会社化を完了させているが、電池事業 などの部門は残存しており事業持株会社となっている。2023年12月に上場廃止となった。


🔳種類
株式会社
🔳機関設計
指名委員会等設置会社
🔳市場情報
東証プライム 6502
1949年5月16日 - 2023年12月20日
🔳名証プレミア 6502
1949年5月16日 - 2023年12月20日
LSE TOS
OTC Pink TOSBF
🔳本社所在地
日本
〒105-8001(浜松町本社事務所)
東京都港区芝浦一丁目1番1号
浜松町ビルディング
北緯35度39分5.8秒 東経139度45分27.9秒
〒212-8585(川崎本社事務所)
神奈川県川崎市幸区堀川町72番地34
ラゾーナ川崎東芝ビル
🔳本店所在地
〒105-8001
東京都港区芝浦一丁目1番1号
浜松町ビルディング
🔳設立
1904年6月25日
(株式会社芝浦製作所)
🔳業種
電気機器
🔳法人番号
2010401044997
🔳事業内容
エネルギー
インフラ
電子デバイス
デジタルソリューション
(主な製品も参照)
🔳代表者
島田太郎(代表取締役社長執行役員CEO)
🔳資本金
2008億69百万円
(2023年3月31日現在)
🔳発行済株式総数
4億3313万株
(2023年3月31日現在)

[匿名さん]

#9382024/12/01 14:57
🔳売上高
連結:3兆2858億円
(2024年3月期)
単体:944億3000万円
(2023年3月期)
🔳営業利益
連結:1105億49百万円
単体:△348億65百万円
(2023年3月期)
🔳純利益
連結:1265億73百万円
単体:2307億71百万円
(2023年3月期)
🔳純資産
連結:1兆3370億67百万円
単体:7018億34百万円
(2023年3月期)
🔳総資産
連結:3兆5392億68百万円
単体:1兆6835億66百万円
(2023年3月期)
🔳従業員数
連結:10万5331人
(2024年3月31日現在)
🔳決算期
3月末日
🔳会計監査人
PwC Japan有限責任監査法人
🔳主要子会社
東芝インフラシステムズ
東芝プラントシステム
東芝エネルギーシステムズ
東芝デバイス&ストレージ
東芝デジタルソリューションズ
東芝テック(52.4%)
🔳関係する人物
初代田中久重(電信機工場創業者)
三井高泰(芝浦製作所初代会長)
藤山雷太(芝浦製作所支配人)
藤岡市助(合資会社
白熱舎創業者)
立川勇次郎(合資会社
白熱舎共同創業者)


東京都港区芝浦の浜松町ビルディング(旧東芝ビルディング)に浜松町本社事務所を、神奈川県川崎市幸区のラゾーナ川崎東芝ビルに川崎本社事務所を置く2本社体制である。
社名は、旧社名の「東京芝浦電気」の略である。

[匿名さん]

#9392024/12/01 14:59
東芝は製品の製造からサービスに至るまでの間に、多岐に渡る子会社や関連会社を形成しており、東芝グループの中核に位置する巨大企業である。東芝はかつてテレビや家電製品、携帯電話、パソコンなど消費者向け製品でも事業展開していたが、現在はコンスーマ商品から撤退し電子部品(HDDなど)・原子炉・重電機・軍事機器・鉄道車両など、企業間取引による重工業分野へ重点的に事業展開をしている。

冷蔵庫・洗濯機・掃除機・電子レンジ・炊飯器など、家電製品の国産化第1号の製品が多く白物家電の日本におけるパイオニアであった。しかし2015年の粉飾決算による経営不振発覚を契機に、主力事業としていたBtoC事業の白物家電事業、テレビ、パソコン事業及び医療機器事業、メモリ事業を中国企業などに売却し、社会インフラを中心とするBtoB事業を中心としたメーカーに転換した。

電機メーカーとしては、最初に委員会設置会社に移行した企業でもある(移行した2003年当時は、委員会等設置会社。現在の指名委員会等設置会社)。委員会設置会社となってからは、会長は代表権を有さない取締役会長となっていたが、2016年6月より代表執行役会長を新設した。

[匿名さん]

#9402024/12/01 15:00
歴代の社長ら役員は、財界活動に積極的であることも知られている。石坂泰三(第4代社長)と土光敏夫(第6代社長)が経済団体連合会会長に就任し、岡村正(第14代社長)が日本商工会議所会頭に就任するなど、財界四団体のトップを輩出している。そのほか、西室泰三(第13代社長)は日本経済団体連合会のナンバー2である評議員会議長に就任し、佐々木則夫(第16代社長)が現役社長の頃から内閣府経済財政諮問会議議員に就任するなど、日本の政財界に強い影響力を及ぼしている。特に石坂泰三は「財界総理」との異名を持つほどの影響力を誇り、東芝が財界で重きをなす礎を築いた。

東芝は、三井グループの構成企業であり、二木会(三井グループ傘下各社の社長会)、月曜会(三井グループ各社の役員間の相互親睦と情報交換を目的とする会合)、三井業際研究所、綱町三井倶楽部に加盟している。

2021年4月7日、イギリスの投資ファンド・CVC キャピタル・パートナーズからの買収が提案されていることが報じられた。これが実行されれば、東芝の株式は上場廃止となる。この件への対応などをめぐり、幹部級社員の半分が車谷暢昭社長の不信任を考えているとの社内調査結果が報道機関にリークされ[7]、14日午前の臨時取締役会で同社長は辞任を表明した。

2023年3月23日15時頃、日本国内の投資ファンドである日本産業パートナーズ(JIP)が設立した特定目的会社である「TBJH株式会社」(後のTBJH合同会社)による非上場化を前提としたTOB形式での買収案の受け入れを取締役会で決議したと日本経済新聞などのメディアが一斉に報じ、同日午後7時30分頃に買収案の受け入れとTOBの実施について同社から正式に発表があった。

[匿名さん]

#9412024/12/01 15:02
これを受け東京証券取引所と名古屋証券取引所は、同社の株式を上場廃止の恐れがある「監理銘柄」に指定した。TBJH合同会社は1株4620円でTOBを実施し、同年9月27日をもって株式の78.65%を取得することとなった。同年12月20日をもって株式上場を廃止した。

2024年5月16日、 国内のグループ全体の社員を対象に最大4千人の早期希望退職を募ると共に本社機能を事業子会社や研究開発部門の拠点がある川崎市に移転、集約することを発表した

🔳 創業

創業者の、初代田中久重(1799年 - 1881年)は、からくり人形「弓曳童子」や和時計「万年時計(万年自鳴鐘)」などを開発したことから、「からくり儀右衛門」として知られる。初代久重が東京・銀座に工場(諸器械製造所)を興し、弟子であり養子の田中大吉(後の2代目久重(1846年 - 1905年)が東京・芝浦に移転させた。この工場の技術者の中に、後の沖電気工業創業者・沖牙太郎や池貝創業者・池貝庄太郎、宮田工業創業者・宮田栄助らがいた。


🔳 沿革

1875年
初代田中久重が東京・銀座に電信機工場を創設。
1882年
田中大吉(後の2代目田中久重)が東京・芝浦に「田中製造所」を設立。
1890年
藤岡市助、三吉正一が東京・京橋に「合資会社白熱舎」を創設、日本で最初の一般家庭向け白熱電球の生産を開始する。追従する他社を寄せ付けず市場をほぼ独占していた。
1893年
三井財閥より藤山雷太を招聘し、田中製作所から「芝浦製作所」として再スタート。

[匿名さん]

#9422024/12/01 15:03
1896年
合資会社白熱舎が「東京白熱電燈球製造株式会社」に社名変更。
1899年
東京白熱電燈球製造株式会社が「東京電気株式会社」に社名変更。
「ゼネラル・エレクトリック」も参照
1904年
芝浦製作所が会社組織となり「株式会社芝浦製作所」設立。
1939年
重電メーカーの株式会社芝浦製作所が軽電メーカーの東京電気株式会社を合併し、東京芝浦電気株式会社に商号変更。
1949年
石坂泰三が社長に就任。株式上場。
1950年
過度経済力集中排除法の適用を受け、網干工場が西芝電機として分離独立。
5月 筆記体の“Toshiba”マーク(東芝傘マーク、傘ロゴ)を制定。全東芝を表す場合と、家庭電気器具に使用。

1956年
12月 ラジオ東京テレビ(KRテレビ。現在のTBSテレビ)で東芝単独提供によるテレビドラマ「東芝日曜劇場」の放送を開始。
1960年
レコード会社 東芝音楽工業(→ 東芝EMI株式会社 → EMIミュージック・ジャパン → ユニバーサル ミュージック合同会社 EMIレコーズ・ジャパンレーベル → ユニバーサル ミュージック合同会社 EMI Rレーベル)を設立。
1962年
電球の、東京電気以来の「マツダ」ブランドを廃止(標準電球除く)、「東芝ランプ」に統一。
1965年
土光敏夫が社長に就任。

1968年
12月10日 府中工場の従業員4523人に支給されるボーナスが、日本信託銀行国分寺支店の行員が工場へ運搬する途中に奪取される(三億円事件)。

[匿名さん]

#9432024/12/01 15:04
1969年
2月「東芝傘マーク」を書きやすい形状に部分修正し、方形の背景に白抜き表示を開始。 このロゴは平成初期頃まで一部家電に現在の東芝ロゴと併用されていた。
10月 フジテレビ系列で東芝一社提供によるテレビアニメ『サザエさん』の放送を開始。
11月 「東芝傘マーク」が世界の一部の国で誤読を招いた(「Joshiba」と勘違いされた)ことから、現在の「東芝ロゴ」(サンセリフ系)を扁平(平体)にしたような形状のロゴの併用を開始。
1975年
創業100周年、家電製品で「東芝新世紀シリーズ」を販売。
1976年
岩田弌夫が社長に就任、リストラの開始(家電製品の総発売元だった東芝商事を、地域別に分割して地域内販社と統合し再編=現在は東芝コンシューマ・マーケティングに再統合=など)。
1979年
英文社名表記を「Tokyo Shibaura Electric Co., Ltd.」から「TOSHIBA CORPORATION」に変更、同時に現在の“TOSHIBA”ロゴの原型(横長のゴシック体)が広告用に併用され始める。
1981年
佐波正一が社長に就任。
1982年
1月 超LSI研究所設置・クリーンルーム建設に230億円の設備投資決定。
1983年
10月 CIのロゴマークを現在の“TOSHIBA”ロゴへ小変更し、順次統一(横長から縦横同じ幅になった)。ただし、製品への新CIの採用は1984年4月以降に発売された製品に順次採用された。
1984年
4月 株式会社東芝に商号変更、後に本社機能を東芝ビルディング(港区芝浦)に統合。
世界初のセレクトルーム付き冷蔵庫「優凍生セレクト」発売。西川きよしをCM起用し、大ヒット。
1987年
東芝機械ココム違反事件発覚。

[匿名さん]

#9442024/12/01 15:08
1990年
4月 「東芝グループ経営理念」および「東芝グループスローガン『人と、地球の、明日のために。』」を制定。
1992年
NAND型フラッシュメモリ技術を市場の拡大のためとしてサムスン電子に供与[注 2][17]。
1998年
テレビアニメ「サザエさん」の一社提供を終了。ただし、提供自体はその後も継続。
1999年
ゼネラル・エレクトリックからシックス・シグマの手法を導入、社内カンパニー制採用。東芝クレーマー事件発生。
2000年
登記上の本店だった川崎事業所(神奈川県川崎市幸区堀川町)を閉鎖、浜松町の東芝ビルディングが本店となる。
2002年
9月 東芝日曜劇場の東芝一社提供を終了し、同番組の提供を一時降板。7年後に復帰した。
2003年
1月 東芝の一部門より分社化し株式会社駅前探険倶楽部(現在の駅探)を設立。また、長きに渡って親しまれた東芝傘マークが家電製品、重電製品を問わず段階的に廃止された。
2005年
6月 西田厚聰が社長に就任、積極経営に転ずる。
2006年
1月 イギリスの英国核燃料会社(BNFL)から、ウェスティングハウス・エレクトリックを54億ドル(約6370億円)で買収。加圧水型原子炉の技術を手に入れ、沸騰水型原子炉を含めた原子炉装置の世界三大製造メーカーの一つとなる。
5月11日 西田社長が3年間で2兆の設備投資を行うことを宣言、JPモルガンに「買い物が多すぎる」等と評される。
10月 「TOSHIBA Leading Innovation>>>」を柱とするコーポレートブランドを制定。

[匿名さん]

#9452024/12/01 15:09
2007年
6月 東芝EMI全株式を、イギリスのEMIグループに売却し音楽事業から撤退。売却後の社名はEMIミュージック・ジャパン(現・ユニバーサル ミュージック合同会社)。
9月 銀座東芝ビルを東急不動産に1610億円で売却を発表。
12月 日本企業で初めて、ワン・タイムズスクエア・ビルの最上部にブランド広告を掲示。
2008年
2月 HD DVD事業からの撤退を表明。現時点から生産規模を縮小し、3月末で正式に撤退する。これを受け、第3世代光ディスク(当時の「次世代DVD」)規格はBlu-ray Discへの統一が決定した。
4月 子会社の東芝ライテックと共に、2010年を目処に、一般白熱電球の製造・販売中止を発表。
11月 リーマン・ショック後、財政状態悪化により東芝ビルディング(本社ビル)や梅田スカイビルを所有する東芝不動産を、野村不動産ホールディングスに1500億円で売却。
2009年
7月 佐々木則夫が社長に就任。
10月 テレビドラマ『日曜劇場(旧・東芝日曜劇場)』の提供を7年ぶりに再開。
11月10日 私的録音録画補償金制度を巡って、私的録画補償金管理協会から提訴される。
2010年
3月 同年4月1日より住宅用太陽光発電事業に参入すると発表。
3月 1890年から続いた白熱電球の製造・販売のうち、一般用途向け白熱電球製造を日本で最初に終了。
2011年
8月 一部メディアにより、携帯電話事業を富士通に売却、携帯電話生産からの撤退が報じられる。
11月30日 半導体生産拠点の北九州工場(福岡県北九州市)、子会社の浜岡東芝エレクトロニクス(静岡県御前崎市)、東芝コンポーネンツ(千葉県茂原市)の3工場を2012年9月までに閉鎖し、半導体事業再編を図ることを発表。

[匿名さん]

#9462024/12/01 15:11
2012年
3月下旬 ウェスタン・デジタルに東芝ストレージデバイス・タイ社を譲渡し、ウェスタン・デジタルからハードディスク製造設備の一部を取得。
4月1日 産業革新機構が主導し、東芝、ソニー、日立のディスプレイ部門の株式が譲渡され誕生した(株)ジャパンディスプレイが創業。なお、東芝は2016年末にジャパンディスプレイの全保有株式を売却。
4月 携帯電話事業を富士通に売却。
4月 経済産業省の補助事業「エネルギー管理システム導入促進事業」におけるBEMSアグリゲータに登録される。
11月8日 最高裁判所が私的録音録画補償金制度について、東芝の訴えを認め、私的録画補償金管理協会の主張を棄却。東芝の全面勝訴で補償金問題が確定判決となった。
2013年
6月 田中久雄が社長に就任。

[匿名さん]

#9472024/12/01 15:12
2015年
5月 決算発表延期および株配当見送りを発表。
7月20日 粉飾決算を調査した第三者委員会報告書の全文を公表。「チャレンジ」と称する粉飾決算事件により、田中久雄社長や前社長の佐々木則夫副会長、その前の社長の西田厚聡相談役ら直近3代の社長経験者を含む経営陣9人が引責辞任し、取締役会長の室町正志が代表執行役社長を兼任。
9月14日 東京証券取引所が東芝株を「特設注意市場銘柄」に指定した。
11月12日 原子炉関連を担当する東芝の子会社ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニー(WEC)の巨額減損処理を、日経ビジネスがスクープし、東芝も11月13日に、プレスリリースにて日経ビジネスの報道事実を認めた。
11月17日 日経ビジネスのスクープを受け、東芝がウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーの「のれん代減損」について説明する。
12月4日 イメージセンサーを生産する大分工場内の一部の半導体製造関連施設、設備をソニー及び同社の完全子会社であるソニーセミコンダクタに対する譲渡契約を締結。

[匿名さん]

#9482024/12/01 15:13
2016年
3月17日 東芝メディカルシステムズの全株式をキヤノンに売却。
4月1日 社内カンパニーであったクライアントソリューション社の特許ライセンス関係を除くパソコン事業を会社分割により分社化、東芝情報機器に承継。東芝情報機器株式会社は東芝クライアントソリューション株式会社に商号変更。大分工場のシステムLSI事業の一部を岩手東芝エレクトロニクス株式会社に承継。岩手東芝エレクトロニクス株式会社は株式会社ジャパンセミコンダクターに商号変更。
5月12日 決算発表において、日本の事業会社として過去最大となる7,191億円の営業赤字と、東芝として過去最悪となる4,832億円の最終(当期)赤字となった。
6月22日 粉飾決算事件を受けて、会計監査人が新日本有限責任監査法人からPwCあらた有限責任監査法人に交代。
6月30日 東芝ライフスタイルから映像事業を会社分割し、東芝映像ソリューション(前日に東芝メディア機器から商号変更、現・TVS REGZA)に承継すると同時に、白物家電事業を残した東芝ライフスタイル株式の80.1%を、約514億円で中華人民共和国の美的集団(ミデアグループ)に譲渡。
9月 東芝山口記念会館を日本テレビホールディングスに売却。
12月19日 東京証券取引所が「特設注意市場銘柄」の期間継続を決定。

[匿名さん]

#9492024/12/01 15:14
2017年
1月20日 ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニー(WEC)による原子力関連部品メーカー『ニュークリアーロジスティクス』の買収計画を断念。
2月14日 ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニー(WEC)の「アメリカ合衆国での原子力発電所建設事業における『のれん代』計上額」における会計処理を巡って不適切な対応があったという内部通報を受け、PwCあらた有限責任監査法人の承認が降りなかったため、第3四半期決算の発表延期を財務省関東財務局に申請。決算発表に代えて記者会見が開かれた。決算発表延期は2014年度決算に続き2度目。
2月15日 東芝会長である志賀重範が会長職を辞任。
3月14日 過去の決算にも不正の可能性があることから、調査を続行するため2017年4月11日まで第3四半期決算発表を再度延期すること財務省関東財務局に申請し、認められる。4月11日に有価証券報告書が提出できない場合は上場廃止となる。
3月15日 東京証券取引所と名古屋証券取引所が、東芝株を「特定注意銘柄」から「監理銘柄」に格上げ指定。
3月29日 子会社ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーが連邦倒産法第11章をニューヨーク州連邦裁判所に申請した。負債総額は98億1,100万米ドル。
3月30日 臨時株主総会を千葉市の幕張メッセで開催し、半導体メモリ事業の売却が、株主の3分の2以上の賛成により、可決された。

[匿名さん]

#9502024/12/01 15:16
4月1日 半導体メモリ事業を東芝メモリに分社化。
4月11日 第3四半期決算を発表したが、PwCあらた有限責任監査法人は四半期レビュー範囲制約による「結論不表明」とし、東証一部上場企業では極めて異例の決算発表となった。この日の記者会見では「内部統制は有効」と主張した。
5月15日 2016年度の決算発表が、PwCあらた監査法人の承認を得ることが出来ず、通常の「決算短信」ではなく、東芝内部で作成した「2016年度通期業績見通しに関するお知らせ」という独自のプレスリリースを公表するに留まった。債務超過に陥ったことで、東芝株は2017年8月1日付で東証2部に降格する事になった。ウエスタン・デジタルは、東芝の半導体事業売却が「合弁契約に反している」として国際仲裁裁判所に調停を申し立てた。
7月1日 社内カンパニーであったインフラシステムソリューション社・ストレージ&デバイスソリューション社(東芝メモリ株式を除く)・インダストリアルICTソリューション社(一部除く)を会社分割により分社化。インフラシステムソリューション社は東芝電機サービス株式会社に承継され、東芝インフラシステムズ株式会社へ商号変更。ストレージ&デバイスソリューション社は東芝デバイス&ストレージ株式会社に承継。インダストリアルICTソリューション社は東芝ソリューション株式会社に承継され、東芝デジタルソリューションズ株式会社へ商号変更。
7月10日 8月1日に東京証券取引所2部へ降格することに伴い、日経平均株価構成銘柄から除外されることが、日本経済新聞社より発表された。

[匿名さん]

このスレッドは1000件に達しました。これ以上書き込み出来ません。





🌐このスレッドのURL





📑関連掲示板