<福山SCCが持つ熱量とビジョン。地域一丸で「福山創生」を目指す>
4/25(木) 11:02配信
文 ジェイ(@RMJ_muga)
■異色の対決となった広島の天皇杯県代表決定戦
4月21日(日)に中国地方各地で天皇杯県代表決定戦が行われ、各県の代表が下記のとおり決定した。
鳥取:ガイナーレ鳥取(J3)
島根:松江シティFC(JFL)
岡山:環太平洋大学(地域L)
広島:SRC広島(地域L)
山口:徳山大学
いずれの県も有力候補が順当に勝ち上がった印象だが、今回はその中で異色の対決となった広島県代表決定戦についてリポートする。
決勝に駒を進めた一方は中国地方の雄、SRC広島。2016年には中国地域リーグ優勝を飾っており、昨年、一昨年も3位の好成績を残している強豪だ。3年連続で天皇杯本戦にも出場しており大本命といえる。
そしてもう一方のブロックから勝ち上がったのが、県リーグ2部所属の福山SCC(福山スポーツコミュニティクラブ)である。
県2部ということは【J1>J2>J3≧JFL>地域リーグ>都道府県リーグ】というピラミッドからすると7部相当となる。そんなチームが格上の廿日市FC(地域リーグ)や福山大学といった強豪を破り堂々の決勝進出を果たしたことが、下部リーグファンの間で密かな話題となっていた。
どんなチームなのかと気になって現地に足を運んでみたが、ウォーミングアップの時点ですでに、ただならぬ雰囲気が感じられた。
[匿名さん]
まず選手の姿勢が良い。ジャンプも素軽く、ヘディングなど空中での姿勢制御も安定しているように見える。プロフィールの身長/体重や実際の体格が、県リーグとは思えない体つきをしている。ロングキックやロンド(鳥かご)の精度にしても、およそ県リーグのレベルとは思えなかった。予備知識なしで「いま練習しているのはJ2のチームです」と紹介されたら、疑いも無く信じてしまったかもしれない
■県2部の福山SCCが醸し出す不思議な魅力
試合開始からSRC広島が激しくプレッシャーをかける。SRC広島は質実剛健ないわゆる「社会人の強豪」チームで、並みのチームであればプレスに圧倒されそのまま飲み込まれてしまうところなのだがその広島が思うようにボールを奪えない。福山SCCは個々のキープ力が異様に高く、複数に囲まれても何とかしてしまう。特に14番の平山諒、10番の若宮健人などは2、3人を剥がして展開する体の使い方と技術を発揮し、8番の藤田啓介は時折セルヒオ・ブスケッツと見紛うようなプレーを披露していた
下部リーグからの快進撃ということで、試合前に想像していたのは強固な組織力だったり、尖った戦術を持ち合わせているチームだった。しかし実際は真逆というか、いびつではあるが強烈な「個」を持った集団だった。県3部から県2部に昇格した今季は選手全員が入れ替わっているらしく、チーム始動からわずか3カ月弱。そのため組織力というものはあまり感じられずに脆さも見せるが、選手一人一人のインパクトは大きかった。チャンスの数では完全にSRC広島のペースといっていい試合展開なのだが、福山SCCはとにかくファーストサード・ミドルサードでなかなかボールを失わない。プレスがまったくはまらないため、優勢なはずのSRC広島の選手が終始イライラしているという、不思議な試合展開が続いた
[匿名さん]
攻守にまだまだ組織整備がなされてないため、高いテクニックを誇りつつもファイナルサードでは「各人のとんちの噛み合い具合」頼みとなり決定機は少なめ。中盤の要である高田健吾を累積停止で欠いていたこともあり、守備ではカウンターで一気にゴール前まで迫られるなどチャンスと被チャンス数が割に合っていない感じではあったが、各選手のキープやターン、サイドチェンジなどの技術は十分に見応えがある。自陣でプレッシャーがある状況でも躊躇なくつなぐ姿勢はボラ・ミルティノビッチ時代の中国代表を彷彿させた。(例えが古くて申し訳ない。。。)
後半6分にはディフェンスラインのギャップを埋められずに、クロスからついに失点。その後も何度もとどめを刺されそうになるが奇跡的に持ちこたえ、最後はあわや同点という場面を何度も作ってみせた。最後まで不思議な、しかし魅力のあるチームだった。
■目指すは2022年のJリーグ参入
試合前には、サポーターとクラブスタッフの打ち合わせの様子も見学させていただいた。事前に集まったユニフォームサポはわずか5名(県2部でユニフォームを持ったサポーターがいるのにも驚きだが)。しかしながら、入念な打ち合わせからは人数とは関係ない熱意が感じられ、最後は「世界一カッコいい応援を目指しましょう!」と気勢を上げた。
試合開始時刻が近づくにつれ観客席も続々と埋まり始め、気が付けば福山側の応援席には約200名が詰めかけていた。決勝の晴れ舞台とはいえ、福山市から会場である広島広域公園までは高速道路を使っても車で1時間以上かかる距離だ。県2部のクラブにこれだけの応援が駆けつけるというのは異例と言ってよく、福山SCCが地域に確かな根を張っていることの証左だろう。
[匿名さん]
試合後に岡本佳大GMに話を聞くことができたが、その言葉からは確かなビジョンが感じられた。取り組み事例を挙げると、Jリーグを目指す社会人クラブはスポンサー企業に選手を受け入れてもらって給料を肩代わりしてもらう形が一般的だが、これはスポンサー企業にとっては負担であり、リスクも存在する。そこで福山の場合は、自前で事業を起こして選手にそこでの働き口を斡旋する、というスキームを構築しているという。
練習についても、社会人チームに多く見られる夜間練習ではなく、あくまで「選手」として午前に練習を行い、午後に仕事をするというサイクルを取っている。県2部というカテゴリーに不似合いな技量の選手たちも、「独自のコネクションで志のある選手、戦える選手をスカウトしている」という辣腕ぶりだ。
戦力値が高すぎるゆえに通常のリーグ戦では強化につながらないのではないか? という疑問も湧いたが「それについてはリーグ戦での1試合ごとの意識を高く持つとともに、上位カテゴリーとのトレーニングマッチを多く組んでいくことを計画しています。県1部、地域リーグに上がり、そして地域決勝という過酷な舞台を勝ち抜けるチームを作り上げるところまで長期的に考えています」と、先の展開までしっかりと見据えられている。
岡本GMはさらに「将来的にはJ1まで上がれなくても、J2・J3で毎週数千人が集まる盛り上がりを福山に作りたい。福山市とともに成長していきたいんです」と語ってくれた。福山SCCは1年毎にカテゴリーを駆け上がっての2022年Jリーグ参入を目標に掲げているが、今日の熱量ならば本当にそのとおりに行くかもしれない、そう思わせるものがあった。
[匿名さん]
福山市は人口46万人を抱える中核都市ながら、地理的要因と独自の文化性からカープ、サンフレッチェ、ファジアーノのいずれもが取り込みきれていないプロスポーツ空白地だ。内から発展するほうが可能性が高いかもしれない。実際にはまだ県2部リーグの1クラブに過ぎないが、今後の動向に注目していきたい。
【一般社団法人福山スポーツコミュニティクラブ】
2015年の「福山にプロサッカークラブをつくろう会」発足からわずか1年で法人化。2017年にはサッカートップチームを立ち上げ県リーグに昇格。2018年は県3部リーグを優勝して2部に昇格した。2022年のJリーグ参入と「スポーツを通じたまちづくり運動を広め、福山を活性化させること」を目標に掲げている。
[匿名さん]
過去の栄光より現在だろう。そうだ!現在戦ってみたらどっちが勝つだろうか?やってみたら?
[匿名さん]
岡田武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役、日本エンタープライズの社外取締役、城西国際大学特任教授、日本サッカー協会参与(名誉役員)。
■所属クラブ
1972年 - 1974年 天王寺高校
1976年 - 1979年 早稲田大学
1980年 - 1990年 古河電工
■代表歴
・国際Aマッチ 24試合 1得点(1980-1985)[2]
・アジア競技大会(1982)
・ロサンゼルスオリンピック予選
・ワールドカップメキシコ大会予選
選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。古河電気工業サッカー部(現・ジェフユナイテッド千葉)でプレーし、サッカー日本代表として国際Aマッチ24試合に出場
現役引退後は指導者の道に進み、サッカー日本代表のコーチを務めていた1997年、加茂周の更迭に伴って監督に昇格。日本代表を初のFIFAワールドカップ出場に導き、1998 FIFAワールドカップ本大会でも指揮を執った。2007年から再び日本代表の監督を務め、2010 FIFAワールドカップでベスト16。クラブチームではコンサドーレ札幌、横浜F・マリノス、中国の杭州緑城の監督を歴任した。横浜FMでは2003年、2004年とJ1リーグ連続優勝を果たした。
「岡ちゃん」の愛称で知られる。眼鏡がトレードマークで、現役時代には眼鏡を外さずプレーしていたこともある(但し、現在一般に公開されている現役時代の写真等では眼鏡を外しているものも少なくない)。
[匿名さん]
■幼年期〜大学時代
大阪市生まれ。帝塚山学院小学校時代は、大阪球場を本拠としていた南海ホークスが運営する「南海ホークス子供の会」に入会して野球に明け暮れ、ホークス応援のために大阪球場へと通う野球少年だった。ホークスではファースト、学校のクラブではピッチャーであった
中学に進学すると、野球部の上下関係の厳しさを目の当たりにして自分には向いていないと考え、当時1968年メキシコシティーオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中するようになる。中学時代には「ドイツに行ってプロになる」と言って両親を困らせ、両親から相談を持ちかけられた産経新聞運動部長賀川浩に諭されて思いとどまる。
大阪府立天王寺高等学校入学後もサッカーを続ける。同校は進学校でありサッカーではまったく実績がない高校だったが、岡田は3年時にユース代表に抜擢され(高校生で選出された者は岡田を含め3名のみ)、クウェートで開催されたアジアユース選手権に出場した。天王寺高では監督は試合の時しかいなかったため、日々の練習メニューは主将である岡田が考え実践していた。
一年間の浪人生活を経て、早稲田大学の政治経済学部に入学。サッカー部(ア式蹴球部)の部長である堀江忠男からは「おそらく一年間浪人して勉強したとしても、合格するのは無理だろう。私が推薦するから、体育専攻を受験するようにしなさい」という手紙を受け取ったが、それがかえって自身のやる気に火をつけたと振り返る。浪人生活のあいだに10キロ以上太り、大学では当初、サッカー部には所属せずサッカー同好会の「稲穂キッカーズ」に在籍していたが、それを知った日本サッカー協会の関係者たちに説得され、6月になってからサッカー部に入部する。早稲田大学時代にはユニバーシアード日本代表に選ばれた
[匿名さん]
■古河電工時代
大学卒業時、岡田はマスコミ業界への就職を志望していたが叶わず、1980年に古河電工に入社。社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍。1985年に9年ぶり2度目のリーグ優勝、1986年に日本のチームとして初となるアジアクラブ選手権優勝に貢献した。JSL1部での通算成績は189試合9得点。
1985年にリーグ優勝した際に監督だった清雲栄純は「当時の選手には珍しく理論を持っていた。身体能力や技術は高くなかったが、予測能力が高くて声で周りを動かせた。そのコーチングが非常に的確で」「声を出す選手というのはおうおうにして自分は逃げ回るタイプが多い。汚れ仕事は人にさせて、おいしいところだけ持っていくような。岡田は最後は自分の身体を張れた」と岡田を評する。同年の古河が採用していたゾーンのラインディフェンスについても「岡田がいたからやれた守り方だった。戦いの意図を後ろから的確に伝えることができたから」と語る。
1990年1月20日に行われたゼロックス・スーパーサッカーの日本リーグ選抜対バイエルン・ミュンヘンの試合が、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田の転機となった。この試合で日本リーグ選抜は善戦の末1-2で破れる。日本リーグ選抜の主将を務めた。 岡田は、海外トップチームとの対戦を通じてその埋めがたい差を身を以て実感して現役引退を決意。自分がバイエルンの選手たちに追い付くのではなく、どう指導すれば彼らに勝てるような選手を育てられるかに関心は移っていった。
[匿名さん]
■日本代表として
1980年6月1日のジャパンカップのエスパニョール戦で日本代表にデビュー。
1982年、インド・ニューデリーで開催されたアジア大会に出場。当初発表された代表メンバーに岡田の名は無かったが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により岡田が追加招集された。背番号は前田の9をそのまま背負った。この大会で準々決勝にまで駒を進めた日本代表は0-1でイラク代表に破れたものの、岡田自身は2試合に起用され、1982年11月25日の1次リーグ・韓国戦では代表初にして代表時代唯一のゴールまで決めている。
1984年のロサンゼルス五輪最終予選では加藤久と並んでセンターバックのレギュラーとなるはずだったが、初戦の3日前に肉離れで離脱した。1986 FIFAワールドカップ地区予選では加藤の控えとしてベンチを温めた。
その後、代表監督に就任した石井義信は、チームの軸として加藤、岡田、木村和司を念頭に置いていたが、すでに代表チームでプレーするモチベーションを失っていた岡田は誘いを断り古河でのプレーに専念するようになった。最終的に国際Aマッチのキャップは24を数えた。
[匿名さん]
□■SAMURAI BLUE■□
第9回アジア競技大会(ニューデリー)
[ 1982.11.25 ]
日本代表 🆚 韓国代表
0 前半 1
2 後半 0
[GOAL]
■日本
原博実 58´
岡田武史 80´
■韓国
姜信寓 22´
[日本代表 メンバー]
GK 田口光久 (Cap.)
越田剛史
菅又哲男
加藤久
都並敏史
田中孝司
岡田武史
金田喜稔
木村和司
原博実
風間八宏
[SUB]
GK 坪田和美
野村貢
吉田弘
西村昭宏
尾崎加寿夫
柱谷幸一
戸塚哲也
■監督:森孝慈
◇第9回アジア競技大会(ニューデリー) 結果◇
1982/11/21 ニューデリー
日本代表 1-0 イラン代表
1982/11/23 ニューデリー
日本代表 3-1 南イエメン代表
1982/11/25 ニューデリー
日本代表 2-1 韓国代表
1982/11/28 ニューデリー
日本代表 0-1 イラク代表
■JFA.jp
[匿名さん]
□■SAMURAI BLUE■□
ジャパンカップキリンワールドサッカー1983
[ 1983.06.02 ] 横浜・三ツ沢球技場
日本代表 🆚 ヤマハ発動機
0 前半 0
0 後半 0
■メンバー
[日本代表]
GK 田口光久
西村昭宏
田中真二
加藤久
都並敏史 イエローカード
田中孝司
岡田武史
金田喜稔
木村和司 イエローカード
原博実
松浦敏夫
[SUB]
GK 松井清隆
横山正文
神崎幹也
越田剛史
柱谷幸一
■監督:森孝慈
■JFA.jp
[匿名さん]
福山スポーツコミュニティクラブ【福山SCC】
◇法人概要
■理事長
小林 政嗣
■住所
〒721-0952
広島県福山市曙町6丁目11‐8
■電話番号
TEL 084-983-1225
(備福運送株式会社内)
■FAX番号
TEL 084-983-1226
■活動地域
福山全域
■対象
幼稚園児から一般市民まで
■設立・沿革
2016年4月
「一般社団法人福山スポーツコミュニティクラブ」設立
2016年8月
福山SCCフットサルトップチーム設立
2017年2月
福山SCCサッカートップチーム設立
2017年4月
福山SCCチアダンススクール開校
主な活動
●スポーツを通じたひとづくり事業
●スポーツを通じたまちづくり事業
●福山にプロサッカークラブをつくるための活動
●地域コミュニティを形成する事業
◇役員紹介
■理事長
小林 政嗣
■副理事長
岩本 徹
佐々木 功
■専務理事
木村 圭介
■理事
門田 治己
塩出 喬史
黒瀬 貴之
村上 恭久
吉本 武史
大塚 智弘
山本 弘明
■監事
外野 浩志
萩田 啓祐
加藤賢士
[匿名さん]
✴日本サッカー協会公式オンラインストア✴
[JFA STORE]
■□けん玉(SAMURAI BLUE)□■
\3,240(税込)
■商品説明
競技用けん玉生産「日本一」の認定工場、山形工房が手掛けた国産・本格派仕様のオリジナルけん玉です。
日本けん玉協会認定の競技用けん玉で、けん玉検定や大会にもチャレンジできます。 この企画の為に製作したデザインで、玉部分にエンブレム、持ち手にSAMURAI BLUEの印刷を施しており、よりオリジナル性を高めています。
商品付属の山形工房けん玉アプリをダウンロードして頂くことで、持ち方などの解説やわかりやすい解説動画をご覧いただけ、初めての方でも気軽にお楽しみいただけます。 健康づくりや集中力の向上などにも役立つけん玉をぜひお楽しみください。
付属品:取扱説明書、替え糸
◇素材
木材:ブナ、サクラ
糸:ナイロン
◇製造国
日本
◇サイズ
H180×W70×D60㎜
[匿名さん]
森 孝慈(もり たかじ、1943年11月24日 - 2011年7月17日)は、広島県福山市出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィルダー。サッカー日本代表として56試合に出場し、1968年メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。
基本情報
生年月日
1943年11月24日
広島県福山市
没年月日
2011年7月17日(67歳没)
東京都目黒区
身長
173cm
体重
65kg
選手情報
ポジション
MF/DF
■ユース
1959-1961
修道高校
1962-1966
早稲田大学
■クラブ
1967-1977
三菱重工
■代表歴
1966-1976
日本
■監督歴
1981-1985
日本
1992-1993
浦和レッドダイヤモンズ
1998
アビスパ福岡
■獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
銅 1968
「浦和レッドダイヤモンズの父」「浦和レッズ生みの親」と称される。
実父は教師、広島県庁および日本体育協会職員で、原爆被災後の広島市内の様に衝撃を受け、街をうろつく原爆孤児を引き取り、戦後広島湾・似島に似島学園を設立したことで知られる森芳麿。実兄は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設へ大きな舵取り役を果たした森健兒。
[匿名さん]
■選手時代
福山市西町で生まれる。父・芳麿の似島学園創設に伴い一家で似島に転居し、孝慈は2歳から中学三年まで広島市似島で育ち、高校からは学校近くに一人で下宿した。小学校4年からは毎日船に乗って島外の学校へ通学、広島市立皆実小学校、修道中学校・修道高等学校で学んだ。海で鍛えた泳ぎを買われ中学3年間は水泳部に在籍、中3の卒業間際から親友の若山待久に誘われ本格的にサッカーを始める。成績も常にトップクラスで学級委員。女生徒に人気の的だった。
修道高校2年までは小城得達らがいた広大付属高校が全盛期で歯が立たず、全国出場はならなかったが、東洋工業(現-サンフレッチェ広島)とも練習試合をしてもらい鍛えられた。1961年、修道高3年時には下村幸男監督のもと、国体優勝(決勝1-0、浦和市立)。更に同年度の全国高校サッカー選手権で、釜本邦茂・二村昭雄らを擁する山城高校を破り優勝、当時の高校の全タイトル、高校2冠を達成した。当時のチームメイトには中村勤・吉田浩らがおり、キャプテンを務めた若山待久は後にJFAスポーツ医学委員として日本代表の医療スタッフとなる。
1962年に早稲田大学第一政治経済学部自治行政学科に入学し、ア式蹴球部に入部。松本育夫・野村尊敬・桑田隆幸・大野毅・二村・釜本らと早稲田の黄金時代を創る。1964年の第43回天皇杯全日本サッカー選手権大会では1年で日立本社(現柏レイソル)を3-0で破り、早稲田26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。1966年は主将を務め、第46回天皇杯全日本サッカー選手権大会の決勝で東洋工業(現-サンフレッチェ広島)を破って優勝した。これは天皇杯、最後の学生優勝である。当時の早稲田は作戦を選手で決めていたという。
[匿名さん]
大学卒業後の1967年に日本サッカーリーグ (JSL) の三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)に入団。杉山隆一、横山謙三らと共に主力選手として活躍し、1969年には当時日本リーグ4連覇中だった東洋工業を破り初優勝を遂げた。JSLでは通算146試合出場、28得点。また日本代表でも、1967年のメキシコオリンピック予選前から、主にストッパーとしてチームの中力選手となると、メキシコオリンピック予選第1戦から1968年のメキシコオリンピック本戦、1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選、1970年アジア競技大会にかけて国際Aマッチ32試合連続出場。これはメキシコ五輪世代では1位の記録に当たる。
国際Aマッチは計55試合出場2得点の記録を残し、メキシコオリンピックでは銅メダルを獲得した。メキシコ五輪の主力が抜けた後は、1970年代の日本代表を中盤の司令塔として釜本らと支える。
[匿名さん]
■日本代表監督
知的なプレーぶりは指導者向きと、長沼健ら日本サッカー協会(JFA)幹部から早くから見込まれ、引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩む。1979年、各競技のオリンピック・メダリストを対象にナショナル・コーチを育成しようという日本体育協会のプログラムからの助成を受けて、西ドイツにコーチ留学に送り出され、1.FCケルンのヘネス・バイスバイラー、リヌス・ミケルスらから一年間、指導法を学ぶ。1980年10月、渡辺正日本代表監督が病気で倒れたため急遽呼び戻され、予定より早く同年11月帰国、川淵三郎監督下でコーチに就任した。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った。1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く。理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった。プロ化を進める日産や読売、アマにこだわる古河や三菱など出自の異なる混成軍を巧みにまとめ上げた他、既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにない革新的なチーム作りを行った。この頃からテクニックに優れた新しい世代が台頭したこともあって、そうした選手たちを中心に、パスをつなぐ攻撃的なスタイルでロサンゼルスオリンピック予選に臨んだ。またそれまで勝利給はおろか日当さえも出なかった日本代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力した。
[匿名さん]
1980年代、日本は企業スポーツ全盛だった。いち早くプロ契約制度を導入した読売クラブなどの一部の選手を除いて、大多数は勤務する会社からの月給で生計を立てるサラリーマン。代表合宿中は、いわゆる出張。中には欠勤扱いの選手もいた。現役を辞めれば、そのまま会社勤めに入るのが当たり前の時代、副主将ながら控えで出番の少なかった岡田武史が「もう、ええですわ」と、代表には呼ばないで欲しいと言ってきたときには耳を疑ったという。戸塚哲也などは「代表でプレーすることに魅力を感じない」と公言していた。日本体育協会に加盟する一競技団体だったJFAも現在のような潤沢な運営資金はなく、代表のスタッフは、監督とコーチにドクターとマッサージ師が各一人だけ。マネージャーもおらず、監督が選手のパスポートを集めてチェックインなども行っていた。代表選手に支払われるお金は交通費のみ。森も三菱から出向中のアマの代表監督で勿論、無報酬。読売などの契約選手がクラブから出場給や勝利給を手にする一方で、社員選手の臨時報酬といえば、海外遠征時に会社から餞別が渡される程度だった。選手間で格差があり、これでは人間的に信頼し合うことが出来ない、と森はJFAの当時の専務理事・長沼健と何度も掛け合い1982年から1日3千円の手当てが日本代表につくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつく形になった。日本のライバルである韓国では1983年よりプロリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになっていた。そのことを代表選手も知っていた為、森監督は「韓国との待遇の差を言い訳に出来ない形にしたかった」のだという。
[匿名さん]
1982年アジア競技大会では韓国を初めて国外で破り、親善試合においてオランダのフェイエノールトやブラジルのコリンチャンスの海外の強豪クラブを破る成果を見せた。当時の日本代表の親善試合の相手は海外のクラブチームと決まっていた。しかし、親善試合の大活躍で攻撃の軸と期待された尾崎加寿夫がドイツ・ブンデスリーガのビーレフェルトに移籍したのが響いた。当時は国際試合の時に海外移籍した日本人選手を呼び戻して代表入りさせるという発想はなかった。試行錯誤の末、フォワードの軸はヘッドの強い原博実を据えて柱谷幸一と組ませて、所属クラブで攻撃的MFにコンバートされていた木村和司を司令塔に、金田喜稔(後に水沼貴史)を絡ませた日産勢を攻撃の柱にする布陣で挑むが肝心のロサンゼルスオリンピック最終予選では連敗を重ね敗退した。当時の日本代表の情報収集能力は低く、初戦の相手、タイの試合のビデオを集めることもできず、相手チームについて何も知らずに初戦に臨み、タイのエース・ピヤポンにハットトリックを決められるなどで2-5の大敗(ピヤポン・ショック)。結局これが尾を引き4戦全敗に終わった。大会の直前にそれまでいなかったベテランを加えたことで、若手中心に団結していたチームのバランスが崩れてしまったともいわれる。
[匿名さん]
森は辞意を表明したが慰留され、1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では北朝鮮代表に史上初めて勝利し、平壌金日成競技場で北朝鮮代表と"完全アウェー"を戦うなど1次予選、2次予選を突破。宮内聡と西村昭宏で、後に世界の主流になるダブルボランチをいち早く取り入れるなどで1985年10月の最終予選に進出。当時のW杯でのアジアの出場枠は「1」(東アジアと西アジアで1枠ずつ)。この当時の代表チームは守備の加藤久、左サイドバックの都並敏史、右サイドバックの松木安太郎、中盤の木村和司、前線の原博実、水沼貴史ら、職人気質の個性派を擁し、強い結束力を持ち合わせた事から森ファミリーと呼ばれた。北朝鮮とのアウェー戦に、累積警告で出場停止だった松木安太郎を「彼もチームの一員だから」と帯同させた。感謝に震えながらボール運びなど下働きする松木を仲間は暖かく包んだ。
[匿名さん]
1985年10月26日、国立競技場での韓国代表とのアジア最終予選の初戦は、代表の試合で初めて国立が満員になった。代表戦にお客が入るようになり、サッカー協会の収入が増えてきたのはこの頃から。テレビの実況を担当したNHKアナウンサー・山本浩の「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」というオープニングの名台詞でも有名な試合であるが、立錐の余地もなく埋め尽くされた62000人の大観衆と、スタンドにはためく無数の日の丸、かつて体験したことのない異様な熱気は、皮肉にも日本代表イレブンに過剰なプレッシャーとなってはね返った。また、韓国代表監督の金正男は、森の大学時代からの20年来の親友でもあり、冷静に日本代表を分析していた。「日本は前後半の開始25分ぐらいまでに点を取ることが多い。だからリスクを冒すことなく30分までは守りを固めていく」と、金が韓国イレブンに与えたこの指示で、引き気味に試合を進める韓国に対して、ボール支配率で上回った日本がペースを握っているかに思われたが、それは相手に仕組まれた巧妙な罠だった。効果的な攻撃を生み出せないままに時間は過ぎ、前半30分に韓国の右からのセンタリングを石神良訓がクリアしたキックが短く、そのキックミスをつけ込まれ先制点を奪われると、韓国に対する長年のコンプレックスから選手は大きく動揺し41分、再びミスから致命的な2点目を奪われた。このゴールの直後に木村和司のフリーキックで1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦を喫するとソウルでの第2戦も0-1で敗れ、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが韓国に敗れた。この時のチームは「ドーハの悲劇」以前に最もワールドカップに近づいたチームであったとサンケイスポーツなどは報じている。
[匿名さん]
わずか1点という最少得点差での敗戦ではあったが、またも力の差を見せつけられた。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」「韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と明言した。各ポジションにスペシャリストがいて完成度の高かったこのチームの敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、長沼健に迫った森のプロコーチとしての契約要求は受け入れられず(森自身も三菱重工からの出向の身だった)、1986年辞任した。協会の微温的体質に一石を投じたこの行動が、後のJリーグ創設という大河の一滴になった。また森が取り組んだ改革に今日の日本代表チームの原点があるともいわれる。日本代表監督のプロ契約が始まったのは、森退任から3年後、1988年1月に就任した横山謙三から(年間300万円)。横山のプロ契約(実際はセミプロ契約)を協会に要請したのは三菱重工の人事部課長に戻っていた森という[46]。この時からようやくプロの指導者が代表チームを指揮するという慣例ができた。
森ファミリーのメンバーは現在、協会幹部、指導者として活躍している者が多いが、とても仲が良く今も年に1度集まるという。
[匿名さん]
■浦和レッズ創設期
その後は三菱重工の人事部に戻りサッカー部副部長兼総監督。1988年、兄・健兒、木之本興三らとJSL活性化委員会(翌1989年、プロリーグ化検討委員会、のちのJリーグ)を設立。三菱重工社内のプロ化担当者としてサッカー部のプロ参加を嘆願、サッカー部の三菱自動車工業(以下、三菱自工)移管に関わる。重工は防衛庁や企業相手の仕事で、大衆にアピールするプロスポーツはやらないだろうと予想し、前々から内々にファンとの接点をつくりやすい自工移管を打診していた。社業としてドイツの事業所駐在が決定していたが三菱自工の清水泰男(のち浦和レッズ社長)の要請で1989年7月、三菱自工に転籍。サッカー部プロ化に対して、社内の反応は冷ややかだったといわれるが、サッカー部のプロ化、立ち上げの中心人物として東奔西走した。
[匿名さん]
1990年9月、浦和青年会議所が中心になって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足、浦和市はホンダの誘致が決定的だった。しかし同年10月、ホンダが浦和市の誘致を断わったため川淵三郎の仲介で「つくろう会」のメンバーと11月、西が丘サッカー場の近くのファミリーレストラン・すかいらーくで会う(森はそれ以前に浦和市の関係者と何度か接触はあった)。当初から浦和市はリストアップしていたが、浦和市はホンダで決定的だったため諦めていた。渡りに船のこの話に、この後は急ピッチに浦和レッドダイヤモンズ創設、Jリーグ入りが決定した。その後は仕事が山積み、会社との調整作業、及び1991年秋からJリーグ専務理事・兄健兒が主宰した「プロリーグ設立準備室」の選手委員会と選手委員会専門部会の合同委員会に参加するなど身を粉にした。更にスポンサー集めから、スタジアム改修の16億円以上の費用を自治体の政治家に掛け合う。昼は説明に回り、夜はその人たちと毎日会食。プロのクラブとは何か、誰も想像がつかない時代、みんなに応援される形を求め奔走した。会社に支援母体をつくろうと1991年にオフィシャルサポーターズクラブを組織、1992年度のクラブ数は615だったが、翌1993年には5178に増えた。その認定書一枚一枚に森は丁寧にサインをしていたという。森はチームが東京田町から移るはるか前に、自宅を浦和市に引っ越す等、森の人柄の良さから出世街道を歩んでいた藤口光紀(のち浦和レッズ社長)を始め、多くの人物がレッズ発足に参加した。森は自ら先頭に立って、Jリーグの理念である地元に密着したクラブ、チームづくりに心血を注いだ。清水泰男は「森ちんがいなかったら今のレッズはなかったと思います」と話しており、「今のレッズは森さんなくしてはあり得なかった」と昔を知る関係者の誰もが語っている。
[匿名さん]
1992年からレッズの監督に就任。観客を喜ばそうと当時のクライフ監督率いるFCバルセロナが採用していた3-4-3の超攻撃的フォーメーションで挑み、1992年は天皇杯で準決勝まで進出した。しかし翌1993年にJリーグの公式戦が開幕すると、システムが相手に研究され尽くした事と補強の失敗、故障者続出でサントリーシリーズ、ニコスシリーズともに最下位となり、監督を辞任した。シーズン終了後の総括では「3年分は負けた」と語った。
ただ、森は、負けても愛された監督というよりは、負けが込むほど愛された監督であったと浦和フットボール通信は評し、「森さんのためなら叫ぶことができる」と浦和レッズのサポーターがコメントしていたと日刊スポーツなどが報じている。負けるほどにサポーターとの絆が強まる不思議な結果は、森の人柄が引き起こした現象であった。情の厚さが人を引きつけ、その美質は浦和レッズ発足前後にも遺憾なく発揮された。日刊スポーツや浦和フットボール通信などは、森についてレッズ初代監督としては成功したとは言い難いが、温かい人間味がファンを魅了し、熱狂的なサポーターを育てたと報じている。ぶぎん地域経済研究所(武蔵野銀行)は、浦和レッズが熱狂的サポーターを増やした原因について、開幕初年度に負け続けるレッズを「勝てない、とにかく勝てない」「いつ勝つのか」などと、日本人独特の判官びいきによる気質によってマスメディアが上位のチーム以上に取り上げたから。「出来の悪い子ほど可愛い」という状況となることでより愛されるチームとなった。もし5位や6位や、「ありきたりの成績」であったなら、あまり注目もされなかったであろう、等と論じている。
[匿名さん]
■その後
1993年10月28日に行われた1994 FIFAワールドカップ・アジア予選の日本×イラク(ドーハの悲劇)のテレビ東京スタジオ解説を務めであり、1995年から1997年は横浜マリノスのゼネラルマネージャー、1995年には横浜マリノスは年間チャンピオンに輝いた。1998年はアビスパ福岡の監督を務め、1999年から2001年はアビスパ福岡のフロントを務めた。2002年から浦和のGMに就任。
社長の犬飼基昭、強化本部長に転任した中村修三とともにチームを改革、3年計画下でのハンス・オフトを監督に招聘しチームを強化、基礎作り2年の後2004年、ギド・ブッフバルト監督、ゲルト・エンゲルスヘッドコーチを招聘、大型補強の敢行で浦和に悲願のJリーグステージ初優勝、2005年第85回天皇杯、2006年第86回天皇杯連覇をもたらし今日につながるレッズの礎を築いた。オフトやブッフバルト、闘莉王、三都主らの獲得、岡野雅行のレッズ復帰は、森GM=中村強化本部長コンビで行い、犬飼社長が最終決定を下したもの[97]。また在任中、ユース、ジュニアユースの改革に着手し教育ではなくプロ育成の下部組織として再スタートさせた。2006年1月31日をもってGMを退任。
2006年、第3回日本サッカー殿堂にて委員会投票により掲額され殿堂入りを果たす。
2008年からは神奈川県横浜市を本拠地とするクラブチーム横浜GSフットボール・クラブの顧問、2010年発足した日本サッカー名蹴会名誉会長を務めた。
2011年7月17日、駒沢オリンピック公園に隣接する国立病院東京医療センター(東京都目黒区)に於いて腎盂癌のため死去。67歳没。奇しくもその日は2011 FIFA女子ワールドカップ(ドイツ)でサッカー日本女子代表(なでしこジャパン)がアメリカ合衆国を下して優勝した日でもあった。
[匿名さん]
2011年7月23日に埼玉スタジアム2002、7月24日から31日まで駒場スタジアムに献花台を設けると、のべ2000人のファンがメッセージ、タオルマフラー、大好きだったお酒などとともに花を供えに訪れた。現役時代は攻撃と守備をつなぐ「リンクマン」と呼ばれる中盤の名手。人と人とを温かく結びつける、生き方もリンクマンであった。
[匿名さん]
■エピソード
大学卒業後、森は兄のいる三菱重工入りを決め、早稲田大学の同級である釜本邦茂と、共に三菱重工に入社し「また二人でやろう」と約束していた。ところが関西在住で早大OBの川本泰三や賀川浩が「釜本、関西へ戻ってやれよ」と矢のような催促を受け、無理やり連れて行かれたヤンマーディーゼルの山岡浩二郎サッカー部長の熱弁で、催眠術のように入社を承諾してしまった。東京に戻り森に会いヤンマー入社を知らせると、森は「サッカーやるんだからいいさ。ともかく日本サッカーのためにがんばろうで」とだけ返した。「いつもグラウンドでもまず人のことを考えるいい奴、森は変心を咎めたり、詮索したりはしなかった」と釜本は語っている。
[匿名さん]
□■dunhill■□
[ストア限定商品]
✴2019 SAMURAI BLUE メイド トゥ メジャー スーツ✴
\ 469,800(税込)
<アルフレッド ダンヒル>は2000 年から、SAMURAI BLUE(サッカー日本代表)が大切な場面に挑むスーツを作り続けてきました。
フィジカル、テクニカル、タクティカル、メンタルとあらゆる角度においてより高いレベルを目指し厳しいトレーニングを積むSAMURAI BLUE(サッカー日本代表)の姿勢は、サヴィル・ロウの歴史とともにクラフツマンシップを追及してきた<アルフレッド ダンヒル>のカスタムテーラリングに対する姿勢にも通じます。
なめらかなSuper120s のウール生地で作られたスーツは男性的なシルエットでボディラインをしなやかに包み、深いネイビーとホワイトが織りなすシャープなコントラストは、力強さを表現。スーツの他シャツ、タイ、タイバー、ベルトを取り揃えております。
■商品特徴
トーナルストライプを施すことでエレガントなブリティッシュスタイルを表現し、ナチュラルストレッチ仕上げによって上質で快適な着心地を実現しています。
スーツはメイド トゥ メジャーにて承ります。詳細はお問い合わせください。 ¥378,000(ウエストコート付き ¥469,800)
DU19FAB81Z4410
■返品
商品にご満足いただけなかった場合は、返品規定に即して商品到着日を含めて14日以内に商品を返送していただくことが可能です。
■お問い合わせ
ダンヒル製品についてのお問い合わせやご注文のサポートをご希望の場合には、お気軽にお電話ください
[匿名さん]
福山スポーツコミュニティクラブ【福山SCC】
◇法人概要
■理事長
小林 政嗣
■住所
〒721-0952
広島県福山市曙町6丁目11‐8
■電話番号
TEL 084-983-1225
(備福運送株式会社内)
■FAX番号
TEL 084-983-1226
■活動地域
福山全域
■対象
幼稚園児から一般市民まで
■設立・沿革
2016年4月
「一般社団法人福山スポーツコミュニティクラブ」設立
2016年8月
福山SCCフットサルトップチーム設立
2017年2月
福山SCCサッカートップチーム設立
2017年4月
福山SCCチアダンススクール開校
主な活動
●スポーツを通じたひとづくり事業
●スポーツを通じたまちづくり事業
●福山にプロサッカークラブをつくるための活動
●地域コミュニティを形成する事業
◇役員紹介
■理事長
小林 政嗣
■副理事長
岩本 徹
佐々木 功
■専務理事
木村 圭介
■理事
門田 治己
塩出 喬史
黒瀬 貴之
村上 恭久
吉本 武史
大塚 智弘
山本 弘明
■監事
外野 浩志
萩田 啓祐
加藤賢士
[匿名さん]
田口 光久(たぐち みつひさ、1955年2月14日 - )は、秋田県河辺郡河辺町(現在の秋田市河辺)出身の元サッカー選手。ポジションはGK。
■愛称
ダンゴ
メーランおやじ
■生年月日
1955年2月14日(64歳)
■出身地
秋田県秋田市
■身長
175cm
■体重
74kg
秋田市立秋田商業高等学校卒業後の1973年に三菱重工サッカー部(現:浦和レッドダイヤモンズ)に入部。同年には日本ユース代表としてAFCユース選手権準優勝に貢献、翌1974年にもユース代表に選出され同大会に出場した。所属する三菱では正GKに横山謙三がいた為、出場機会に恵まれなかったが3年目の1975年にポジションを奪取。翌1976年には日本代表に選出された。代表でも正GKの座を確保する様になり国際Aマッチ59試合に出場。また1982年から1984年まで主将も務め低迷期の日本サッカーを支えた。
引退後は指導者の道へ進み、秋田経法大附属高校や青森山田高校のサッカー部監督としてユース年代の育成に努めた。また、その体型からバラエティ番組出演を行う様になり、1991年から1993年頃にかけて、日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて」に出演し、PK対決コーナーでの木梨憲武のパートナーとしてゴールキーパーを務めていた、その際にラーメンが大好物で行った先々の御当地ラーメンを必ず食す事から「メーランおやじ」の愛称がついた。
現在はJリーグ解説者や国際学院高等学校サッカー部総監督として活躍している。
[匿名さん]
田口は身長175cmであるが、現役時代は相手チームへの重圧を与えることを狙って178cmと高目にしてプロフィールに記載していた。その為、田口は「ゴールキーパーは身長でなく、俊敏な身体動作、ディフェンダーとのコンビネーションなどの総合力が大事である」としており、ヴァヒド・ハリルホジッチ日本代表監督が唱える「ゴールキーパーは身長190cm以上でないと良い選手とはいえない」という主張に対して反論している。
■所属クラブ
1970年 - 1972年 秋田商業高校
1973年 - 1984年 三菱重工
■代表歴
ワールドカップアルゼンチン大会予選
アジア競技大会(1978,1982)
モスクワオリンピック予選
ロサンゼルスオリンピック予選
国際Aマッチ 59試合 0得点(1975-1984)
■指導歴
1984年-1988年 秋田経済法科大学附属高等学校サッカー部監督。
1989年-1992年 青森山田高等学校サッカー部監督。
1993年-1997年 ルネス学園サッカー部総監督。
1998年-2000年 遊学館高等学校サッカー部総監督。
2001年-現在 国際学院高等学校サッカー部総監督。
■出演番組
サタ・スポ
とんねるずの生でダラダラいかせて!!
スポーツうるぐす
秘密のケンミンSHOW
クイズ☆タレント名鑑
[匿名さん]
デッツォーラ島根、もう一貫の終わりかと思ったが、まだ大丈夫そうだね。
[匿名さん]
< 2019年5月11日 >
■明治大が5年ぶり天皇杯へ 早稲田大を2−0で破る■
◇東京都サッカートーナメント 決勝◇
早稲田大学 0−2 明治大学
【得点者】
55分 佐藤亮(明治大)
90+4分 瀬古樹(明治大)
天皇杯東京都代表を決定する第24回東京都サッカートーナメント決勝、早稲田大学対明治大学の試合が11日、北区・味の素フィールド西が丘で行われ、明治大学が2−0で勝利し、5年ぶり5度目の優勝を飾った。明治大学は東京都代表として天皇杯に出場する。明治大学の天皇杯出場は2014年以来5年ぶりで14回目。
前半からFW小柏や佐藤らを中心にボールを動かし、攻守に連動した動きで主導権を握った明治大は、前半こそ無得点に終わったが、後半10分に主将の佐藤亮が準決勝に続きネットを揺らす。前線でMF持井からの縦パスを受けるとドリブルで持ち上がり、エリア手前から左足を振り抜いて先制点を奪った。その後もMF持井のシュートがバーを叩くなど攻勢を強める明治大だが、追加点を奪えずにいると、終盤は早稲田大の反撃にヒヤリとする場面も。
それでも守備陣が集中して無失点を継続すると、ロスタイム4分、味方のクリアボールから最終ラインを抜け出したMF瀬古が、落ち着いて右足で追加点を奪って試合を決めた。
明治大は5月26日に行われる天皇杯1回戦で秋田県代表でJ3のブラウブリッツ秋田と対戦する。
◇東京都サッカートーナメント 準決勝◇
・東京ユナイテッド 0−1 早稲田大学
・東京武蔵野シティ 1−2 明治大学
[匿名さん]
■第70回早慶サッカー定期戦・第18回早慶女子サッカー定期戦が7月12日(金)に開催されます。■
第70回早慶サッカー定期戦・第18回早慶女子サッカー定期戦-早慶クラシコ-の開催概要が決定致しましたので、お知らせ致します。
< 大会概要 >
大会名称:第70回早慶サッカー定期戦・第18回早慶女子サッカー定期戦-早慶クラシコ-
◇主催:一般社団法人神奈川県サッカー協会
◇主管:早稲田大学ア式蹴球部 慶應義塾体育会ソッカー部
◇後援:株式会社朝日新聞社
◇実施運営:第70回早慶サッカー定期戦委員会
◇開催日時:令和元年7月12日(金) 会場:14時30分 女子部:15時30分キックオフ 男子部:18時30分キックオフ
◇会場:等々力陸上競技場
◇入場料:前売券 900円、当日券 1,000円(※特別シートは一部価格が異なります。)、高校生以下 無料
◇対戦:男子部…早稲田大学ア式蹴球部 対 慶應義塾体育会ソッカー部
女子部…早稲田大学ア式蹴球部女子部 対 慶應義塾体育会ソッカー部女子
今年も会場にて熱い応援、宜しくお願いします!
[匿名さん]
KUZZはデッツの事を書くのやめろよ。
こないだの試合だってお前ほとんど試合見ずにスマホいじりだったよな?
偉そうに語ってるんじゃないよ。
選手に対して失礼なんだよ。
[匿名さん]
ジーコ (Zico) ことアルトゥール・アントゥネス・コインブラ(ポルトガル語: Arthur Antunes Coimbra、ポルトガル語発音: [aʁˈtuʁ ɐ̃ˈtũnis koˈĩbɾɐ]、1953年3月3日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現在は、Jリーグ・鹿島アントラーズのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。
■本名
アルトゥール・アントゥネス・コインブラ
Arthur Antunes Coimbra
■愛称
白いペレ
■国籍
ブラジル
■生年月日
1953年3月3日(66歳)
■出身地
リオデジャネイロ州リオデジャネイロ市
■身長
172cm
■体重
72kg
■学歴
カステロブランコ大学体育学科出身。
[ 選手情報 ]
■ポジション
MF
■利き足
右足
■ユース
1967-1971
CRフラメンゴ
■クラブ
出場
(得点)
◇1971–1983
CRフラメンゴ
212
(123)
◇1983–1985
ウディネーゼ
39
(22)
◇1985–1989
CRフラメンゴ
37
(12)
◇1991–1994
住友金属/鹿島アントラーズ
45
(35)
■代表歴
◇1976–1986
ブラジル
71
(48)
■監督歴
◇1999
鹿島アントラーズ (代行)
◇2000–2002
CFZ
◇2002–2006
日本代表
◇2006–2008
フェネルバフチェ
◇2008
ブニョドコル
◇2009
CSKAモスクワ
◇2009–2010
オリンピアコス
◇2011–2012
イラク代表
◇2013-2014
アル・ガラファ
◇2014-2016
ゴア
■公式戦(日本)1993年Jリーグチャンピオンシップ 1試合0得点Jリーグ初出場:1993年5月16日 対名古屋グランパスエイト戦(茨城県立カシマサッカースタジアム)Jリーグ初得点:同上JSL(2部)初出場:1991年9月7日 対大塚製薬戦(住友金属鹿島総合グラウンド)JSL(2部)初得点:同上
[匿名さん]
■主な監督成績
◇鹿島アントラーズ
1999年 ヤマザキナビスコカップ 準優勝
◇日本代表
2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 グループリーグ敗退(通算1勝2敗)
2003年 東アジアサッカー選手権2003 準優勝
2004年 AFCアジアカップ2004 優勝
2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 グループリーグ敗退(通算1勝1敗1分)
2005年 東アジアサッカー選手権2005 準優勝
2005年 2006 FIFAワールドカップ出場権獲得(通算11勝1敗 アジア予選B組1位通過)
2006年 2006 FIFAワールドカップ本大会グループリーグ敗退(通算2敗1分)
通算成績 33勝12分15敗
[ タイトル ]
■選手時代
フラメンゴ
カンピオナート・カリオカ : 1972, 1974, 1978, 1979, 1979 (extra), 1981, 1986
カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA : 1980, 1982, 1983
コパ・ウニオン : 1987
コパ・リベルタドーレス : 1981
トヨタカップ : 1981
■監督時代
フェネルバフチェ
スュペル・リグ : 2006-07
ブニョドコル
ウズベク・リーグ : 2008
ウズベキスタン・カップ : 2008
CSKAモスクワ
ロシア・カップ : 2008-09
■日本代表
AFCアジアカップ : 2004
[匿名さん]
■個人タイトル
ブラジル最優秀選手 : 1974, 1982
南米年間最優秀選手 : 1977, 1981, 1982
カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA得点王 : 1980, 1982
コパ・リベルタドーレス得点王 : 1981
トヨタカップ最優秀選手 : 1981
FIFAワールドカップベストイレブン : 1982
JSL2部得点王 : 1991-92
IFFHS選定20世紀世界最優秀選手 14位 1999
IFFHS選定20世紀南米最優秀選手 7位 1999
英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手 : 1983
英誌ワールドサッカー選出20世紀の偉大なサッカー選手100人 18位 1999
ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ得点王 : 1995
ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ最優秀選手 : 1995
フラメンゴ クラブ歴代最多得点記録(508得点)
マラカナンスタジアム歴代最多得点記録(333得点)
FIFA 100 2004
ゴールデンフット賞 (all time legend) 2006
アントラーズ功労賞 2009
日本サッカー殿堂 2016
[匿名さん]
小柄な体格であり、しばしば「白いペレ」と呼ばれることもあったが、実力もペレ同様に高く、最も技術のあるフィニッシャー、最も優れたパサーの一人、1980年代初頭の世界一の選手とも評される。さらに、歴史上最も優れたフリーキックのスペシャリストの一人としても知られており、速いスピードで曲がるボールを蹴ることができた。2004年3月には、ペレによる偉大な存命サッカー選手125人にも名を連ねた。歴代最も偉大なサッカー選手と言われるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べた。
ブラジル代表では、72試合に出場し52ゴールを挙げており、FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。これらの大会では優勝を逃したが、1982年のブラジル代表は最も優れたブラジル代表の一つと言われている。1981年と1983年に、雑誌「ワールドサッカー」は、世界最優秀選手に選んだ。
日本代表監督として、2006 FIFAワールドカップに出場し、AFCアジアカップ2004では優勝を果たした。また、フェネルバフチェSKを指揮し、UEFAチャンピオンズリーグ2007–08で準々決勝に進出した。
[匿名さん]
■愛称
愛称である「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィーク ([ˈziku]) となる。
ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた。また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。
幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から愛称は「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の雄鶏小僧)と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。
フェネルバフチェ監督時代は、ファンから本名のアルトゥールと同じ綴りであるアーサー王伝説から「アーサー王(King Arthur)」と呼ばれていた。
[匿名さん]
■フラメンゴ
1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロのフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入。加入当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、思春期が終わり骨の成長が遅くなるのを待ってジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功。兄二人の教えもありトレーニングメニューを次々と消化し、競り合いに負けない強靱な体格を手に入れた(サイボーグと比喩されたことも)。その後、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。前年、現夫人となるサンドラ(エドゥの妻の妹)と出会い交際開始。4年後の1975年、結婚の目標だったアパートを購入しサンドラと結婚。
フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981やトヨタカップ、4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。コパ・リベルタドーレス1981では、ジュニオール、ヌーネス、アジーリオ、バロニーニョ、レアンドロ、アンドラーデ、モーゼルらと共に得点を量産し、正確なパスでフラメンゴ黄金期を築いた。
[匿名さん]