1000
2024/12/08 16:32
爆サイ.com 北海道版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
合計:
報告 閲覧数 1.6万 レス数 1000

#2012019/05/20 00:21
■ウディネーゼ

1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍すると、ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)。これらの活躍によってサポーターの人気を集めたが、クラブとの間で契約問題で揉め、1984-85シーズンを最後にイタリアを去ることとなった。また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。

[匿名さん]

#2022019/05/20 00:22
■ブラジル代表

1976年にブラジル代表に初選出され、FIFAワールドカップへは1978年、1982年、1986年の3大会に出場している

初のワールドカップ出場となった1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消される不運(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)や監督との確執もあって不本意な大会となった。

1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目されたが、2次リーグ最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあう。5分にイタリアのパオロ・ロッシに先制されたブラジルは12分、ハーフウェイラインを超えドリブルして来たソクラテスがジーコにスルーパスを出すと、ジーコはクラウディオ・ジェンティーレのマークをターンで外し、そのままゴールに走り込んだソクラテスにリターンのスルーパスを出し、同点ゴールをアシストした。

[匿名さん]

#2032019/05/20 00:23
ソクラテスの自陣ハーフウェイライン手前から始まる、40mをゆうに超える2人のワンツープレーと2本のスルーパスに、イギリスBBCのアナウンサー、ジョン・モトソンは「すごいぞ、ブラジルサッカーの哲学は!!」 (Thumbs up for Brazilian football philosophy!!) と評した。またモトソンはジェンティーレの激しいマークを、ボディコントロールとテクニックで外すジーコのターンに「おお、何てターンだ!」と評した。しかし2-2で迎えた75分、ブラジルはDFのミスからロッシに3点目を決められ、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)、志半ばで大会を去った。しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金のカルテット」はこのチームが語源である。

1986年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。最後のワールドカップは準々決勝のフランス戦で交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。

[匿名さん]

#2042019/05/20 00:24
■短い引退

1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。

翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。

[匿名さん]

#2052019/05/20 00:26
[ 日本とジーコ ]
■初来日
1990年に住友金属に入団する前からトヨタカップで来日(1981年フラメンゴ)、MVP受賞など日本とは縁があった。現在は日本を「第二の故郷」とコメントするほどの親日家であり、来日した時は飛行場で必ず「タダイマ」と挨拶をする。大きな影響力を持つ母国ブラジルでは、そのおかげで日本がリスペクトされるようになり、「ジーコによって日本の印象は変わった」と言われている。
2011年6月に来日した際「長男の妻は日系人」であることを明かし、自身の孫が日本人の血を引くことに「日本との関係がさらに深くなるのは嬉しいこと」と語っている。

■日本語
夕刊紙やスポーツ記事などに「日本に何年もいるのに日本語を喋ろうとしない」「日本語を全く習得していない」と書かれることがある。
しかし実際は、本人はサッカー教室などで簡単な日本語の指示や受け答えをしている他、日本での自宅周辺の商店街、秋葉原の電化製品店、鹿嶋のショッピングモールなどで日本語を使って買い物を行う姿が市民にも目撃されている。
また、2006年開催のFIFAワールドカップの最終予選、対北朝鮮戦(無観客試合)において、日本語で「(相手DFの)ライン見て!ライン!」と指示したり、試合終了後、インタビュー直前に日本語でチームスタッフと談笑する模様が放送されている(その時テレビ局スタッフから声をかけられ、「え?何?」と答えてもいる)
日本サッカー協会・強化委員長の田嶋幸三によると「ジーコはほとんど日本語がわかるが、誤解を生むことを避けるため通訳を通している。政治の世界と同じ」ブラジルのビジネス誌「イスト・エ」のインタビューでは本人曰く「聞くのは出来るが早口だと無理、読み書きも無理」とのこと。ちなみに、中田英寿やミシェル・プラティニとはイタリア語で会話をしていた。

[匿名さん]

#2062019/05/20 00:27
■住友金属工業蹴球団

ジーコの入団について当時Jリーグ理事長だった川淵三郎は、「当初、紹介した古河電気工業サッカー部(現、ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と語っている。ジーコ本人は日本からの打診に難渋していた所、ルイス・アントニオ高崎がプロ選手としての獲得という契約を出され、何ら具体的な連絡も無くビジネスの定石から逸脱した事後承諾のような状態に狼狽する。引退イベントも既に終えて年齢的に再び選手として走る気は無かったが、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力的なものを感じたジーコは住友金属と契約し来日。


ジーコが加入した当時の住金サッカー部は選手たちのアマチュア意識が抜けなかった。そのため夕食後に寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードを買いこんでくる選手たちが多かった。ジーコは彼らにプロ意識を叩きこむため、毎晩選手寮の出入りを見張り、「プロ選手のカラダ造りに菓子は必要ない」と選手たちのジャンクフードを没収。当時、選手寮の玄関脇で飼っていた雌犬(名前はヒメ)にそれらを次々と食べさせていた。毎晩のようにジャンクフードを与えられていたヒメは丸々と太ってしまったが、その様子を見てジーコは「お前ら選手のおかげで、可愛かったヒメがこんなに太ってしまった」とまた選手たちを叱責した

[匿名さん]

#2072019/05/20 00:28
1991年の天皇杯予選では、当時日本大学1年生の岡野雅行(後に浦和レッズ加入)と対戦している。当時、日本大学サッカー部は大学リーグ二部であり、翌年からプロチームとなる住友金属としてはずっと格下であったため、ジーコはベンチスタートであった。しかし岡野雅行が2得点、他の選手も得点し前半終了時点で3-0で負けている状況に、ジーコが慌ててウォーミングアップを開始。後半最初からジーコ投入となった。岡野雅行の感想によると、「ジーコがピッチに出た途端、全ての空気が変わった。まずレフェリーの態度が変わった。明らかに相手(住金)のファウルでこちら(日大)のボールのはずなのに、判定は相手ボールだという。さあ、ジーコさん、フリーキックどうぞって。」結局、後半のジーコの活躍により住友金属が勝利したとのこと。(結果は日大4-5住金(前半 日大3-0住金、後半 日大1-5住金))

[匿名さん]

#2082019/05/20 00:29
■鹿島アントラーズ

鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。しかし当の本人は、練習場へは電車で通勤し、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、おもむろに自分のシューズの手入れを始めるなどジーコのストイックな姿勢に周囲は唖然とする。また、自分から線審を買って出てジャッジとプレーの関連を指導するなど、周囲のお祭り騒ぎとは裏腹に本人は暗中模索で日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心しており、練習後に「僕は一体何をしてるんだ」と自問し嘆息し、また翌日には溌剌と練習に参加して終わったらまた頭を抱えて呻くという日々を繰り返していた。

[匿名さん]

#2092019/05/20 00:30
1993年にJリーグが開幕した当初、この小さな町のクラブは横浜マリノスやヴェルディ川崎といった大都市のクラブに対し不利が予想されていた。ジーコはこの予想を覆し、チームが上位に食い込むには自分のプレーが活きて、且つ合致する選手がもう一人必要と考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。そして迎えた開幕初戦、対名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した。そしてその勢いのまま1stステージ制覇。チャンピオンシップでは準優勝の結果を残し日本のサッカー界を積極的に盛り上げた。その功績を称え、鹿島町(現、鹿嶋市)から表彰される。また鹿島アントラーズはジーコの下、初期黄金期を築きあげ、プロサッカークラブとして成功を収めた。

彼は、世界トップクラスの選手として戦術や組織はもちろん、サッカー選手としてのプライドや規律、プロ意識とはなにかということをチームメイトのみならず、日本サッカー全体に伝え続けることにより、短期間で日本のプロサッカーリーグを成功に導いた立役者となった。これによりマスコミやファンは「サッカーの神様」と賞賛した。[要出典]。 1994年第1ステージで現役を退きブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。

[匿名さん]

#2102019/05/20 00:32
□退場処分
フェアプレーが信条であるが、1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となり、物議を醸した(警告はキックの前にPAに進入したことに対してのみで、つば吐きは高田静夫主審が試合後に、重大な規律違反としてJリーグに報告している)。のちにジーコ本人は「Jリーグ初年度の優勝決定戦という歴史的な記念試合であのような行為をした事を申し訳なく思う」と反省の弁を語っている。愚行に至った理由としては相手チームに有利な開催地に不満があったことと、ビハインドの展開での不利な判定に対する憤りがあったと振り返っている。

[匿名さん]

#2112019/05/20 01:01
■愛車
1981年トヨタカップのMVP副賞で獲得した車を長期に渡り愛車にしている。ちなみに愛車は1981年型トヨタ・セリカで、1985年に製造中止され年月が経つ上、さらに当時ブラジルは外貨流出を防ぐために外国車(完成車)の輸入を禁止していたこともあって、現在南米における稼働車としては超がつく希少車。副賞の自動車が外交問題になりはしないかと大会関係者は心配したが、ジーコは「フィゲイレド大統領に電話するから」と言ってあっさり輸入許可を得て、この車を持ち帰った。
日本代表監督時は、日本代表のスポンサーに日産自動車が入っている関係で、同社が日本サッカー協会へ寄贈したシーマのステアリングを自ら握っていることもある。2006年からはフーガに変わった。なお、本人曰く例のセリカは2014年現在、今でも現役であるとのこと。

2015年、日本とブラジルの外交関係が樹立して120周年を迎えるにあたり、在リオデジャネイロ日本総領事館より親善大使に任命される。

[匿名さん]

#2122019/05/20 01:02
■その他

・1994年6月22日、当時の総理大臣羽田孜より、日本サッカー界への貢献を評価して内閣総理大臣顕彰が贈られた。2011年現在でも外国人個人として唯一の受賞者である。
通訳によると来日当初は周囲とのレベルの違い(当然他の選手はアマチュアであり、ジーコとは大きな落差があった)に、練習後車の中で「俺は何をやっているんだ…」と葛藤したかと思うと、翌日になると「さあ、頑張るぞ!」と張り切るという様子を繰り返していたという。

サッカーファン以外にも消費者金融「レイク」のコマーシャルに長年出演していたことで知られる。

・タバコ嫌いで知られ、日本代表の監督時代に、隠れて喫煙したスタッフを発見すると、「私は何事もわかっているんだぞ!」と激しく説教をしたという。以来、そのスタッフは、喫煙後の口臭剤が欠かせなくなったという。


・嫌いな日本食は、きつねうどん。「新・食わず嫌い王決定戦」の企画コンセプトは、「この食べ物の、ここが嫌い」であるため、実際は他の日本食同様に、好物であると思われる。


・茨城県鹿嶋市にあるショッピングセンターチェリオ1階には「ジーコ広場」があり、ジーコのブロンズ像が置かれている。普段は休憩スペースとして使われているが、営業時間内に鹿島アントラーズの試合がスカパー!で放送される場合は、無料で放映している。2004年2月8日には直筆の特大サイン、アントラーズに在籍したブラジル人選手のサイン寄せ書きを壁面に配置し、「ジーコ・ミニ・ミュージアム」と呼称し、当時日本代表監督だったジーコ本人が除幕を行うイベントを行った。

[匿名さん]

#2132019/05/27 03:32
加茂 周(かも しゅう、1939年10月29日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。


■生年月日
1939年10月29日(79歳)
出身地
兵庫県芦屋市
身長
178cm

■選手情報

◇ポジション
FW

◇ユース
1961-1965
関西学院大学

◇クラブ
出場
(得点)
1965-1967
ヤンマーディーゼル
14
(1)

◇監督歴
1974-1989
日産自動車
1991-1994
全日空 / 横浜フリューゲルス
1994-1997
日本代表
1999-2000
京都パープルサンガ
2007-2009
関西学院大学

[匿名さん]

#2142019/05/27 03:34
関西学院大学卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)での選手生活を経て、1967年に指導者に転じた。1974年に日本人初のプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。新興クラブを日本サッカーリーグ1部優勝1回、JSLカップ優勝1回、天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝3回の強豪に育てあげた。日産では監督という枠に収まらない、組織づくりや環境整備といったゼネラルマネージャー的な手腕も高い評価を受けた。またウィングだった木村和司をMFとして、MFだったロペスをFWに起用し覚醒させるなど、選手の適材適所を見抜きコンバートさせる眼にも長けていた。1993年度に横浜フリューゲルスで天皇杯に優勝した後、1994年12月から1997年10月までサッカー日本代表監督を務めたが、1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の途中で更迭された。

長兄の加茂豊は毎日放送元社員でゴールキーパーとして1958年アジア大会で日本代表に選出された経験を持ち、弟の加茂建は加茂商事(サッカーショップ加茂を展開、傘下にジャパン・スポーツ・プロモーション、ソル・スポーツマネージメント)の社長である。


■選手時代

兵庫県立芦屋高等学校入学後、上級生から薦められるままにサッカー部に入部する。兄の豊はすでに日本代表にも選ばれる有名な学生サッカー選手だったが、周はまだサッカー経験はなかった。芦屋高校ではサッカーに明るい指導者がおらず、生徒たちが自分たちで練習メニューや戦術を考え、遠征の手配を行うような環境だった。

[匿名さん]

#2152019/05/27 03:36
浪人生活を経て、1960年に関西学院大学英文科に入学。入学当初はサッカー部に所属していなかったが、高校時代の2年先輩にあたる李昌碩(関西学院大学を経て、当時は関西学院大学大学院生)に説得され、2年生からサッカー部に入部する。大学では「四年まで、ずっと一軍の最後という感じで、出たり出なかったり」で「ついにレギュラーになることはできなかった」という。

大学を卒業した1964年、関学サッカー部の先輩である安達貞至に誘いを受けて、ヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)に入団。1965年に日本サッカーリーグが発足すると、1966年まで2シーズンのあいだ同リーグでもプレーし、14試合出場1ゴールを記録している。社業では貿易部に勤務していた。


■指導者時代

◇ヤンマーディーゼルコーチ

1967年、ヤンマーディーゼルサッカー部は釜本邦茂を始めとする多くの新人を迎えるのに合わせるようにスタッフ陣も刷新され、それまで主力選手だった鬼武健二が選手兼監督、加茂がコーチ、安達貞至がマネージャーに転じた。加茂は1972年まで鬼武の下でヤンマーディーゼルのコーチを務めた。

1969年、デットマール・クラマーがスクールマスターを務める3ヵ月間におよぶFIFAコーチングスクールを受講する。1970年、配属されていた貿易部が東京に移転したが、加茂は特別に大阪に残され、サッカーだけに専念できる環境が用意された。1972年、ヤンマーは同シーズンのJSL1部で初優勝を飾った。鬼武は同シーズン限りで監督を退いて、加茂を後任に据える構想を持っていたが、加茂は「釜本の存在が大きくなりすぎて、自分の考えるサッカーをこれ以上進めていくのはむずかしいだろう」と判断してヤンマーを離れた。

[匿名さん]

#2162019/05/27 03:37
◇日産自動車

1974年、日本人の指導者として初めてとなるプロ契約監督として日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)の監督に就任。クラブを日本サッカーリーグの常勝軍団にし、木村和司、水沼貴史、金田喜稔などが輩出した。日産は1972年に創部されたばかりで、加茂の監督就任当初は神奈川県リーグに所属していたが、1977年にJSL2部、1979年にJSL1部に昇格した。1981年に一度JSL2部に降格したものの、1年で1部に復帰。1983年、1984年と2年連続でJSL1部準優勝、1983年度の天皇杯では優勝した。

1984年、日本代表がロサンゼルスオリンピック予選で敗退したことにより、日本サッカー協会では森孝慈の後任として加茂を代表監督とする話が浮上した。加茂自身も代表監督就任に乗り気で、就任に備えて同年秋ごろまでには日産の総監督という立場に退き、鈴木保が後任に就いた。しかし同年10月の日本サッカー協会の会議によって、一転して森の留任が決まった。

1985年12月に日産の監督に再び就任。就任直後に行われた第65回天皇杯にて、決勝でフジタを下して2回目の優勝を果たす。長谷川健太や元ブラジル代表のオスカーを獲得し、1988-89シーズンはJSL1部、天皇杯、JSLカップの三冠を達成した。リーグ戦ではJSL新記録となる開幕11連勝により全勝で前期を折り返し、カップ戦の勝利を含めると連勝数は21にも及んだ。シーズンが終わると、加茂はオスカーを次の監督に指名し、自身は顧問という役職に転じた

[匿名さん]

#2172019/05/27 03:38
◇全日空/横浜フリューゲルス

1990年6月に全日空サッカークラブ(1992年からプロクラブ化して横浜フリューゲルス)の顧問に就任、1991-92シーズンから監督に就任した。加茂はコパ・アメリカ1989でのセバスティアン・ラザロニ率いるブラジル代表や当時隆盛を誇ったACミランのような、チーム全体をコンパクトに保ち相手にプレッシャーをかける戦術に大きく影響を受け、全日空でもそのようなサッカーを志向した。この戦術は、スロベニア人コーチのズデンコ・ベルデニックの発案をもとに、加茂が英語風に直した「ゾーンプレス」と名付けられた。ベルデニックは練習プログラムを作成するなど、ゾーンプレスを理論面から支えた。

1994年1月、第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝にて、鹿島アントラーズを延長の末に下して優勝に導いた。


◇日本代表

1994年12月1日より11ヵ月の契約期間で日本代表の監督に就任。前任のパウロ・ロベルト・ファルカン時代に「コミュニケーション不足」が問題になったことから、日本人の加茂に白羽の矢が立った。日本代表でも横浜フリューゲルス時代同様に、ゾーンプレスで追い込んで、素早く攻撃に転じるサッカーを浸透させようとした。就任直後の1995年1月にインターコンチネンタル選手権があり、チーム構築の時間的余裕がないこともあり、まず当初はファルカン時代には代表から外されていたラモス瑠偉を始めとした経験豊富なベテラン選手を中心に編成し、その後、徐々に若手選手へと入れ替えていった。

[匿名さん]

#2182019/05/27 03:39
1995年11月の契約満了を前にして、加藤久を委員長とする日本サッカー協会 (JFA) 強化委員会は「加茂続投はベストの選択ではない」と判断し、代わりにヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)監督のネルシーニョが適任という結論を導いた。加茂も一時は退任を覚悟して横浜F復帰の話が進んでいたが、JFA幹部会の判断により土壇場で加茂の契約延長が決まった。JFA会長の長沼健は会見の席で「これでワールドカップに出場できなかったら、責任を取って私が辞める」とコメントした。

1996年12月のAFCアジアカップ1996では、グループステージを3戦全勝で突破したが、準々決勝でクウェート代表に0-2で敗れた。加茂はこのアジアカップでは優勝に主眼を置かず、テスト的な場と位置づけていたが、クウェート代表戦での弱点を突かれた負け方から、協会内部では加茂に対する不信感が広がる結果になった。

1997年9月に始まった1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では、初戦のウズベキスタン代表戦に勝利、アウェイのアラブ首長国連邦代表戦に引き分けた後、3試合目となったホームの韓国代表戦にて、フォワードに替えてディフェンダーを投入する戦術的交代が裏目に出て(ある選手のマークをさせるためであったが当選手は既に交代していた)1-2の逆転負けを喫したことから、メディアやファンの間で加茂批判の声が高まった。続く10月4日のアウェイのカザフスタン代表戦でも引き分けに終わったことから、直後現地で更迭されコーチの岡田武史が監督に昇格した。予選途中での監督解任は、日本代表の歴史上初めてのことだった。

[匿名さん]

#2192019/05/27 03:40
■その後

1999年にアルビレックス新潟のアドバイザーに就任。1999年7月より京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)の監督に就任した。契約期間は2002年1月末までの2年7ヵ月だったが、2000年6月に成績不振により監督を解任された。

2001年より尚美学園大学サッカー部総監督、2003年より大阪学院大学サッカー部総監督、2007年より関西学院大学体育会サッカー部の監督を歴任。2009年には関学大を11年ぶりの関西学生リーグ優勝に導いた。2010年より関西学院大学サッカー部の総監督に就任。

また、日本放送協会(NHK)とGAORA(FCバイエルン・ミュンヘンTV)でサッカー解説を担当している。

2017年8月、日本サッカー殿堂入りが発表された。

[匿名さん]

#2202019/05/29 13:57
[ 2019年05月29日 ]

✴ 松江シティフットボールクラブ ✴

◇6月2日(日)ヴィアティン三重戦 ホームゲーム情報◇


いつも松江シティFCへの温かい応援、誠にありがとうございます。

2019年 6月2日(日)に 『 第21回日本フットボールリーグ 第9節 vs ヴィアティン三重 』 が松江市営陸上競技場にて行われます。

【第21回日本フットボールリーグ 第9節 vs ヴィアティン三重】
日  程:2019年6月2日(日)
会  場:松江市営陸上競技場(島根県松江市上乃木10丁目4-1)
対戦相手:ヴィアティン三重
開  始:13:00キックオフ


チケット価格(全席自由)


大人
前売り:800円(税込)  当日:1,000円(税込)
小人(高校生以下)
前売り:400円(税込)  当日:500円(税込)

試合前日までのご購入の場合は前売り価格での販売を行います。
また、試合当日は会場にてチケットの販売を行います。※当日料金での販売となります

※島根県内の小学生以下のお子さまには「ふるさとしまね こどもえがお応援パス」を発行いたします

[匿名さん]

#2212019/06/03 00:25
デットマール・クラマー(ドイツ語: Dettmar Cramer, 1925年4月4日 - 2015年9月17日)は、ドイツのドルトムント出身のサッカー選手、サッカー指導者。デトマール・クラマーと表記されることもあった。


■生年月日
1925年4月4日
ドルトムント
没年月日
2015年9月17日(90歳没)


■監督歴

チーム
◇1960-1963
日本 (顧問)

◇1964-1966
ドイツ (assistant)

◇1971-1974
エジプト

◇1974
アメリカ合衆国

◇1974
ヘルタBSC

◇1975-1977
FCバイエルン・ミュンヘン

◇1977-1978
アイントラハト・フランクフルト

◇1978-1981
アル・イテハド

◇1981-1982
アリス・テッサロニキ

◇1982-1985
バイエル・レバークーゼン

◇1984-1985
マレーシア

◇1991-1992
韓国 U-23

◇1997
タイ



クラマーは日本サッカー界初の外国人コーチであり、サッカー日本代表の基礎を作り日本サッカーリーグの創設にも尽力したことから「日本サッカーの父」と称された。

[匿名さん]

#2222019/06/03 00:28
■来歴

クラマーはドイツのウィクトリア・ドルトムント(Viktoria Dortmund)やSGゲルマニア・ヴィースバーデン(英語版)などで選手としてプレーしたが、怪我のために引退した。

クラマーは、指導者としては西ドイツユース代表監督を務めた時期にフランツ・ベッケンバウアーをユース代表に抜擢し、公私両面で指導した。

1960年、クラマーは1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため、その代行監督として招聘された。日本サッカー協会は代表強化のために外国人監督を招くことを検討しており、成田十次郎の仲介や会長である野津謙の決断で実現した人選だった。

[匿名さん]

#2232019/06/03 00:29
羽田空港でクラマーを出迎えた岡野俊一郎が、クラマーを日本サッカー協会が手配していた宿泊先の山の上ホテルに連れて行こうとしたところ、「日本代表チームのみんなはどこにいるのですか」と尋ね、本郷の、岡野曰く「修学旅行生が使うような旅館」であることがわかると、「すぐ、そっちへ行く」と言い出し、岡野が選手は布団で寝て、朝食はご飯、生卵、塩鮭に味噌汁、昼はどんぶりもの、などと説明したうえで「いきなり日本の生活に入るのは無理だ」と説得しても、「選手と同じ生活をしなくて、どうして選手の気持ちが分かるんだ。明日からはそっちに行かせてもらう」と頑として譲らず、また当時練習場として借りていた、東京大学の本郷キャンパス内にある御殿下グラウンドが凸凹の土のグラウンドであったにもかかわらず、「何も言わずに、すぐ指導に入ってくれた」という。それまで、各地域別、大学別のコーチ術しかなかった日本に、世界に通用するコーチ学をもたらし、正確なパス、トラップなどの方法から、インステップキックはどう蹴る、インサイドキックはどう蹴るなど、育成に必要な基礎を教え込み、「一番重要なのは試合。そのために実戦練習が必要であり、それをやるための基本ができていないところがあるので、基本をやろう」と、基本動作、応用動作、実戦を織り交ぜつつ、かつ個人に応じたトレーニングも設定した。

クラマーも、自ら手本となるプレーを見せて実技指導を行った。初歩的な練習の繰り返しに対しては批判もあったが、方針を変えることはなかったという。当時のクラマーの教え子に釜本邦茂、杉山隆一らがいた。

[匿名さん]

#2242019/06/03 00:30
当時日本では知られておらず、専用の道具もなかったテーピングを岡野が入手した大きな絆創膏を代用して行ったり、自ら選手用の薬を調合することまでしていた。練習は厳しかったが選手を大事にしていたことから、選手達はクラマーに心酔し、後にメキシコ五輪代表のキャプテンとなった八重樫茂生も岡野に対し「岡野さん、僕はクラマーのために戦うんです!」と言ったという。またその岡野とも、クラマーの実母も含め生涯兄弟同然の交流を続けた。

1964年の東京オリンピックでは、サッカー日本代表はアルゼンチン代表を破るなどでベスト8の成績を残した。


東京オリンピックが終わった後、任期を終えたクラマーは帰国に当たって5つの提言を残した。

・強いチーム同士が戦うリーグ戦創設。

・コーチ制度の確立。

・芝生のグラウンドを数多く作り、維持すること。
・国際試合の経験を数多く積むこと。代表チームは1年に1回は欧州遠征を行い、強豪と対戦すること。

・高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。


— 三上孝道「日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉」

[匿名さん]

#2252019/06/03 00:32
クラマーのこれらの提言は、1965年の日本サッカーリーグ発足など長沼健らによって全て実行に移された。クラマーはその後も釜本のドイツ留学を実現させるなど、日本のサッカーに貢献した。そのクラマーの指導を受けた選手・コーチを中心に構成された長沼健監督率いる日本代表は、メキシコオリンピックで銅メダルを獲得した。この試合を観戦していたクラマーは日本代表の活躍を喜んだという。

クラマーは1967年にFIFA公認トレーナーとなり、1969年に日本で開催されたFIFA・AFC・JFA共催の「コーチングスクール」を指導した。

1975年から1976年、クラマーはFCバイエルン・ミュンヘンを率いてUEFAチャンピオンズカップで優勝した。その際、人生最高の瞬間ではないかと問われたものの、「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがなかったのです。」と答えた。


クラマーは「言葉の魔術師」とも呼ばれ、数々の名言を残している。


「サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする。」


— めざせ!ベストサポーター

[匿名さん]

#2262019/06/03 00:33
しかしその一方で口は相当悪かったらしく、コーチと兼任でクラマーの通訳も担当していた岡野が度々出るクラマーの罵言雑言を意訳するのに苦労した経験(直訳で伝えると、怒鳴られた選手はショックを受け、その場で泣き出すほど酷かったという)から、会長時代にクラマーと同じく短気で直言癖があるフィリップ・トルシエ監督の通訳を担当する事となったフローラン・ダバディーに「トルシエの汚い言葉は意訳して伝えろ、難しければ訳さなくて良い。」と注意していた。

2005年、 クラマーは日本サッカー協会が制定した表彰制度「日本サッカー殿堂」の第1回受賞者となった。また2011年にはドイツサッカー連盟(DFB)からDFB名誉賞を受賞した。

2015年9月17日、クラマーはバイエルン州のライト・イム・ヴィンクル(英語版)でその生涯を閉じた。クラマーの来日は2011年、JFA 創立90周年記念パーティーに来たのが最後の来日となったが、その時点で既に式典中立っておられず、岡野がずっと体を支えていなければならないほどだった。クラマーは岡野に2か月に1度のペースで電話をしていたのが、晩年には1か月に1度のペースとなり、第二の故郷である日本に行きたがっていたという。

クラマーが亡くなった翌日の9月18日、日本プロサッカーリーグ (Jリーグ) は9月19日および20日に開催される全公式戦でクラマーに対する黙祷を行った。



■参考文献


◇『日本サッカーは本当に強くなったのか』
大住良之・後藤健生:中央公論新社、2000年


◇『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』
中条一雄:ベースボール・マガジン社、2008年

[匿名さん]

#2272019/06/05 00:18
[ 1968.10.24 ] メキシコシティー

□■SAMURAI BLUE■□

【メキシコオリンピック】

メキシコオリンピック代表 🆚 日本代表

0 対 2

0 前半 2
0 後半 0

◇GOAL 釜本邦茂 18´, 39´


[ メンバー ]
■日本代表

GK 横山謙三
片山洋
山口芳忠
鎌田光夫
森孝慈
小城得達
宮本輝紀
渡辺正
松本育夫
釜本邦茂
杉山隆一


◇[SUB]
GK 浜崎昌弘
八重樫茂生
宮本征勝
鈴木良三
桑原楽之
富沢清司
湯口栄蔵



◇監督 長沼健


■メキシコオリンピック サッカー 結果

1968/10/14 プエブラ
日本代表 3-1 ナイジェリア代表
1968/10/16 プエブラ
日本代表 1-1 ブラジルオリンピック代表
1968/10/18 メキシコシティー
日本代表 0-0 スペインオリンピック代表
1968/10/20 メキシコシティー
日本代表 3-1 フランスオリンピック代表
1968/10/22 メキシコシティー
日本代表 0-5 ハンガリーオリンピック代表
1968/10/24 メキシコシティー
メキシコオリンピック代表 0-2 日本代表

[匿名さん]

#2282019/06/05 02:18
ねろ!

[匿名さん]

#2292019/06/07 20:08
現在、島根県1部2位!

[匿名さん]

#2302019/06/10 00:33
八重樫 茂生(やえがし しげお、旧名:茂夫、1933年3月24日 - 2011年5月2日)は、岩手県和賀郡東和町(現・花巻市)出身(朝鮮・大田生まれ)の元サッカー選手・監督。選手時代のポジションはフォワード、ミッドフィルダー。


◇生年月日
1933年3月24日
◇没年月日
2011年5月2日(78歳没)
◇身長
174cm
◇体重
69kg

■選手情報
◇ポジション
FW/MF

◇ユース
1949-1951
岩手県立盛岡第一高等学校
1952-1953
中央大学
1954-1957
早稲田大学

■クラブ
出場
(得点)

1958-1969
古河電工
51
(14)

■代表歴
1956-1968
日本
44
(11)

■監督歴
1967
古河電工
1970
日本ユース代表
1973-1981
富士通
1985-1991
富士通

◇獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
銅 1968 サッカー


■出場大会
・メルボルンオリンピック
・アジア競技大会 (1958、1962、1966)
・1962 FIFAワールドカップ・予選
・1964年東京オリンピック(ベスト8)
・メキシコシティオリンピック(銅メダル)

◇試合数
国際Aマッチ 44試合 11得点(1956-1968)

[匿名さん]

#2312019/06/10 00:36
■【伝説のキャプテン】

盛岡一高時代は工藤孝一の指導を受け、1951年の全国高等学校サッカー選手権大会に東北代表として出場。FWでプレーしたが、1回戦で高知農業に敗退。同年5月の天皇杯では盛岡サッカークラブのメンバーとして参加し、こちらも1回戦で敗退。高校卒業後の1952年に中央大学へ進学し、同年の関東大学サッカーリーグで新人王を獲得。その後は工藤が監督を務める早稲田大学に編入し、関東大学リーグ優勝3回・東西学生王座決定戦2回・大学選手権優勝1回に貢献。当時学生ナンバーワンと言われた早大の原動力となり、在学中に日本代表入り。1956年のメルボルンオリンピックに出場した。

[匿名さん]

#2322019/06/10 00:37
卒業後の1958年に古河電気工業へ入社し、サッカー部の黄金時代を築く。1960年に西ドイツ・デュースブルクのスポーツシューレでデットマール・クラマーに会い、初めて指導を受けた。1963年には第3回日本年間最優秀賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞し、東京オリンピック(1964年)ではベスト8進出に貢献。1965年に日本サッカーリーグ(JSL)が発足すると、ベテランならではの味のあるプレーを見せ、1967年には選手兼任監督を務めた。メキシコシティオリンピック(1968年)では主将として出場したが、初戦のナイジェリア戦でラフプレーを受けて、靱帯断裂の怪我を負った。残り試合出場は不可能となり、その後は松葉杖をつきながら全18人のユニフォームを1人で洗うなど選手をサポートし、銅メダル獲得に貢献。1969年にはFIFAコーチングスクール(千葉・花見川)でクラマーの助手を務めた。同年引退。その後は日本ユース代表監督(1970年)・ミュンヘンオリンピック日本代表コーチ(1971年)を経て、富士通サッカー部で総監督(1973年 - 1976年, 1989年 - 1991年)・監督(1977年 - 1981年, 1985年 - 1988年)を歴任し、チームの基礎を固めた。

Jリーグ発足後はジェフ市原の育成部長・スーパーバイザーを歴任し、2005年には第1回日本サッカー殿堂入り。2006年からグルージャ盛岡のスーパーアドバイザーを務めていた。

2011年5月2日、東京都多摩市の日本医科大学多摩永山病院で78歳で没。

八重樫の死の翌日、ジェフユナイテッド市原・千葉は喪章をつけて試合に臨んだ。

[匿名さん]

#2332019/06/17 00:01
長沼 健(ながぬま けん、1930年9月5日 - 2008年6月2日)は、広島県広島市中区袋町出身の元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督である。1994年より第8代日本サッカー協会会長を4年務め、その後同協会最高顧問のほか日本フットサル連盟名誉会長、日本ハンディキャップサッカー連盟会長、日本体育協会副会長、埼玉スタジアム2002場長、NPO法人日本知的障害者サッカー支援機構顧問を務めた。



◇生年月日
1930年9月5日
◇出身地
広島県広島市袋町
◇没年月日
2008年6月2日(77歳没)

■選手情報
◇ポジション
FW
◇代表歴
1954-1961
日本の旗 日本
4(1)


■所属クラブ
1946年-1949年 - 広島高等師範学校附属中学校・高校
1949年-1953年 - 関西学院大学
1953年-1955年 - 中央大学工学部(理工学部)
1955年-1966年 - 古河電工
指導者歴
編集
1962年-1976年 - 日本代表監督(一部現役時代と重複)
1972年-1974年 - 日本サッカー協会技術委員長
1974年-1976年 - 日本サッカー協会理事
1976年-1987年 - 日本サッカー協会専務理事
1987年-1994年 - 同 副会長
1994年-1998年 - 同 会長
1998年-2002年 - 同 名誉会長
2002年- 同 最高顧問


■個人成績
◇出場大会
オリンピック
男子 サッカー

1968
サッカー

◇アマチュア時代
1947年 全国中等学校選手権(優勝)
1948年 国民体育大会(優勝)
1950年 全日本選手権大会(優勝)
1953年 ユニバーシアード
1954年 ワールドカップ地区予選

◇実業団時代
1956年 メルボルンオリンピック
1960年 天皇杯(優勝)

◇代表監督時代
1964年 東京オリンピック
1968年 メキシコオリンピック(銅メダル獲得)

■代表歴
◇試合数
国際Aマッチ 4試合 1得点(1954-1961)

[匿名さん]

#2342019/06/17 00:12
■若年時代

生まれた年の1930年はW杯の第1回大会が開催された年でもあった。

実家は広島の老舗電気工事業・長沼電業社。祖父の長沼鷺蔵は賀茂郡御園宇村(現・東広島市)出身の広島藩士で、戊辰戦争の際に結成された「神機隊」の参謀。明治維新後、廣島県警察部に奉職し刑事係を務めた後、数々の事業を起こしその一つが長沼電業社であり、のち広島有数の実業家となり、広島市議会議員などの要職を務めた。父親、実兄もサッカー選手。広島は野球が非常に盛んな地域であるが、進学した旧制広島高等師範学校附属小学校(現・広島大学附属小学校)には野球班(部)がなく、小学校時から自然にサッカーを始めた。

1945年15歳の夏、原爆投下の日には広島市内中心部にあった学校での防空当番が前夜にあり、当日7時までいて、その後8キロ西北の疎開先、現在広島ビッグアーチがある付近・沼田(現・安佐南区沼田)まで自転車で帰る途中、家に着く直前被爆した。ちょうど山蔭に入ってところで一命をとりとめた。30分帰りが遅かったら直下だった。1週間後、帰ってこない村人の捜索のため市内に入り地獄絵を見る。「あんなにたくさんの死体をいっぺんに見た人は世界にもそんなにいないと思いますよ。それも誰が誰だか分からないんだから」と話していた。多くの知人・級友を亡くし、自らも亡くなるまで白血球過多で苦しんでいた。その為、被爆者手帳を持っていた。後年、海外遠征すると「お前のネイティブタウンはどこだ」と聞かれ「広島です」と答えると、みんな原爆のことは知っていて、「お前は何で生きてるんだ」と驚かれた。外国では広島市民は全員死んだという認識であったという。

[匿名さん]

#2352019/06/17 00:13
■学生時代

終戦後、焼け野原となった町でグラウンドの整地、食糧調達、器材の作製などを自分達で行い、1個だけのボールを縫いながらサッカーに打ち込みボールを追った。戦争で中断されていた全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)が1947年に復活。長沼は旧制広島高等師範学校附属中学(現・広島大学附属高校)のエースFWとしてチームを戦後初の優勝に導いた。チームは相手の虚を突くパスワークに抜群の冴えを見せ、ボールを両足で自由に蹴れるのはこのチームだけだったと言われている。

特にFWの3人、のち“アジアの黒豹”と謳われた木村現、樽谷恵三、長沼の速攻は当時の学生レベルでは止められなかった。5-0、4-0、5-0、7-1と4試合で21得点を叩き出し、得失点差は20。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残る。同チームの右ハーフバック(HB)だったのがヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)創設者・古川能章。この大会の初戦で、のち長らく盟友となる東京都立五中学(現・都立小石川高校)の岡野俊一郎と対戦している。翌1948年、国体でも優勝。

1949年、長沼ら新制広島高等師範学校附属高校のメンバー8人が卒業後関西学院大学入りし1950〜1952年、関西学生リーグ3連覇、1950年大学王座、関学の黄金時代を築いた。関学への進学は親戚の手島志郎のアドバイスによるもの。1950年は、長沼ら現役大学生メンバーと鴇田正憲らOBを加えた全関学が全日本サッカー選手権大会(天皇杯の前身)で慶應義塾大学を6-1で降して優勝。

[匿名さん]

#2362019/06/17 00:14
1953年、関西学院大学を卒業するとさらに大学でサッカーを続けるためと、電気関係の家業を将来継ぐためもあり、関東学生リーグで前年2位であった中央大学の3年(学部は当時の工学部)に編入。4年次には主将を務め100人の部員を統率し、全日本大学サッカー選手権大会2年連続準優勝に導いた。

中央大学時代の1953年には西ドイツ・ドルトムントで開催された第3回国際学生週間(ユニバーシアードの前身)に初めて日本学生代表として岡野、平木隆三ら17名と参加、約2ヶ月にわたってヨーロッパを転戦した。これは竹腰重丸技術委員長の提唱で、日本サッカーの復興のため若い人の視野を広げて将来に役立ててもらおうと企図されたもので試合、ホームステイの他、オペラ、美術館などを見てまわった。しかし当時の蹴球協会には金はなく参加費用は自腹(個人負担+出身校や都道府県協会の募金)だった。この頃ドイツの街もまだ戦禍が生々しかったが、あちこちに見事な芝があった。日本には神戸と横浜の外国人クラブにしか芝のグラウンドは無かった。

1954年には、日本が初めてワールドカップ地区予選に参加した第5回スイスW杯予選の日本代表(当時の名称は全日本)に選出される。3月7日、スイスW杯予選グループ13初戦の雪の神宮競技場(現・国立競技場)の対韓国戦で記念すべきW杯予選における日本代表の第1号ゴールを決める。この試合は日韓宿命の対決、サッカー日韓戦の第1戦、第1号ゴールでもあった。この頃日本サッカーの目標はオリンピックであり、長沼はワールドカップとは何かよく分からずやっていたと言う。この頃の日本サッカーはそのような時代であった。

[匿名さん]

#2372019/06/17 00:15
■古河電工へ

中央大学卒業後の1955年、家業が古河電工の製品を東洋工業(現マツダ)や中国電力に納める仕事をしていた縁故もあり、当時関東実業団リーグ2部に転落していた古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)へ入団。当時の古河電工サッカー部は、創部10年を経てはいたものの、アイスホッケーの選手も混じる同好会レベルのチーム。本格的なサッカー選手は長沼ら数人だけだった。この頃、社会人スポーツはまだ熱気がなく「スポーツは学生まで」という考えが日本では主流だった。古河は他の企業よりもスポーツに関して理解が深く、「社員の志気を高めるために」と社長が号令をかけて、バレーボール部とサッカー部に力を入れることになり、サッカー部の強化を一任されたのが長沼だった。「スポーツは学生まで」という考えを改めなくてはいけないと、毎年毎年、いい選手を獲ってくれと会社に要請した。社業が第一、毎日5時まで仕事をして練習となるが、自前のグラウンドはなく、ボールは蹴らず、皇居の周りを何周も走るだけ。二重橋前の手入れの行き届いた芝生公園を見ながら「あそこで蹴れたら気持ちがいいだろうな」と思いながら走った。ボールを蹴るのは週末のみ、毎回違う郊外のグラウンドを借りてボールを蹴った。ここでもエースフォワードとして活躍し、すぐに関東実業団リーグ2部優勝、1部昇格に導く。「長沼を中心に何か始めるらしい」と知った平木隆三は1957年、湯浅電池を円満退社して古河電工へ移ったほどであった。長沼は古河電工に入社した1955年に読売新聞社の後援で新設された全国都市対抗サッカー選手権大会に「東京クラブ」のメンバーとして出場して優勝している(翌年も)。

[匿名さん]

#2382019/06/17 00:16
1956年、メルボルンオリンピック日本代表に選ばれたものの下痢を発症し隔離病棟に拘束され、その間にチームは1試合で敗退した。1958年、東京アジア大会日本代表。1959年、28歳の若さで古河電工のプレイングマネージャーとなり同年実業団、都市対抗の2冠に輝いた。

翌1960年、古河電工を実業団チームとして初めて天皇杯を制覇、日本一に導く。それまでの学生サッカーの時代から、社会人サッカーの時代の始まりだった。更に翌1961年は史上初の3冠(全日本(天皇杯)、実業団、都市対抗)を達成しこの年新設された、第1回日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。

親分肌かつ人柄の良さから長沼のまわりには自然と人が集まってきたといわれ、長沼が関学、中大、古河電工と移るとともに日本サッカー界の勢力地図が塗り替えられていき、古河を強豪にしたことによって八重樫茂生、宮本征勝、川淵三郎、木之本興三、清雲栄純、岡田武史らのちの重要人物が古河入りすることになった。彼らは「長沼一家」と呼ばれた。『古河電工サッカー部史』は、「長沼が古河に入社してなかったら、歴史は変わっていただろう」と書いている。

この頃古河のプレイングマネージャーだった長沼は日本代表入りを辞退し続けたといわれ、代表出場試合数は多くはない。1960年に来日したデットマール・クラマーが、長沼の指導者としての能力に目を付け、強引に代表試合に出場させたといわれている(1961年11月28日、対ユーゴスラビア代表)。

[匿名さん]

#2392019/06/17 00:19
■日本代表監督就任

1962年、この頃のサッカーはまったく人気が無く日本代表(当時の名称は全日本)の監督といえば、ある程度の年配者が当たり前だったが、同郷で当時日本サッカー協会会長だった野津謙が大英断を下し、まだ現役選手でありながら33歳で日本代表監督(コーチ・岡野俊一郎(32歳))に抜擢される。これは日本サッカー近代化のスタートだった。1962年12月9日に行われた日本代表対スウェーデン選抜戦が、当時まだ30代前半だった長沼監督&岡野俊一郎コーチ・コンビのデビュー戦で、同時に最古のサッカー日本代表のサポーター組織・日本サッカー狂会のデビュー戦でもあった。新体制下では、クラマーが技術面や戦術面でチームを牽引し、岡野がそれを補佐。そして人望の厚い長沼が選手を束ねるという適確な役割分担が機能し、日本代表は短期間で見違えるような進歩を遂げた。当時の日本代表チームは、東京に本拠を置く「丸の内御三家」の東のグループと、東洋工業と八幡製鉄の広島出身者を中心とした西のグループとがあってお互い仲が悪かったが、長沼が広島出身で西のグループにも崇拝されていたため和が保たれたといわれる。

長沼は日本代表監督として1964年、東京オリンピックの対アルゼンチン戦での勝利は日本に空前のサッカーブームを起こし1968年、メキシコオリンピックでも銅メダル獲得の偉業を達成した。長沼と岡野は二人で、代表選手の所属チームとの交渉、スカウティング、マッチメイク、広報活動等を行い代表チームの強化とサッカー普及に尽力した。クラマー-長沼-岡野の共同作業は、ほぼ何も無い土地に種を蒔き、開化させることに等しかった。

[匿名さん]

#2402019/06/17 00:30
クラマーの提案を受け1965年から発足した日本サッカーリーグ(JSL)の創設にも岡野、西村章一、重松良典らと尽力。長沼はこの時もまだ現役選手だった。クラマーの提案は、ドイツの北部・南部・西部3リーグ制の地域リーグであるレギオナルリーガを想定していたが、新幹線と在来線を乗り継げば「全国リーグ」が出来ると反撥したのは長沼たちであったという。アマスポーツの全国リーグは初めてのケースで、他の競技団体からも大きな注目を浴びた。アイスホッケー、バスケットボール、バレーボールの全国リーグが翌年から追随した。JSL創成期の苦労は現在とは比べ物にならない程過酷なもので、広島などへの遠隔地への試合では「われわれには夜行列車があります」と社業に差し支えると渋る会社と交渉。週末に移動し日曜に試合をこなし、夜行で帰り月曜の朝、東京駅に着くとそのまま丸の内の会社に出社し仕事をした。部員には「絶対に寝るな」と釘を刺したという。リーグが始まって社内でも「いくら何でもかわいそうだ」という声が出て、月曜の午前中は休める会社も出てきた。それがセミプロ化への流れを作ったのではないか、と長沼は話している。その後古河は、サッカー部を廃部するという時期があったが、長沼の存在があったから廃部を救えたという。

1966年、日本代表を連れヨーロッパ遠征中、せっかくだから選手にワールドカップを見せてやろうとドーバーのインド人が経営する安宿に泊まり、ワールドカップイングランド大会を自身も初観戦。またドイツ遠征中、アディダス社のアディ・ダスラー(アドルフ・ダスラー)に代表選手のシューズを作ってもらう。これが現在、麒麟麦酒(キリンビール)・キリンビバレッジと両輪で日本代表を支える有力スポンサー・アディダスと協会との長きに亘る付き合いの始まりであった。

[匿名さん]

#2412019/06/17 00:31
また、長沼は後年キリンビールのスポンサー獲得も実現させている。天皇杯の決勝戦が元日国立競技場開催になったのは、明治神宮に250万人の参拝客が来るので、初詣帰りの1%でも来てもらえないか、と思案して変更したものという。1969年、日本で開催されたFIFA・AFC・JFA共催コーチング・スクールでクラマーの助手を務め、世界初のFIFAコーチライセンス[要出典]取得。1970年、野津のお供でワールドカップメキシコ大会を視察。この時はロイヤルボックスで観戦し、当時の国際サッカー連盟(FIFA)会長・スタンリー・ラウスから話が出たというワールドカップ日本招致の話を野津から聞く。ワールドカップ日本招致を野津に進言したのは長沼だともいわれるが、長沼は反対していたとも言われ、この辺の経緯は不明。1960年代から海外遠征時にサッカー協会には内緒で試合のギャラを選手に還元していたという。1972年、日本蹴球協会技術委員長。1974年、同理事となり協会の法人化(財団法人日本サッカー協会に名称変更)にも奔走。日本代表監督は1976年まで歴代最長の11年間指揮を執った。この頃の代表監督は契約でなく、協会の組織の中の役職のため無報酬だった。

[匿名さん]

#2422019/06/17 00:33
■日本サッカーの改革者として

代表監督を退任したこの年、医者の野津謙サッカー協会会長では将来が望めないと岡野・重松らと野津会長=小野卓爾専務理事体制の刷新を画策。三菱化成工業(現・三菱化学)社長だった篠島秀雄に会長就任を要請した。しかし篠島が1975年急逝したため篠島から推薦されていた平井富三郎(元・新日本製鐵社長)を新たに担ぎ、野津会長の後継とした。自身も専務理事となり平井会長=長沼体制として実質的に日本サッカーのリーダーとなる。平井はサッカーには明るくなかったが、平井を迎えたのは財政の確立が至上命令であったためで、財政の確立を平井会長に進言したのは長沼である、長沼が大会社のトップを間近に見て経営の心得を実地に学んだことは大きな意味を持った。これらはサッカー誌などで「76政変」「長沼のクーデター」「無血クーデター」などと呼ばれている。「無血クーデター」というのは、この交代が揉めずにすんなり行われたため。野津らも世代交代の時期と考えていたのではといわれている。長沼がリーダーとなったことで、半世紀以上も続いてきた大学リーグ中心のサッカー協会が日本リーグを中心とする社会人チームの関係者の手に移るという大きな分岐点であった。また「丸の内御三家」の影響力がさらに強まることとなった。長沼は、平井富三郎、藤田静夫、島田秀夫と3代の会長を立てながら、実質的に激動期の改革を主導した。この頃、早稲田大学の同好会でサッカーに興じていた岡田武史を呼びつけ同大学蹴球部に入部させたという逸話も残る。加茂周の日産自動車サッカー部監督就任は、長沼らの仲介によるもの。

[匿名さん]

#2432019/06/17 00:34
また協会の運営を円滑に進めるため、古河の経理部門にいた小倉純二を抜擢した。小倉が「国際派」となるのは、1981年に古河電工のロンドン支店に転勤になった小倉に長沼が「日本サッカー協会国際委員(在ロンドン)」と書かれた名刺を持たせてからである。

当時の日本サッカー協会には財源確保という大きなテーマがあった。長沼はFIFAや欧州のクラブ組織を参考に、以下の3つを柱として協会の組織改革する。

FIFAの組織に準じた専門委員会の改編。
FIFAに先じた個人登録制度(のち年齢別登録制に変更)の導入。個人登録制度は長沼が平井会長に提案して、平木隆三と共に計画を練り、大谷四郎にも相談して発足させたもの。選手個々から登録料を徴収するという提案は中体連から「子供たちから金を取るのか」などと、強い抵抗を受けたが1978年から実施した。付随して日本のスポーツでは初めて、天皇杯を日本のすべての加盟チームに門戸を開いた。
自転車操業ともいわれた当時のサッカー協会の慢性的な赤字体質からの脱却。オフィシャルサプライヤー制度を始め、デサント、アシックス、プーマと契約。1977年に結成した「日本サッカー後援会」の会費と個人登録制度、国際試合の興行収入、日本体育協会からの補助金と合わせ財政基盤確立をもたらした。
同年、組織的に選手を発掘し育成するナショナル・トレーニング・センター制度を発足。この年電通から持ち込まれたペレの引退試合を国立競技場で開催、観衆6万5000人を集め、国立競技場が初めて満員になったといわれ、7000万円の純益を出した。協会が手掛けた初めての大きな興行で、1978年から実施した個人登録制度導入と合わせ以降、日本サッカー協会は赤字体質から脱却した。

[匿名さん]

#2442019/06/17 00:35
この年を境に協会は一度も赤字になることはなく、Jリーグ発足直前には40億円の金があったといわれている。同じ年、全日本少年サッカー大会をスタートさせ全国高等学校サッカー選手権を国立競技場での決勝など首都圏開催へ移す。また日本体育協会にこれも先じて長沼が企画して始めたコーチングスクール開催、また、協会の有力スポンサー、のちのトレーニングセンター建設などで、ユース世代の指導がスムーズに行われるようになった。日本でもコーチのシステムをつくった方がいいというクラマーのアドバイスを受けて、コーチングスクール開催等、それを具体化したのは全て長沼だった。岡野は「財政が豊かでないときに、とにかくやらなければ将来の日本はないんだということでスタートさせた、指導者をきちっとしたシステムの中で育てていかなければいけないんだというのが、健さんの一番大きな功績だったと思います」と述べている。また、協会の有力スポンサーにキリンビールが付いたのは長沼が当時、原宿の協会の部屋の窓から線路を挟んで目と鼻の先にかつて本社のあったキリンビールに「ああいう(大きな)会社に支援をお願いできないものか」と思案したのが始まりである。

1978年から始めて当初赤字を出したジャパンカップのスポンサー探しに、キリンビール社員で審判員だった久保田秀一に案件を依頼。久保田の尽力で長沼は岡野と共に代理店なしで当時の同社・小西秀次社長に直談判し冠スポンサーを実現させ、同大会は1980年第3回大会からキリンカップサッカーと名称変更となった。インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)日本開催実現にも協力する。1977年、セルジオ越後らの提言を受け日本ミニサッカー連盟(現在の日本フットサル連盟)発足。

[匿名さん]

#2452019/06/17 00:36
1981年に日本代表監督に就任した森孝慈の要請に応え、それまで勝利給はおろか日当さえも出なかった代表チームの報酬金 や宿泊ホテルを改善。これは1983年から韓国Kリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになった影響がある。1983年、木之本のJSL事務局長抜擢に尽力した。1984年、日本のサッカー界初の引退試合「釜本邦茂引退試合 ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜」(国立競技場)開催に尽力。

[匿名さん]

#2462019/06/17 00:37
■Jリーグ創設への舵取り

1987年、日本サッカー協会(JFA)副会長就任。同年、エリザベス2世が名誉総裁を務めるイングランドサッカー協会に倣い、高円宮憲仁親王を名誉総裁に迎える。

1989年、FIFAに2002年ワールドカップ開催の意思を伝える。森健兒、石井義信、木之本興三らと、のちに川淵が中心となって進めたプロ化推進では難色を示す長老が多くこのままでは頓挫してしまうと判断、長沼は協会内にプロ化検討委員会の設置を提案し自ら委員長(プロリーグ対策本部長)に就任、プロ化反対派に対する防波堤となり川淵らを強力にバックアップしJリーグを実現させた。博報堂がJリーグを手掛けることになったのは長沼からのリンクであるという。

また愛知県は当初、Jリーグ参加に難色を示していたが、地域性から全国リーグの格好が付かないと、トヨタカップで付き合いのあった豊田章一郎に熱弁を振るいトヨタ自動車の出馬を懇請、さらに名古屋グランパスエイトから企業名を外させた事も極めて大きな意味があった。1991年、川淵を日本代表強化委員長に抜擢。日本代表のW杯出場への挑戦が、現実的な目標となったのはこの時から。

[匿名さん]

#2472019/06/17 00:38
1993年、日本体育協会会長代行。古河での出世のチャンスを拒み長らくサッカー協会会長職も固辞したといわれる。関係者が皆「健さんの頼みは断れない」と口を揃える磊落型の親分肌で知られた長沼は1994年、64歳で漸く日本サッカー協会会長に就任。日本代表監督経験者としては初の会長就任となった。

その後ハンス・オフト、パウロ・ロベルト・ファルカンの招聘、そして1998年フランスW杯予選途中での加茂周監督更迭、岡田コーチの昇格を英断し、ジョホールバルの歓喜・日本サッカー悲願のW杯初出場をもたらした。

また2002年日韓W杯招致では、世界30ヶ国、延べ75万キロ、地球19周を飛び回り開催を実現させた。

[匿名さん]

#2482019/06/17 00:38
1996年5月31日、2002 FIFAワールドカップの日韓共催が決定し、直後に試算した結果、2か国開催によって「収入は半減・支出は不変」となることから2002年日韓W杯は赤字になると見込まれた。その赤字の補てんの為に、日韓W杯の収支試算が出た直後からJFA内で資金(ストック)を貯めていった。1997年、JFAは協会設立75周年を機に「JFAアクションプラン」を策定した。その中に、当時JFA会長だった長沼は「自前のJFAハウスを持つ」と明記した(それまでJFAの事務所は常に賃借だった)。もちろん、長沼もすぐに実現するとは思っておらず、遠大な目標のつもりだった。ところが、実際に日韓W杯が終了すると、日本W杯組織委員会(JAWOC)は約130億円の黒字を計上した。その黒字の一部とJFAが日韓W杯の赤字補てんに備えて貯めていた資金(ストック)を合わせて、JFAは三洋電機株式会社が所有していたビルを2003年に購入した。この時、長沼は既にJFA会長ではなかったが、長沼が遠大な目標としてJFAアクションプランに「JFAハウスを持つ」と記してからわずか6年後に目標が実現したのだった。同年9月、この日本サッカー協会ビル(JFAハウス)にJFA事務局が移転し、同時に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)、日本フットボールリーグ(JFL)、日本女子サッカーリーグなど国内のサッカー事務局や関連企業も都内各地などから移転し、同年12月22日に2002年W杯を記念した日本サッカーミュージアムを開設した。困窮の時代のサッカー協会を切り盛りしてきた長沼にとってJFAハウスは長年「いつかは」と抱き続けた夢だった。

[匿名さん]

#2492019/06/17 00:39
戦後日本サッカー史の歴史を変える局面全てに立ち会い、しかも重要な役割を果たしてきた人物。長沼の人生は日本サッカーの苦悩と葛藤のクロニクルそのものであった。

デットマール・クラマーは 「私は日本サッカー界に偉大な貢献をしたと言われますが、それはとんでもない話。ナガヌマのほうがはるかに素晴らしい人でした」「私はあくまで招待されたアドバイザー。銅メダル獲得には、長沼の貢献のほうが大きかった」と話している。スポーツ報知は「今でこそ、サッカーは野球と並ぶ人気スポーツの地位を確立したが、長沼は、その礎を築き上げた最大の功労者」と評している。

[匿名さん]

#2502019/06/17 00:40
■長沼路線の功罪

フランスW杯予選前に、川淵に任命された加藤久強化委員長が加茂監督では、アジア予選を勝ち抜けないとして同監督を更迭し、後任監督をネルシーニョに決定した。当時のJFA規定では強化委員会が日本代表監督の評価を行うと明記されていた。契約交渉は最終段階に入り、残りは条件面を詰めるだけになっていたのにも関わらず、W杯誘致運動から帰国した長沼は"鶴の一声"で加茂続投を決めてしまった。さらに、その決定過程を記者会見で上手く説明出来なかったばかりか「加茂でフランスに行けなかったら辞任する」と発言したものの、加茂更迭時に自らは会長職にとどまった。更に契約交渉の最終段階で、日本代表監督契約を突然白紙撤回されたネルシーニョが"日本サッカー協会には腐ったミカンがいる"と長沼を非難したことも物議を醸し、マスメディアを大いに賑わせた。長沼が専務理事だった1984年に、当時日産自動車を率いて日の出の勢いだった関学の後輩・加茂を日本代表監督の候補に挙げながら、梯子を外した借りがあり、1992年のオフト招聘の際も、川淵強化委員長の推すオフトより加茂を抜擢したかったといわれる。また日本単独開催を目指していたW杯が、政治的妥協の結果、韓国との共催となり韓国に譲歩しすぎた事も当時極めて強い批判を受けた(だが、実際は、2002年ワールドカップの日韓共催はFIFA内の会長選挙を巡る権力闘争によって決まったのであって、共催は避けられないことであった。もし、長沼が最終的に共催の決断を下さねば、韓国の単独開催になるのは必至の情勢であった)。

[匿名さん]

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