これら一連の出来事により、1997年から1998年にかけ、長沼はとくに若年のジャーナリストと彼らを支持するファンからの厳しい批判にさらされ、競技場で大きなブーイングを浴びる事もあった。
[匿名さん]
■晩年
1998年にサッカー協会会長職を岡野に譲って同協会名誉会長となり、日韓W杯終了後に最高顧問となった。晩年はスポーツ界全体の振興にも力を注ぎ、日本体育協会副会長として地方の大会にもこまめに足を運んだ。また、日本スポーツ少年団本部長、日本フットサル連盟会長、埼玉スタジアム2002の場長などを務め、知的障害者サッカーの普及などにも奔走した。
1997年、南米サッカー連盟大勲位特別頚章受章。
2004年、旭日中綬章受章。
2005年、日本サッカー殿堂委員会委員長、及び、第1回日本サッカー殿堂。
2008年6月2日、前年から患っていた肺炎のため逝去。77歳没。
この日、横浜国際総合競技場で行われたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会アジア3次予選の日本対オマーン戦において長沼の死を悼み試合開始前に黙祷が捧げられ、日本代表の選手達は腕に喪章を付けてプレーをした。試合は3-0で日本が勝利を収めて長沼への手向けとした。尚、長沼はこの日指揮を執った「監督・岡田武史」生みの親でもあった。
日本政府も多年に亙る長沼の日本スポーツ界並びにサッカー界への功労を評価し、2008年7月1日の閣議で長沼に死後叙位(正五位/叙位日付は死去日の6月2日付)を親授することを決めた。また同年11月にはアジアサッカー連盟(AFC)から生前の功績を称えて「アジアのダイヤモンド賞」が贈られている。
■著書
・『チームプレー』長沼健 光文社(1969年)
・『サッカーに賭けた青春』長沼健 講談社(1969年)
・『11人の中の1人』生産性出版、2008年。ISBN 978-4-8201-1904-3。(1975年初版増補)
・『時代の証言者13「サッカー」長沼健』読売新聞社、2006年。
[匿名さん]
[ 1964.10.14 ] 東京・駒沢競技場
□■SAMURAI BLUE■□
◇東京オリンピック◇
日本代表🆚アルゼンチンオリンピック代表
3 対 2
0 前半 1
3 後半 1
[ GOAL ]
□日本
杉山隆一 54´
川淵三郎 81´
小城得達 82´
□アルゼンチン
ドミンゲス 24´, 62´
■メンバー
[ 日本代表 ]
GK 横山謙三
片山洋
山口芳忠
八重樫茂生
鎌田光夫
鈴木良三
川淵三郎
釜本邦茂
小城得達
宮本輝紀
杉山隆一
[ SUB ]
GK 保坂司
平木隆三
渡辺正
継谷昌三
上久雄
森孝慈
宮本征勝
富沢清司
[監督]:長沼健
□東京オリンピック サッカー 結果□
・1964/10/14 東京・駒沢競技場
日本代表 3-2 アルゼンチンオリンピック代表
・1964/10/16 東京・駒沢競技場
日本代表 2-3 ガーナ代表
・1964/10/18 東京・駒沢競技場
日本代表 0-4 チェコスロバキアオリンピック代表
[匿名さん]
□■一般社団法人日本フットボールリーグ■□
□第21回日本フットボールリーグ 第12節□
[ 日時:2019年6月22日(土) 13:00 ]
■試合形式 90分
■会場名:青森県総合運動公園陸上競技場 青森県
■風:弱
■ピッチ(芝):良芝
■ピッチ(表面):水含み
■天候:雨
■マッチコミッショナー:吉田 昌一
■気温:21.1°C
■湿度:71%
■主審:御厨 貴文
■審判アセッサー:前之園 晴廣
■副審1:橋本 真光
■副審2:品川 美博
■第4の審判員:種市 穂
■運営委員:佐々木 良美
■記録担当:吉田 茂
■観客数:421人
ラインメール青森🆚松江シティFC
[ 1 対 2 ]
前 半 0 対 0
後 半 1 対 2
[ 得点者 ]
◇松江
9 西村 光司 50分
8 佐藤 啓志郎 89分
◇青森
23 田中 康平 86分
[ 松江シテFC メンバー]
GK1:守山 健二
DF5:長谷川 翔平
DF6:石津 優介
DF13:筒井 俊
DF22:田中優毅
MF8:佐藤啓志郎
MF9:西村光司
MF10:宮内寛斗
MF18:酒井将史
MF:31 田平 謙 (Cap.)
FW:14中井栞吏
[SUB]
GK21:船川 航司朗
DF4:多木理音
DF29:平林卓也
MF7:長谷 優
MF16:髙畑智也
MF24:赤尾凌
FW11:土井拓斗
[監督]:田中 孝司
[匿名さん]
横山 謙三(よこやま けんぞう、1943年1月21日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。現日本オリンピアンズ協会理事。日本代表監督時代は兼三と名乗っていたが後に元の謙三に戻した。
◇生年月日
1943年1月21日(76歳)
◇出身地
埼玉県浦和市(現さいたま市)
◇身長
175cm
◇体重
72kg
■所属クラブ
1959年 - 1961年 埼玉県立川口高等学校
1962年 - 1965年 立教大学
1966年 - 1977年 三菱重工業サッカー部
■代表歴
国際Aマッチ 49試合 0得点(1964-1974)
◇出場大会
1964年東京オリンピックのサッカー競技
1966年アジア競技大会
1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技
1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
1970年アジア競技大会
1974 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
1974年アジア競技大会
■指導歴
1976年 - 1983年 三菱重工業サッカー部:監督
1988年 - 1991年 日本代表:監督
1992年 U-23日本代表:総監督
1994年 浦和レッドダイヤモンズ:監督
1995年 - 2001年 浦和レッドダイヤモンズ:ゼネラルマネージャー
2000年10月 - 12月 浦和レッドダイヤモンズ:総監督
2002年 - 2006年6月 浦和レッドダイヤモンズ:常務取締役、取締役
埼玉県サッカー協会:専務理事
■選手情報
◇ポジション
GK
◇ユース
立教大学
出場
(得点)
◇1966-1977
三菱重工
136
(0)
◇代表歴
1963-1975
日本
49
(0)
■獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
銅 1968
[匿名さん]
■来歴
東京神田の生まれ、浦和市立常盤小学校出身。埼玉県立川口高等学校3年時の1961年にゴールキーパーに転向。渡辺正のいた立教大学(社会学部)に進学し、卒業後、JSLの三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ)に入団した。JSLでは通算136試合出場、日本代表では国際Aマッチ37試合出場の記録を残した。1964年東京オリンピックではアルゼンチンを破る大金星に貢献、1968年メキシコシティーオリンピックでも三位決定戦でPKをセーブするなど活躍し、そこでの銅メダル獲得にも貢献した。三菱重工では1学年後輩(生年は同じ)の森孝慈と共に1969年の初優勝に貢献した。
1976年から三菱重工の監督に就任、1978年には日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯と当時の3冠を全て制覇した。この年から三菱のユニフォームは青から赤に変わり、これは今の浦和レッズにも受け継がれている。
1988年からは日本代表の監督に就任。当時の世界最先端である3-5-2システムを採用し、ウイングバック(両サイドのMF)を攻撃の基点とする戦術を採ったが、1990 FIFAワールドカップ・アジア予選は1次予選敗退という結果となった。前回大会を下回る結果にサッカーファンの不満が高まり、ファンによる解任署名運動やスタジアムにおける解任を要求する横断幕の掲示が行われたが、その地位に留まり続けた。その後、総監督としてU-23代表を率い1992年3月のバルセロナ五輪アジア最終予選に挑むが惨敗を喫し、遂に辞任する結果となった。
[匿名さん]
就任当初はベテラン選手を外し井原正巳や柱谷哲二といった若手選手を積極的に起用したが思うような結果を残せず、W杯予選敗退を境にそれまでの方針を覆し三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪らの読売クラブ出身の選手を登用し、1991年6月のキリンカップにおいて初優勝に導いた。また、この時期は唯一「日の丸」の赤を基調としたユニフォームを着用していたことでも知られる。
またこの時期からユニホームエンブレムを日の丸から八咫烏を本格的に使用して現在に引き継がれている。
1994年に森孝慈の後任として浦和レッドダイヤモンズの監督に就任した。低迷するクラブの再建を一任されたが果たす事は出来ず、代表監督時代同様にサポーターからの激しい非難を浴び、このシーズン限りで辞任した。
1995年からは浦和レッズのゼネラルマネージャー(GM)に就任。陰でクラブを支え続けたが、1999年にクラブはJ2に降格。1年間でJ1復帰を掲げたがシーズン終盤の2000年10月に成績不振からクラブのJ1復帰が危うくなると斉藤和夫監督に代わり、自らが総監督として指揮を執り、最終節の勝利によって辛うじてJ1復帰を実現させた。
2002年からは森にGMの地位を譲り、強化担当からは離れ株式会社三菱自動車フットボールクラブの取締役として地域活動の強化にあたった。2006年6月で退任。2006年、第3回日本サッカー殿堂入りをした。
2006年に埼玉県サッカー協会専務理事に就任、2014年6月に埼玉県サッカー協会の会長に就任した
[匿名さん]
三浦 知良(みうら かずよし)は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・横浜FC所属。ポジションは左ウイング(ブラジル時代)、FW(日本帰国後)。妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子。
■愛称
キング・カズ
■生年月日
1967年2月26日(52歳)
■出身地
静岡県静岡市葵区
■身長
177cm
■体重
72kg
■選手情報
◇在籍チーム
横浜FC
◇ポジション
FW
◇背番号
11
■ユース
◇1973-1979
城内FC
◇1979-1982
城内中学校
◇1982
静岡学園高等学校
◇1982-1986
CAジュベントス
■所属クラブ
1986年 サントスFC
1986年 - 1987年 SEマツバラ
1987年 クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル
1988年 ECキンゼ・デ・ノヴェンブロ (ジャウー)
1989年 コリチーバFC
1990年 サントスFC
1990年 - 1998年 読売サッカークラブ/ヴェルディ川崎
1994年7月 - 1995年7月 ジェノアCFC (期限付き移籍)
1999年 - 同年7月 クロアチア・ザグレブ
1999年7月 - 2000年 京都パープルサンガ
2001年 - 2005年7月 ヴィッセル神戸
2005年7月 - 横浜FC
2005年11月 - 同年12月 シドニーFC (期限付き移籍)
■タイトル
1990-1991年 - 日本サッカーリーグ 優勝(読売サッカークラブ)
1991-1992年 - 日本サッカーリーグ 優勝(読売サッカークラブ)
1992年 - ダイナスティカップ 優勝(日本代表)、AFCアジアカップ 優勝(日本代表)、ヤマザキナビスコカップ 優勝(V川崎)
1993年 - Jリーグ2ndステージ 優勝 & 年間優勝(V川崎)、ヤマザキナビスコカップ 優勝(V川崎)
1995年 - Jリーグ2ndステージ 優勝(V川崎)
1998-1999年 - プルヴァHNL 優勝(クロアチア・ザグレブ)
2006年 - J2優勝(横浜FC)
■代表歴
[ 試合数 ]
国際Aマッチ 89試合 55得点(1990年 - 2000年)
◇2012
日本 フットサル
6
(1)
[匿名さん]
日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。
2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場。
[匿名さん]
■サッカー選手として
日本国籍の選手で2019年現在、唯一ブラジルで成功した選手である。また、世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在である。現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などで、ファンが欧州サッカーへの関心を高めるきっかけをつくるなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり、功労者でもある。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識にある。
朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つなど精力的に動く。年齢を重ね、若手選手とは親子ほどの年齢差になっても練習は別メニューでなく一緒にこなす。一日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い入れているほど、徹底した体調管理を行っている[87]。シドニーFC在籍時にはピエール・リトバルスキー監督から「カズはサッカー選手のお手本。シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」と賛辞を贈られている。
前述のようなストイックなイメージで知られるが、孤高の存在というわけではなく、欧州でプレーする長友佑都・長谷部誠・内田篤人・香川真司らと食事会(通称「カズ会」)を行うなど面倒をみている。その際、カズの隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている。
2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州2部リーグに所属するウニオン・サンジョアンECのクラブ買収に乗り出していた。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようで、2010年1月にはサッカークラブのオーナーを目指していると東スポに報じられた。
[匿名さん]
■プレースタイル
ブラジル時代は左ウイングとして、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』にて年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれる 等、活躍した。Jリーグや代表ではセンターフォワードとしてゴールを量産した。
ドリブルを得意としており、強烈なサイドステップを踏むフェイント、シザーズ(またぎフェイント)等で相手を打ち破った。『週刊サッカーダイジェスト』のドリブラー特集でも、名前を挙げられている。ブラジル仕込みの卓越したテクニック、ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードを持っていた。パス、トラップ、シュート等基本的なプレーもずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。基本的なプレーをおろそかにせず、守備をしっかりこなすなど、献身的なプレーも見せる。全盛期はシザーズやフェイントを多用していたが、体の切れが無くなって不調に陥った後は、徐々にそういったプレーは少なくなり、純粋なストライカーにプレースタイルを変化させていき、ボールを引き出す動き、意表をついたシュートなどに活路を見出していった。
元々身体能力に恵まれた選手ではなく、身体も極めて堅い。年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきているが、それでもボールを扱うテクニックはクラブ内で高いレベルを維持し、巧みな読みで勝負している。また、40歳を超えても高い持久力を維持している。
[匿名さん]
サッカージャーナリストの大住良之は、カズの特質として「並外れた精神力」を挙げている。カズよりもシュート力・テクニック・スピードのある選手はいるが、精神的な強さでカズをしのぐ選手はいないと評している。岡野雅行は「ココ一番な場面では必ずゴールを決めるし、大舞台にもビクともしない」とコメントしている。プロ野球選手のイチローは「価値観が同じというか、種目は違うけど互いの考え方を理解しあえる人。大きなプレッシャーを背負いながら、あれだけの力を発揮できる集中力・精神力はさすが」とコメントしている。また、横浜FCでのチームメイト・早川知伸は「カズさんがすごいのはメンタル。精神力があるからこそ、技術も体力も衰えない」、小野智吉は「本当にサッカーが好き。43歳でも、中学生のような気持ちを忘れない」と話した。
若い頃は、カズがクラブや代表でもフリーキックやコーナーキックを蹴ることもあった(上記のように2010年にもJ2カターレ富山戦で直接フリーキックによるゴールを決めている)。さらにスイッチキッカーとして左右両足でフリーキックやコーナキックを蹴る稀なプレイヤーであった。都並敏史は「僕も左右で蹴れるけど、カズはその精度が高い」と称えており、カズ自身は「小さい頃から利き足に関係なく、両足で練習していた。それは意識してというよりも、自然な感じで覚えたものだった」と語っている。
[匿名さん]
■ブラジル時代
1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退し、ブラジルに単身で渡航してCAジュベントスに所属した。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した。
1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが、最終的に翻意しブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていたディフェンダーの中山雅史、フォワードの武田修宏らと試合を行った。1986年1月[注 1] には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。
[匿名さん]
1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約を結んだ。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たした。しかしサントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍した。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。
1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍した。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した。
[匿名さん]
1990年2月、サントスFCへ4年ぶりに再移籍した。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断ってサントスと交渉した。移籍後にレギュラーの地位を確保すると、同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利した。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った。
■Jリーグでの活躍から欧州移籍へ
1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍した。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか日本サッカーリーグのリーグ戦では活躍できなかったが、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1992年のJリーグカップではヴェルディを優勝に導いた上、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。
[匿名さん]
Jリーグ開幕後は、ラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉ら他、多くのチームメイトに恵まれ、川崎の名を冠していた時代のヴェルディの黄金期を支えた選手の一人として記憶されることとなった。Jリーグの開幕年となった1993年シーズンのリーグ戦の第1ステージはクラブ内の内紛や日本代表の過密スケジュールの影響を受け不本意な成績に終わったが、7月17日神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは当時J-EASTで指揮を採っていた松木安太郎監督の下2得点を決める活躍を見せ、大会MVPに選出された。これを切っ掛けとして三浦は本来の調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった7月31日博多の森陸上競技場での第2ステージ第2節ガンバ大阪戦からは6試合連続で得点を記録した。最終的にはシーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決めるなど、ヴェルディ川崎をJリーグの初代チャンピオンに導く上で決定的な活躍を見せた。この活躍が評価され、第1回のMVPを受賞した他、前年に続いて1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞した。また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、先発出場し、ウーゴ・サンチェスの得点をアシストした。
[匿名さん]
■ジェノアCFC
1994年にはイタリア・セリエAのジェノアCFCに1年契約で期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍には商業的な価値を期待していたと見る向きが強く、ジェノアのユニフォームの胸部分の広告権をケンウッドが獲得したこともあって、加入会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。
プレシーズンマッチの地中海カップでは好プレーを見せ、サンシーロで行われた、ACミランとのセリエA開幕戦において先発出場し、セリエAデビュー、前半途中にフランコ・バレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。
[匿名さん]
復帰後、12節UCサンプドリアとのジェノヴァダービーで先発出場、アントニオ・マニコーネの浮き球からトマーシュ・スクラビーがヘディングで落としたボールを右足アウトサイドでゴール隅に決め、セリエA初ゴールとなる、先制ゴールを奪ったが(16節のパドバとの対戦では、サイド突破からマニコーネの決勝点のアシストはあったが)、これがジェノアでの唯一の得点となった。代表戦のため第31節ユベントス戦に出場後、シーズン終了を待たずに帰国、その他1994年10月にはアジア大会への出場のための帰国、また度重なる監督交代も影響して、21試合出場(先発10試合)に留まった。その後、トリノFC、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはヴェルディ川崎へ復帰することとなった。ジェノア在籍時にはジェノバの名前を日本に広めたことで、市から特別表彰を受けた。シーズン終了後、ジェノアCFCの一員として、横浜スタジアムで行われた、ヴェルディ川崎との親善試合に出場、この試合を最後にジェノアを離れ、ヴェルディへ復帰した。また在籍時の1994年12月にはASローマ対世界選抜の試合に出場した。
[匿名さん]
■クロアチア・ザグレブ
カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍した。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった。カズはデビュー戦でPKを失敗したこともあり、アシストのみでゴールは挙げられなかったが、ザグレブはクロアチア・リーグで優勝した。しかしそのシーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるアルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。1999年5月にはマルセイユで行われた、ジャン・ピエール・パパンの引退試合に招待され、フランス代表と対戦、得点は無かったが、クロスバー直撃のシュートを放った。
[匿名さん]
■シドニーFCへの期限付き移籍
横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍した。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では準々決勝たる1回戦と5位決定戦の2試合フルタイム出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦勝利に貢献、全6クラブ中最下位を免れた。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立った。なお同大会の前身であるインターコンチネンタルカップを含め、日本人の出場はカズが初めてである。
[匿名さん]
■日本代表
◇代表デビュー〜エースとして
カズのフル代表デビューは1990年9月のバングラデシュ戦。その後もハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、AFCアジアカップ1992での優勝に貢献、自身も両大会でMVPを獲得する。アジアカップのグループリーグ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした。
1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。中でも大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。しかし、最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている。
[匿名さん]
■フランスW杯に向けて
その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後ゴールを挙げられず勝ちきれない試合が続くとカズ代表不要論が高まり、予選自力突破が消滅した国立競技場でのUAE戦の後には暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、またそれらに応戦する姿がワイドショーで放映された。
その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表決定戦のイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、2トップを組む中山雅史と共に交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことが話題となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)一般的には「まさか俺を交代させるのか?」と言うアピールだとマスコミに解釈をされてしまい、誤解を受けることとなった。またイランも交代の準備をしていたため、11番が日本の事なのかイランの交代に対してなのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている(イランの11番であるアジジは交代することなくフル出場する)。また、予定外の交代は試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴ること」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴ったことで「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している。
[匿名さん]
1998年、ワールドカップ本大会に臨む代表候補25人に選ばれ、スイスでの直前合宿に参加するが、北澤豪、市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から漏れ、苦渋の帰国となった(ニヨンの屈辱)。この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられた。カズは髪を金髪に染め上げて帰国し、帰国直後に成田国際空港で行われた会見では「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断は議論を呼んだ。
■フランスW杯後
フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからもしばらく代表に招集されることはなかったが、1999年末から2000年までは再び代表に招集された。しかし、2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦が最後の出場になった。この試合では、中田英寿からのパスで、現在のところ最後となる国際Aマッチでのゴールを決めている。それ以降は韓国戦に招集はされたが、サポーターからカズコールが起きたにもかかわらず、結局出場機会はなかった。トルシエはカズを高く評価しており、カズを初招集した際、「君がいろんな経験を積んでいるのは一目でわかる。若手を引っ張ってくれ」「98年のワールドカップはどうしてダメだったんだ。ウエイトオーバーだったのか?こんなに動けるのになにが問題だったんだ」と会話を交わした。トルシエは2002 FIFAワールドカップにおいて代表スタッフとしてカズの帯同を望んだが、カズは選手としての参加を望んでいたため、実現しなかった。
[匿名さん]
■フットサル日本代表
2012年にフットサル日本代表に招集され、同年11月にタイで開催されるFIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出された。10月24日に国立代々木競技場第一体育館でのフットサルブラジル代表戦に出場。日本代表として国際試合に出場するのは2000年以来となった。
10月27日に北海道旭川市の旭川大雪アリーナでのフットサルウクライナ代表戦に出場、前半14分にフットサル選手として初ゴールを挙げた。
2016年に記者から「客寄せパンダ的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」という質問をされると、「J2でも、横浜FCでもよくそう言われるし、書かれているじゃないですか。でも、パンダじゃなきゃ人は来ないですから。その役割は自負していますよ。僕は客寄せパンダで十分ですよ。だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。パンダだから見に来るんだもの。熊はパンダになれないんだから」と返答している。
[匿名さん]
■日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
1990 3 0
1991 2 0
1992 11 2
1993 16 16
1994 8 5
1995 12 6
1996 12 6
1997 19 18
1998 1 0
2000 5 2
通算 89 55
2007年にJFAが行った検証により1997年のルーマニア戦 2試合が取り消された。このため出場数が91から89へ、得点数が56から55へと訂正された。
JFAとRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) は、釜本邦茂(75得点)に次ぐ日本代表歴代2位の得点者としている。一方、国際サッカー連盟 (FIFA) は、2009年時点では釜本を三浦と同数の55得点としていたが、2014年時点では80得点としている。
これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。
JFA - 1988年以前のオリンピック予選および本大会における、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。
FIFA - 1999年に「1960年以降の全てのオリンピック関係の試合が国際Aマッチと認められる訳ではないが、中間部分については更なる分析が行われる」という声明を出し、これを元にした基準を採用している。
なお、RSSSFは「東ヨーロッパとスカンジナビア諸国のサッカー協会はFIFAの声明を却下し、信頼できる各国の協会によって認められた統計方法を持っている。日本も大部分のオリンピックの試合を2015年に公式に認めている」という見解を示し、JFAの記録を追認している。
[匿名さん]
□■サッカー日本代表 歴代監督■□
■2018年〜現在
森保一
■2018年
西野朗
■2015年〜2018年
バヒド・ハリルホジッチ
■2014年〜2015年
ハビエル・アギーレ
■2010年〜2014年
アルベルト・ザッケローニ
■2007年〜2010年
岡田武史
■2006年〜2007年
イビチャ・オシム
■2002年〜2006年
ジーコ
■1998年〜2002年
フィリップ・トルシエ
■1997年〜1998年
岡田武史
■1994年〜1997年
加茂周
■1994年
ファルカン
■1992年〜1994年
ハンス・オフト
■1988年〜1991年
横山謙三
■1986年〜1987年
石井義信
■1981年〜1985年
森孝慈
■1980年〜1981年
川淵三郎
■1980年
渡辺正
■1979年〜1980年
下村幸男
■1976年〜1978年
二宮寛
■1972年〜1976年
長沼健
■1970年〜1971年
岡野俊一郎
■1962年〜1969年
長沼健
■1960年〜1962年
高橋英辰
■1958年〜1959年
竹腰重丸
■1958年
川本泰三
■1957年
高橋英辰
■1951年〜1956年
竹腰重丸
■1951年
二宮洋一
■1942年
工藤孝一
■1938年〜1940年
竹腰重丸
■1936年
鈴木重義
■1934年
竹腰重丸■1930年鈴木重義■1925年山田午郎■1923年西田満寿次郎■1921年佐々木等
[匿名さん]
□■早稲田大学ア式蹴球部■□
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◇創設者◇
[ 鈴木重義 ]
1920年に早稲田高等学院に入学。同校でサッカー部(ア式蹴球部)を設立。在学中、ビルマ人留学生チョウ・ディンからショートパス等のサッカーの指導を受けて実力を伸ばす。
1923年に早稲田大学に入学、1924年にア式蹴球部を創設した。在学中、野津謙らと全国高等学校ア式蹴球大会を開催。
1927年、上海で開催された第8回極東大会のサッカー日本代表に選出され、主将としてフィリピン代表戦では先制ゴールを決めるなど、日本代表として最初の国際大会勝利に貢献。
その後は早稲田大学の監督を務めるとともに、1930年に東京で開催された第9回極東大会では日本代表監督を務め、中華民国代表と同位ながら国際大会で初優勝を実現した。なお、翌年の1931年の1年間、鈴木の自宅が大日本蹴球協會(現日本サッカー協会)となっている。
1936年のベルリンオリンピックで日本代表監督に就任。本大会前の練習試合で、当時ヨーロッパで広まりつつあった3バック(WMシステム)を目の当たりにし、急遽代表チームにこのシステムを導入した。その結果、スウェーデン代表に勝利(ベルリンの奇跡)。
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全国タイトル計30回(全国大学タイトル計27回・天皇杯3回)、全国大学タイトル計27回(東西対抗13回・全日本大学選手権12回・総理大臣杯2回)や、現役学生のみのア式蹴球部による天皇杯優勝3回、関東大学リーグ優勝27回は全国の大学で最多である。
【男子部】
1924(大正13)年の創部以来、早稲田大学ア式蹴球部は常にサッカー界をリードし、数々の日本代表選手を輩出してきました。
【女子部】
「ピッチの中では泥臭く、ピッチの外ではエレガントに」をスローガンに、切磋琢磨しながら練習に励んでいます。
[匿名さん]
7月21日(日)は、島根県1部の天王山。
デッツォーラ島根 VS SC松江
s-pitchにて15時キックオフ。
松江シティ VS Honda FC 戦の裏である。
[匿名さん]
船橋整形外科クリニックの電話に出る事務員全員男も女も電話対応が悪すぎる。名前も名乗らないし、クリニックに対するクレームは一切聞いてくれず、要は患者の話を一切聞かないという方針の病院で、やたらと患者を下に見てくる。
名医が例えいたとしても、事務員の電話対応がどの人も一人もいい人がいなくて、全員悪すぎてこの病院を選ばないという理由になる。
名医が一人いてもその名医が本当に名医か分からないしね。受付の電話対応も指導できない位のレベルの低い病院だし
[匿名さん]
島根県1部、6戦6勝の負けなし!
デッツォーラ島根、復活かな?
今季はSC松江が独走するかと思ったが。
[匿名さん]
レノファ山口は、一度県1部に落ちてから這い上がって、今のJ2のポジションまで来た。応援してるぞ!
[匿名さん]
FWの若林選手は身長が148cmと小柄だが、どんなプレーをするか気になる選手。
[匿名さん]
選手の奥さんや彼女たちの応援団が熱い応援をしていたね
[匿名さん]
明日の試合予定
11時キックオフ
デッツォーラ島根vsバンメル鳥取
@コカコーラ広島スタジアム
[匿名さん]
試合終了
デッツォーラ島根1-0バンメル鳥取
デッツォーラ島根、1年で中国リーグ昇格!
おめでとうございます!
来季中国リーグは、浜田ダービーが実現ですね!
[匿名さん]
中野 雄二は、東京都目黒区出身の元サッカー選手、サッカー指導者、大学教授。現役時代のポジションはディフェンダー。日本サッカー協会指導者ライセンスのB級を保有している。
◾生年月日
1962年10月17日(57歳)
◾出身地
東京都目黒区
◾選手情報
ポジション
DF
◾ユース
1978-1981
茨城県立古河第一高校
1981-1984
法政大学
◾監督歴
1985-1990
水戸短期大学附属高校
1992-1996
プリマハム土浦FC
1997
水戸ホーリーホック
1998-
流通経済大学
1978年、茨城県立古河第一高校に入学してサッカー部に所属。1年次よりレギュラーとして出場し第57回全国高等学校サッカー選手権大会で優勝した。2年次は県予選決勝で敗れたが、3年次は主将に就任して第59回全国高等学校サッカー選手権大会で自身2度目の優勝を果たした。
高校卒業後は法政大学社会学部応用経済学科へ進学してサッカー部に入部。入学当初よりレギュラーに定着して、2年次に総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで優勝し、4年次には主将も務め、監督代行としてチームをまとめた。しかし、関東大学サッカーリーグ戦で4年間共に1部と2部の昇格降格を繰り返したことなどで中野自身も後に後悔が残ったと語っている。
大学卒業後、1985年より水戸短期大学附属高校(現:水戸啓明高校)の商業科の教諭として赴任し、サッカー部の監督に就任。当時の同校サッカー部は弱小であり、かつ荒廃していたため当初より生活指導に明け暮れたが、徐々に強化が進んで1990年には高校総体茨城県予選で準優勝に導いたが、1990年夏に一身上の都合により水戸短期大学附属高校を退職した。なお、小澤英明は当時の教え子の一人である。
[匿名さん]
1991年春よりプリマハムへ入社して新東京工場(土浦市)で勤務すると共に「プリマハムアセノFC」のコーチに就任した。入社2年目の1992年より「プリマハムアセノFC」を解消して、プリマハム単独出資のプリマハム土浦FCとして再スタートすると同時に同クラブの監督に就任し、同年の茨城県社会人サッカーリーグ1部で優勝、1994年に関東サッカーリーグへ昇格、1996年度の全国地域サッカーリーグ決勝大会で準優勝に導いた(その後、ジャパンフットボールリーグ(JFL)昇格が決定)
1996年シーズンを最後にプリマハムが「プリマハム土浦FC」の運営から撤退し、茨城県リーグに所属していた水戸FCと統合する形で1997年に水戸ホーリーホックが発足。同クラブの監督に2年契約で就任すると共に運営会社の常務取締役も兼任した。水戸での1年目はJFL最下位に終わり、シーズン終了後に中野は監督辞任に追い込まれた。
1998年、プリマハム土浦FC監督時期よりオファーを受けていた流通経済大学サッカー部の監督に就任。2010年に全日本大学選抜チームの監督、2011年には2011年夏季ユニバーシアードのサッカー日本代表の監督をそれぞれ務めた。現在は同大学社会学部の教授を務めるほか、全日本大学サッカー連盟副理事、関東大学サッカー連盟副理事長を兼任している。
◾選手歴
1975-1977 古河市立古河第二中学校
1978-1981 茨城県立古河第一高校
1981-1984 法政大学
◾指導歴
1985-1990 水戸短期大学附属高校(現:水戸啓明高校):監督
1991-1996 プリマハムアセノFC / プリマハム土浦FC
1991:コーチ
1992-1996:監督
1997 水戸ホーリーホック:監督
1998- 流通経済大学:監督
◾参考文献
秋元大輔『なぜ流通経済大学サッカー部はプロ選手を輩出し続けるのか?』東邦出版、2012年3月22日。ISBN 4809410226。
秋元大輔『日本でいちばんプロサッカー選手を育てた男』ぱる出版、2012年8月21日。ISBN 9784827207354。
[匿名さん]
☆チーム紹介☆
□◾流通経済大学サッカー部◾□
◾チームプロフィール
我々流通経済大学サッカー部は1965年に創部。1998年、監督に中野雄二氏を招聘しサッカー部の強化を始めました。以来、緑に囲まれた龍ヶ崎市にある龍ヶ崎キャンパスにて活動をしています。
トレーニングは、サッカー専用グラウンド3面(大学サッカー場1面、RKUフットボールフィールド2面:人工芝)で行っています。また、施設内にはゴールピッチ(フットサルコートのサイズの人工芝ピッチ)や砂場トレーニング場もあり、学生たちは充実した環境の中で日々トレーニングに精進しています。
流通経済大学サッカー部は「サッカーを通して人間としていかに成長できるか」を追求し、社会人として様々な場で活躍できる人材を育成することを目指しています。その指導のもと、これまで数多くのプロ選手を国内外へ輩出しており、ここ20年でプロ選手(国内・国外)を90人以上も輩出しています。その他にも企業チーム・クラブチームにて活躍されている方、Jリーグ試合の審判員として活躍されている方、中学、高校の教師または警察官や消防士になられた方等、卒業後は様々な分野で活躍をしています。
私生活面では、全寮制をとっており住食をサッカー部の仲間たちと共に過ごし、団体生活の厳しさや楽しさを経験しながら、大切な大学4年間の生活をおくっています。
◾主な成績◾
関東大学リーグ1部優勝3回(2006年・2008年・2009年)、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント優勝3回(2007年・2013年・2014年)、 全日本大学サッカー選手権大会優勝2回(2014年・2017年)、第18回日本フットボールリーグファーストステージ1位、通算成績準優勝(2016年)
2019年部員数:213名
[匿名さん]
三菱化成黒崎サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。三菱化成(現・三菱化学)のサッカー部として1935年に創部し、1995年から三菱化学黒崎フットボールクラブへ改称。2001年からクラブチームとなり、チーム名を「ニューウェーブ北九州」に改めた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟のギラヴァンツ北九州の前身となったクラブである。
■創設年
1947年
■解散年
2009年
■ホームタウン
北九州市
■ホームスタジアム
北九州市立本城陸上競技場
北九州市立鞘ヶ谷陸上競技場
1947年に北九州市八幡西区黒崎にあった三菱化成黒崎工場(現:黒崎事業所)のサッカー部として創設。1973年に発足した九州サッカーリーグに創設時より参加し、同年に優勝して九州リーグの初代王者となった。また、全国社会人サッカー選手権大会にも初めて出場した。
九州リーグでは新日鐵大分サッカー部や日本電信電話公社熊本サッカー部、鹿児島サッカー教員団などとしのぎを削り、1981年から1984年までの4連覇を含む合計7回のリーグ制覇を果たした。1981年には全国地域サッカーリーグ決勝大会に初めて出場した。
また、天皇杯全日本サッカー選手権大会には第65回(1985年)に初出場して、合計4度出場したが、日本サッカーリーグ(JSL)勢の壁は厚く、天皇杯で勝利を挙げることは出来なかった。
1990年代初めになると日本各地でJリーグへの参加を表明するクラブが次々と名乗りをあげていった。しかし九州でJリーグ入りを表明したクラブはなく、日本サッカーリーグ(JSL)に唯一参加した古豪の新日鐡八幡サッカー部もJリーグ加盟を断わっている。詳細は八幡製鉄サッカー部を参照のこと。なお、三菱化成黒崎サッカー部は1995年に三菱化学黒崎フットボールクラブへチーム名を変更した。
[匿名さん]