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NO.7201210

デッツォーラ島根④
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#3012019/12/08 19:16
さらに1990年代後半に入ると九州各県からJリーグ加入を目指す動きが起き始め、それに伴い強化を図るクラブチームが頭角を現した。このため1989年に優勝したのを最後に徐々に成績を落とし優勝から遠ざかっていった。

■ニューウェーブ北九州
2001年、地域密着型のサッカー・スポーツクラブの創設を目標として、北九州市と地元企業などが共同で特定非営利活動法人北九州フットボールクラブ(北九州FC)を創設し、当時九州リーグに所属していた三菱化学黒崎フットボールクラブの運営を北九州FCに移し、チーム名を「ニューウェーブ北九州」に改め、北九州FCのトップチームになった。元々ニューウェーブ北九州という名前は、北九州市長杯争奪北九州招待サッカー大会に出場するため三菱化成黒崎サッカー部と新日鐵八幡サッカー部から選出された北九州市選抜チームに対して付けられていた名前であった。

クラブは「北九州からJリーグチームを」というスローガンを掲げ当初からトップチームのJリーグ参加を目指し、地元資本である井筒屋やゼンリンなどのスポンサードを受けたり、北九州市内に設置されているコカ・コーラの自動販売機の売上の一部が運営費に贈られた。

2005年、サガン鳥栖元監督で北九州市出身の千疋美徳が監督に就任。リーグ戦は6位の成績。

2006年、千疋が監督を続投し、従来からのスポンサーに加え北九州市からの支援も受けた。リーグ戦は3位、全国社会人サッカー選手権大会は準決勝で静岡FCに敗れた。福岡県サッカー選手権大会(兼第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会福岡県予選)は東海大五高校に敗れた。

[匿名さん]

#3022019/12/08 19:17
2007年、千疋が監督を退任し(コーチに就任)、後任に前年までFC琉球の監督だった与那城ジョージが就任。選手もJリーグ経験者のFW藤吉信次、GK水原大樹、クラブ史上初のブラジル人選手となるDFドグラスら全選手の半数近くとなる10人(途中、DFタチコが入団)が加入した。リーグ戦は21節時点で第31回全国地域リーグ決勝大会の出場圏内の2位以上を確定させ、さらに22節に勝利して前身時代以来18年ぶりの九州リーグ優勝を決めた。地域決勝大会は得失点差でファジアーノ岡山FCに次ぐ2位。2008年からの日本フットボールリーグ(JFL)昇格が決まった。なお、北九州市を本拠とするチームとしては日本サッカーリーグ2部から九州サッカーリーグに新日鉄八幡サッカー部が降格した1991年以来17年ぶりの全国リーグ所属チームとなった。

2008年2月、Jリーグ準加盟クラブとして承認された。JFLリーグ戦でのホームゲームの入場者数が毎試合1,000人前後で、最も入場者の多かったMIOびわこ草津戦も1,752人で、8月26日のJリーグによる予備審査で経営状況などの面で基準に劣ると判断された。

初出場となった天皇杯全日本サッカー選手権大会(前身の三菱化成黒崎時代を含めると18年ぶり5回目)では、1回戦でホンダロックSCにPK戦で勝利(三菱化成黒崎時代も含めて大会初勝利)、2回戦も三菱重工長崎サッカー部を破ったが、3回戦でベガルタ仙台に敗れた。

[匿名さん]

#3032019/12/08 19:17
2009年、与那城体制3年目。MF関光博、FW長谷川太郎などJリーグ経験者を獲得。前期は、一時は12位まで順位を下げたが8勝4分5敗の勝点28で5位。9月に徳島ヴォルティスから大島康明をレンタルで獲得。後期に入って4位以内を維持し、第16節(11月23日)でアルテ高崎を破り、年間4位以上が確定(最終順位も4位)。入場者数は、開幕戦のジェフリザーブズ戦で9,856人、前期第14節のV・ファーレン長崎戦で8,157人など、後期第15節のFC琉球戦の時点で、Jリーグ加盟基準(平均3,000人)以上の年間入場者数51,000人を突破した。 11月30日のJリーグ臨時理事会で2010年からのJリーグ加盟が承認された。

天皇杯は福岡県代表として本大会に出場したが、1回戦で日本文理大学に敗退した。

2010年よりチーム名称をギラヴァンツ北九州へ改称した。

[匿名さん]

#3042019/12/11 08:26
布 啓一郎(1960年12月21日-)は、千葉県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

◾出身地
千葉県

◾ユース
1976-1979
千葉県立千葉東高校
1979-1983
日本体育大学

◾監督歴
1984-2002
船橋市立船橋高校
2003-2004
日本 U-16
2009-2010
日本 U-19
2018-
ザスパクサツ群馬


体育教師志望で日本体育大学に一般入試で受験し合格した。サッカー部に所属では三軍からレギュラーを勝ち取り全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)でも優勝している。

日体大卒業後、1984年に船橋市立船橋高等学校に赴任し、サッカー部監督に就任。これ以降、1987年、88年の高校総体連覇、1988年の高校選手権準優勝などの成績を残した。2000年に日本サッカー協会公認のS級ライセンスを取得した。

2003年、船橋市立船橋高校を退職し、U-16日本代表監督に就任したが、日本で開催されたAFC U-17選手権2004は1次リーグで敗退し、2005 FIFA U-17世界選手権出場は成らなかった。

その後は日本サッカー協会技術委員として若年層の強化に努めた。2005年から技術副委員長・ユースダイレクターに就任、『JFA2005年宣言』の実現に向けての『プレジデンツ・ミッション(PHQ)』の一環として、JFAプリンスリーグU-18発足以降JFA内で進められている育成年代の試合を現在のノックアウトトーナメント方式中心からリーグ戦中心に移行する構想を推し進めた。

[匿名さん]

#3052019/12/11 08:27
2009年、U-19日本代表の監督に就任した。なお、日本経済新聞や夕刊フジは、布の就任についてコーチの牧内辰也と共に過去に若年層の世界大会に出場できなかった彼らにリベンジのチャンスを与えたかったとする、JFA内幹部の配慮であったと報じている。2010年10月に中華人民共和国で開催されたAFC U-19選手権2010に挑み、一次リーグを3戦全勝し決勝トーナメントに進んだものの、準々決勝でU-19サッカー大韓民国代表に敗れ2011 FIFA U-20ワールドカップへの出場権を逸した。2010年いっぱいで監督を辞任。日本サッカー協会技術委員会JFAアカデミープロジェクトリーダーおよびJFAアカデミー福島スクールマスターも務めた。

2015年、ファジアーノ岡山のコーチに就任。

2018年よりザスパクサツ群馬の監督に就任した。翌年の2019年シーズンで2位に入り、チームを3年ぶりのJ2復帰へ導いた。


◾船橋市立船橋高校サッカー部時代の主な成績

1985年、全国高校サッカー選手権大会初出場
1987年、全国高等学校総合体育大会優勝
1987年、全国高校サッカー選手権大会ベスト4
1988年、全国高等学校総合体育大会2連覇
1988年、全国高校サッカー選手権大会準優勝
1994年、全国高校全国高校総合体育大会ベスト4
1994年、全国高校サッカー選手権大会優勝
1995年、全国高校総合体育大会ベスト4
1996年、全国高校総合体育大会ベスト4
1996年、全国高校サッカー選手権大会優勝
1997年、全国高校総合体育大会ベスト4
1998年、全国高校総合体育大会優勝
1999年、全国高校サッカー選手権大会優勝
2000年、オッテンカップ世界ユース選手権大会優勝
2001年、全国高校総合体育大会優勝
2002年、高円宮杯全日本ユース選手権大会ベスト8
2002年、全国高校サッカー選手権大会優勝

[匿名さん]

#3062019/12/14 19:41
藤和不動産サッカー部(とうわふどうさんサッカーぶ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。藤和不動産のサッカー部として1968年に創部した。1972年から1993年まで日本サッカーリーグに所属した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する湘南ベルマーレの前身となったクラブである。



■創設年
1968年

■ホームタウン
栃木県(1968年 - 1974年)
東京都、神奈川県平塚市(1975年 - 1992年)
神奈川県平塚市(1993年)


1968年、広島出身の藤田一族の経営する藤和不動産が新たに栃木県那須の藤和那須リゾート内に創設。チーム創設の経緯は「キング・オブ・スポーツ」のサッカーで社名を世界に轟かせるという威勢にいいもので、藤田正明の持論は「野球はアメリカと日本だけ。将来、必ずサッカーの時代が来る」「強くなるためにはプロを作らないとダメだ」で、将来のプロ化を見据えて藤田はサッカー部を作った。当時、日本サッカーリーグ(以下、JSL)のチームでさえ練習場所を転々としていたが、那須ハイランドに芝生3面の専用練習グラウンドを整備し、全24室すべて個室の合宿所(コテージ風)を建設。これら全てを1カ所に集中させた。また専門の栄養士が就いて選手の食事を用意し、夜はビデオテープを使ってミーティングまで行なったという他チームにとっては垂涎の環境であった。三菱重工(現「浦和レッズ)が合宿を行なった際、同行していたドイツの名将・ヘネス・バイスバイラーが絶賛したという逸話も残る。雪で練習場が使えない時は、藤和の選手たちは矢板東高校のグラウンドを借りた。同校の選手・指導者に最先端の戦術・技術を伝え、同校は全国的な強豪になった。

[匿名さん]

#3072019/12/14 19:42
「3年で日本サッカーリーグ(JSL)入り」という高い目標を掲げて、東洋工業サッカー部の黄金期を創った石井義信を迎え強化を図り、栃木県社会人リーグ4部に参加、1試合平均15得点とあまりの強さに、1部リーグとの入れ替え戦を許され、翌1969年栃木県リーグで優勝。関東サッカーリーグ2年目の1971年、全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、JSL入れ替え戦に出場、名古屋相互銀行を下しJSLに昇格、創部から3年8ヶ月という記録破りの早さでトップリーグに上り詰めた。この年更に東洋工業を5度のJSL優勝に導いた下村幸男をヘッドハンティングして監督に迎え1972年JSL参加初年度を戦った。

インターネットどころか、衛星放送もまだない時代、日本人がヨーロッパや南米のサッカーを目にする機会はほとんどなかったが、藤田は「うまくなるには本物に触れないといけない」とこの年、日本サッカー史上初の「元プロ」選手を獲得した。それがセルジオ越後で、「元プロ」選手の獲得にアレルギー反応は強く、日本サッカー協会では元プロ選手のプレーの是非を巡って議論が起き、外国人選手の試合出場は来日・登録から半年間は認めないとする新たな規約が設けられた。

1975年、後期リーグから藤和の親会社のフジタ工業に転籍し、フジタ工業クラブサッカー部と改称、翌1976年から本拠地を東京に移した。同時に練習グラウンドを神奈川県平塚市大神に移転、これが後の平塚移転に繋がる。その後フジタ工業のサッカー部となり呼称はフジタ。後に社名変更でフジタサッカークラブになった事で、呼称との区別は無くなった。強かった時代のセレソン風の黄色いユニフォームと「フジタ工業」の名でよく知られる。

[匿名さん]

#3082019/12/14 19:43
本場ブラジルのプロ選手であったセルジオ越後を獲得する等、ブラジル出身の技巧派選手を揃え攻撃的なブラジルサッカーで席巻した事でも知られる。セルジオが去った後にアデマール・ペレイラ・マリーニョ、ジョアン・ディクソン・カルバリオ、セイハン比嘉らの活躍で、1977-1978年シーズンを史上最多得点(64得点)でJSLを初制覇すると1979-80年、1981-82シーズンと3度JSLを制覇した。また1977年、1979年と天皇杯全日本サッカー選手権大会も2度優勝、黄金期を築いた。

ブラジル風サッカーと云えば後年読売サッカークラブの代名詞となったが、それ以前に実現し、またプロ化を目指した先駆的なクラブであった。「日本初のプロ・チームを作りたい」と藤田正明社長も公言し、「やる以上は徹底的にやり、日本はもちろん、世界一のチームを作る」と意気込んでいた。1970年代前半に読売サッカークラブの関係者が、「ウチと藤和さんで定期戦をやり、それをプロ化への突破口にしてもいい」と言ったことがあった。社会人サッカーの雄・浦和サッカークラブに声をかけて全員を入社させようと動いたこともある。

1991/92年の最後となったJSL2部でピッタらを擁して優勝した。翌シーズンの第1回ジャパンフットボールリーグ(JFL)1部に参加した。翌1993年には日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟を目指して日立、ヤマハと共にJリーグ準会員となり、それに併せてチームの愛称を湘南ベルマーレとし、またホームタウンをそれまでにも試合を開催していた平塚市とした。

[匿名さん]

#3092019/12/14 19:45
1993年は、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)1部で優勝、Jリーグ昇格を決めた。元ブラジル代表MFのベッチーニョ、ミランジーニャの活躍が大きく、岩本輝雄、名良橋晃、野口幸司、名塚善寛など、後に日本代表にも選ばれる20代前半の若手との融合で旧JFLでは圧倒的な実力を誇った。

なお、1994年にベルマーレ平塚へチーム名を改称したが、当時はホームタウンを1つの市区町村とすることを原則としていたため、地域名である湘南ではなく、本拠地の平塚市の名前を採用した。また、チームのホームスタジアムである平塚競技場も当時はJリーグホームスタジアムとしての基準(スタンドで15,000人以上収容、芝生部分はカウントしない等。当時メインスタンド以外は全て芝生スタンドであった)を満たしていなかったが、競技場のJリーグ規格へ改修する予算を平塚市が付けて昇格が認められた。

鈴木淳(元山形・新潟・大宮・千葉監督)、吉浦茂和(筑陽学園高校監督)、上川徹(元国際主審)などの指導者・人材も輩出している。

フジタは、1999年にクラブ運営会社の経営から一旦撤退し、運営権を平塚市などが運営する現在の法人「株式会社湘南ベルマーレ」「特定非営利活動法人湘南ベルマーレスポーツクラブ」に譲渡したが、2017年に18年ぶりにユニフォームスポンサー(袖部分)に復帰することになった。フジタ代表取締役・奥村洋治は「2018年のクラブ創設50周年に向け、当社もチームと一丸になり、熱い思いを共有したいと思います」述べている。

[匿名さん]

#3102019/12/14 19:46
■Jリーグ参加に至る経緯

発足は栃木県。藤和不動産社長の藤田正明が、欧州や南米のようなプロクラブを目指し、那須高原の藤和那須リゾート内に施設を建設、クラブを発足させた。チームが急激に力を付けると、フジタグループ全体でサポートする事になり1975年後期から「フジタ工業クラブサッカー部」に名称変更、翌1976年から本拠地を東京に移した。那須は寒くて芝が育ちにくく、練習相手もなくチームとしてまとまりがなく、同時に練習場を神奈川県平塚市に変更した。平塚ではいくらでも練習試合が組めた。

しかしこの事が、かえって当初の目標からは離れてしまったともいわれる。JSLにいながら、常にプロ化へのプレッシャーをかけ続けた読売サッカークラブとはこの点では違うかも知れない。1990年前後にはチーム力がやや落ちたが、藤田正明の後を継いだ正明の甥・藤田一憲も、とてもサッカー好きだったこともあって、Jリーグ創設に際しては参加を強く希望し候補の一つとなった。

しかしJリーグ参加の大きな条件にフランチャイズ制があったため、関東に候補チームが集中し、東京にチームを置くフジタには不利となった。当確といわれたマツダが降りると言った時、川淵三郎が「(会社発祥の地でもある)広島でやってくれるなら無条件で参加を認める」と打診したが、「もう関東の会社なので」と拒否。さらに浦和市に本拠地を置いてやると決まりかけていた本田技研が降りた時も、三菱自工に先を越されたといわれる。

[匿名さん]

#3112019/12/14 19:47
結局、平塚市北部大神に練習グラウンドを持っていた繋がりで平塚市を本拠地にしたが、オリジナル10には選に漏れた。川淵から説明された落選理由は「鹿島が屋根付きサッカー専用スタジアムをつくるというので鹿島を選んだ。また平塚市で盛り上がりが見られないこと、そしてフジタ(ベルマーレ)を入れると神奈川が4チームとなってしまう」というものだった。



■藤和不動産、フジタサッカー部に所属した主な選手

セルジオ越後
安藤正俊
カルバリオ
セイハン比嘉
古前田充
上田栄治
マリーニョ
植木繁晴
ピッタ
手塚聡
信藤健仁(信藤克義)
鈴木淳
宮澤ミシェル
高木琢也
谷中治
ホルヘ平野
野村貢
高橋貞洋
高橋憲司 (石田憲司)
カルロス
ミランジーニャ
ウーゴ
バルガス金城
池内豊

[匿名さん]

#3122019/12/16 00:50
これだけ無関係な書き込みは明らかに利用規約違反ですね。

[匿名さん]

#3132019/12/18 02:39
2017.11.23
著者 : 加部 究

□◾歴史は1986年から始まった— 日本サッカー界とアル・ヒラルの因縁◾□

◾日本のチームが初めてアジアを制した31年前、古河電工がアル・ヒラルと対戦

「サウジアラビア(アル・ヒラル)は優勝を義務づけられている。だから一番弱そうな日本戦で最初に弾みをつけようと考えていたんでしょうね」——(前田秀樹=古河電工、元日本代表)

サウジアラビアを代表するビッグクラブ「アル・ヒラル」は、過去にも少なからず日本のチームと因縁の試合を繰り返している。

実は、日本のチームが初めてアジアを制したのは1986年だった。まだ日本は、単独チームの国際交流に目を向けておらず、大会に参加するのも2度目。しかも、AFC(アジアサッカー連盟)が急遽決勝リーグの年末開催を通告してきたので、前年のリーグ王者・古河電工(ジェフユナイテッド千葉の前身)がアジアのNO1決定戦に臨むためには、天皇杯を棄権しなければならなかった。

大会開催地はサウジアラビアの首都リヤド。古河は現地に着いた当日の夜から、中1日で3試合(総当たりリーグ戦)を戦った。そして初戦の相手が、2017年のACL決勝で浦和レッズと顔を合わせたアル・ヒラルだった。まだ日本は、アジア大会などでも中東勢に対して分が悪く格下と見られていたため、ホームチームは大勝して弾みをつけようと目論んだに違いなかった。

[匿名さん]

#3142019/12/18 02:40
◾奥寺氏のハットトリックなどでアル・ヒラル快勝…完全制覇を成し遂げる

実際、大会を通して「日本のマラドーナ」と称賛された前田秀樹氏(現・東京国際大監督)も、控え目な目標しか立てられなかった。

「なんとか勝ち点1は取りたいな、と話していました。取れるとしたら、相手は中国かな、と」地の利を考えても「中東勢有利」は動かしがたく、2戦目のアル・タラバ(イラク)との試合でも相手サポーターが大挙駆けつけ、完全アウェーの試合を強いられた。だが古河は、ブンデスリーガから復帰したばかりの奥寺康彦氏のハットトリックなどで、アル・ヒラルに4-3で快勝。さらにアル・タラバ、遼寧(中国)にも連勝して完全制覇を成し遂げる。逆に大会最終戦に組み込まれた中東決戦は、優勝決定後の消化試合になってしまった。

[匿名さん]

#3152019/12/22 05:39
奥寺 康彦(おくでら やすひこ)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。元日本代表。秋田県鹿角市出身。株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長。

■愛称
東洋のコンピューター
■生年月日
1952年3月12日(67歳)
■出身地
秋田県鹿角市
■身長
177cm
■体重
75kg

■選手情報
ポジション
FW(LWG, CF) / MF(LSH, LWB, DH) / DF(LSB)

■利き足
左足


■クラブ
出場
(得点)
◇1970-1977
古河電工
100
(36)
◇1977-1980
ケルン
75
(15)
◇1980-1981
ヘルタ・ベルリン
25
(8)
◇1981-1986
ブレーメン
159
(11)
◇1986-1988
古河電工
43
(3)

■代表歴
1970-1987
日本
32
(9)

■監督歴
1996
ジェフユナイテッド市原
2017
横浜FC


1970年代当時、海外でプレーした日本人選手はまだいなかったが、奥寺は世界最高峰のリーグと言われたドイツのブンデスリーガ(1976年-1984年までUEFAリーグランキング1位)で活躍した初めての日本人選手である。3つのクラブを渡り歩き計9年間プレーを続けレギュラーとして実績を残した。その正確無比で安定したパスとシュート、戦術眼からくるプレースタイル、特に左足での強烈なシュートとスピードを武器にフォワードからディフェンダーまで出来る万能選手として活躍し、地元ドイツのファンから「東洋のコンピューター」というニックネームで呼ばれて賞賛された。

[匿名さん]

#3162019/12/22 05:40
欧州サッカー連盟主催の国際大会には6回出場しており、小野伸二に抜かれるまでアジア人最多だった。1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)ではアジア人として大会史上初となるゴールを記録している。なお、16年後の1994-95シーズンにタジキスタンのラシッド・ラヒーモフが得点を上げるまで奥寺以外のアジア人の得点者は現れなかった。

一般的に「日本人初のプロサッカー選手」として紹介される事が多いが、2人目のプロサッカー選手であるとの異説もある。


■古河電工時代
秋田県鹿角市十和田大湯(旧鹿角郡十和田町大湯)出身。二卵性双生児の妹がいる。小学校5年時に一家で横浜市に転居する。 横浜市立東戸塚小学校を経て、横浜市立舞岡中学校でサッカーを始め、相模工業大学附属高等学校(現:湘南工科大学附属高等学校)に進学。同校卒業後の1970年、中学時代の外部コーチだった東邦チタニウムサッカー部監督・三村恪一の口利きで、三村と中央大学で同期だった古河電気工業サッカー部OBで日本サッカー協会の強化責任者だった長沼健に連絡を取り、テストを受け、日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に入部。1976年に古河がブラジル工場を持っていた縁でブラジル・パルメイラスに2ヶ月間留学して急成長を遂げ、ユース代表を経て日本代表に選出される。同年に代表ではムルデカ大会で得点王に輝き、古河ではJSL、天皇杯の二冠に貢献しベストイレブンに選出された。

■海外移籍への経緯
1977年夏に日本代表がドイツにおいて分散合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の1.FCケルンの監督であったヘネス・バイスバイラーと親しかったことから、奥寺ら数人をケルンの合宿に参加させた。

[匿名さん]

#3172019/12/22 05:41
当時、ケルンはスピードのある左ウイングを探しており、バイスバイラーは同ポジションの奥寺に興味を持った。そこで、練習と称して事実上の入団テストを行ったうえで、奥寺に正式なオファーを出した。後に本人は、もし最初からあれが入団テストだと分かっていたら緊張して思ったとおりの力が出せなかったであろうと語っている。

奥寺は自分がブンデスリーガで通用するのか、失敗した場合に家族を養えるのかという不安から一度はオファーを断るが、再三に渡る国際電話でのオファーの果てに監督のバイスバイラー自ら奥寺を口説きに来日したため、日本サッカー協会に半ば強引に背中を押される形でドイツ行きを決意した。

また、当時は試合ごとに欧州と日本を行き来する発想はなく、欧州移籍は即ち、その期間中は日本代表参加を諦める事を意味していた事も、本人にとっても周りにとっても欧州移籍の決断を渋らせた大きな要因であった。

■FCケルン時代
同年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対MSVデュースブルク戦で先発デビューを飾った。

12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)、ブンデスリーガでは1978年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを記録。名将・バイスバイラーの下で数々の活躍をみせ、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献した。優勝を決めた試合では途中出場ながら2ゴールを挙げた。

[匿名さん]

#3182019/12/22 05:42
翌1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出し、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦。アウェーの第1戦において貴重な同点ゴールを決め3-3のドローに追いついたが、ホームの第2戦では0-1で破れ欧州制覇は成らなかった。

1980年にバイスバイラーがアメリカ・NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍すると、後任監督カールハインツ・ヘダゴットの構想外となり、ベンチからも外れる。出場機会を求めて1980-81年シーズンの後半にブンデスリーガ2部所属のヘルタ・ベルリンへ移籍した。

■ヴェルダー・ブレーメン時代
1部昇格に挑んでいたヘルタは最終的に昇格を逃したが、そのシーズンにヘルタに競り勝ち1部昇格を決めたヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督に認められ、翌1981-82シーズンからブレーメンに移籍する。

奥寺は左ウイングとしてブンデスリーガに渡ったが、レーハーゲルは守備的MFとしての奥寺の能力に注目した。守備の強さ、堅実なプレーに惹かれ、80年代なかばからヨーロッパの主流となった3−5−2システムの中で、奥寺は左ウイングバックという「天職」を与えられた。守備を行いながら、味方ボールとなると、ウイングそのものとなって攻撃の中核を担う。そうしたプレーはレーハーゲルをして「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」と言わしめた。

[匿名さん]

#3192019/12/22 05:43
1982年、1部1年目のブレーメンは、5位という好成績を残し、翌83年にはハンブルガーSVに次ぎ2位、そして84年5位、85年、86年と連続して2位。優勝は経験できなかったが、奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。

ブンデスリーガには通算9年間在籍。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算234試合出場、26得点。この通算26点という記録は、2014年9月13日にマインツの岡崎慎司が通算ゴールを28点とするまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多得点だった。また、通算234試合出場も、2017年3月5日に長谷部誠が更新するまで、ブンデスリーガにおける日本人選手の最多出場だった。

■古河復帰
1986年、「まだ自分の体が言うとおりに動くうちに」日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいとして、日本に帰国し、古巣の古河電工に復帰した。

帰国した奥寺は木村和司と共に日本国内初のスペシャル・ライセンス・プレーヤー契約を結び注目を集めた。また古河の一員としてはこの年にアジアクラブ選手権優勝。日本代表にも復帰し1987年のソウル五輪アジア最終予選進出に貢献した。最終的に中国との争いとなり、左サイドバックとして第1戦では相手エースを完璧に抑え1-0の勝利に貢献したが、ホームの第2戦では奥寺の逆サイドを守備の穴として狙われ、0-2で落としソウル五輪出場は叶わなかった。

1987-88年シーズンを最後に現役を引退した。

[匿名さん]

#3202019/12/22 05:44
■引退後
Jリーグ参入のため、古河電工からクラブチーム化された「東日本JR古河サッカークラブ」(ジェフ市原の前身となるクラブ)のゼネラルマネージャーに就任。1996年には監督に就任したが成績不振から1シーズン限りで退任した。

1999年に横浜フリューゲルスのサポーター有志で結成された「横浜フリエスポーツクラブ」(横浜FC)のゼネラルマネージャーに就任、2000年からは代表取締役社長を兼任。

2012年8月、日本サッカー殿堂入り。

2014年11月、AFC初代殿堂入り、

2017年10月、中田仁司の解任により監督が不在となったことで、第38節のFC町田ゼルビア戦で暫定的に指揮を執ることが発表された。


■日本人初のプロサッカー選手

従来、日本人初のプロサッカー選手として紹介されてきたが、2000年代あたりから、1975年に香港の「東方足球隊」でプレーした佐田繁理(さだまさしの実弟)の方が日本人初のプロサッカー選手であるという紹介が一部メディアにより成される様になった。ただし佐田は正式なプロ契約では無かったという説を採るメディアもあり、その場合は奥寺が日本初となる。

[匿名さん]

#3212019/12/22 05:45
■逸話
奥寺は何故ドイツであれだけ長くプレーできたのかと質問された際、「自分はスーパーな選手ではなかったけれども、例えて言うなら1+1を必ず2にできるような確実性は持っていたからだろう」と述べている。
ブレーメンに在籍していた1980年代に、ドイツでプレーしていることにかけて伊藤ハム「バイエルンソーセージ」のテレビCMに出演していた。
第22回(1986-87年)日本サッカーリーグの公式ポスターモデルとして出演し、その時「サラリーマンサッカーの時代は終わった」というキャッチコピーが登場し、日本サッカーがプロ化へ向かう事を象徴した。
サッカー漫画『キャプテン翼』37巻の77ページにて、経歴の説明と共に日本代表の監督として実名で登場している。自らの実力を試すために、翼は奥寺に対し一対一の勝負を挑んだが、奥寺を抜き去る事は出来なかった。架空の話ではあるが翼のドリブルを止めた数少ない登場人物となっている。
ドイツで行われた2006年FIFAワールドカップ予選抽選会においてドロワーアシスタントに選ばれた。アジア連盟からは釜本邦茂が推薦されていたが、ドイツとの関係が深い奥寺が選ばれた。


■獲得タイトル
日本サッカーリーグ 1回(1976年)
天皇杯 1回(1976年)
ブンデスリーガ 1回(1977-78)
DFBポカール 1回(1977-78)
アジアクラブ選手権 1回(1986-1987)
ムルデカ大会得点王 1回(1976)


■代表歴
アジアカップ(1976)予選
ワールドカップアルゼンチン大会予選
アジア競技大会(1986)
ソウルオリンピック予選

◇試合数
国際Aマッチ 32試合 9得点(1972-1987)

[匿名さん]

#3222019/12/25 07:45
古河電気工業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。古河電気工業のサッカー部として1946年に創部し、1991年から1992年までは「東日本JR古河サッカークラブ」と呼称していた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するジェフユナイテッド市原・千葉の前身となったクラブである。

■愛称
古河
■クラブカラー
青、 水色
■創設年
1946年

古河電気工業のサッカー部として1946年に創部。略称は「古河」で東日本旅客鉄道(JR東日本)と共同運営になってからは「JR古河」になった。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)に創設時から参加した8つのチームのうちの一つである。1992年にJSLが閉幕されるまで27シーズン連続でJSL1部に在籍し、JSL2部への降格経験の無い唯一のクラブであった。また、日本のクラブとしては初めてアジアの頂点に立ったクラブでもある。

■歴史
1900年代前半、栃木県日光市にある古河電気工業の事業所・工場では社員の娯楽としてアイスホッケーが盛んであったが、オフシーズンの時期のスポーツとしてサッカーが行われていたとされ、1914年時点で日光事業所内でサッカー部がすでに活動していた。

また、日光事業所とは別に日光で勤務してサッカーをプレーしていた社員が中心となって東京本社においてもサッカー部が創設された(創設時期は1933年や1935年とされる)。その後、関東実業団蹴球連盟(現:関東サッカー協会)に加盟し、1941年4月16日には同連盟の総会で創設が決定された「関東東実業団蹴球」(リーグ戦)の4部へ所属することが承認された(他に日立本社(現:柏レイソル)や日本勧業銀行、日本曹達など)が、同年12月に太平洋戦争が開戦し選手が兵士として徴兵されたこともありサッカー部の活動は停止を余儀なくされた。

[匿名さん]

#3232019/12/25 07:52
終戦後の1946年にサッカー部の活動が再開された。公式にはこの1946年がサッカー部の創設年と位置づけられている。当時の部員の多くがサッカーだけでなくアイスホッケーやラグビー、ボートの各部の部員と掛け持ちであったため、11人のメンバーが集まらないことも多々あった。実際に1949年の関東実業団リーグ4部は5試合の内で棄権が3試合(残りは2敗)あった。

なお、サッカー部は横浜市西区にある横浜研究所に本拠地を置くこととなった。

当時は大学サッカーの時代でもあり、当初は同好会レベルであったが1955年、「社員の志気を高めるために」と社長が号令をかけて、バレーボール部とサッカー部の『強化五か年計画』を打ち出し同年、長沼健が入団し、チーム強化を一任されると実力を伸ばすようになった。1958年から長沼は選手兼任監督となり、1960年および1961年と天皇杯を連覇した。古河電工の天皇杯制覇は実業団チームとして初めてであり、この制覇は学生優位の時代。にあった日本サッカー界の流れに終止符を打ち、社会人の時代へ移行させる足掛かりともなった。

1950年代から1960年代に掛けて全日本実業団選手権、全国都市対抗選手権を制するなど社会人サッカーをリードする存在であった。


1964年東京五輪終了後、長沼や西村章一は、日本サッカーの抜本的な強化策として恒常的な全国リーグの設置を主張した。この主張が認められて日本サッカーリーグ(JSL)が設置される事になった。これを背景にして同じくJSLの創設に尽力した事から三菱重工(現在の浦和レッドダイヤモンズ)、日立製作所(現在の柏レイソル)と併せて丸の内御三家と呼ばれるようになり、JSLの意思決定や日本サッカー協会に対し強い影響力を保ち続けた。

[匿名さん]

#3242019/12/25 08:00
1960年代中盤から1970年代初めの主力選手には長沼の他に川淵三郎、平木隆三、宮本征勝ら後に日本サッカー界の重鎮となる面々が在籍した。現在も多くのOBを日本サッカー協会内に送り込んでいる。しかし、リーグ戦においてこれらの選手達を擁し、常に上位を維持しながらもタイトルには縁が無かった。

1970年代に入って奥寺康彦、永井良和ら高卒の有望選手を育てる事に方針を転換。これが実を結び1976年に念願のリーグ制覇と天皇杯の二冠を達成した。この優勝の立役者となった奥寺は翌年にヘネス・バイスバイラーに認められドイツの1.FCケルンへ移籍した。以後、奥寺は9年間に渡って世界最高峰のリーグと言われたブンデスリーガで活躍し「東洋のコンピューター」の異名を得た。

一方、クラブは奥寺を放出した事で一時期低迷したが、80年代に入ると再び盛り返し、1985年には 岡田武史、宮内聡、吉田弘らを擁し2度目のリーグ制覇を果たした。1986年にはドイツから帰国した奥寺を迎えアジアクラブ選手権1986-87に参加。12月にサウジアラビア・リヤドで開催された決勝リーグにおいてアル・ヒラル(サウジアラビア)、アル・タラバ(イラク)、遼寧(中国)を下し、日本のクラブで初めてアジアの頂点に立った。

[匿名さん]

#3252019/12/25 08:02
1980年代末から1990年代初めにかけてプロリーグ化が具体的に検討され始めると、古河は古河単独での参加ではなく東日本旅客鉄道(JR東日本)との共同出資で新会社を設立する方針を採り東日本JR古河サッカークラブと名称を変更した。これは古河電工がBtoBを商業取引の専門とする会社であり、こうした会社の体質からサッカー部がプロ化するにしても対一般消費者向けの広告宣伝費という名目で資金を拠出するのが難しかったためである(三菱重工が三菱自工へチームを移管させた理由に類似している)。このため、古河電工と取引関係にあったJR東日本(古河が国鉄・JRへ鉄道の架線を納入)と共同でクラブをプロ化するという方策が示された。この当時は日本国有鉄道がJRに分割民営化直後に相当し、JR東日本は新鋭企業として積極的な宣伝広告活動を実施していた。この点で古河とJR東日本の利害が一致した。1990年代初めには、Jリーグ開幕に合わせ仙台市に移転することも検討されたが、仙台市がスタジアム建設案に難色を示したため、実現には至らなかった。

クラブがJR古河になってから、それまでの日本人選手のみの純血主義を転換し、チェコ出身のパベル・ジェハーク等を獲得。外国人選手の取り込みを図るようになった。古河が迎え入れる外国人は中東欧を中心としたヨーロッパの選手が多く、当時はマツダや三菱など他クラブでも同様に外国人はヨーロッパからという方針は幾つか見られた。古河はJリーグに移行してもこの方針を長い間維持し、この外国人の選択の傾向は古河-ジェフの「色」の一つになっている。

[匿名さん]

#3262019/12/25 08:12
1970年代当時は上下白のユニフォームを使用したが、1980年代は青と水色のストライプのシャツに青のパンツの物を使用した。胸の古河のロゴはアルファベットで「FURUKAWA」で、ジェフの胸スポンサーとして提示していた古河電工そのままのロゴとは違っていた。またJR古河となってからは「JR EAST FURUKAWA」に改めていた。

■略歴
1946年:創部。
1960年:実業団チームとして初めて天皇杯を制覇。
1965年:第1回日本サッカーリーグに参加。
1987年:アジアクラブ選手権を制覇し日本のチームとしては初めてのアジアタイトル獲得。
1991年:東日本JR古河サッカークラブに名称変更。


■主なタイトル
天皇杯全日本サッカー選手権大会
優勝 4回(1960, 1961, 1964, 1976)
準優勝 2回(1962, 1984)
日本サッカーリーグ1部
優勝 2回(1976, 1985)
準優勝 1回(1967)
JSLカップ
優勝 3回(1977, 1982, 1986-87)
準優勝 2回(1979, 1990)
スーパーカップ
優勝 1回(1977)
アジアクラブ選手権
優勝 1回 (1986-87)
全日本実業団サッカー選手権大会
優勝 3回(1959, 1961, 1962)
準優勝 1回(1958)
全国都市対抗サッカー選手権大会
優勝 4回(1960, 1961, 1962, 1964)


■歴代監督
青木圭太郎 (部長)
白柳景吉 1946-1954
西村章一 1955-1957
長沼健 1958-1961
平木隆三 1962-1965
内野正雄 1966
八重樫茂生 1967
桜井頼己 1968-1969
小川宏邦 1970-1971
川淵三郎 1972-1975
鎌田光夫 1976-1978
内野正雄 1979-1983
清雲栄純 1984-1990
川本治 1990-1992

[匿名さん]

#3272019/12/25 08:14
■古河電気工業サッカー部に所属した主な選手

長沼健
平木隆三
内野正雄
八重樫茂生
宮本征勝
川淵三郎
鎌田光夫
木之本興三
嶋谷征四郎
桑原隆
永井良和
清雲栄純
吉水法生
荒井公三
奥寺康彦
川本治
高橋武夫
前田秀樹
木口茂一
淀川隆博
鬼塚忠久
佐藤長栄
石井茂巳
岡田武史
吉田弘
金子久
宮内聡
菅野将晃
田嶋幸三
加藤好男
越後和男
小林寛
早稲田一男
宮部和弘
吉田暢
後藤義一
松山吉之
下川健一
小久保悟
渋谷洋樹

他にプレーヤーの経験は無いが、サッカー部の運営委員を務めた小倉純二がいる。

[匿名さん]

#3282019/12/28 20:56
日立製作所本社サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日立製作所のサッカー部として1940年に創部した。日本プロサッカーリーグに加盟する柏レイソルの前身となったクラブである。


■呼称
日立本社、日立

■クラブカラー


■創設年
1940年

■ホームタウン
東京都小平市(1940年 - 1985年)
千葉県柏市(1986年 - 1992年)

■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
国立西が丘サッカー場
日立柏総合グラウンド


1935年に開催された関東蹴球協会(現:関東サッカー協会)主催の第4回関東実業団蹴球大会の1回戦(対東京記者団、7-0で勝利)が文献から確認できる「日立製作所」の初めての公式戦であり、この大会で準優勝の成績を収めている。以降も関東実業団蹴球大会に出場し、第5回(1936年)および第6回(1937年)で準優勝。第7回大会(1938年)は決勝で千代田生命保険を破り優勝した。

なお、本サッカー部の創設年は一般に1940年であり、当初は「日立製作所本社サッカー部(日立本社サッカー部)」の名称であった。この「日立本社サッカー部」が創設された1940年以降で確認できる初の公式戦である第10回関東実業団蹴球大会の1回戦・明治製菓戦(1941年2月2日)は2-0で勝利。なお、同大会は決勝で第一生命保険に敗れ準優勝に終わった。1941年4月16日、関東実業団蹴球連盟の総会で創設が決定された「関東東実業団蹴球」(リーグ戦)の4部へ所属することが承認された(他に古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)や日本勧業銀行、日本曹達など)が、同年12月からの太平洋戦争勃発によりサッカー部の活動は休止を余儀なくされた。

終戦後の1946年に活動を再開。1947年に高橋英辰が茨城日立から本社へ転属した。

[匿名さん]

#3292019/12/28 20:57
全日本実業団サッカー選手権大会は1951年の第4回大会から参加し決勝に進出したが田辺製薬に敗れて準優勝。1952年(第5回)、1953年(第6回)、1954年(第7回)も決勝に進出したがいずれも田辺製薬に敗れた。1958年の第11回大会は決勝で古河電工を破って実業団選手権初優勝を果たし、1963年には全国都市対抗サッカー選手権大会で初優勝した。1960年に天皇杯に初出場して3位に入った。

1965年に創設された日本サッカーリーグ(JSL)に初年度から参加したが、1960年代は低迷して1968年および1969年は入替戦に回った(いずれも勝利)。なお、リーグ創設の際には古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)と中心的な役割を果たした事から「丸の内御三家」と称された。

1970年代には高橋英辰監督の厳しい指導により「走る日立」の異名をとり、1972年にはJSLおよび天皇杯で共に優勝して2冠を獲得した。なお、日立が獲得したタイトルは全て高橋の指揮下にあった1970年から76年に獲得したものであった。

一方で夜間にも練習が可能な専用のグラウンドを確保できたのは高橋が本格的なチーム強化を図るようになった70年代に入ってからであり、また、この時期でもなお選手は社業が終わってからの練習開始だった。この時点で三菱、古河は既に就業時間内に練習が可能になる体制を確保していたからこの遅れは顕著であった。80年代に入っても選手の給料体系にサッカーをすることで得られる付属分が組み込まれておらず、1980年代末にマネージャーとしてチームに復帰した久米一正は先ずこの点の改善から手をつけなければならなかった。

[匿名さん]

#3302019/12/28 20:59
これは古河や三菱重工に比べて日立が最もアマチュアリズムに対して保守的であったことを示している。高橋が定年によりチームを離れてから成績は徐々に下降線を辿り、プロリーグ化への移行が具体的に検討され始めた1980年代末から1990年代初めには日立はJSL1部と2部の間を行き来していた。日立は御三家の中で唯一Jリーグの開幕時参加を果たす事が出来なかった。

1992年から日立柏レイソルとしてJリーグ準会員となり、同年からジャパンフットボールリーグに参加した。


■主なタイトル・成績 編集
天皇杯全日本サッカー選手権大会
優勝 2回(1972, 1975)
準優勝 1回(1963)

・日本サッカーリーグ1部
優勝 1回(1972)
準優勝 2回(1973, 1982)

・JSLカップ
優勝 1回(1976)
準優勝 1回(1980)

・全日本実業団サッカー選手権大会
優勝 2回(1958, 1960)
準優勝 7回(1951, 1952, 1953, 1954, 1961, 1963, 1964)

・全国都市対抗サッカー選手権大会
優勝 1回(1963)
準優勝 1回(1964)

■歴代監督
鈴木徳衛 1965
宮崎正義 1966
服部幸太郎 1967-1969
高橋英辰 1970-1976
胡崇人 1977-1978
野村六彦 1979-1981
中村義喜 1982-1984
長岡義一 1985-1989
碓井博行 1989-1992

[匿名さん]

#3312019/12/28 21:00
■日立製作所サッカー部に所属した主な選手

野村六彦
山口芳忠
松永章
西野朗
池谷友良
下平隆宏
碓井博行
川上信夫
棚田伸
ロペス
ヘジス・アンジェリ
東海林毅
戸塚哲也
草野修治
郷司弘和
谷真一郎
佐々木雅尚
大橋昭好
星野晋吾
大倉智
飯田正吾
財前恵一
加藤望
沢田謙太郎
石川健太郎
大熊裕司
梶野智幸
田中信孝
加納大
ネルシーニョ
カレカ
横山雄次


■日本サッカーリーグ・日立製作所サッカー部の選手に関するカテゴリ。


飯田正吾
池谷友良

碓井博行

近江友介
大倉智
岡本久敬

加藤望
川上信夫
川俣則幸

北野誠 (サッカー選手)
清川浩行

久米一正

河野和久
小畑穣

下平隆宏
庄司孝

菅又哲男
鈴木徳衛
鈴木良三 (サッカー選手)
須藤茂光

瀬田竜彦

高橋英辰
高林敏夫
棚田伸
谷真一郎

チョウ貴裁

土肥洋一

内藤直樹

西野朗

野村六彦

平沢周策

ジョゼ・セルジオ・プレスティ

松永章
松永碩

水島武蔵

山口光國
山口芳忠

横谷政樹
横山雄次
吉川亨
ろ呂比須ワグナー

[匿名さん]

#3322019/12/28 21:02
■新たな日立製作所本社サッカー部の創立

1992年以降は、他のJリーグ所属クラブと同様に、アマチュアとして社内に残ったOBと新入社員などを中心として、新たに社内同好会としての日立製作所本社サッカー部を設立した。

東京都社会人サッカーリーグに所属している。

[匿名さん]

#3332020/01/01 18:45
川崎製鉄水島サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。川崎製鉄(現・JFEスチール)のサッカー部として1966年に創部し、1987年からチーム名を「川崎製鉄サッカー部」に改めた。通称は川鉄(かわてつ)もしくは水島(みずしま)ないしは双方を合わせた川鉄水島(かわてつみずしま)。また、川崎製鉄水島サッカー部の傍系クラブとしてリバー・フリー・キッカーズ(RFK)が存在する。


◇愛称
川鉄、水島
◇クラブカラー

◇創設年
1966年
◇ホームタウン
岡山県倉敷市および岡山市
◇ホームスタジアム
岡山県総合グラウンド陸上競技場


日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するヴィッセル神戸の前身となったクラブである。また川鉄水島OBチームである「リバー・フリー・キッカーズ」を前身としたファジアーノ岡山FCにとっても母体(源流・発祥)としているクラブである。


◇概要
川崎製鉄水島製鉄所(現JFEスチール西日本水島製鉄所)のサッカー部として1966年に創部。1978年に中国サッカーリーグに昇格。1980年に中国リーグで初優勝し、全国地域サッカーリーグ決勝大会に初めて出場したが、グループリーグで敗退した。

1981年は全国社会人サッカー選手権大会に初めて出場して大会初勝利も挙げたが、2回戦で電電関東(現:大宮アルディージャ)に敗れた。同年の地決は三菱化成黒崎(現:ギラヴァンツ北九州)などを破って決勝ラウンドに進んだが、決勝ラウンドは最下位に終わった。1982年および1983年に岡山県サッカー選手権大会で優勝した。

[匿名さん]

#3342020/01/01 18:48
1985年、中国リーグで5度目の優勝。地決はグループDを2戦2勝の成績で決勝ラウンドに進出。決勝ラウンドは2勝1敗の2位の成績で規定により1986年からの日本サッカーリーグ(JSL)2部への昇格が決まった。

1986年からJSLが廃止される1992年までJSL2部に在籍し、最高順位は1990年-91年シーズンの7位。JSLカップは初出場初勝利(1回戦:TDK(現:ブラウブリッツ秋田))を挙げた1986年と1989年以外はいずれも初戦で敗退した。

1992年以降はジャパンフットボールリーグ(JFL)に参加。1995年1月1日より兵庫県神戸市に本拠地を移し、親会社となる川崎製鉄からも離れてヴィッセル神戸となり、企業クラブとしての歴史に幕を下ろした。


◇歴史
1966年: 川崎製鉄水島サッカー部として創立。
1980年: 中国サッカーリーグで初優勝。
1986年: 日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。
1987年: 川崎製鉄サッカー部に改称。
1992年: ジャパンフットボールリーグ(JFL)2部に参加。
1995年: 兵庫県神戸市に本拠地を移転してヴィッセル神戸に改称。


■川崎製鉄水島サッカー部の選手

兼本正光

北堀尚幸
木下桂

酒井靖雄

高木功 (サッカー選手)
田村裕二

中尾幸太郎

福原喜和

丸野勝一郎

エルシオ・ミネリ・デ・アビラ

[匿名さん]

#3352020/01/01 18:49
■傍系クラブ

リバー・フリー・キッカーズ

◇創設年
1975年
◇ホームタウン
岡山県倉敷市
◇ホームスタジアム
玉島の森陸上競技場、福田公園、岡山県総合グラウンド陸上競技場

◇概要(RFK)
故障などにより川崎製鉄水島サッカー部より通知を受けて離脱した後も水島でサッカーを継続していきたい(本クラブである川鉄水島への復帰を含む)と望む人員および、逆に同部への移籍を望みながらも実力等の面からそれが果たせない人員の受け皿として、川崎製鉄水島サッカー部のOB有志によって1975年に結成された。通称は英略称となるRFK。

その後、川崎製鉄水島サッカー部にて引退や故障を理由に戦力外となった選手を受け入れる実質的な下位チームとして機能した(そのため水島2軍とも称された)がチームそのものの設立理由を要因とした目的と方針により、長らく岡山県リーグに留まった。

1995年のヴィッセル成立においては、有志チームである(川鉄本体の経営から外れていた)事を理由に倉敷市水島にとどまる事となるが、その後もヴィッセルよりの退団選手や調整者を受け入れ続けた。また川鉄水島がヴィッセルに改組するために水島に残さざるを得なかった、市民支援や地域に根付いていた年少者の育成システムなどを守るために、RFK側がこれらを受け継いでいる。この歴史の流れから岡山県周辺域においてはヴィッセルと並び、川鉄水島の流れを受け継ぐチームのひとつと見なされている。

2003年に同チームを中核としてファジアーノ岡山FCが発足し、これに伴い川鉄水島から続いたヴィッセルのOBチームおよび調整チームとしての役割を終える。

[匿名さん]

#3362020/01/01 18:50
◇概要
1989年、川崎製鉄水島製鉄所が地元倉敷市水島地区への社会還元(メセナ事業)として、子会社である水島ゼネラルサービス(のちJFE西日本GS)を介して立ち上げた、川鉄サッカースクールを源流とするスポーツ少年団であり、川鉄水島のヴィッセル転換前においてはジュニア・ユースチームとしても機能していたクラブ。もともとが地元である水島地区への社会還元事業としての意味合いが強く、子会社運営であったことなどから、川鉄のヴィッセル転換後も水島に残留した。

水島残留後も、川崎製鉄水島サッカー部(ヴィッセル神戸)やリバー・フリー・キッカーズ(ファジアーノ岡山)の出身者がコーチとして選手児童らを指導している。積極的にかかわっている指導者としては高木功など。

2002年、企業主体である川崎製鉄の合併によりJFE倉敷フットボールクラブに名称変更。2013年、運営主体であるJFEホールディングスが本クラブの運営から手を引くことを発表し、本クラブの指導者らが新団体を立ち上げてJFE西日本GSから事業を引き継ぐ形でピナクル倉敷フットボールクラブへと転換する。


■JFEスチール西日本サッカー部
JFEスチール(川崎製鉄の後身)の会社合併によって誕生した企業クラブ。JFEの企業フットボールクラブとしては川鉄水島の後身と言えるが、元は合併相手であった日本鋼管のクラブであるため、上記の傍系2クラブとは異なり人員や来歴における直接の繋がりは無い。

◇概要(JFE福山)
NKK福山サッカー部として創設。親会社の日本鋼管(NKK)と川崎製鉄の合併に伴って2003年にJFEスチール西日本サッカー部へ名称変更。また、これとは別にNKK本体のサッカー部が神奈川県で活動していた(日本鋼管サッカー部、1993年に廃部)。

[匿名さん]

#3372020/01/01 18:52
■各チームが継承したもの

◇共通
赤系列のチーム・ユニフォームカラー
ユニフォームカラーは川崎製鉄が赤、ヴィッセルはJリーグ参入時は黒・白の縦縞だったが後にクリムゾンレッド、ファジアーノはワインレッド。神戸の場合は現在のメインスポンサーである楽天の影響もあるものの、3チームともに色調にほとんど差がない。


■ヴィッセル神戸

◇人員と運営
発足当時に水島サッカー部にいた選手・運営人員は、ほぼヴィッセルに移管された。ただしRFKに移行した人員は除く。またヴィッセルへの移管後もRFKとのOBチームとしての人員交流はしばらく続き、ヴィッセル移管後にヴィッセルOBとしてRFKに転属し、そのままRFKの改組およびJリーグ昇格によってファジアーノに所属した選手・運営者も存在する。

◇ヴィッセル神戸側の練習場および試合場
ヴィッセルとなる前の1994年に、神戸市中央球技場と神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で各1試合の主管試合を行った。


■ファジアーノ岡山FC

◇本拠地
川崎製鉄サッカー部は岡山県倉敷市を本拠地としていたが、JFL時代はキャパシティーの関係で岡山県総合グラウンド陸上競技場(現在のシティライトスタジアム)を主本拠としていた。ファジアーノは、この流れを受け継ぎ岡山県全域をホームタウン(本拠地)と定め、岡山県倉敷市を発祥上の本拠地、岡山県岡山市のkankoスタジアムを活動上の本拠地とした。また津山市や新見市、美作市などの県北主要グランドも拠点と定めている。

[匿名さん]

#3382020/01/01 18:54
◇本拠地市民による支援母体
水島サッカー部の本拠の位置により倉敷市地元住民による支援が存在した。ファジアーノとなった後も「市民と一緒に作っていくチーム」として同様の支援を県域住民より貰っており、岡山県内の一部自動販売機などでは売上の何割かがファジアーノの運営費に充てられるシステムが存在している。


■川鉄ダービー

川鉄ダービーは日本のサッカークラブであるヴィッセル神戸とファジアーノ岡山FCの対戦に対して一部にて使われる呼称。

◇概説(川鉄ダービー)
1995年にヴィッセルができてから18年、2003年にファジアーノができてから10年、時が経過した2013年に、それぞれ上記の各理由によって川崎製鉄水島サッカー部の流れを汲むとされている、ヴィッセル神戸とファジアーノ岡山がJリーグ ディビジョン2にて顔合わせする事となり、両チームの対決が実現した。

特に岡山側ホームゲームにおいては、かつて川崎製鉄水島サッカー部がホームグラウンドとしていたシティライトスタジアム(現在はファジアーノのホームグラウンド)で行われる。そのため同地でのゲームはヴィッセル神戸およびファジアーノ岡山の両チームともに、そのルーツとなる地で行われる新旧ホームクラブ対決という意味合いをも持つ。

この「川鉄ダービー」という名称は、スカパー!ハイライトなどのメディアでも使用される事がある。

記念すべき最初の試合で、ヴィッセルからファジアーノに向かって「ようこそ。川鉄に縁を持つ友よ! 万感の思い胸に今日を戦おう!」という激励のメッセージが贈られた事に対し、次の試合では逆にファジアーノからヴィッセルに「おかえり神戸!! 街は違えど我らは兄弟 歴史を共に刻み行こう」というお返しのメッセージが贈られた。

[匿名さん]

#3392020/01/05 05:29
日本鋼管サッカー部は、かつて存在した日本のサッカーチーム。日本鋼管(現:JFEエンジニアリング)のサッカー部として創設され、同社の事業所があった(現JFE東日本工場京浜地区)神奈川県川崎市を拠点として活動していた。略称は日本鋼管、鋼管、NKK。ユニフォームは当初は水色を基調としていたが、1986年からは白と黒の縦縞。1988年にNKKと改称された際には赤を基調とした物へ変更された。


JFEエンジニアリング株式会社(英文社名 JFE Engineering Corporation)は、エネルギーシステムや環境システム、水処理システム、鋼製構造物、産業機械などの設計、建設を行う、JFEホールディングス傘下の会社である。日本鋼管と川崎製鉄の統合により、日本鋼管の鉄鋼事業をJFEスチール(旧川崎製鉄)に移管し、法人としての日本鋼管と同社のエンジニアリング事業を継承した会社である。


日本鋼管サッカー部(1932年-87年)
NKKサッカー部(1988年-93年)

■呼称
鋼管
■クラブカラー
スカイブルー
■創設年
1932年
■ホームタウン
神奈川県川崎市
■ホームスタジアム
三ツ沢公園球技場
等々力陸上競技場

[匿名さん]

#3402020/01/05 05:31
1932年に日本鋼管サッカー部として創設。1965年の第1回全国社会人サッカー選手権大会で優勝。1966年の第2回全国社会人サッカー選手権大会で準優勝。1967年より日本サッカーリーグ(JSL)に加入した。Jリーグには参加せず、ジャパンフットボールリーグ(JFL)に参加したが1993年シーズンをもって廃部した。

■歴史
1932年に同好会として発足したのが日本鋼管サッカー部の始まりである。1933年には対外試合を行うようになり、1935年に会社から部として認められた。1935年に関東実業団リーグに加盟、1938年に同1部に昇格した。1948年、系列の清水造船から数人を補強したチームで第1回全国実業団選手権大会に参加した。1955年、明治神宮外苑競技場で行われた第1回府県対抗選手権(この大会は第1回のみで終わった)にて日立を決勝で3-2で下し、初めて全国規模の大会に優勝した。同じ年には都市対抗選手権でも決勝に進んだが、東京クラブに2-5で敗れた。

1965年の日本サッカーリーグ(JSL)発足にあたっては鋼管にも加盟の話があったが、会社の経営状況が芳しくないこと、既に他のスポーツの部活動に注力しているといった事情から発足メンバー入りは見送られた。1965年の第1回全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、入れ替え戦でJSL最下位の名古屋相互銀行と対戦したが敗北。1966年の第2回全国社会人サッカー選手権大会では浦和クラブに次ぐ準優勝となり、再び入れ替え戦で対戦することになった名相銀に勝利をおさめ(第1戦3-2、第2戦2-1)、JSL入りを決めた。

[匿名さん]

#3412020/01/05 05:32
JSL加入後は毎年のように下位に沈み、1967年、1968年、1970年、1971年、1973年、1975年に入れ替え戦に進んだが、いずれも残留を決めた。1969年度には、のちに4度のベストイレブンに選出された藤島信雄が加入。1972年度の天皇杯では準決勝に進んだ。1979年、入れ替え戦でヤマハに敗れて(第1戦:0-0、第2戦:1-2)初のJSL2部降格が決まった。

1980年、JSL2部では4位に終わったもののJSLカップに優勝した。1981年、JSL2部に優勝して1部復帰を決め、同年度の天皇杯では決勝で読売クラブを2-0で破り初優勝を果たした。1982年のJSL1部では最下位となり降格したが、1983年のJSL2部では独走状態で優勝して1部に復帰した。

1985年のJSL1部ではクラブ史上最高成績の2位をマークし、以降3シーズン連続で2位につけた。この時期のチームにはGK松井清隆、DF田中孝司、FW松浦敏夫といった日本代表クラスの選手が揃っていた。しかしその後は再び下位に沈み、1990-91シーズンに最下位となってJSL2部に降格した。すでに他クラブには多くのプロ選手がいる時代だったが、NKKではいまだに選手全員が午後2時まで一般業務をこなしてからサッカー部の活動を行うという環境だった。

[匿名さん]

#3422020/01/05 05:34
Jリーグには参加せず、1992年からはジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に参加。主力選手がJリーグのクラブに流出したこともあり、1992年のJFL1部では最下位(10位)となり、2部に降格した。1993年はJFL2部で3位。すでに翌年の体制や新人選手の加入も決まっていたが、シーズン終了後の12月末になって選手およびスタッフに休部が告げられた。休部当時にコーチだった倉又寿雄によれば、宮城県仙台市に移転してJリーグクラブを目指すという話もあったが、会社側はそれを拒否したという。


■主な成績・タイトル

日本サッカーリーグ1部
準優勝:3回(1985年、1986-87年、1987-88年)
日本サッカーリーグ2部
優勝:2回(1981年、1983年)
天皇杯全日本サッカー選手権大会
優勝:1回(1981年)
JSLカップ
優勝:2回(1980年、1987年)
全国社会人サッカー選手権大会
優勝:1回(1965年)
準優勝:1回(1966年)
府県対抗選手権
優勝:1回(1955年)
全国都市対抗サッカー選手権大会
準優勝:1回(1955年)


■表彰

◇JSL1部
ベストイレブン
1971 藤島信雄
1976 藤島信雄(2)
1977 藤島信雄(3)
1978 藤島信雄(4)
1984 松井清隆
1985 松井清隆(2)、浅岡朝泰
1986-87 松浦敏夫
1987-88 松浦敏夫(2)
◇得点王
1986-87 松浦敏夫
1987-88 松浦敏夫(2)
◇アシスト王
1985 浅岡朝泰
JSL2部

◇ベストイレブン
1991-92 望月聡
◇得点王
1983 松浦敏夫
◇アシスト王
1983 山本欣也、松浦敏夫

[匿名さん]

#3432020/01/05 05:35
■歴代監督
1949年- 片岡次夫
1953年- 津村信正
1955年- 酒井繁雄
1956年- 竹尾正
1958年- 早川純生
1962年-1966年 高森泰男
1967年-1971年 千田進
1971年-1976年 田中孝
1976年-1979年 上田稔
1980年-1982年 千田進
1983年-1989年 福村吉正
1989年-1992年 岡村新太郎
1992年-1993年 松浦敏夫


■日本鋼管サッカー部出身の主な選手

松井清隆
井沢千秋
岡村新太郎
田中孝司
木寺浩一
梅山修
伊藤哲也
神田勝夫
神田勝利
チェローナ
藤島信雄
松浦敏夫
藤本貢壽
倉又寿雄
浅岡朝泰
望月聡
山崎慎治
中本邦治
マルシオ
佐藤昌吉
左近充辰治
藤代伸世


日本サッカーリーグ、ジャパンフットボールリーグ・日本鋼管サッカー部の選手に関するカテゴリ。NKKサッカー部も含める。


浅岡朝泰

礒田由和
伊藤哲也
井原康秀

梅山修

岡村新太郎

加藤慎一郎
神田勝夫

木寺浩一

倉又寿雄

佐藤昌吉
佐野友昭

千疋美徳

高森泰男
竹元義幸
田中孝司

ハイメ・アルベルト・ロドリゲス

中本邦治

藤島信雄
藤代伸世
藤本貢壽

松井清隆
松浦敏夫

望月聡

山崎慎治
山本富士雄

吉田謙
米倉誠

[匿名さん]

#3442020/01/08 06:48
東京ガスサッカー部はかつて存在した日本のサッカークラブ。東京ガスのサッカー部として1935年に創部し、1997年および1998年は「東京ガスフットボールクラブ」と呼称していた。


■東京ガスサッカー部(1935年 - 1998年)

創設年
1935年
解散年
1998年


■東京ガスサッカー部(1999年創部)

1999年に設立された東京ガス社員によるサッカー同好会チームであり、東京都社会人サッカーリーグに所属する。

◇愛称
ガス
◇クラブカラー
青、赤
◇創設年
1999年
◇所属リーグ
東京都社会人サッカーリーグ
◇所属ディビジョン
2部
◇ホームスタジアム
FC東京深川グランド


■概要
1999年よりFC東京の名称でプロクラブ化した東京ガスフットボールクラブは、Jリーグ仕様のチームを作るべく更なる体制の強化を図ることとなった。

これにより、社員選手の何名かは「社業復帰」を余儀なくされたため、彼らを中心としてサッカー部を創部し、「東京ガスサッカー部」の名称で東京都社会人サッカーリーグへ参加している。


■歴代所属選手
東郷太樹 (2012)

[匿名さん]

#3452020/01/11 08:33
NTT関東サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日本電信電話公社のサッカー部として1969年に創部した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟の大宮アルディージャの前身となったクラブである。


■呼称
NTT関東、電電関東
■クラブカラー

■創設年
1969年


■歴史

◇埼玉県リーグ、関東リーグ時代
1968年9月に日本電信電話公社の埼玉管内にて電電埼玉蹴球連盟に加盟する9チームによるリーグ戦が行われ。その参加チームから選手を選び1969年1月に電電埼玉サッカーチームが結成された。さらにそのチームに関東管内の選手を加える形で電電関東サッカー部が結成された。

電電関東サッカー部は1970年に埼玉県サッカー協会に登録し、1971年より新たに始まった埼玉県サッカーリーグに参加した。1973年の関東社会人サッカー大会で準優勝し、その後の関東社会人リーグ7位のFC青山との入れ替え戦に勝利して、1974年より関東リーグに昇格した。1975年の関東リーグでは8位に沈み、入れ替え戦にも敗れ、埼玉県リーグに降格。1979年の関東社会人サッカー大会で優勝して、関東リーグに復帰。1982年、1983年と2年連続で関東リーグで2位となり、日本サッカーリーグ2部(JSL2部)への昇格が懸かった全国地域リーグ決勝大会に進出したが、両年とも敗退。

1985年、電電公社が民営化により日本電信電話株式会社(NTT)となったことに伴い、NTT関東サッカー部へと改名。1986年、関東リーグ2位となって地域リーグ決勝大会に進出、予選、決勝の計5試合すべてに勝利してJSL2部に初昇格を決めた。

[匿名さん]

#3462020/01/11 08:34
◇JSL2部時代
日本サッカーリーグ2部(JSL2部)には、1987シーズンから最終年の1991-92シーズンまで5シーズン参加。最高成績は1987-88シーズンの5位だった。1987年度には天皇杯に初出場(第67回大会)、1回戦で三菱重工に敗れた。

Jリーグの創設メンバーにも立候補していたが、準備不足もあり外された。NTTの料金誤請求問題が起きて、このタイミングでプロ化はまずいと立ち消えになった。1991年より監督を務めた清水隆は、当初はJリーグ発足までの2年間のみということで監督を引き受けたが、就任から間もなく会社はJリーグ参入を断念した。プロ化を口説き文句にして獲得した選手たちは次々に他クラブへと移籍し、チーム力は低下した。


◇旧JFL時代
Jリーグへ参加しなかったため、1992年からはジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に所属(2部制だった1992年と1993年シーズンは2部に参加)。

1997年、佐々木則夫が監督に就任。同年7月のNTT東日本再編へ向けて、NTTは野球部をシンボルスポーツにすることを決めていて、社内の士気を高めるのは野球にして、サッカーはJリーグに任せておけばいいと、NTTは1998年末にサッカー部を廃部にすることを決めた。佐々木はそれまでに選手一人ひとりの意思を確認し、プロ入りを希望するものは移籍させ、それ以外の選手は社業に専念させるよう会社と調整していた。ところが監督就任直後に埼玉支店長に赴任した中村維夫が「サッカー部は廃部なのに頑張っているな。チームをプロ化にすれば母体になる」と、本社の役員を説得して一転、廃部決定がプロ化へ変わる。佐々木は普及強化部長として側面からチームを支えることとなり、 佐々木の前の監督・清水はプロ化に向けた準備室に移った。

[匿名さん]

#3472020/01/11 08:35
川越市からの誘いもあったが、1999年からのJリーグの2部制移行を前にして、大宮市では1997年1月に大宮市サッカー連盟の有志が「大宮にJリーグを呼ぼう会」を発足し、Jリーグクラブの招致に向けた署名活動を始めた。同年8月にはNTT関東サッカー部が大宮市を本拠地としてJリーグ参入を目指すことが決まり、同年12月の日本サッカー協会理事会にてJリーグ2部(Jリーグ ディビジョン2)参入が決まった。

NTT関東がプロ化する際、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)からはレッズとの競合回避のため川越市を本拠地にするように薦められたが、NTT関東は長年本拠地にしてきた大宮公園サッカー場の使用にこだわり、1998年のプロ化と大宮アルディージャとして1999年のJリーグ ディビジョン2(J2)参入は大宮市(2001年にさいたま市へ合併)で行った事を、後に川淵三郎チェアマン(当時)がサッカー雑誌のインタビューで明かしている。

1998年3月に新クラブ名が「大宮アルディージャ」に決まった。1998年12月に運営会社となる「NTTスポーツコミュニティー株式会社」が東日本電信電話(1999年7月以後[14])が中心となりNTTドコモ、NTTデータ、NTTファシリティーズ、NTTコムウェア、日本コムシスなどのNTTグループ関連企業18社が出資して設立され、プロクラブ化し、1999年からJリーグ ディビジョン2(J2)へ参加した。

なお、旧JFLの各チームでは多かった社員選手は、チームのJリーグ参加と共に引退・移籍、あるいはプロ契約への切り替えなどで減少し、2009年引退の斉藤雅人が最後の社員選手となった。

[匿名さん]

#3482020/01/11 08:36
■略歴
1969年 : 創部。当時の名称は電電関東サッカー部。
1971年 : 埼玉県社会人サッカーリーグに参加。
1975年 : 関東サッカーリーグへ昇格。1年で降格。
1978年 : 埼玉県リーグで3連覇。
1980年 : 関東リーグへ再昇格。
1987年 : 日本サッカーリーグ(JSL)へ昇格。
1992年 : ジャパンフットボールリーグ(JFL)へ参加。
1998年 : 3月、大宮アルディージャに改名。12月、運営法人となるNTTスポーツコミュニティ株式会社が設立。


■獲得タイトル

関東サッカーリーグ
準優勝 : 3回 (1982年、1983年、1986年)
埼玉県社会人サッカーリーグ1部
優勝 : 3回 (1976年、1977年、1978年)
準優勝 : 2回 (1973年、1979年)
全国社会人サッカー選手権大会
優勝 : 1回 (1981年)
全国地域リーグ決勝大会
優勝 : 1回 (1986年)
関東社会人サッカー大会
優勝:1回(1979年)
準優勝:1回(1973年)
埼玉県サッカー選手権
優勝:3回(1975年、1978年、1984年)
埼玉県サッカー選手権大会
優勝:2回(1996年、1997年)
全国電電サッカー大会
優勝 : 1回 (1972年)
本社、関東、東京三社対抗サッカー大会
優勝 : 2回 (1971年、1972年)


■主な使用グラウンド
企業チーム「電電関東→NTT関東」時代(1997年まで)は、所在地の埼玉県浦和市(駒場競技場)も使用していたが、試合はむしろ川越市(川越運動公園陸上競技場)や鴻巣市(鴻巣市立陸上競技場)、大宮市(県営大宮サッカー場)、熊谷市(熊谷運動公園)、東松山市(東松山サッカー場)、深谷市(仙元山公園陸上競技場)、さらに隣県の栃木県宇都宮市(栃木県グリーンスタジアム)、千葉県(NTT千葉総合運動場)、群馬県太田市(太田市運動公園陸上競技場)などに分散して数試合ずつ行われていた。またJ2開始当初数年も同様に鴻巣市や栃木県で開催したことがある。

[匿名さん]

#3492020/01/13 08:37
デッツォーラ島根は、県1部だと全然強いね。中国リーグと島根県1部のレベルの差をとても感じます。さあ、来季、中国リーグで戦えるかどうか?浜田ダービーも楽しみですね。

[匿名さん]

#3502020/01/13 17:18
連投やめろ青面獣

[匿名さん]

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