杉山 隆一は、静岡県清水市 (現:静岡市) 出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
■生年月日
1941年7月4日(78歳)
■出身地
静岡県清水市
■身長
169cm
■体重
67kg
■選手情報
◇ポジション
FW MF
◇利き足
右
■ユース
1957-1960
静岡県立清水東高校
1962-1965
明治大学
■クラブ
出場
(得点)
1966-1973
三菱重工業
115
(41)
■代表歴
1961-1971
日本
56
(15)
■監督歴
1974-1983
ヤマハ発動機
■獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
銅 1968 サッカー
現役時代は強烈な左足のシュート、クロスを武器とする俊足の左ウイングとして活躍。キャリア終盤はトップ下としてプレーすることが多かった。日本代表では釜本邦茂との名コンビで知られた。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■来歴
袖師中学校時代からサッカーを始め、清水東高校時代に第13回国民体育大会 (富山国体) で優勝、一躍有名になる。また高校1年から3年連続で日本ユース代表に選ばれAFCユース選手権に参加、国際的にも活躍した。
大学浪人中の1961年、19歳で国際Aマッチ初出場。明治大学在学中の1964年に東京オリンピックで活躍。日本代表チームをベスト8へと導いた。この活躍により南米のクラブからは20万ドルの移籍金を提示され「20万ドルの左足」と賞された。同年大学生ながら第4回日本年間最優秀選手賞を受賞している(1969年と1973年にも同賞を受賞)。
1966年、明治大学卒業後は八幡製鉄に入団する予定だったが破談。しかしそれを知った三菱重工に誘われ入団。ここでも主力として活躍、1969年、1973年と2度の日本リーグ優勝、1971年、1973年と2度の天皇杯優勝など、躍進の立役者となる。
1968年メキシコシティーオリンピックに出場。5アシストを記録するなど銅メダル(3位)獲得に貢献する。
2大スターとして釜本邦茂とよく比較されたが、俊足ドリブルを主体とするプレースタイルのためか故障が多く、トッププレーヤーとしての選手寿命は釜本よりも短かった。
1974年の現役引退後、請われてヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)の監督に就任。1975年には現役復帰し監督兼選手として2年間プレーし1976年に現役を引退する。その卓越した技術とサッカーに対する情熱により、チームを7年で静岡県2部リーグから日本サッカーリーグ1部に押し上げ、1982年度の第62回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝した。
2005年、日本サッカー殿堂に選出された。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■エピソード
左ウイングとして活躍し、「黄金の左足」、「20万ドルの左足」といわれたが、実は右利きである。メキシコ五輪3位決定戦での2つのアシストも右足からである。
三菱重工での引退試合は第53回天皇杯全日本サッカー選手権大会の決勝。見事優勝で現役引退を飾っている。
メキシコオリンピックの日本代表時代、合宿での練習後にパチンコに勤しむ事があり、よく松本育夫が呼び戻しに行かされていたという逸話もある。
■引退後経歴
1974年 - 1987年 ヤマハ発動機 監督
1987年 - 1992年 ヤマハ発動機 副部長兼総監督
ジュビロ磐田スーパーバイザー
静岡県サッカー協会副会長
■代表歴
◇出場大会
日本ユース代表
日本代表 1961-1971
1962 FIFAワールドカップ・アジア予選
1964 東京五輪(ベスト8、4試合2得点)
1968 メキシコシティ五輪(3位、6試合)
1970 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
◇試合数
国際Aマッチ 56試合 15得点(1961-1971)
■関連書籍
『男は勝負 ゼロからの出発(スタート)』(杉山隆一著、講談社)1983
『杉山隆一 黄金の左足の伝説-ジュビロ磐田をつくった男』(丸山一昭著、角川書店)2002
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
ヤマハ発動機サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。ヤマハ発動機のサッカー部として1972年に創部。呼称はヤマハ。日本プロサッカーリーグに加盟するジュビロ磐田の前身となったクラブであり、ジュビロと同じく静岡県磐田市を中心に活動していた。
■呼称
ヤマハ
■クラブカラー
青
■創設年
1972年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ他
■ホームタウン
静岡県磐田市他
■ホームスタジアム
ヤマハ発動機東山総合グラウンド
■収容人数
5.000人
■概要
前身のヤマハ発動機磐田工場サッカー同好会が発足したのは1970年。一般的にはサッカー部となった1972年が創立年とされている。 1974年に当時日本リーグ1部の三菱重工でプレーしていた元日本代表の杉山隆一を監督兼選手として迎え本格的な強化が始まる。荒田忠典(株式会社ヤマハフットボールクラブ元社長)を中心に環境整備や静岡県内の有望な高卒選手の補強を進めた。杉山に率いられた同サッカー部は着実に力を付け、1978年には自前のヤマハ発動機東山総合グラウンド(現:ヤマハスタジアム)が開設。1979年に日本サッカーリーグ(JSL)1部へ初昇格した。
1982年にオランダ人のハンス・オフトをコーチに迎え第62回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝。1987年にはブラジルのキンゼ・デ・ジャウーからアンドレとアディウソンが加入。森下申一、石神良訓ら日本代表選手を擁した堅守とブラジル人コンビの攻撃で同シーズンにJSL初優勝を成し遂げた。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
その後はタイトル獲得は成らなかったものの、読売クラブや日産自動車に継ぐ3番手のクラブとして1980年代中盤から1990年代初頭のJSLを盛り上げる存在であった。 また隣接する浜松市を本拠地とした本田技研とはライバル関係にあり、その一戦は「天竜川ダービー」、「天竜川決戦」と呼ばれリーグ屈指の好カードとなった。
1990年のプロリーグ参加へのヒアリング調査の際には名乗りを挙げ、最終選考まで残ったが、スタジアムの問題だけは解決できず、浜北市に新スタジアムを建設する案や遠州灘海浜公園球技場を改修する案は自治体の合意を得られず断念。また、磐田市から遠く離れた静岡市の草薙球技場を使用する案も認められず、また清水フットボールクラブ(エスパルス)との統合案も検討されたが、結局は初年度のJリーグ参加は見送られることになった。スタジアムはヤマハ磐田サッカー場を改築してJリーグ規格にすることで対応することになった。
1992年にジャパンフットボールリーグへ参加し優勝。同年に運営会社の株式会社ヤマハフットボールクラブが設立。1993年にはJFL2位となり昇格決定。名称も「ジュビロ磐田」と改称して、1994年にJリーグに参加することとなった。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■略歴
1970年 前身のヤマハ発動機磐田工場サッカー同好会発足
1972年 ヤマハ発動機サッカー部創部
1976年 静岡県社会人サッカーリーグ1部優勝
1977年 東海社会人サッカーリーグ昇格
1979年 日本サッカーリーグ(JSL)2部昇格
1980年 JSL1部昇格
1981年 JSL2部降格
1983年 JSL1部昇格
■タイトル
◇リーグ戦
日本サッカーリーグ1部
優勝(1回):1987-88年
日本サッカーリーグ2部
優勝(1回):1982年
ジャパンフットボールリーグ1部
優勝(1回):1992年
東海社会人サッカーリーグ
優勝(2回):第12回(1977年)、第13回(1978年)
静岡県社会人サッカーリーグ1部
優勝(2回):1975年、1976年
静岡県社会人サッカーリーグ2部
優勝(1回):1974年
◇カップ戦他
天皇杯全日本サッカー選手権大会
優勝(1回):第62回(1982年)
全国地域サッカーリーグ決勝大会
優勝(2回):第1回(1977年)、第2回(1978年)
■歴代監督
荒田忠典 1972-1973
杉山隆一 1974-1987
小長谷喜久男 1987-1991
長澤和明 1991-1993
■ヤマハ発動機サッカー部に所属していた主な選手
山本昌邦
柳下正明
長澤和明
沖野隆幸
上永吉英文
石神良訓
中山雅史
大榎克己
内山勝
内山篤
アンドレ
アディウソン
サントス
吉田光範
森下申一
鈴木政一
望月一仁
石井知幸
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
「Category:ヤマハ発動機サッカー部の選手」も参照
あ
青嶋文明
アディウソン・ルイス・アナスタシオ
有田一矢
アントニオ・カルロス・アンドレ
い
石井知幸
石神良訓
う
内山篤
内山勝 (サッカー選手)
お
大石隆夫
大榎克己
大橋昭好
沖野隆幸
尾崎勇史
か
上永吉英文
き
菊池直喜
こ
古賀琢磨
小長谷喜久男
古俣健次
カルロス・アルベルト・ゴメス・ダ・コスタ
さ
三渡洲アデミール
す
杉本雅央
鈴木政一
た
伊達倫央
な
長澤和明
長澤徹
中山雅史
は
浜野征哉
半場康好
ひ
東川昌典
も
望月一仁
望月達也
森下申一
や
柳下正明
山本昌邦
よ
吉田裕幸
吉田光範
吉村寿洋
米澤剛志
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年〈大正15年〉5月30日 -)は、日本の新聞記者、実業家。株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。勲等は旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られる。
■生誕
1926年5月30日(93歳)
東京府豊多摩郡
(現:東京都杉並区)
■教育
東京大学文学部
■職業
読売新聞グループ本社主筆
■活動期間
1950年 -
株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長などを歴任した。
日本プロ野球界に関連する彼の伝説は数知れず、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ、マスメディアにおいて「球界の独裁者」または単に「独裁者」と呼ばれていることについては、渡邉自身が認めている。他に「メディア界のドン」「政界フィクサー」とも呼ばれる。
■Jリーグとの関係
読売グループでは、1968年のメキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したことによるサッカー人気の高まりに乗る形で、1969年に読売サッカークラブを創設。1977年からは当時のトップリーグである日本サッカーリーグ (JSL) 1部に昇格し、1980年代にはJSLや天皇杯を何度も制する強豪チームに育て上げていた。
1992年、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「東京ヴェルディ」)」を設立、翌1993年に正式スタートした日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に参加。三浦知良・ラモス瑠偉などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年8月1日に目黒区内のサレジオ教会で行われた三浦と日テレの歌番組出演していた設楽りさ子の結婚式では、媒酌人も務めた。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや日本サッカー協会と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、1994年からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。
元々ヴェルディは東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市を本拠地としていた。程無く後々に発生する「本拠地:東京移転を巡るヴェルディと川崎市の確執」は、本拠地移転を経験しながらも地域密着に成功した浦和レッズおよびコンサドーレ札幌と対比される事が多い。また、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都(東京スタジアム(味の素スタジアム))に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になり2005年のJ2降格と2007年のJ1再昇格を経て、2008年に現名称の「東京ヴェルディ」となった。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
ファンにしてみたらこれらの無関係な長文の連投は本当に迷惑だよ。これ以上続けるならバクサイ運営に利用規約違反として通報するからね。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
読売サッカークラブは、かつて存在した日本のサッカークラブ。読売新聞社、株式会社よみうりランドが主体となって1969年に創設された。呼称は「読売」もしくは「読売クラブ」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する東京ヴェルディ1969の前身となったクラブである。
■呼称
読売クラブ
■愛称
ウイングス, 読売
■クラブカラー
緑
■創設年
1969年
■ホームタウン
東京都
■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
国立西が丘サッカー場
駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場
■概要
読売サッカークラブの創設は、サッカー日本代表がメキシコオリンピックで三位入賞・銅メダルを獲得した1968年10月の1ヶ月後、当時の日本蹴球協会(日本サッカー協会)会長・野津謙が将来のプロ化導入を目指して読売新聞社を訪れ、読売会長の正力松太郎にプロサッカーチームの創設を依頼したことに始まる。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
1968年秋に全日本大学サッカー選手権大会で優勝した東京教育大学蹴球部(現:筑波大学蹴球部)監督の成田十次郎に野津から電話があり、「読売の正力さんが、いずれ野球の次はサッカーのプロ化の時代が来るといっている。君はヨーロッパのサッカーに通じているので、一つ協力してやってくれないか。読売新聞と日本テレビが協力して、読売ランドの中に芝生一面を含む四面のサッカー場とクラブハウスを設置して、ヨーロッパのようなクラブ組織を作る。それをプロへつなげるという仕事をして下さい」という説明があった。成田は野津の要請をただちに承諾、間もなく日本テレビの笹浪永光(笹浪昭平)が成田の自宅を訪れ、「経済的には、読売新聞社、日本テレビ、よみうりランドが支援し、折衝には私が責任を持つので監督に」という要請があり、笹浪から「できるだけ早く上のリーグへ昇格することと、クラブが募集する少年たちの指導のために、東京教育大学の選手を連れてきてもらいたい」との依頼を受け、当時監督を務めていた東京教育大学の選手を連れて成田が読売クラブの初代監督に就任した。
正力逝去の8日前1969年10月1日、読売新聞社を中心に日本テレビ放送網、株式会社よみうりランド、報知新聞社の協力で「プロ野球に次ぐプロスポーツ」を視野に入れて任意団体として、「読売サッカークラブ」は発足した。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
クラブの実質的責任者は日本テレビの笹浪永光(笹浪昭平)で、チーム作りは監督の成田が行った。結成前に日本テレビ放送網の実業団サッカー部(日本テレビ・サッカー部)があり、東京教育大学全日本大学サッカー選手権優勝時の主将・柴田宗宏が1969年春、同大学を卒業しコーチとしてこのチームに加わり、東京都社会人サッカーリーグ2部(B)に加盟。正式に「読売サッカークラブ」と正式にチーム名を改めたのは1970年2月。柴田が首都圏の学校に就職していた仲間を加え、その後はとんとん拍子に昇格した。「読売サッカークラブ」は先の「日本テレビ・サッカー部」を発展解消させたとも言われる。ただ成田十次郎は「日本テレビ・サッカー部」のメンバーは1969年3月31日に卒業したと話している。
クラブの運営資金は読売新聞、日本テレビ、よみうりランドが4・4・2の割合で負担し、サッカースクールや少年サッカー大会の収入なども貴重な財源であった。
日本サッカーリーグ(JSL)では他の参加クラブが有力企業に属し、社員の福利厚生や宣伝を目的とした企業アマ(企業チーム・実業団チーム)と呼ばれる形態を採用していたのに対し、同クラブは欧米型のクラブチームの形態を採用し、様々な職種の人々によって構成された。またクラブから給料を貰い、試合の結果によって報奨金を得ることができる事実上のプロであった。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
当初は柴田宗宏を選手兼指導者として迎え、柴田、高田静夫、野地照樹ら東京教育大学出身者を選手強化の中核とすると共に、少年指導にも当らせた。「練習グランドを作り、少年達を育てる」ことに重点が置かれ、欧州型のサッカークラブに倣い下部組織からトップまで使用できる練習グラウンドをよみうりランド内に建設、東京ヴェルディとなった現在もここを練習場として使用している。
1972年にJSL2部に昇格し、監督に成田、コーチに宇野勝やオランダ人のフランス・ファン・バルコム、選手にジョージ与那城らを迎え戦力の充実を図る。成田や宇野らは数年でクラブを去り、クラブの黎明期を支えた柴田ら東教大出身者達も教員や審判員へと転じた。そしてクラブに残ったバルコムの勝負に対する厳しさと与那城のブラジル・スタイルのサッカーがそのままクラブの特徴となっていった。
バルコムは小見幸隆、岡島俊樹、松木安太郎ら高卒の無名選手を鍛え上げ、後に日本代表に選出されるまでに成長させた。しかしJSL2部では圧倒的な強さを誇りながら入替戦の壁は厚く1974年、1975年の2度挑戦を挑むがいずれも果たすことはできなかった。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
この後、西邑昌一監督、相川亮一コーチに移行し、1977年にジャイロ・マトスらを迎え4度目の挑戦で初のJSL1部昇格を果たした。
また同年にはルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス・ソブリニョが来日したが、1978年1月の日産自動車サッカー部戦での行為により1年間の出場停止処分を受けた。
1部へ昇格すると1978年は4位、1979年は2位に入り優勝争いを繰り広げた。ラモスも出場停止が明けると中心選手としてクラブを牽引した。また、戸塚哲也、都並敏史ら下部組織で育成された選手達がトップデビューを果たし、「練習グランドを作り、少年達を育てる」事が実を結ぶようになった。
また、早稲田大学から日本代表DFの加藤久が加入し、1980年代の黄金時代で中心的な役割を果たした。
1983年に念願のJSL1部制覇(クラブチームとしては全チームを通して日本リーグ初優勝)を達成すると翌年はJSLリーグ、天皇杯の二冠を達成。この当時は与那城、ラモス、戸塚らが絡むパスワークが大きな魅力であったが、同時に反則も厭わない激しいプレーから「野武士軍団」「アウトロー」と評された。
また日産自動車サッカー部との熾烈なライバル関係で知られていた。日産は世界的に著名な選手を獲得して戦力向上を図った。これに対して読売は著名な指導者を招聘することで戦力向上を図った。1983年にはドイツのルディ・グーテンドルフ、1990年にはブラジルのカルロス・アルベルト・ダ・シルバを監督として迎えた。この試みは時にはクラブ内に混乱を招いたが、同時にプロとしての厳しい規律をもたらし、1980年代中盤以降の全盛期を呼び込む一つの要因となった。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
かつては「アウトロー」とも評されたクラブも、1986年の武田修宏、1990年の三浦知良、1991年の北澤豪らの加入により都会的なイメージの集団へと変化していった。そのイメージはJリーグ開幕以降もしばらく引き継がれていった。
1991年10月1日、Jリーグ加盟に際しての運営会社「読売日本サッカークラブ株式会社」(1999年「日本テレビ・フットボールクラブ株式会社」、2009年10月「東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社」)を設立する。
■略歴
1969年 創設
1970年 関東サッカーリーグ昇格
1972年 JSL2部昇格
1977年 JSL1部昇格
■タイトル
◇リーグ戦
日本サッカーリーグ
1983年、1984年、1986年/87年、1990年/91年、1991年/92年。
◇カップ戦他
JSLカップ
1979年、1985年、1991年
天皇杯全日本サッカー選手権大会
1984年、1986年、1987年
コニカカップ
1990年
ゼロックスチャンピオンズ杯(1991/92年度に開催されたJSL/天皇杯/JSL杯/コニカ杯の優勝4チームによるトーナメント)
1992年
アジアクラブ選手権
1987/88年度
■スタジアム
東京都にある国立霞ヶ丘陸上競技場、国立西が丘サッカー場、駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場を中心に、等々力陸上競技場(川崎市)でも一部の主催試合が開催された。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■読売クラブ出身の主な選手
GK
藤川孝幸
中村和哉
ヴィエラン・シィムニッチ(英語版)
菊池新吉
ディド・ハーフナー
DF
野地照樹
松木安太郎
田口孝広(恭裕)
都並敏史
加藤久
ジョージ・トレド(イタリア語版)
岸野靖之
加藤善之
千疋美徳
堀池巧
坂下博之
中村忠
倉田安治
MF
高田静夫
小見幸隆
与那城ジョージ
鈴木武一
大渕龍介
戸塚哲也
ジャイール
川勝良一
菊原志郎
三浦泰年
エジソン
バウテル
北澤豪
FW
岡島俊樹
濱口和明
ラモス瑠偉
大友正人
上島康夫
ファイサル
スティーブン・パターソン
武田修宏
ガウショ
ミルトン
浅岡朝泰
鋤柄昌宏
藤吉信次
三浦知良
阿部良則
トニーニョ
■Category:読売サッカークラブの選手も参照
あ
浅岡朝泰
エジソン・アパレシード・デ・ソウザ
阿部良則
う
上島康夫
祖母井秀隆
お
大友正人
大渕龍介
岡島俊樹
岡本賢二
小見幸隆
か
加藤久
加藤善之
川勝良一
き
菊池新吉
菊池洋二
菊原志郎
岸野靖之
北澤豪
く
楠瀬直木
倉田安治
さ
坂下博之
し
篠原統
す
鋤柄昌宏
鈴木武一
せ
関浩二
千疋美徳
た
高田静夫
田口貴寛
ミルトン・ダ・クルス武田修宏つ都並敏史と冨樫剛一戸塚哲也ルイス・カルロス・トッフォリな中村和哉中村忠 (サッカー選手)の野地照樹はハーフナー・ディド蓮見知弘スティーブン・パターソン濱口和明ふバウテル・フェレイラ・ルスアルシデス・フォンセカ・ジュニオール藤川孝幸藤吉信次へアントニオ・ベネディット・ダ・シルバほ保坂信之堀池巧ま正岡ジャイル松木安太郎み三浦知良三浦泰年宮村正志む村田達哉も森栄次よ吉田謙与那城ジョージ米山隆一 (サッカー選手)らラモス瑠偉り李国秀
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■下部組織
1979年4月に「読売サッカークラブ・ジュニア(1990年に読売サッカークラブ・ジュニオールへ名称変更)」を結成し、1990/91年から1991/92年シーズンには日本サッカーリーグ2部に在籍した。また、読売クラブの女子チームとして、読売サッカークラブ女子ベレーザ(現在の日テレ・ベレーザ)が1981年に創設されている。
■参考文献
・『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ〜ヴェルディの40年』読売サッカークラブ〜東京ヴェルディ40周年記念誌発行委員会、東京ヴェルディ1969フットボールクラブ、2010年。
・成田十次郎『サッカーと郷愁と 戦後少年のスポーツと学問の軌跡』不昧堂出版、2010年。ISBN 978-4-8293-0481-5。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
日産自動車サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日産自動車のサッカー部として1972年に創部した。呼称は「日産」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の横浜F・マリノスの前身となったクラブである。
■呼称
日産
■クラブカラー
青と白と赤
■創設年
1972年
■所属リーグ
日本サッカーリーグ他
■ホームタウン
神奈川県横浜市
■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
三ツ沢公園球技場
■概要
1970年代当時の日産自動車は野球部が都市対抗野球大会で活躍する強豪として知られていたが、野球のオフシーズンに全社を挙げて応援出来るスポーツが必要として1972年にサッカー部が創部された。
2年後の1974年にヤンマーディーゼルサッカー部(現:セレッソ大阪)から加茂周を監督に迎え本格的な強化に取り掛かる。日産自動車ではテストドライバーや医師が一年契約の嘱託契約として仕事をしており、比較的簡単に契約出来たことから、加茂は初のプロ指導者となった。2年連続で神奈川県社会人サッカーリーグ優勝の後、1976年関東サッカーリーグでは昇格初年に優勝、その年の全国社会人サッカー選手権大会で優勝し、1977年度から日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格、昇格初年から2位となるもののその年は入替戦で富士通サッカー部(現:川崎フロンターレ)に2戦とも敗れ1部昇格を逃す。しかし加茂の就任5年目となる1978年シーズンに再び2位となり、前年と同じ対戦相手となった富士通との入替戦を今度は連勝で制し、翌シーズンからの1部昇格を果たした。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
しかし、1部昇格初年度となる1979年シーズン、1部最下位の10位に終わる。同年は最下位も2部1位との入替戦により昇降格を決定する方式であったため、2部優勝の東芝堀川町サッカー部(現:北海道コンサドーレ札幌)と対戦、連勝し1年での2部降格は免れたが、翌1980年シーズンも2年連続で最下位となり、この年は最下位が2部強制降格となるレギュレーションであったため、3シーズンぶりの2部所属となった。
1981年シーズン、2部2位に終わり、1部自動昇格の権利は逃したが、新日鐵との入替戦で勝利し、1部再昇格を果たす。なお、1982年シーズン以来、Jリーグ発足まで、2部に降格することはなかった。
最初の1部昇格後、加茂は守備的なサッカーから攻撃的サッカーへ転換を図る。1980年に中大の金田喜稔、翌1981年には明治大学の木村和司、1982年に元フジタのマリーニョを獲得し、1983年には水沼貴史を筆頭に6人の代表クラスの新卒選手が大量加入。これらの大型補強が実り1983年、1984年とJSLで2位、1983年と1985年の天皇杯を制覇した。
また環境改善も積極的に推し進め、当初は新子安のグラウンドを使用していたが、1980年に獅子ヶ谷に新しいグラウンドとクラブハウスを建設。
長年、会社と交渉した結果、1985年に木村和司、マリーニョが契約選手として認められ、翌1986年に木村はスペシャル・ライセンス・プレーヤーとして国産プロ第1号となった。また同年に厚生課が主体となり「日産フットボールクラブ」が設立。長期的な視野に立った自前の選手育成を目指しファーム、ユース、などの下部組織や女子チームの日産FCレディースを新設。後のプロリーグ参加への足掛かりを作った。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
1987年に元ブラジル代表の主将ジョゼ・オスカー・ベルナルディを獲得。オスカーの加入は守備面の修正とプロ意識をもたらし、1988-89シーズンではJSL、天皇杯、JSLカップの三冠を達成。その後も、JSL末期の1980年代後半から1990年代初頭に数多くのタイトルを獲得した。
ライバルの読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ1969)との一戦は両者とも攻撃的なサッカーを志向した点や、将来のプロ化を見据えたクラブ同士という点もあって人気カードとしてサッカーファンの注目を集め、1991-92シーズンの第21節、1992年3月22日に国立競技場で行われた試合では6万人の観衆を集めた。
■略歴
◇タイトル
日本サッカーリーグ1部:2回
1988年/89年、1989年/90年
天皇杯:5回
1983年、1985年、1988年、1989年、1991年
JSLカップ:3回
1988年、1989年、1990年
アジアカップウィナーズカップ:1回
1991-92年
■歴代監督
安達二郎 1972-1973
加茂周 1974-1984
鈴木保 1985
加茂周 1985.12-1989
オスカー 1989-1991
清水秀彦 1991-1994
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■日産自動車出身の主な選手
GK
松永成立
DF
井原正巳
柱谷哲二
オスカー
田中真二
越田剛史
佐野達
杉山誠
平川弘
鈴木正治
永山邦夫
MF
金田喜稔
木村和司
早野宏史
清水秀彦
マリーニョ
フジネイ
エバートン
境田雅章
財前恵一
松橋力蔵
FW
水沼貴史
長谷川健太
柱谷幸一
木村浩吉
ロペス
レナト
神野卓哉
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■Category:日産自動車サッカー部の選手も参照
あ
阿井達也
い
池田司信
石井肇
井原正巳
う
浦上壮史
お
大場健史
か
勝矢寿延
加藤正浩 (サッカー選手)
金田喜稔
き
木村和司
木村浩吉 (サッカー選手)
こ
小泉淳嗣
越田剛史
さ
財前恵一
境田雅章
佐野達
し
清水秀彦
下條佳明
神野卓哉
す
杉山誠
鈴木保
鈴木正治
た
高間武
田中真二
な
永山邦夫
の
エバートン・ノゲイラ
野田知
は
柱谷幸一
柱谷哲二
長谷川健太
早野宏史
ひ
樋口靖洋
平川弘
広間義則
ふ
カルロス・レナト・フェデリコ
へ
ジョゼ・オスカー・ベルナルディ
アデマール・ペレイラ・マリーニョ
ま
松永成立
松橋力蔵
み
水沼貴史
宮下幹生
や
山田隆裕
よ
横川泉
ろ
呂比須ワグナー
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■横浜F・マリノスと異なる点
一時期、第1種の2軍選手を中心に構成する「日産FCファーム」を結成し、神奈川県サッカー協会に単独でチーム登録し、1990年から1991年関東サッカーリーグに参戦させた。当時、トップチームでの出場機会に恵まれない選手に対し、実践機会を提供することが目的(同趣旨はヤンマークラブ・読売サッカークラブ・ジュニオールも)とされ、1991年には関東リーグで優勝したが、1992年にJサテライトリーグが発足したことによりチームは関東リーグへの参加を取りやめた。
女子チームの日産FCレディースも所有し、日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)にも創設時の1989年から参加していたが、Jリーグ発足に伴い男子チームのみを存続させる事を決め、1993年のシーズンをもって解散した。
■参考文献
・『モダンサッカーへの挑戦』(加茂周、講談社 1994年)
・『空っぽのスタジアムからの挑戦』(平塚晶人、小学館 2002年)
・『サッカー移民‐王国から来た伝道師たち』(加部究、双葉社 2003年)
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
トヨタ自動車工業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカーチーム。トヨタ自動車工業のサッカー部として1939年に創部され、1983年にトヨタ自動車工業がトヨタ自動車販売と合併しトヨタ自動車が誕生した事に伴い「トヨタ自動車サッカー部」に改称された。呼称はトヨタ。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する名古屋グランパスエイトの母体となったクラブである。
■呼称
トヨタ
■クラブカラー
赤
■創設年
1939年
■ホームタウン
静岡県裾野市
■ホームスタジアム
名古屋市瑞穂公園球技場他
■概要
1939年に創部。1961年に国体に出場し、優勝を果たした。1966年に東海社会人サッカーリーグが創設されると同時に参加して無敗で優勝し、初代王者となった。また、全国社会人サッカー選手権大会(全社)に初出場し、初戦でマツダオート広島サッカー部を破って大会初勝利も飾った。全社は1971年の大会まで連続出場して1968年と1970年に優勝、1967年に準優勝の成績を残した。
1973年から1977年まで日本サッカーリーグ(JSL)1部に連続で在籍したが、1977年シーズンに81失点を喫している。
かつては、愛知県を本拠としていたが、最終的な所在地は静岡県裾野市に置いた。しかしながら、晩年にも愛知県内(瑞穂、豊田など)でもホームゲームを開催している。
1990年にJリーグ参加へのヒアリング調査が行われた際、他の自動車メーカーのクラブ(マツダ、三菱自工、日産自動車、本田技研)と比較しても2部から昇格したばかりであった事もあり、時期尚早として参加を見送る予定であった。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
そこで東京本社の総務部長で愛知県サッカー協会技術委員長であった西垣成美が奔走し、この決定を覆す事に成功した。これには県サッカー協会による署名活動や地元メディアと連携し運動を盛り上げた事も後押しとなった。
またトヨタが掲げた企業メセナ(企業が資金を提供して文化・芸術活動を支援する)の思想もあって、社長の豊田章一郎は、Jリーグの掲げた「設立5年以内を目処にクラブ名から企業名を外す」という考えに賛同。「どうせやるなら、トヨタのトの字も出すな」と決断し、これに追随する様に住金、マツダも外す事になった。そしてトヨタ単独の参加でなく中部圏の有力企業を結集させ名古屋グランパスエイトが誕生した。
この勢いもあって1990-1991シーズンのJSLではジョルジーニョらを擁し5位に躍進。翌1991-1992シーズンのコニカカップの決勝戦で本田技研を破り、初優勝を果たした。
■略歴と主なタイトル
1939年 創部
1943年 戦況の悪化に伴い一時休部
1946年 活動再開
1961年 国体で優勝。
1966年 東海リーグの創設により参加、初優勝。全国社会人サッカー選手権大会(全社)に初出場。
1968年 全社で初優勝。
1970年 全社で2度目の優勝。
1972年 JSL2部昇格、天皇杯に初出場(以降Jリーグ発足まで計15回出場)
1973年 JSL1部昇格
1978年 JSL2部降格
1983年 トヨタ自動車サッカー部に改称
1987年 JSL1部昇格
1988年 JSL2部降格
1990年 JSL1部昇格
1991年 第2回コニカカップで優勝。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■エピソード
Jリーグに移行する前は静岡県裾野市の東富士研究所を拠点としていたが、1992年にプロ契約選手はトヨタをメインスポンサーとしたJリーグの名古屋グランパスエイトに、プロ契約をぜずに社業に残る選手についてはトヨタ自動車東富士FC(1993年に廃部)に振分けられた。
創設時のグランパスに所属した選手は前所属チームに「トヨタ」と表記されているため、チーム本体を移管したのではなく所属選手を新チーム(名古屋グランパスエイト)へ移籍という形式をとったとみられる[3]。また、名古屋グランパスエイトとなって以降、Jリーグオフィシャルの出版物でもトヨタ時代の沿革は記されていないが、天皇杯の出場回数はトヨタ時代からカウントされている。
■歴代監督
大谷恭一 1939-1949
神田新一 1950-1952
稲川達 1953-1956
松本闊 1957-1962
山口日出夫 1963-1964
志治達朗 1965-1974
小沢正弘 1975-1977
曾我見健二 1978-1986、1988
泉政伸 1987
■トヨタ自動車工業サッカー部に所属した主な選手
築舘範男 (1979-1988)
佐藤辰男 (1977-1992)
平沢政輝 (1988-1992)
東泰 (1986-1992)
行徳浩二 (1989-1992)
藤川久孝 (1987-1994)
江川重光 (1991-1994)
ジョルジーニョ (1990-1994)
浅野哲也 (1987-1994)
沢入重雄 (1986-1995)
小川誠一 (1989-2000)
クリシューマ (1991-1992)
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
東洋工業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日本プロサッカーリーグに加盟するサンフレッチェ広島の前身となったクラブである。
■愛称
マツダSC
■クラブカラー
青、黄
■創設年
1938年
■ホームタウン
広島県
広島市/安芸郡府中町
■ホームスタジアム
広島スタジアム
■概要
1938年に東洋工業(現マツダ)のサッカー部として創部し、1981年から「マツダサッカークラブ」と名称を変更した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属のサンフレッチェ広島の前身となったクラブである。本拠地は広島県安芸郡府中町(マツダ本社所在地)。なお、現在マツダサッカークラブ(マツダSC)の名前で活動しているチームは、元々このクラブの2軍として活動していたチームである。
1949年、実業団チームとして初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会出場。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)には初年度から参加し、1960年代に全盛期を極め、JSL最多優勝5回。天皇杯では、後身のマツダSC/サンフレッチェ広島を含め、2014年1月までに歴代最多62回の本大会出場回数を誇り、通算最多の127勝、決勝進出も歴代最多の14回と、日本サッカー史に残る名門クラブの一つ。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■略歴
1938年 : 東洋工業蹴球部として創部
1943年 : 休部
1947年 : 活動再開
1949年 : 実業団チームとして初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会出場
1954年 : 実業団チームとして初の天皇杯決勝進出
1956年 : 全日本実業団サッカー選手権大会初優勝
1957年 : 天皇杯準優勝
1962年 : 国民体育大会優勝、全国実業団優勝
1965年 : 第1回日本サッカーリーグ(JSL)に参加・初優勝、天皇杯初優勝
1966年 : JSL優勝、天皇杯準優勝
1967年 : JSL優勝、天皇杯優勝
1968年 : JSL優勝・4連覇(JSL最高記録、連続優勝回数)
1969年 : 天皇杯優勝、アジアクラブ選手権3位
1970年 : JSLで5度目の優勝(JSL最高優勝回数記録)、天皇杯準優勝
1971年 : 東洋工業サッカー部に名称変更
1978年 : 天皇杯準優勝
1981年 : マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部に名称変更
1983年 : JSL2部降格
1984年 : マツダスポーツクラブサッカー部に名称変更
1985年 : JSL1部昇格
1986年 : マツダサッカークラブに名称変更
1987年 : 天皇杯準優勝
1988年 : JSL2部降格
1991年 : JSL1部昇格
■ホームスタジアム
創部からJSL初期ごろまでは広島市内の高校グラウンドを使うことが多かった。主に使用していたのは交通の便のよさから中区国泰寺町の広島県立広島国泰寺高等学校グラウンド。また1965年JSL最終節で優勝を決めた試合は、南区翠の広島大学附属高等学校グラウンドで行われた。196年JSL2年目の開幕戦は広島皆実高校グラウンドだった。
1960年代海外クラブとの試合やJSL東西対抗戦を中区基町の広島市民球場で行った事がある。
1970年代以降、西区観音の県営競技場がホームスタジアムとなった。それに加えて1980年代には呉市の当時マツダ福利厚生施設であったマツダ健保グラウンド(現呉市総合スポーツセンター)を用いていたこともある。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■ユニフォームカラー
初期は白や紺、1970年代は赤ベースの黒縦縞、1980年代はカンパニーカラーと同じ青と黄。
ちなみに、紺から赤への変更は東洋工業の関連チームである広島東洋カープと同じ移行である。青と黄の配色は現在マツダのシンボルチームであるマツダブルーズーマーズやマツダ陸上競技部でも採用されていたが、陸上競技部は2015年に赤と白の配色に変更された。後身のサンフレッチェ広島でも当初はチームカラーを青にする話もあった。
■歴史
◇創設期
戦前、広島は兵庫・東京と共に「サッカー御三家」と呼ばれ、日本サッカーの先進地であった。この環境の中で育った山崎芳樹が1938年(昭和13年)に東洋工業(現マツダ)へ入社し、同好会形式で創部したのが「東洋工業蹴球部」である。しかしこの時代、この地域のサッカーチームとしては呉海軍工廠が圧倒的に強く、東洋工業は全国大会には1度も出場出来なかった。この時期のタイトルとして、1941年(昭和16年)第8回中国実業団蹴球大会決勝対広島電気(現中国電力)戦において4-0で勝利し優勝したものがある。
1943年(昭和18年)、太平洋戦争の戦況が厳しくなったため休部する。1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により市内は甚大な被害を受け、社員も被爆している。なお、このクラブに所属した選手の徴兵および被爆状況など戦中の選手の状況は不明であるが、後に東洋工業に入団した選手には被爆者が存在する。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
戦後復興の最中、蹴球部も1947年(昭和22年)に再開する。以降銭村健次・小畑実ら地元出身の有力選手の入団が相次ぎ、当時の主要タイトルである全日本選手権(天皇杯の前身)・全日本実業団・国体に常に優勝争いを繰り広げる実業団の強豪チームを作り上げた。
1949年(昭和24年)、第29回全日本サッカー選手権大会にて実業団チームとして初出場を果たした(準決勝敗退(1-7対東大LB))。
◇1950年代
1951年(昭和26年)、蹴球部が実業団サッカーのトップクラスとなり会社の看板となったことから、山崎は監督を退き部長兼総監督に就任し、小畑が選手兼任監督となった。小畑は自身の母校である慶応大のサッカースタイルである、「素早いパスサッカー」を東洋工業に導入した。
1954年(昭和29年)、第34回天皇杯にて実業団として初めて決勝に進出も準優勝(3-5対慶大BRB)。この決勝は、第4延長3時間にも及ぶ死闘となり、銭村が疲労のため意識不明となり倒れ、試合後は満足に歩ける選手がいない状況にまでなるほど、日本サッカー史に残る名勝負となった。この試合に於ける東洋工業の敢闘がその後の実業団チーム台頭の嚆矢となったもので、その意味でのエポックメーキングな試合であった。これ以降、他の実業団も強化に務め、天皇杯で台頭し始めた。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
1955年(昭和30年)、全日本実業団でまたも準優勝(0-2対田辺製薬)。1956年(昭和31年)、田辺製薬の7連覇を阻みついに全日本実業団で優勝して初の全国タイトルを獲得した(4-0)。1957年(昭和32年)も第37回天皇杯で決勝進出、広島国泰寺高校で決勝戦が行われたが準優勝(1-2対中大クラブ)に終わる。
大学リーグでの優秀選手を中心に選ばれていたこの時代の全日本(現在のサッカー日本代表)において、上記の活躍から東洋工業の選手も選出され始め、1956年のメルボルンオリンピック代表には小沢通宏と下村幸男の2人が選ばれた。
この頃になると地元から頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになる。この時指導された選手が1960年代後半の黄金期を支えることとなる。
◇1960年代
1962年(昭和37年)、国体で初優勝を飾り(延長2-1対全大阪)、全日本実業団で古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)と両チーム優勝。この活躍から同年に小沢が日本年間最優秀選手賞を受賞した。
1965年(昭和40年)から始まった日本サッカーリーグ(JSL)にスタート時から8チームの一つとして参加。小畑を総監督(いわゆるゼネラルマネージャー)、下村を監督に登録メンバー25人中21人が広島県出身者で固められていた。厳しいトレーニングの結果、抜群のコンビネーションを生み出し縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開、特に攻守の切り替えの早さは他チームと比べ、群を抜いていた。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
この1965年から1970年がこのクラブの黄金期である。JSL第1回大会を12勝2分け0敗と無敗で優勝。第1回大会第14節・対ヤンマー戦(現:セレッソ大阪)で記録した11-0(桑田:5・小城:4・松本:2)は、最多得点及び最多得失点差11点のJSL最高記録。第2回大会まで23連勝を記録するなど、第4回大会まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立し第6回大会も制覇したことによりJSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。更に天皇杯では第45回大会で初優勝すると、6年で決勝に5度進出し3度の優勝を飾った。また国際舞台では、アジアクラブ選手権1969に日本勢として初出場し3位入賞を果たした。
この時のメンバーの多くは全日本に選出され、1968年のメキシコオリンピックにも小城得達、桑原楽之、松本育夫の3人の代表選手を送り日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。
なお1950年代から1960年代にかけては"広島サッカーの時代"と言ってもよく、多くの広島出身者が、関西・関東のサッカー強豪大学や全国の実業団に進みチームの中核となった。1960年代の日本蹴球協会会長野津謙および全日本監督長沼健の2人とも広島出身、全日本には東京五輪・メキシコ五輪といずれも最多の5人の選手を送り込み、日本代表は「広島弁が共通語」とまで言われ、デットマール・クラマーは広島弁で怒鳴ったといわれる。更に1965年JSLスタート時の8チーム中4チームの監督も広島出身(東洋下村・八幡寺西忠成・ヤンマー古川能章・三菱岡野良定)、例えば1968年のJSL登録選手も2位の埼玉県出身(22人)を超える43人もの広島県出身選手が占め、その中で東洋工業蹴球部は広島サッカーの象徴的な存在であった。
この時代の東洋工業を止めようと、他チームのほとんどがスウィーパーを置くようになり、そこから1970年代JSLはスウィーパーシステム流行へと向かった。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
◇1970年代
しかし1970年代に入ると、環境面を整備した他チームの台頭により成績が徐々に低下していった。またJSL初期に抜群のコンビネーションを誇りリーグ随一の攻撃力だったFW陣が1970年前後に相次いで退団・引退したことや、世界的な戦術流行の流れに沿って、3トップから2トップに戦術変更するものの、得点力は伸びなかった。
1973年(昭和48年)オイルショックが発生。親会社である東洋工業の経営状態が悪化、サッカー部の運営にも影響が及び、数年間新人を全く採用出来なかった。このオイルショックは東洋工業のみならず広島経済界に大打撃を与え、広島サッカー界にも影響を及ぼしこれ以降低迷を続けていく。
1977年(昭和52年)、黄金期の中心選手だった小城が監督に就任。古田篤良・渡辺由一・安原真一らの活躍で、同年のリーグ戦では一時優勝争いに加わるものの最終的にリーグ戦4位、翌1978年(昭和53年)第58階天皇杯準優勝(0-1対三菱重工(現:浦和レッドダイヤモンズ))など一時的に建て直しに成功した。
しかし大卒の即戦力選手獲得には、地方である広島ということや東洋工業の経営不振から後手に回り世代交代が進まず、また同時期に初の外国人選手である宗像マルコス望を加入させたもののチームに馴染めなかったこともあり、これ以降外国人選手補強に消極的な姿勢を続けたため、チームの強化は思うように進まなかった。
これらの要因により、1980年代に入るとチームの弱体化は深刻なものになる。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
◇1980年代
1981年(昭和56年)、マツダスポーツクラブ(マツダSC)に名称変更。同年、黄金期の選手の一人であった二村昭雄が監督に就任するが低迷を阻止する事は出来ず、翌1983年(昭和57年)一度目のJSL2部降格をする事になった。
そこで1984年(昭和58年)、今西和男が監督に就任し、古豪を復活させるべく改革に乗り出す。それまで日本人選手や日系人選手のみで構成された純血主義の伝統を打ち破り、オランダからハンス・オフトをコーチに、ディド・ハーフナーをGKコーチ(選手兼任)に招聘、オフトが実質的な監督として現場の全権を掌握し、今西は名目上の監督であるが実際はゼネラルマネージャー業務を行うことになった。オフトは伝統あるチームの再建に興味を持ちオファーを受けたが、チーム状況は最悪であった。選手達には技術、体力以前にメンタルに問題があるとし、意識改革を促す事から始めた。そして2年目から「シンキング・フットボール」を合言葉に戦術的な役割を事細かく教育し始めた。
また、大卒の即戦力選手の獲得が思うように成らなかった過去の経験から、2軍であるマツダSC東洋を強化し、高卒選手育成に努めた。
オフトの下で組織的に訓練されたチームは1985年(昭和60年)JSL1部昇格、同年度の天皇杯ベスト4進出。1986年(昭和61年)、マツダサッカー部に名称変更、昇格初年度のJSL1部で7位と健闘。1987年(昭和62年)オフトが正式に監督となり、信藤克義(信藤健仁)・猿沢茂・高橋真一郎ら地元選手の奮闘もあり、同年度の天皇杯準優勝(0-2読売クラブ、現:東京ヴェルディ)するが、同年度のJSLでは不振が続き二度目の2部降格となった。この責任を取りオフトは辞任した。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
1988年(昭和63年)、今西はビル・フォルケスをコーチとして招聘し、オフトの役割だった実質的な監督として置いた。フォルケスは母国の戦術で古い戦術でもあるキック・アンド・ラッシュ戦術を用いたが、オフト時代のアプローチと変わったこともあり一部選手には不評だった。1989年(平成元年)、当時2. ブンデスリーガでプレーしていた元日本代表の風間八宏を獲得する。マツダSC東洋で育成した選手達の成長もあって1991年(平成3年)にJSL1部復帰。日本リーグ最後の年となった1991-92シーズン、フジタ(現:湘南ベルマーレ)から移籍加入した高木琢也の活躍もあり、6位で面目を保った。
◇その後
1992年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に伴い、このチームを母体としてサンフレッチェ広島が誕生する。これに伴い、2軍(サテライト)扱いだったマツダSC東洋は新生「マツダSC」として中国社会人サッカーリーグに登録、サンフレッチェとプロ契約できなかった選手などが同チームに所属した。
OBの多くは現在もサッカー指導者・ゼネラルマネージャー・アドバイザー等として日本サッカー界に貢献している。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
2013年現在Jリーグ最高齢監督記録保持者である松本育夫は元東洋工業監督である。
2012年のJリーグでは、高橋真一郎(東京V)、松田浩(栃木)、小林伸二(徳島)、風間八宏(川崎)、上野展裕(新潟・暫定)、高木琢也(熊本)、森保一(広島)と、7人のOBがJリーグ監督を務めた。
過去に東洋工業から日本代表監督を輩出しているが、サンフレ以降では森山佳郎(U-17日本代表)のみ。
日本代表GKコーチとして、ハーフナー・ディド(オフト監督時代)、望月一頼(トルシエ監督時代)を輩出している。
サッカークラブ球団社長経験者としては、丹羽洋介(長野)、今西和男(岐阜)、松本育夫(川崎)、織田秀和(広島)、河村孝(山口)、などがいる。
また2012年のJ1ではサンフレッチェが優勝したことにより東洋工業が最後にJSLで優勝した1970年から42年ぶりのトップカテゴリでのリーグ優勝、さらに2013年のJ1では1968年以来45年ぶりに連覇を達成した。
■主なタイトル
◇チーム
全日本実業団サッカー選手権大会
1956年、1962年
国民体育大会
1962年
天皇杯全日本サッカー選手権大会
1965年、1967年、1969年
日本サッカーリーグ
1965年、1966年、1967年、1968年、1970年
NHK杯元日サッカー
1967年
アジアクラブ選手権
3位(1968/69年)
◇個人
日本年間最優秀選手賞
1962年 小沢通宏
1965年 小城得達
1970年 小城得達
JSL得点王
1966年 小城得達
JSLアシスト王
1966年 桑田隆幸
1977年 安原真一
新人王
1966年 松本育夫
1982年 猿沢茂
1991/92年 高木琢也
ベスト11
1966年 今西和男、小城得達、桑田隆幸、松本育夫
1967年 小城得達
1968年 小城得達
1969年 小城得達
1970年 船本幸路、小城得達
1971年 小城得達
1972年 小城得達
1986/87年 ディド・ハーフナー
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■歴代監督
・山崎芳樹:1938 - 1950
(1943年から1946年まで休部)
・小畑実:1951 - 1963
・下村幸男:1964 - 1970
・大橋謙三:1971 - 1975
・松本育夫:1976
・小城得達:1977 - 1980
・二村昭雄:1981 - 1983
・今西和男:1984 - 1987
・ハンス・オフト:1987 - 1988
・今西和男:1988 - 1992
初期の山崎と小畑は選手兼任で監督を行っていたが、小畑は途中から監督専業となっている。
1970年代の大橋と松本は年代別代表監督と兼務で行っており、その後大橋は東洋工業、松本は年代別代表の監督専任となった。
初めての外国籍スタッフは、1983年夏の中断時期に短期来日したクラウツン。以降も外国籍スタッフが入っていたが、そのうち正式に監督職となったのはオフトのみ。
1984年以降、名目上は今西が監督として登録されていたが、実際は外国人コーチが監督として現場で指導および指揮をしていた。なお、1991-92シーズンはフォルケスが日本を離れたこともあり今西が総監督名義で現場を指揮している。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■歴代選手
山崎芳樹
銭村健次
小畑実
芳野統男
下村幸男
樽谷恵三
重松良典
小沢通宏
北島秀夫
田中雍和
大橋謙三
沼野博
石井義信
小原勝
大島治男
桑原弘之
川西武彦
船本幸路
中村勤
丹羽洋介
今西和男
岡光龍三
松本育夫
桑田隆幸
小城得達
桑原楽之
上橋 徹
吉田浩
大野毅
国枝強
谷本圀之
川野淳次
佐伯一彦
小滝強
小原秀男
小滝春男
高田豊治
堀口照幸
安原真一
宮崎輝比古
古田篤良
野曽原芳彦
渡辺由一
山出実
中野重富
河内勝幸
宗像マルコス望
高橋真一郎
中村重和
猿沢茂
小林伸二
今川正浩
木村孝洋
信藤健仁
上原洋史
山田隆
松田浩
望月一頼
佐藤康之
織田秀和
ディド・ハーフナー
島卓視
横内昭展
前川和也
山西博文
クレック・ノーリー
ロン・ヤンス
崔景植
森保一
河村孝
幸田将和
和泉茂徳
イアン・グリフィス
デヴィッド・ホジソン
アラン・アーバイン
トニー・ヘンリー
風間八宏
平田英治
河野和正
片野坂知宏
月岡利明
ダニエル・カリッチマン
ユリウス・ベーリック
ユーリー・カビル
上野展裕
吉田安孝
亀田明広
高木琢也
森山佳郎
柳本啓成
笛真人
森秀昭
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■参考資料
書籍
『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ刊
『広島スポーツ史』(財)広島県体育協会 1984年5月刊
『栄光の足跡 広島サッカー85年史』(財)広島県サッカー協会 2010年6月刊
『イレブンよ 熱き大地を駆けろ』勝沢要 テレハウス 1986年1月刊 ISBN 492474803X
『ぽいち 森保一自伝—雑草魂を胸に』(森保一・西岡明彦共著)フロムワン 2004年2月刊 ISBN 4757210159
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
三菱重工業サッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。中日本重工業のサッカー部として創部した。呼称は三菱。Jリーグに加盟する浦和レッズの前身となったクラブである。
■呼称
三菱
■クラブカラー
青(19??年 - 1977年)
赤(1978年 - 1992年)
■創設年
1950年
■ホームタウン
東京都
■ホームスタジアム
国立霞ヶ丘陸上競技場
国立西が丘サッカー場
これとは別に女子チームの三菱重工業女子サッカー部も存在していた。
■概要
創部は1950年だが、三菱重工は当時GHQの指令に従って、東日本重工業・中日本重工業・西日本重工業の3社に分割されており、そのうちの「中日本重工業サッカー部」としての創部である。当初は同好会であったが1952年に社名変更に伴い「新三菱重工業神戸サッカー部」となった。当時のチームの中心選手は岡野良定で、やがて岡野が選手兼任監督となり、生駒友彦、井上健、村田忠男ら関西学院大学体育会サッカー部出身者が次々と加入し強化が進んだ。岡野はサッカー部監督退任後も三菱自動車工業内で出世し、三菱グループ全体のスポーツを強力にバックアップし、後のサッカー部の重工から自動車移管や、Jリーグ参加にも関わった。1956年の全国都市対抗選手権では、当時95連勝と無敵を誇っていた田辺製薬を関西予選で下し、本大会でも快進撃。決勝では長沼健を中心とし岡野俊一郎らを補強した東京キッカーズに延長で敗れたが準優勝し、全国リーグ創設前の強豪クラブの一つとしての地位を確保した。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
1958年、新三菱重工が本社を東京に移転したため、サッカー部選手の大半も東京に転勤して、三菱は東京のチームとなる。1964年、3社の再統合により社名が「三菱重工業」に変わり、チームも「三菱重工業サッカー部」となった。日本サッカーリーグ(JSL)では、1965年の創設時から参加しており、JSL通算最多勝利・通算最多勝ち点を記録する。また、古河(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、日立(現柏レイソル)と並んで、丸の内御三家の一角を成し、リーグ運営の中心にあった。
1964年に行われた東京オリンピックでは片山洋、継谷昌三を日本代表へ輩出[1]。1966年に、杉山隆一、横山謙三。翌年森孝慈らメキシコオリンピックで活躍する事となる選手達が加入した。これらの選手達は中心選手として後の栄光の時代を支えた。
日本サッカーリーグには1965年の創設時から参加したが、練習場所や練習時間の確保が難航。また当時は社業を最優先し選手達も様々な部署に所属していた為、合同練習する機会が少なく他のクラブの後塵を拝した。そこで監督の二宮寛、コーチの森健兒の計らいにより1967年に三菱重工川崎工場内に照明設備付きの専用グランドを確保するなど環境改善や選手の待遇改善(選手達を総務部に転属させた)に取り組み、それが功を奏し1970年代には多くのタイトルを獲得した。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
1975年には三菱グループ創業100周年の記念事業の一環として東京都豊島区巣鴨に総合スポーツクラブ「三菱養和クラブ」が設立されたが、森健兒はこの事業に尽力している。また、同クラブのサッカースクールには三菱サッカー部OBが指導者として迎えられ、ユース年代の各大会で好成績を収めると共に多くの選手を輩出した。
1980年代以降はアマチュアからプロへと変化しようとする時代の流れに乗り遅れ、1986年に日本サッカー協会が導入したスペシャル・ライセンス・プレーヤー(ノンアマ)制度にも消極的で、アマチュアリズムの牙城を頑なに守る保守派の代表的存在、読売クラブや日産自動車等のプロ志向のクラブに対し、「サラリーマン・サッカー」と揶揄される存在であった。
1980年代中盤には原博実や名取篤ら代表クラスの選手を擁し、1986-87、1987-88シーズンのJSLにおいて連続3位に入る健闘を見せながらも前述の様な保守的姿勢が災いし、遂に1988-89シーズンに2部に降格した。翌1989/90シーズンでは新人の福田正博(得点王:2部記録)や広瀬治(アシスト王:2部記録)などの活躍で1シーズンで1部復帰を果たした。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
Jリーグ創設前の通算成績は、JSL優勝4回、天皇杯優勝4回。JSLは全27シーズン中26シーズンを1部で過ごし、その通算成績は460戦211勝117分け132敗、総得点682、総失点507。JSL1部を経験した全22チーム中最高の数字だった。
JSL1部への復帰直後の1990年に子会社の三菱自動車工業にチームを移管して「三菱自動車工業サッカー部」へと名称を変更した。そして従来のアマチュア至上主義を転換して、名門としてのプライドもあってプロリーグ参加へ名乗りを挙げる事になった。当初は江戸川区をフランチャイズに、江戸川区陸上競技場をホームスタジアムとして検討していたがスタジアムの改修(収容能力を1万5000人に改修)で交渉が難航し、紆余曲折の末、浦和市(現在のさいたま市)となった。
ユニフォームは当初は青を基調とした物を着用していたが、1970年代後半の横山監督時代に三菱グループのコーポレートカラーでもある赤を基調とした物へ変更された。 赤いシャツ、白いパンツ、黒いソックスのユニフォームは1991-92シーズン後半に登場し、浦和レッズとなった現在も受け継がれている。
なおレッズの経営はこれまで三菱自工が中心となっていたが、2016年11月に三菱自工保有の運営法人の株式を、新たに三菱重工・三菱自工の共同出資により設立された持株会社「ダイヤモンドF.C.パートナーズ(株)」に譲渡。この持株会社を介する形で、三菱重工が実質的に30.8%(これとは別で、直接出資として1.25%相当・200万円相当の資本関係あり)を保有する大株主となった。2017年からは三菱重工がレッズのユニホームスポンサー(Jリーグ公式戦は背中上、AFCチャンピオンズリーグでは胸)を務めている。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■略歴
1950年 兵庫県神戸市にて、中日本重工業サッカー部として創部
1952年 社名変更に伴い新三菱重工業神戸サッカー部へ名称変更
1958年 サッカー部を東京本社に移転。新三菱重工業サッカー部に名称変更
1964年 GHQにより分割されていた3社が合併し三菱重工業サッカー部へ名称変更
1965年 第1回日本サッカーリーグに参加
1978年 JSL、天皇杯、JSLカップの3冠を達成
1989年 JSL2部降格
1990年 JSL1部昇格、三菱自動車工業サッカー部へ名称変更
■タイトル
◇国内タイトル
JSL1部:4回
1969, 1973, 1978, 1982
JSL2部:1回
1989-90
JSLカップ:2回
1978, 1981
天皇杯全日本サッカー選手権大会:4回
1971, 1973, 1978, 1980
スーパーカップ:3回
1979, 1980, 1983
■歴代監督
岡野良定 1950-1965
生駒友彦 1966
二宮寛 1967-1975
横山謙三 1976-1983
大仁邦彌 1984-1989
斉藤和夫 1989-1992
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■三菱重工業サッカー部に所属した主な選手
大仁邦彌
犬飼基昭
横山謙三
森健兒
森孝慈
杉山隆一
山田(落合)弘
藤口光紀
原博実
斉藤和夫
福田正博
尾崎加寿夫
信藤健仁(克義)
川添孝一
広瀬治
名取篤
松本安司
田口光久
関口久雄
オスバルド・サルバドル・エスクデロ
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■「Category:三菱重工業サッカー部の選手」も参照
あ
足利道夫
い
生駒友彦
伊藤庸夫
犬飼基昭
井上健 (サッカー選手)
え
オスバルド・サルバドル・エスクデロ
お
大西忠生
岡野良定
尾崎加寿夫
落合弘
か
片山洋
加藤光雄
加茂肇
川添孝一
き
菊川凱夫
岸野靖之
北口晃
木野強
こ
小林伸樹
さ
斉藤和夫
佐藤英二
佐藤敦 (サッカー選手)
佐藤宏道
三分一剛
し
島田秀夫
信藤健仁
す
杉山隆一
せ
関口久雄
そ
園部晃久
た
大仁邦彌
高田一美
高原郁夫
田口光久
つ
継谷昌三
津田幸男
土田尚史
な
永尾昇
中嶋晋一郎
名取篤
に
二宮寛
は
畠山啓
原博実
ひ
広瀬治
ふ
福田正博
藤口光紀
ほ
細谷一郎
み
三上明紀
水内猛
む
村松浩
も
本吉剛
森健兒
森孝慈
や
山口悟
山本富士雄
よ
横山謙三
吉田靖
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
■三菱重工と浦和レッズで異なる点
試合は、国立霞ヶ丘陸上競技場、国立西が丘サッカー場など東京周辺で開催されていた。
本社は東京都千代田区丸の内、練習場は東京都調布市の三菱重工調布グラウンド(現・三菱養和会調布グラウンド)を使用していた。
■参考文献
『日本サッカーリーグ全史』 (日本サッカーリーグ、1993年)
『浦和レッズの幸福』 (大住良之、アスペクト 1998年)
『レッズと浦和−純愛サッカー物語』 (山岡淳一郎著、浦和レッドダイヤモンズ後援会、1998年)
『空っぽのスタジアムからの挑戦』 (平塚晶人、小学館 2002年)
『浦和レッズ10年史』 (ベースボール・マガジン社、2004年) ISBN 458303685X
『「Jリーグ」のマネジメント』 (広瀬一郎、東洋経済新報社 2004年)
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad
本田技研工業株式会社フットボールクラブは、日本の浜松市北区を本拠地とする日本フットボールリーグ(JFL)に所属する社会人サッカークラブ(実業団)。呼称は「Honda FC」(ホンダ エフシー)であり、以下の文章からは基本的に呼称で表記していく。
■原語表記
本田技研工業株式会社
フットボールクラブ
■呼称
Honda FC
■クラブカラー
赤
■創設年
1971年
■所属リーグ
日本フットボールリーグ
■クラブライセンス
(未承認)
■ホームタウン
浜松市
■ホームスタジアム
MIYAKODA.jpg
ホンダ都田サッカー場
■収容人数
2,500
■代表者
本田技研工業㈱ トランスミッション製造部 浜松工場工場長
■監督
井幡博康
■概要
1971年、本田技研工業(以下「ホンダ」)の創業地でもある浜松製作所(現・トランスミッション製造部)に置かれた浜友会サッカー部(後述)を母体として本田技研工業サッカー部(以下「ホンダサッカー部」)として創部[1]。トップチーム所属の選手・指導者はプロ契約の者を除き、試合の無い日は、午前中はホンダの正社員としてトランスミッション製造部に勤務、午後からはフットボーラーという生活を送っている。ホンダ本社のサッカー部という位置づけであるが、直接的な運営にはトランスミッション製造部内に設立された「Honda FC 事務局」のスタッフが関わっており、チーム代表もトランスミッション製造部長が務めている。実業団ながら地域密着型クラブを標榜し、下部組織も有している。
[匿名さん]
?
Good!
?
Bad